縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

アンドレ・デジール 最後の作品

2023-09-18 16:40:38 | 芸術をひとかけら
 もしかすると歴史的な瞬間を経験できたのかも・・・。
 原作のない、日本オリジナルのミュージカル『アンドレ・デジール 最後の作品』。僕が観たのは、残念ながら9月12日の初演ではなかったものの、初公演であることに違いはない。将来このミュージカルが繰り返し上演されるようになれば「僕は最初の公演を観たよ」と自慢したい。

 何より清塚信也さんの音楽が良かった。アンドリュー・ロイド・ウェバーの曲に日本語の歌詞を付けたと言われれば、皆信じてしまうだろう。それだけ素晴らしい曲ばかりだった。「二人なら」はブロードウェイのフィナーレで歌われても全然おかしくない曲である。
 僕は、清塚氏がMCを務めるNHKの『クラシックTV』を見てから、すっかり彼のファンである。彼の音楽に関する豊富な知識と音楽への深い愛情が感じられ、毎回楽しみに番組を見ている。しかし、彼が作曲をするとは聞いていたが、こんなに素晴らしい曲を書けるとは知らなかった(失礼)。まったくその才能には恐れ入ってしまう。
 また、音楽には日本オリジナルの良さがある。そもそも日本語なので歌詞の意味は分かるし、言葉と曲はぴったり合っている。そこは英語のミュージカルや、日本語に訳されたミュージカルを観るのとは全然違う。セリフから歌への流れも自然だった。

 さて、肝心のストーリーであるが、一言で言えば、絶望と再生の物語である。
 不慮の事故で亡くなった大画家アンドレ・デジール。彼を信奉するエミールとジャン。運命的に二人は出会い、共に絵を描くようになる。二人の一風変わった協同作業で、一人では成し遂げ得ない芸術の高みへと彼らは到達する。だが、本人が描いたとしか思えない絵の出来映えゆえ、二人は贋作ビジネスに巻き込まれてしまう。そんな二人のもとにアンドレ・デジールが事故の前に描いた幻の『最後の作品』の依頼が来る。「究極の絶望」か「再生への希望」のどちらかが描かれたと言われる作品。それを想像して描いて欲しいというのである。二人でこの絵を描いて行く、アンドレ・デジールの気持ちになって絵を探し当てて行く過程で二人の間に亀裂が生じてしまう。二人の関係はどうなるのか、さらにはデジール本人を含め、彼らと繋がる人々の間で何があったのか、話は展開される。
 脚本・作詞の高橋亜子さんは「共鳴」がテーマとおっしゃっている。互いに理解しあうこと、信じること、愛すること、そこから大きな力が生まれることがあるし、逆に失望や絶望が生まれることもある。この舞台は登場人物の間の共鳴が織りなす物語である。結末は舞台を観て確認して欲しい。

 今回の公演はオリジナル・ミュージカルの初めての公演ということから、稽古には通常の倍、2ヶ月掛けたという。新しいものを創り上げていくのは大変なご苦労があったと思うし、一方でそれだけに無事公演を迎えることができた出演者・スタッフの皆さまの達成感というか、喜びもひとしおであろう。
 もっとも“皆さま”と書いたが、出演者は8名しかいない。一人何役もこなし、ときに舞台裏でコーラスをする等、皆大忙しである。個人的にはジャン役の上山竜治さんと、デジールの恋人役ほか4役か5役こなしていた熊谷彩春(いろは)さんが良かった。彼女の澄んだ、そして凜とした歌声が素晴らしかった。

 東京では9月23日までよみうり大手町ホールで、その後9月29日から10月1日まで大阪サンケイホール ブリーゼで公演が行われる。皆さん、将来「僕は/私はアンドレ・デジールの最初の公演を観たよ」と一緒に自慢できるよう、是非会場へどうぞ!

『スージーQ』 ~ 元気をもらえる映画

2022-05-08 17:37:11 | 芸術をひとかけら
 ヒラリー・クリントンが大統領選で敗れた際、“ガラスの天井”を打ち破れなかったと言ったが、スージー・クアトロは、ロック界において初めて“ガラスの天井”を打ち破った女性といえる。後に続く少女たちに、私だってロックを歌ってもいい、エレキをかき鳴らしバンドを組んでも構わない、そんな夢と希望を与えた存在なのである。

 スージー・クアトロは1970年代に活躍したロックシンガーである。僕は、クールでキュートでありながら、力強くベースを弾きこなし、そしてシャウトする彼女のファンだった。中学の頃の話である。スージーは日本でも大変人気があり日本酒のCMにも出ていた。僕より上の年代の方であれば彼女のことを覚えている方が多いことだろう。そんな彼女の映画、『スージーQ』が公開されたと聞き、僕は早速観に行ってきた。
 もっとも、かつてのファンとしての礼儀というか義理で観ることにしただけで、正直、映画の出来にはあまり期待していなかった。が、それはまったくの杞憂に過ぎず、『スージーQ』はスージーのファンは勿論、彼女を知らない人が観ても十分楽しめる、ちょっといい映画だった。誰もが、自分を信じ、自ら道を切り開いて行く彼女の姿に励まされるに違いない。

 スージーは、アメリカのデトロイト出身であるが、アメリカではチャンスに恵まれず、イギリスに渡ってデビューした。若干の下積みはあったものの、1973年、2枚目のシングル “Can The Can” がイギリスをはじめ欧州やオーストラリア、そして日本で大ヒットし、彼女はスターへの道を歩み出した。70年代の彼女は本当に輝いていた。ただ、なぜか本国アメリカでは彼女の曲はまったくヒットしなかった。
 これはスージー・ファンの常識であるが、この映画を観て、彼女のデビューに至る経緯、家族との葛藤、ヒットから遠ざかった後の彼女の活動(なんと70才を過ぎた今でも現役で活動!)について初めて知ることが出来た。アメリカのTVドラマに女優として出演していたこと、ミュージカル『アニーよ銃をとれ』で主演を務めたこと、ラジオパーソナリティとして活躍していること、今でも(注:2019年)ツアーやレコーディングを続けていること等々、いずれも僕は初耳だった。過去の人かと思いきや、バリバリの現役、相変わらずキュートでエネルギッシュなスージーである。
 また、ジョーン・ジェット(ザ・ランナウェイズ)がスージーを崇拝していたなど、1970年代後半以降に活躍した女性ロッカーの多くが、スージーのおかげで今の自分達がいると語っていたのも僕にとっては新鮮な驚きだった。

 映画でスージーの曲のさわりをいくつか聴くことができるが、僕のおすすめは次の3曲(いずれもYouTubeで聴くことが出来る)。① Can The Can(彼女を一躍スターに押し上げた記念すべき一曲)、② Your Mama Won’t Like Me(スージー最高のロック)、③ Cat Size(スージーには珍しいバラード)
 もしスージーの曲が気に入ったら、いや、たとえ気に入らなかったとしても、この映画『スージーQ』は絶対おすすめです!

映画『ロケットマン』の忖度?

2019-09-16 19:16:01 | 芸術をひとかけら
 まだ生きている人の半生を描くのは難しい。本人に話を聞けるメリットはあるものの、気を使って書けないこともあるだろうし。そう、例の忖度ってやつ。

 エルトン・ジョンの絶頂期をリアルタイムで知る僕としては、封切り早々『ロケットマン』を観に行った。それも音が良いというDOLBY ATMOSによる上映で大枚2,100円もはたいて観た。
 しかし、個人的には、同じデクスター・フレッチャー監督の『ボヘミアン・ラプソディ』の方が好きだし、主演のタロン・エガートンが本作同様「I’m Still Standing」を歌っていた『Sing』の方が楽しかった(おまけに『Sing』は飛行機で観たからタダだった)というのが正直な感想。エルトンの歌はやっぱり最高だし、タロンの歌も良かったのに何故だろう。

 まずは映画のあらすじから。少年時代、両親に愛されたかったのに愛されなかったエルトン。彼の孤独を癒してくれたのは音楽。作詞家バーニー・トーピンとコンビを組み、「Your Snog(僕の歌は君の歌)」、「Crocodile Rock」などヒット曲を連発し、富も名声も手に入れたエルトン。しかし、どんなに成功を収めても孤独感は変わらない。今も自分は愛されていないとの思い。不安からアルコールや薬に溺れ、次第に身も心もボロボロになっていく。しかし、彼はあることをきっかけに再生する。
 まあ、よくあると言えばよくある話である。もっとも『ロケットマン』が、ただのお涙頂戴物と違うのは、ミュージカル映画としてエルトンの曲が効果的に使われていることである。

 『ロケットマン』は、エルトンをよく知らない人の方が素直に楽しめる映画かもしれない。エルトン・ジョンと聞いて、「Your Song」の人、ダイアナ妃の歌を歌っていた人、奇抜な格好をしたおじさん、同性婚をした人といった程度の知識しかない人の方が、悩み、苦しみ、もがくエルトンにうまく感情移入できるのではないだろうか。
 これが変に知識があると違和感を覚えることが多く、ちょっと落ち着かない。例えば、時系列の問題。デビュー早々の公演でエルトンが後の大ヒット曲「Crocodile Rock」を歌っていたり、1976年にデュエットするキキ・ディーが映ったりするなど。それに「I’m Still Standing」は、実際にはもっと早くに作られた曲である。

 そして、僕が一番違和感を覚えたのは、エルトンが酒や薬に溺れて行った理由である。両親から愛されなかったトラウマやゲイであることなどから、周囲との人間関係を上手く作ることができず、自らの殻の中でしか生きられないエルトン。確かに、それも一つの理由であろう。しかし、それ以上に、以前のように売れなくなったことが、きっかけになったと僕は思う。
 エルトンの絶頂期は1970年代の前半である。アルバムは7作続けて全米第1位を獲得した。さらに1975年の『Captain Fantastic and the Brown Dirt Cowboy』というアルバムは、史上初めて、初登場で全米No.1という快挙を達成している。しかし、これがエルトンのピークだった。翌作『Rock of the Westies』は全米1位にこそなったものの、業界の評価は芳しくなかった。そして、以後、エルトンのアルバムが全米のトップに立つことはない。それなりに売れはするものの絶頂期の状況からは程遠く、70年代終わりからエルトンは過去の人となって行った。
 一度栄光をつかんだ人間にとって、これは耐えがたいに違いない。売れないという事実は勿論のこと、自らの才能や能力の衰えに対する恐怖、あるいは世間から自分の歌が必要とされなくなったとの不安。映画では、そうした面はまったく描かれていなかった。成功の真っただ中で孤独を感じ崩れて行くというストーリー。大スターであるが故の孤独と演出上分かりやすくしたのか、売れない姿は出さないとの忖度なのか、そのどちらだろう。

秋の夜長に「色づく街」

2017-10-04 22:31:28 | 芸術をひとかけら
 あっ、南沙織の「色づく街」だ。
 アップデートしたついでに YouTube を開いたところ、その動画が出て来た。1991年の紅白歌合戦の映像。はじめは僕がよく昔の曲を聴いているので出て来たのかと思った。が、考えてみれば僕が聴くのは古い洋楽ばかり。やはりこの季節の歌、秋に因んだヒット曲ということなのだろう。

 南沙織といっても知らない方が多いと思う。彼女は1970年代を代表するアイドルの1人。天地真理、小柳ルミ子とともに新三人娘と呼ばれていた。もう引退して随分経つので、あの篠山紀信の奥さんで、俳優篠山輝信の母親と言った方が良いのかもしれない。

 さて、南沙織は1971年に「17才」でデビューし、78年に引退している。この91年の紅白は、引退後一時芸能活動を再開したときのものである。動画の彼女は、芸能界引退から10年以上経ち、おまけに40歳近いというのに、とても可憐で美しい。
 そして何より歌が上手い。勿論口パクではない。長いブランクをまったく感じさせない伸びのある歌声。ちょっと舌足らずなところも変わらない。

 南沙織に限らず、昔の歌手は歌が上手かった。思うに昔の歌、いわゆる昭和歌謡は歌がメイン。歌がバーンと前面に出ている。演奏は伴奏に過ぎず、あくまで歌を引き立てるための存在だった。このため たとえアイドルであっても歌を聴かせる力、歌唱力が必要だったのである(ときに浅田美代子のような例外もいたが・・・)。
 一方、最近の曲は、歌だけでなく、歌と演奏を合わせた全体を聴かせる、あるいはそれにダンスを加えたパフォーマンス全体を見せるようになっている。またシンセサイザーにより音もとても複雑になった。極論すれば、歌、つまり人の声も、全体のパーツの一つであり、楽器と変わらない。なので歌が多少下手でもまったく問題ない。他でいくらでもカバーが効くのだから。
 久々に聴いた昭和歌謡は懐かしくあり、また逆にどこか新鮮でもあった。

 などと偉そうに書いたが、実は僕は南沙織をテレビで見た記憶がほとんどない。南沙織が活躍していたのは僕が小学生から中学生にかけて。彼女の歌は青春時代の恋や別れの話が多く、子供の僕にはよくわからないし、興味もなかったのだろう。彼女の歌の世界は、僕にはまだまだ早かった。
 当時の小学生のアイドルといえば天地真理、そしてピンク・レディー。彼女らの歌は子供にも極めてわかりやすい。シンプルで明るく元気な歌。南沙織の歌にある物悲しさや情感といったものは全然なかった(もっとも「17才」など南沙織の初期の曲はシンプルで明るい曲だったが)。

 そんな僕が彼女の歌を聴くようになったのは大学に入ってから、彼女の引退後である。南沙織が大のお気に入りの友人がいて、試しに僕も聴いてみたのであった。大学生になり僕も漸く彼女の歌う世界を理解できるようになったのか、はたまたそんな世界に憧れていただけなのか、僕も南沙織が好きになった。
 しかし、この友人、僕と年はさほど変わらないのに小学生の頃から南沙織を聴いていたのだろうか。“真理ちゃん自転車”に夢中になったであろう世代なのに。とびきりませた女の子だった? 今となっては知る由もないが、いつまで経っても恋愛にかけては彼女に敵わない気がする。

 秋の夜長、久しぶりに「色づく街」を聴いて、物思い耽るのも悪くない(“物思い”と言うには、ちょっと程度が低いかな?)。



『ボレロ』 ~ ジョルジュ・ドンと上野水香

2017-02-26 20:33:06 | 芸術をひとかけら
 昨日、30年来の夢が、半分ではあるが、漸く叶った。

 学生時代、映画『愛と哀しみのボレロ』を観て、ジョルジュ・ドンの踊る『ボレロ』に強い衝撃を受けた。バレエにまったく興味のなかった僕だが、彼の踊る姿に心を揺さぶられた。以来、いつか彼の踊る『ボレロ』を生で観たいと思っていたが、悲しいかな1992年に彼が亡くなり、それは叶わぬ夢となってしまった。

 ところが、昨年の夏だっただろうか、たまたま付けたテレビに上野水香というバレエダンサーが出ていた。僕のボレロ熱はとうに冷めていたので僕は彼女のことを知らなかった。ただ何の気なしに話を聞いていたところ、なんと彼女はモーリス・ベジャールに『ボレロ』を踊ることを許された数少ないダンサーの一人だという。
 よし、彼女の踊る『ボレロ』を観に行こう。僕はそう心に決めた。それから半年以上経ってしまったが、昨日彼女の踊る『ボレロ』を観ることができた。

 さて、まずは簡単に『ボレロ』の紹介をしよう。
 『ボレロ』はフランスの作曲家ラヴェルが1928年に作曲したバレエ音楽である。初演も同じ年であるが、ジョルジュ・ドンらの踊りは1960年にモダンバレエ界の鬼才ベジャールが振り付けた、新しい、初演とはまったく違う踊りである。
 『ボレロ』は純粋に音楽としても有名である。映画やドラマにCM、それにフィギアスケートでもよく使われており、誰もが聴いたことのある曲だと思う。その構成はいたって単純。最初から最後まで小太鼓等で同じリズムが繰り返され、一方メロディも同じパターンが繰り返されるのみ。
 こう書くと全然詰らない曲のように思えるが、そこが“管弦楽の魔術師”といわれるラヴェルの凄さ、曲に躍動感や高揚感を与え、スケールの大きな、華やかな曲に仕上げている(因みに有名な組曲『展覧会の絵』は、元はムソグルスキーの書いたピアノ曲であり、それをラヴェルが管弦楽に編曲したものである)。曲は静かに始まるが、楽器を換え、あるいは楽器の組み合わせを換えながら次第に盛り上がり、最高潮に達したところで大団円を迎える。

 僕には、上野水香の『ボレロ』は神に捧げる踊りのように見えた。卑弥呼か、天照大神といった感じだろうか。ステージ中央の赤い丸い台に上野 =“メロディ”がひとり立ち、男性ダンサーたち =“リズム”がその台の周りを取り囲むという設定も、そう思った理由かもしれない。台の上で一心不乱に踊り続ける彼女を見ていると、踊ることで神とコミュニケートし、一種のトランス状態にあるかに見えた。いったい彼女は何を考えながら踊っているのだろう。

 もう随分昔のことなのでジョルジュ・ドンの踊りはよく覚えていない。鍛え抜かれた肉体による力強く、それでいてしなやかな『ボレロ』だったように思う。ジュルジュ・ドンと上野、どちらの『ボレロ』が優れているか僕には解らない。というか、ジョルジュ・ドンはあくまで彼の『ボレロ』を踊り、上野は上野の『ボレロ』を踊っているのであり、そもそも比較してはいけない気がする。実際、ジョルジュ・ドンの踊りには本当に感動したが、それはダンスの素晴らしさであり、神に捧げる云々といった印象はまったくなかった。

 残念ながらジョルジュ・ドンの『ボレロ』を観る機会には恵まれなかったが、上野水香の『ボレロ』はまだこれからも観るチャンスがあるだろう。より深みを増して行く彼女の『ボレロ』を楽しみに観て行きたい。これを新しい夢にしよう。


映画『男と女』、その個人的評価

2016-11-06 19:53:07 | 芸術をひとかけら
 あの ♪ダ・バ・ダ、ダバダバダ、ダバダバダ ~♪ のスキャット、フランシス・レイの音楽で有名な『男と女』。1966年のフランス映画である。今回製作50周年を記念しデジタル・リマスター版が作られたと知り、早速見に行ってきた。
 ずっと見たかった映画の一つであり、冷たい雨もなんのその、期待に胸を膨らませ恵比寿の映画館へと向かった。

 ストーリーの説明代わりに、66年の日本封切り時のキャッチコピーを紹介しよう。
  「たちきれぬ過去の想いに濡れながら 愛を求める永遠のさすらい ………その姿は男と女」
情緒的すぎて意味がよく解らないが、なんとなく哀しいラブストーリーのような感じがすることだろう。若干補足すれば、「過去の想い」というのは幸せな日々の思い出である。なぜその想いに濡れる、涙するのかというと、その幸せな日々はもう戻らないから、愛する人が死んでしまったからなのである。
 そして、この過去を引きずりながら新しい愛と出会い戸惑うヒロインを演じるのがアヌーク・エーメ。彼女の知的で気品のある美しさには本当に見入ってしまう。バックに流れるのはフランシス・レイ。これだけお膳立てが揃うと映画が面白くないはずはないが・・・。

 映画を見て、正直、ちょっと拍子抜け。フランス映画っぽくないのである。終わったか終わってないのかよく分からないフランス映画の王道の(?)エンディングではなく、きわめて分かりやすい終わり方。それもハッピーエンド。『ティファニーで朝食を』を意識したのだろうか(小説ではなく映画の方)。フランス映画特有の小難しさはなく、ありきたりのラブストーリーに思えた。
 監督のクロード・ルルーシュは、当時無名で本作にもスポンサーが付かず、自ら制作したという。金銭的に失敗は許されなかったに違いない。そこで最大のマーケットであるアメリカを意識して映画を作ったのではないだろうか。男性の主役はカーレーサーであるが、なんと所属はアメリカの自動車メーカー、フォード。フランス人ならプジョーとか、アルピーヌ(当時レースに強かったメーカー)等のフランス車に乗るべきではないか。うーん、これはフランスで作ったアメリカ向け映画、ハリウッドならぬ“パリ”ウッド映画か?

 ルルーシュ監督の作品は『愛と哀しみのボレロ』を見ている。ジョルジュ・ドンの踊りは素晴らしかったが(彼の踊るボレロには心が震えた)、映画自体はあまり記憶にない。僕はルルーシュと相性が悪いのだろうか。そういえば彼の映画『パリのめぐり逢い』は題名に聞き覚えがある。以前見たかもしれない。調べてみよう。学生時代、僕は、いつ・どこで・何を見たかとその評価(10点満点)を書いた映画メモを作っていたのである。
 
 うん、やはり『パリのめぐり逢い』は見ていた。評価は1(評価ランクとしては“金損した!”レベル)。ルルーシュは昔から僕の好みではないようだ。
 と思ったのもつかの間、あれっ、そのすぐ上に『男と女』が・・・。僕は学生時代、ウン十年前に『男と女』を見ていたのだった。まったく記憶にないが、初めてではなかったのである。
 因みに当時の僕の評価は5(同じく“まあ、こんなもんだね”レベル)。時が流れても僕の評価にブレはないようだ。あるいは、僕がいつまでたっても進歩がない、大人の恋がわからないお子様ということかもしれないが。

映画『はじまりはヒップホップ』は”やる気スイッチ”?

2016-09-20 21:56:53 | 芸術をひとかけら
 日曜日、『はじまりはヒップホップ』という映画を見て来た。日本では珍しいニュージーランド映画。ワイヘキという小さな島の老人会御一行様が、皆でヒップホップを始め、ラスベガスで開かれるヒップホップ世界大会に挑戦する話である。なんと、これは実話。ドキュメンタリー映画なのである。

 チーム名は“Hip Op-erations”。Hip Hopとoperationを掛けたもので、メンバーのほとんどが腰(hip)の手術(operation)をしていることから名付けたという。実際に世界大会に行ったのは27名。90代が5人に80代が7人と、平均年齢は軽く70代超え。60代などまだ若造といった感じ。世界最高齢のダンス・グループだ。
 目がほとんど見えなかったり、耳が聞こえなかったり、車いすが必要だったり、あるいは心臓や肝臓の病を抱えていたりと、皆、年相応のハンディキャップを抱えている。でも皆明るい、そして前向き。

 このチームを指導するのは、ビリー・ジョーダンという若い女性。彼女は2011年2月にクライストチャーチ地震(30人近い日本人留学生が犠牲になった、あの地震である)を経験したことで人生観が変わり、それを機にワイヘキに移り住んだという。それ以来、地元の高齢者の集まりにボランティアで参加し、皆と一緒に遊び、笑い、ときには悲しみ、苦楽をともにして来た。今では皆のリーダーであり、マネージャーであり、そして何よりもおじいちゃん・おばあちゃんの良い友達である。彼女は皆のことを愛し敬い、皆は彼女を信頼している。

 ヒップホップの振り付けも彼女の担当だが、彼女は踊りはまったくの素人。自ら「振付師としては世界でも最低レベル」と語り、もっぱらYouTubeや本で勉強しているとのこと。が、なかなかどうして、彼女の振り付けはパンチが効いている。肉体的な衰えゆえキレのある動きは望むべくもないが、幽霊(ゾンビ?)の動きを入れたりと、いろいろ工夫があって面白い。
 明日の我が身と思わず(失礼!)、おじいちゃん・おばあちゃんが嬉々として幽霊を演じる等、これも互いの信頼感のなせるわざだろう。

 信頼、絆という点では、Hip Op-erationsのメンバーとニュージーランドの若いヒップホップ・ダンサーとの繋がりも描かれている。彼らのダンスを見たメンバーは、信じられない、最高だと彼らを称える。一方若いダンサー達は、ヒップホップを毛嫌いする大人が多い中、ヒップホップに挑戦するなんて素晴らしい、自分達のことを解ってくれると感動し、Hip Op-erationsの皆を敬う。今風に言えば、リスペクトする。
 高齢者に若者の気持ちはわからないし逆もそうだといった先入観や、高齢者だから頭が固い、新しいことに挑戦できないといった偏見を、この映画は見事に打ち砕いてくれる。

 映画では何人かのメンバーの人生がフラッシュバックされる。皆さん様々な経験・過去をお持ちだが、誰一人として特別な人間ではない。自分の近所にいるような、ごく普通のおじいちゃん・おばあちゃんがこの偉業を成し遂げたのである。これがまた素晴らしい。
 高齢の方に出来るのであれば、若い人間は勿論、僕のような中年のおじさんにも、何かが出来ないはずはない。さあ、臆することなく、新しいことに挑戦しよう!と“やる気スイッチ”を押してくれる映画である。

(もっとも、ひねくれた僕は、チームが世界大会に行けなかったら映画はお蔵入りだし、もしや“筋書きのある”ドキュメンタリーだったのかな、などと思ってしまいましたが・・・。すみません。)

『トランボ』 ~ トランプに見て欲しい映画

2016-08-04 23:26:55 | 芸術をひとかけら
 時は第二次世界大戦後の1940年代後半から1950年代、アメリカでは共産党員やそのシンパを公職などから追放する「赤狩り」の嵐が吹き荒れた。なんと、あのチャップリンまでもがその犠牲となり、国外追放となっている。
 そしてこの映画の主人公、ダルトン・トランボも「赤狩り」の犠牲者。議会侮辱罪で有罪判決を受けた映画界の主要人物10人、「ハリウッド・テン」の中心人物であった。映画『トランボ』は、彼がその信条、反骨精神により、ハリウッド追放から苦節十数年、見事ハリウッドへの復活を果たす物語である。

 「赤狩り」は、冷戦という当時の時代背景を反映したものとはいえ、かなり乱暴なものであった。自白や密告の強要など、とても自由の国アメリカとは思えない。
 トランボは非米活動委員会の聴聞で、合衆国憲法修正第1条(信教および言論・出版・集会の自由)を盾に証言を拒むが、それゆえ刑務所に服役することになる。ハリウッドの中にもトランボらに理解を示す者もいたが、映画人の大多数は違った。長い物には巻かれろと、自己の保身、自らの生活のため、トランボらを批判し仕事を与えず、さらには共産党員だと仲間を告発する者までいた。

 が、彼は負けない。映画の脚本を書き続けた。彼が脚本家で俳優でなかったことが幸いした。俳優だと顔や声ですぐばれてしまうが、表に出ない脚本家は偽名を使えばわからない。もっとも脚本がトランボだと知れると映画はお蔵入りになってしまうため、脚本料は相当叩かれたようだ。苦しい生活が続いた。
 しかし、そんな中で彼は、1956年、偽名で書いた『黒い牡牛』でアカデミー原案賞を獲得した。また彼の死後、あの『ローマの休日』(1953年)が彼の執筆であったことが判明している。『ローマの休日』は、アカデミー賞の主演女優(勿論オードリー・ヘプバーン!)、衣装デザインそして原案部門で最優秀賞に輝いた。そう、トランボは2度アカデミー原案賞を受賞していたのである。

 ところで、僕はトランボを脚本家というより映画監督、『ジョニーは戦場に行った』の監督だと思っていた。『ジョニー ~』は彼が1939年に執筆した反戦小説で、ベトナム戦争真っ最中の1971年、トランボ自らが監督し映画化された。トランボは1960年に漸くハリウッドに復帰を果たす、つまり実名で脚本を書けるようになったのだが、世の中の「赤狩り」、「ハリウッド・テン」の記憶が覚め遣らぬ中、よく政府に盾突き反戦映画を作ったものである。彼の勇気、気骨には本当に感服する。
 僕は多感な学生時代にこの映画を見たが、映画が終わってもなかなか席を立てなかったことを覚えている。生と死について考えさせられる本当に素晴らしい映画だった。

 後年、トランボが「赤狩り」について語るシーンがある。
 「赤狩り」により職を失った者、さらには家族を失った者や、自らの命を絶った者までいる。一方で、仲間を密告、告発した者もいる。しかし、誰が良くて誰が悪いというのではない。皆が、誰もが犠牲者だったのだ、と。
 憎しみだけでは何の解決にもならない。前に進むことはできない。
 今話題の共和党の大統領候補トランプ、トランボと名前は似ているが、言うことはまったく違う。そもそもトランプは合衆国憲法修正第1条を理解しているのだろうか。

藤田嗣治と戦争画

2015-12-09 22:53:17 | 芸術をひとかけら
 昨日、辻井信行のピアノ・リサイタルに行って来た。テレビ東京の『美の巨人たち』という番組の15周年記念スペシャルコンサートに運良く行くことができたのである。

 この番組は土曜の夜10時からの放送。毎回一つの絵画や彫刻などの美術作品を取り上げ、単なる作品の紹介に止まらず、時代背景や作者の制作の動機、想いまで、作品を掘り下げて紹介する番組である。地味な番組だし、おそらく視聴率もあまり高くない(失礼)と思うが、よく15年も続いたものである。番組のスポンサー(当初はエプソン、今はキリン)に敬意を表したい。

 ところで、今、藤田嗣治(ふじた つぐはる)がちょっとしたマイブーム。勿論、彼の作品を買うお金などない。先月映画『FOUJITA』を観て、先週『美の巨人たち』で彼の『寝室の裸婦キキ』の放送を観たのである。
 藤田といえば、20世紀前半のエコール・ド・パリを代表する画家である。女性と猫を好んで描き、彼にしか出せない「乳白色の肌」はフランスで大絶賛された。日本画のような輪郭線に、透明感のある女性の肌。こうした彼独自の技法、作品は、あのピカソにも称賛されたという。

 が、僕は、彼の作品よりも彼の人生に興味がある。

 藤田は1886年生まれ。父親は陸軍軍医。彼は東京美術学校で絵を学び、1913年にフランスに渡った。第二次世界大戦でパリが陥落するまでの30年近く、主にパリで過ごした。
 1920年代、第一次世界大戦後の好景気に沸くパリ、狂乱の時代。藤田は、毎夜繰り返される乱痴気騒ぎの中、その渦の中心にいた。もっとも彼は酒が飲めず、日本人である自分がパリで受け入れられるため、意図的にバカを演じていたらしい。彼の計算通り、彼は時代の寵児ともてはやされた。

 昨年、僕は東京国立近代美術館で偶然彼の『アッツ島玉砕』を観た。そう、太平洋戦争中、藤田は「戦争画」を描いていたのである。戦後、彼は罪にこそ問われなかったが、画壇から戦争協力を強く非難され、ついには再度パリへと移住した。後にフランス国籍を取り、彼は生涯日本に戻らなかった。

 藤田はどのような気持ちで戦争画を描いたのだろう。彼の描いた『アッツ島玉砕』や『サイパン島同胞臣節を全うす』(同じく東京国立近代美術館所蔵)は、いずれも戦意高揚には程遠い絵だ。戦争の悲惨さ、あるいは人間の死そのものが描かれている。そこには「乳白色の肌」はなく、あるのはただ暗い色彩のみ。
 こうした絵は、本土決戦・1億総玉砕を唱えていた軍部の要請により、ある種のプロパガンダとして描かれたのであろう。彼自身、「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いた」と後に記している。即ち、日本国民として、画家として、義務を果たしただけなのである。また、フランスで成功を収めたものの日本では無視され続けていた藤田には、日本の画壇、さらには日本社会に認められたいとの想いもあったのかもしれない。

 しかし、パリで自由を謳歌した藤田、第一次世界大戦下のパリで戦争の恐怖、悲惨さを感じたであろう藤田に、心の葛藤はなかったのだろうか。
 映画『FOUJITA』では、戦争画を描く藤田の気持ち、内面はあまり触れられていなかった。『美の巨人たち』は『寝室の裸婦キキ』がテーマであり、話題はもっぱら「乳白色の肌」。『美の巨人たち』には末永く番組を続けて頂き、今度は是非藤田の内面に踏み込んだ番組をお願いしたい。

映画『エール!』にエールを!

2015-11-10 20:00:11 | 芸術をひとかけら
 「フランス映画っぽくないな。田舎を舞台にしたアメリカの青春映画のようだ。」というのが、この映画を観た僕の印象である。

 フランス映画というと、小難しい、ストーリーがない、結末がよくわからない、屈折した男女の愛を表現、そしてお洒落、というのが僕のイメージ。ネガティブなものが多いが、これは学生時代にヌーヴェルヴァーグの映画をよく観たせいだ。「なんかわけがわからないな。」と思いつつも、いっぱしの映画通を気取っていた僕は、義務感に駆られ、ゴダール、トリフォー、アラン・レネなどヌーヴェルヴァーグの作品を何本も観た。

 が、久々に観たフランス映画、『エール!』は、そんな僕のイメージとはまったく違う。わかりやすく、歌が素晴らしい(特に最後の「青春の翼」)、素直に楽しめる良い映画だった。歌っているのは主人公ポーラを演じるルアンヌ・エメラ。彼女はフランスの人気オーディション番組『The Voice: la plus belle voix』で歌声を絶賛され、2013年に歌手としてデビューした。翌2014年、この映画で役者デビュー。まだあどけなさの残る18歳である。
 強いて僕のフランス映画のイメージとの共通点を挙げれば、伏線を張ったかにみえる出来事が実は何の伏線でもなかったというのがいくつかあり(例えば、父親の村長選出馬とか)、それがフランス映画の伝統(?)“ストーリーのなさ”を継承しているといった程度だろうか。

 さて、映画のあらすじであるが、舞台はフランスの片田舎で酪農を営むベリエ一家。夫婦に子供2人の4人家族。いつも笑いの絶えない、明るく、仲の良い家族である。ただ、この一家、高校生の長女ポーラ以外は皆耳が聴こえない。ポーラは家族みんなの耳になり、口になり、村の中での家族のコミュニケーションを支えている。
 そんな一家に青天の霹靂が。ポーラの歌の才能に気付いた音楽教師が、彼女にパリの音楽学校のオーディションを受けるよう勧めたのである。ポーラは喜んだが、彼女の歌声を聴けず、その才能がわからない家族は反対する。勿論、家族にはポーラを失って生活できるかとの不安もある。それが痛いほどわかるポーラは夢を諦めようとするが・・・。
 あとは観てのお楽しみというか、『エール!』の場合は、聴いてのお楽しみも。

 この映画のテーマは、家族の絆であり、子供の自立・巣立ちである。『エール!』という題名の通り(注:もっとも原題は『ベリエ一家』であるが)、家族のことを想うポーラの夢を、家族が応援する、エールを送る。そして、それを観ている僕らも頑張らなきゃと励まされた気がする、そんな映画である。
 僕がこの映画を観に行ったのは11月1日。たまたま“映画の日”で入場料が 1,100円だった。700円の割引は大きい。ランチ1食分。映画館からエールを送られた気分だ。

ミュージカル『トップ・ハット』 ~ タップの魅力を知らないあなたに

2015-10-14 00:01:17 | 芸術をひとかけら
 ストリートダンス隆盛の今、タップダンスなんてもう時代遅れ、20世紀の遺物なのだろうか。

 先日、渋谷ヒカリエの東急シアターオーブでミュージカル『トップ・ハット』を観て来た。ハリウッドのミュージカル映画の黄金期を支えた“アステア&ロジャース”の最大のヒット作である同名のミュージカル映画(1935年、米国)を舞台化したものである。2011年にイギリスで舞台化され、日本でも今年3月に宝塚宙組が上演している。
 今回はイギリス国内でツアーを行っている主要メンバーがそのまま来日したとのことであり、いやがおうにも期待が高まる。

 さて、内容を一言でいうと、勘違いラブ・コメディといったドタバタ喜劇である。
 舞台は1930年代のロンドンとベネチア。ハリウッドのミュージカルスター(映画でフレッド・アステアが演じていた)と美人モデル(同じくジンジャー・ロジャース)が恋に落ちたものの、この恋、なかなか一筋縄ではいかない。彼女が彼を親友の夫と勘違いし、彼女は人間不信に。しまいには当てつけで他の男性と結婚してしまう。そして、・・・。
 結末を含め、まあシェークスピアにもありそうな展開なのだが、正直、このドタバタ具合、いくら舞台とはいえ21世紀の今見るにはあまりにリアリティに乏しい。極めていい加減である。
 もっとも、世界恐慌後の不況の中、楽しくなけりゃ映画じゃないという当時の風潮だったのかもしれないが。せめて映画を見ている間だけでも、つらい現実を忘れたい、笑っていたい、と。

 しかし、なぜ80年近くも昔の映画を今舞台化したのだろう。
 一つはアーヴィング・バーリンの楽曲の素晴らしさにあると思う。舞台では“Cheek to Cheek(頬よせて)”や“Top Hat, White Tie and Tails”など映画で使われた曲のほか、“Let’s Face the Music and Dance”や“Puttin’ on the Ritz”など彼がほかで書いた名曲が使われている。曲名を聞いてもわからないが、メロディを聴けば「あっ、この曲か」と聴き覚えのある曲が多いことだろう。
 そして、もう一つというか最大の理由は、フレッド・アステアの優雅で洗練された踊りや軽快なタップダンスが、未だ色褪せていないことだと思う。舞台で主演を務めたアラン・バーキットは、どことなく風貌もアステアに似ている。タップをはじめダンスはアステアより上かもしれない。

 この舞台を観て、古い映画ファンの方は昔を懐かしみ、それ以外の方は温故知新、タップダンスの素晴らしさを実感されては如何だろうか。
 残念ながら東京公演は昨日(10/12)で終わってしまったが、10/16から10/25まで(10/20は休演)大阪・梅田芸術劇場で公演がある。これを逃すとイギリスに行くしかないので、大阪方面の方、是非お早めに。

映画『あの日のように抱きしめて』を観て ~ 名は体を表してる?

2015-08-21 22:39:50 | 芸術をひとかけら
 お盆明け、周りはまだ夏休みの人も多く、なかなか仕事に気合が入らない。よし、今日は早帰りだ、久々に映画でも見て帰ろう、と思い見つけたのが『あの日のように抱きしめて』(渋谷のBunkamura ル・シネマ)。

 戦争で引き裂かれた夫婦の物語と聞き、ヴィヴィアン・リーの『哀愁』やソフィア・ローレンの『ひまわり』が頭に浮かんだ。が、あとで知ったが、監督はヒッチコックの『めまい』を撮りたかったとのこと。そう、この映画は女性が入れ替わる話。僕が思い描いた哀しいラブストーリーではなく、ミステリーなのであった。

 まずは簡単にあらすじを。
 ときは1945年6月、第二次世界大戦直後のベルリン。元歌手のネリーは顔に大怪我を負いながらもアウシュビッツの強制収容所から奇跡的に生還した。顔の再建手術を受け、元通りとはいかないが、以前の自分に近い姿になった。そんな彼女の願いは、ピアニストだった夫ジョニーを探し出し、幸せな二人の生活を取り戻すこと。ネリーはなんとかジョニーとの再会を果たすが、彼は容貌の変わったネリーに気づかない。そして、なんと収容所で亡くなった妻になりすまし、遺産を山分けしようと持ちかけてきたのである。
 ネリーは戸惑いながらも、夫が自分に気が付き、また昔のように愛してくれることを信じ、その提案を受け入れる。ネリーは自分自身の偽物を演じることにしたのである。しかし、次第に彼女の中に「夫は本当に自分を愛していたのか、それとも裏切ったのか。」との疑念が芽生え、そして・・・。

 ところで、この映画の原題は“Phoenix”である。僕は、ラブストーリーのような『あの日のように抱きしめて』より、Phoenix(フェニックス、不死鳥)をそのままタイトルにした方が良かったと思う。なぜなら、この映画のテーマは「再生」だからである。
 破壊されたネリーの顔の再建、アウシュビッツで失ったネリーの人間性、尊厳の回復、さらには戦争で甚大な被害を被ったドイツという国の再生、等々。ネリーとジョニーの関係の行方については映画を見てのお楽しみ。

 この映画を見てしみじみ思ったこと、それは、やっぱり女性は強いな、ということ。
 ネリーが最後に下した結論は明示されておらず、観客一人一人の判断に委ねられる。僕には、最後の彼女の姿に、アウシュビッツでの筆舌に尽くしがたい経験や、そこで唯一の心の支え、生き抜く力になったジョニーとの幸せな生活を取り戻すという目標・希望を忘れ、つまり辛い過去ときっぱり決別し、未来を生きて行こうという彼女の強い決意が感じられた。
 ラストシーンで、ドイツから米国に亡命したユダヤ人作曲家クルト・ヴァイルの名曲「Speak Low」が心憎く使われている。ネリーが歌う「Speak Low」は、初めはか細い声で彼女の脆さ、弱さが表れているが、次第に声は力強く熱唱となる。彼女の再生に向けた強い意思表示のように聴こえた。

舞台と映画の違い ~ 『ジャージー・ボーイズ』の場合

2014-11-25 18:33:21 | 芸術をひとかけら
 初めてミュージカル映画を見た時、それは強い違和感を覚えた。あり得ない、不自然、なんでコイツ突然歌い出すんだ、と。しかし、次第に慣れと割り切りにより、主人公が唐突に歌い始めてもさほど動揺しなくなった。
 が、今回、映画『ジャージー・ボーイズ』を見終わった時、また違う違和感を覚えてしまった。ひとことで言えば、ミュージカルっぽくない、といった感じだろうか。
 
 さて、この違和感について話す前に、まずはミュージカル映画の流れをおさらいしたい。ミュージカル映画の全盛期は1940~50年代。ジュディ・ガーランドが唄い、ジーン・ケリーが、そしてフレッド・アステアがスクリーン狭しと踊っていた時代だ。当時の映画はオリジナル作品が多い。『オズの魔法使』、『雨に唄えば』、『巴里のアメリカ人』など、ミュージカル映画を代表する作品の多くはこの時期に創られている。

 それが1960年代に入って一転、今度はブロードウェイでヒットしたミュージカルの映画化が増えてきた。一つは映画会社が冒険を避け安全策を取ろうとしたこと、もう一つは『ウエスト・サイド物語』の大ヒットがその理由であろう。
 60年代、テレビの普及により映画会社の経営は転機を迎え、制作費の嵩むミュージカル映画での失敗は許されない状況となっていた。いきおい作品の完成度が高く、集客の見込める舞台のヒット作に目が行ったのである。一方、ご存じ『ウエスト・サイド物語』は、1957年ブロードウェイ初演、1961年に映画化され、作品賞を含むアカデミー賞10部門受賞の大ヒットとなった。この成功体験が、後の『マイ・フェア・レディ』、『サウンド・オブ・ミュージック』、『キャバレー』など、ブロードウェイ・ヒット作の映画化に繋がったことは間違いない。
 そしてこの流れは、『マンマ・ミーア!』や一昨年大ヒットした『レ・ミゼラブル』などを見てもわかるように、今も続いている。

 翻って映画『ジャージー・ボーイズ』、この作品も2006年にトニー賞(注:アカデミー賞の舞台版)を受賞したブロードウェイ・ヒット作の映画化である。60年代に一世を風靡したロック・グループ“フォー・シーズンズ”の苦難と成功そして挫折を描いている。
 実は『ジャージー・ボーイズ』の舞台を見たことがある。言葉はよくわからなかったが、とても面白いミュージカルだった。“フォー・シーズンズ”については、名前を知っている程度でほとんど知識はなかったが、舞台を見て主人公フランキー・ヴァリの苦悩、生き様がストレートに伝わってきた。音楽も意外に聞き覚えのある曲が多く、結構ノリノリで聴けた。

 が、これに対し映画は、音楽は変わらず良かったが、筋が分かりにくかった。話を膨らませたり、伏線を張ったりして、一つの人間ドラマに仕立てようとした感じ。そう、ミュージカル映画というより、ロック・スターが主人公の一般映画なのである。
 映画は舞台と違って制約が少ない。場面を沢山使うことができるし、それをいくつものアングルから見せることも、簡単に切り替えることもできる。過去のエピソードの挿入も容易い。そんな映画の特徴を活かし、舞台との差別化を図ろうとする気持ちも解らなくはない。しかし、ミュージカルなのだから、ストーリーをもっとシンプルにした方が良かった。主人公がセリフの途中で突然歌い出しても構わないが、ストーリーが錯綜するのは良くない。複雑な人間模様を味わいたいのであれば、観客は違う映画を選ぶのだから。

(えっ、「そう言うおまえのブログは長い。もっとシンプルに!短く!」って。ど~もすみません。)

新橋文化劇場の閉館、そして名画座へのオマージュ

2014-08-12 22:57:01 | 芸術をひとかけら
 新橋文化劇場が今月末で閉館するという。新橋の烏森口のガード下にある映画館である。僕自身ここには2回しか行ったことがなく、さほど愛着があるわけではないが、名画座がまた姿を消すのかと思うと、やはり寂しい。
 これで東京に残る昔ながらの名画座といえば、早稲田松竹、飯田橋ギンレイホール、目黒シネマ、そして下高井戸シネマくらいだ。

 “名画座”と聞いてあまりピンとこない若い方のために若干説明すると、名画座とは旧作映画を上映する映画館である。つまり、ロードショーの終わった作品や、過去の名作・ヒット作、あるいは ほとんど見たことも聞いたこともない作品まで上映する映画館である。
 名画座の名画座たる特徴としては、以下のようなことが思い浮かぶ。
 2本あるいは3本立て、入替なし、全席自由、そして安い。僕がよく通っていた80年代の料金は500、600円であったが、今でも1,000円程度だ。あと、椅子が狭く、固く、たいてい1本目の途中からお尻が痛くなることや、どこか暗く(まあ映画館だから暗いのは当たり前かもしれないが)、どこかカビ臭いこと。失礼、最後は遠い昭和の話であり、今の名画座は違うと思う(もとい、新橋文化はまさにこのイメージなので、それ以外の名画座は、としておこう)。

 作品の組合せは、同じ監督や俳優、同じ時代・ジャンル等何らかのテーマのある場合がほとんどだが、映画であるということ以外にあまり共通項のない、単に配給会社の都合による場合もある。
 ほとんどの名画座は月毎にスケジュール表を作っており、併せて映画の紹介を書いていた。映画館の方のその映画に対する思いが伝わってくる。また、スケジュール表には地元商店の広告が入っていることが多かった。下高井戸京王(現 下高井戸シネマ)の「波止場」とか、国立スカラ座の「国立写真店」とか。映画好きの人間が集うだけではなく、地元の人が非日常に浸るため、あるいは単なる暇つぶしや時間調整のため気軽にやって来る、それが低料金の名画座の良いところである。

 こうした名画座が町から消えている理由は、直接的にはレンタルビデオとの競合であり、間接的というかその背景には人々の映画離れがある。映連の統計によると、映画人口(映画館の入場者数)のピークは1958(昭和33)年の11億27百万人。当時の人口は92百万人なので、一人当たり年間12本、月1本映画を観ていたことになる。一方、昨年2013年の映画人口はというと1億56百万人。人口は1億26百万人なので、一人当たり年間1.2本とピークの 1/10 にすぎない。
 シネコンの増加により映画館(スクリーン)数は1993年の1,734を底に増えており、昨年は3,318となった。それでも映画館数のピーク 7,457(1960(昭和35)年)の半分以下である。そして、3,318のうち2,831がシネコンであり、その差487がロードショー館と名画座の合計である。2000年には1,401あったので、この13年で従来型の映画館は914も減ったことになる。時代の流れと言えばそれまでであるが、名画座のような個性のある映画館が減っていくのは悲しい。

 新橋文化の最後の上映(8/23~8/31)は、「デス・プルーフ in グラインドハウス(2007年)」と「タクシー・ドライバー(1976年)」の2本立て。前者はクエンティン・タランティーノの作品(B級スリラー?)。後者はマーティン・スコセッシ監督、ロバート・デ・ニーロ主演の名作。僕は以前名画座、早稲田松竹で観た。ロバート・デ・ニーロの常軌を逸した行動、狂気を強烈に覚えている。
 この年になると名画座で2本観るのは辛い。よし、30年振りに「タクシー・ドライバー」を観に行こう。

いつか『いつかティファニーで朝食を』

2014-05-31 14:28:07 | 芸術をひとかけら
 今朝、早起きして築地に行った。久々に和食『かとう』で朝食(『かとう』については 2006/3/15付『魚市場とダミ声の法則(?)』をどうぞ)。いつものように、刺し盛り、野菜3点盛りと金目鯛(カマ)の煮付け、それにビール。やっぱり旨い。

 そろそろ帰ろうとしたとき、隣に若い女性の二人組が来た。
「私、カレイの煮付け。私達、マンガを見て来ました。」
もう一人が注文する。「私、金目の西京漬け。」
「マンガに出たのは銀ダラだよ。」とお店のお姉さん。
「あっ、じゃあ、銀ダラ。」と彼女。

 マンガ? いったいなんの話だろう。
 お姉さんに訊ねたところ、「これ、これ。」と言ってスタンプカードをくれた。そこには『いつかティファニーで朝食を』朝食ラリー、と書いてある。「ウチ、1巻目に出たんだ。」と教えてくれた。「このマンガ、めちゃおもしろいですよ。」と隣の女性がたたみかける。

 知らなかった。『かとう』には十年近く通っているが、マンガに出たことなど全く知らなかったし、そもそもこのマンガ自体知らない。家に戻り、早速マンガについて調べたところ、実際にあるお店の美味しい朝食を紹介しながら、現代の東京に生きる若い女性達の姿を描いたものらしい。

 僕だって『ティファニーで朝食を』なら知っている。トルーマン・カポーティの小説だ。ティファニーは宝石店で朝食など出していないが、題名は「ティファニーのような高級なお店で、朝食を食べられる身分、お金持ちになりたい」というたとえである。
 もっとも日本ではオードリー・ヘップバーンの映画の方が有名。僕は小説を読んだし、映画も見たが、いずれも30年近く前。もうあまり覚えていない。覚えているのは、主人公のホリー(オードリー)がティファニーのショーウィンドウを覗きながらパンを食べるシーン、「ムーン・リヴァー」の甘く、少し切ない調べ、そして「ホリー・ゴライトリー、旅行中」という表札(?)くらい。あと、確か映画はハリウッド映画らしくハッピーエンドだったが、小説は違った気がする。ホリーは恋人のもとを去って行った。

 ホリーは「旅行中」という表札の通り自由に生きている。実際にいつも旅に出ているわけではなく、精神的というか、考え方や気持ちが自由、何物にも束縛されない、といった感じだ。長いこと会社勤めで、決められた枠の中でしか生きていない僕からすると、それは羨ましく、憧れる反面、怖くもある。

 『いつかティファニーで朝食を』の作者は、マキ ヒロチさんという女性である。彼女がなぜこのタイトルを選んだのか気になる。文字通り、ティファニーのような素敵なお店で美味しい朝食をというだけかもしれない。あるいは、女性よ、朝からしっかり美味しい朝食を摂って、強く、自由に生きようと訴えているのかもしれない。それは本を読んでみないとわからない。
 美味しい朝食と偶然の出会いから、いつか『いつかティファニーで朝食を』を読んでみようと思う。