縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

新年好! ~ 春節の中国を行く

2010-02-19 01:14:06 | もう一度行きたい
 新年好! 新年あけましておめでとうございます。

 さすがに2月ともなると、正月気分などとうに抜けているが、中国は違う。今がまさに正月真っ盛り。2月14日が春節(旧正月)。公的には3が日までが休みだが、一般には7日まで(つまり1週間)休みの会社が多い。さらに15日までは祝賀モードが続くらしい。というのも、旧暦の1日は新月であり、よって15日が満月、十五夜だからである。

 上海に住む妻の友人に誘われ、13日、つまり大晦日から上海に行ってきた。春節の中国、いったいどんな感じなのだろう、興味津津。

 大晦日の街は、日本の年の瀬と同じような感じだった。買い物客でごったがえすスーパー。そしてスーパーの前には正月用品を売る露店。
 が、売っているものが違う。日本の露店では門松や松飾りといった正月飾りが売られているが、中国では爆竹と花火。これが飛ぶように売れている。友人は1000発の爆竹と61連発の花火を買ったが、2000発の爆竹が売り切れていたと不満げだった。
 僕には1000発と2000発の違いはわからないが、中国人が爆竹を愛してやまないことは確かだ。あとで聞いたが、中国の故事には爆竹で魔物や化け物を追い払ったといった話が多くあり、いわば爆竹は無病息災・家内安全のお守りなのである。

 そして夜。近くに住む親戚が集まり料理を用意してくれたが、餃子を除き、普段の食事とあまり変わらない。友人の母親は東北区の出身であり、東北区では年越し蕎麦ならぬ、年越し餃子を食べるのだという。
 餃子は日本とは違い、水餃子。まずは皮作り。小麦粉をしっかりこねて作った皮はコシがあってうまい。料理は苦手という友人であるが、どうも餃子だけは別のようだ。なかなか堂に入ったこね方、包み方だった。
 夕食は5人だったが、餃子は100個以上作った。年越し用にいくつか餃子を残し(勿論一部は冷凍)、我々は餃子を主食に夕食をとった。因みに、東北区ではこれが常識であり、日本で餃子はおかず、餃子とご飯の餃子定食があると言っても信じてもらえないのである。

 食後、我々は中国版の紅白を見た。歌あり、踊りあり、コントありの「春節聯歓晩会」という番組である。春節を跨いで長時間放送しているし、5日めまでは連日再放送されているらしい。視聴率90%と言われ、本家・日本の紅白が羨む、お化け番組である。大晦日は家族や親戚と家で過ごすという、中国の習慣にマッチしているのであろう。

 さて、いよいよカウントダウン。
 新年の始まりは、勿論、餃子。おばあちゃんが台所から水餃子を茹でて持ってきた。蕎麦と餃子の違いはさておき、日本ならここで おごそかにゴーンと除夜の鐘が響くところである。ゆく年くる年、雪深い地方のお寺にしんしんと雪が降る、そんなイメージである。
 が、ここは中国。バン、バン、バン、ババーン。夜の静けさを切り裂く、爆竹の音。まるで戦場のようだ。そして、そこらじゅうで花火が上がる。綺麗だ。日本の花火大会で上がる花火よりは寂しいが、なかなかのものである。
 しかし、やっぱりうるさい。バーン、バーンと花火。すると、負けずと爆竹がバン、ババーン。やれやれ。中国ではこの喧騒というか爆発騒ぎが数日続くのである。

 また、このゴミの量が凄い。上海では、去年の春節一晩だけで爆竹や花火の燃えカスなど1,200トンのゴミが出たそうだ。今年は天気が悪かったので(寒く、雪が降っていた)去年よりゴミは少なかったかもしれないが、相当な量であったに違いない。

 ここで一句。「 春節や 兵どもが ゴミの跡 」(本当に、戦場というか、マフィアの抗争を思わせるような爆発音だった。)
 ゴミの量は、中国の旺盛な個人消費を示すバロメーターの一つかもしれないが、あまり環境にはやさしくない気が・・・。

サリンジャーに捧ぐ ~ グラス・サーガの結末は?

2010-02-11 21:55:00 | 芸術をひとかけら
 先月27日、サリンジャーが亡くなった。あの『ライ麦畑でつかまえて』で有名なアメリカの小説家だ。91歳、老衰だそうである。もっとも彼はもう50年近くニューハンプシャー州のコーニッシュという田舎町で隠遁生活を送っていたので、それこそ生きているのか死んでいるのかさえ定かではなかったが・・・。人間嫌い。生に対する執着もなさそうな彼だが、長生きだった。
 彼は寡作の作家であり、最新というか最後の作品は1965年に発表した『ハプワース16, 1924』である。高校時代、サリンジャー・ファンだった僕は、そろそろ次の作品が出るのではないか、グラス・サーガの続きが読めるのではないかと、心待ちにしていた。それが次第に諦めに変わり、だんだん記憶すら薄れ、そして遂にその夢が途絶えた。

 初めて『ライ麦畑でつかまえて』を読んだのは高校2年のときだった。巷の評判から『ライ麦畑』は青少年のバイブルだと思っていたが、文庫本では出ていない、つまり単行本を買うしかなく、貧乏な僕にはなかなか手が出なかった。そんなこんなで『ライ麦畑』に対する期待はどんどん膨らんで行った。そして、それこそ清水の舞台から飛び降りる、僕としては一大決心をし、大枚はたいて『ライ麦畑でつかまえて』を買ったのであった。
 が、正直、読んでみて、ちょっと拍子抜けした。期待が大きかった分、落胆も大きく、ふーん、だから何、っていう感じだった。
 主人公のホールデンは16歳で当時の僕とほぼ同い年。にもかかわらず、さほど共感はしなかった。大人社会の欺瞞に嫌悪を感じ、そんな大人にはなりたくない、純粋な子供のままでありたい、と願うホールデン。今にして思えば、当時の僕は、大人社会の何たるかを考えることなく、ただ、早く大人社会の一員になりたいと願っていたように思う。まあ一言でいえば、僕の方がホールデンよりずっと子供だった、幼かったのであろう。

 『ライ麦畑』に感動しなかったものの、なぜかもう少しサリンジャーを読んでみようと思った。
 次に読んだのが『フラニーとゾーイー』。そして、僕はこの本に、特に『ゾーイー』にはまってしまった。(注:『フラニーとゾーイー』は一つの小説ではなく、関連する二つの短編を集めたものである。)
 本の内容自体は、デートに失敗し(『フラニー』)、果ては人生に悩む妹を兄が励ます(『ゾーイー』)という他愛のないものである。ただ、その励まし方が尋常ではない。キリスト教から東洋思想、哲学、詩、等々の幅広い知識、機知に富んだ会話、そして兄妹の深い愛情。

 『フラニー』は記念すべきグラス・サーガの第1作。グラス家の個性的な7人兄弟が織り成す物語の始まりである。

 サリンジャーが何を意図してグラス家の物語を書き始めたのかはわからない。また、彼はグラス家の作品をあと3つ書いているが(『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』、『シーモア-序章-』と上述のハプワース)、なぜサリンジャーはその続きを書けなかったのだろう。

 7人兄弟の長兄で、物語の中心人物であるシーモアは、結婚してすぐ自殺した。傍から見れば幸せの絶頂での自殺である。自殺の理由は他の兄弟にもわからない。勿論われわれにもわからない。
 純粋培養されて育ったグラス家の人間としては、あのホールデンと同じように、欺瞞に満ちた大人社会に耐えきれなかったのかもしれない。シーモアは、サリンジャーのように家を高い塀で囲み、精神面のみならず物理的にも外界との壁を作り、自らの安全な世界の中で生き続けることは出来なかったのだろうか。

 あるいは、サリンジャー自身も、シーモアの自殺の理由をうまく説明できないのかもしれない。だからこそ6作目を書くことが出来なかったのであろう。

 ただサリンジャーは隠遁生活の中で、発表はしないものの、その後も何か文章を書き続けていたらしい。とすれば、遺族がサリンジャーの未発表の作品を遺稿集として発表することがあるかもしれない。僕はその日が来ることを待っていたい。