縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

無くて七癖、変な癖

2007-01-28 22:44:05 | 最近思うこと
 うちの猫には変な癖がある。それは、ウンチをした後、猛烈にダッシュする癖だ。

 ウンチが終わると、猫はトイレのある廊下の端からリビングの端まで、ダダダダーッと走る。止まったかと思うと方向を変え、今度は逆向きに、つまり元のトイレの方へと猛ダッシュする。そしてトイレの前で止まり、おもむろに鳴きだす。まるでトイレを片付けるよう哀願しているかのようだ。エサを要求するときの攻撃的というか権利を主張する(?)強い鳴き声とは少しトーンが違う。本当に何かを訴えている感じである。

 初めて猫の猛ダッシュを見たときはあっけに取られてしまい、何があったんだ、ネズミか?と思い、ドキッとした。幸いネズミではない。では、何か。何が猫を走らせるのか?
 最初は訳がわからなかったが、何回かダッシュを見あるいはその音を聞き、その度にトイレにウンチがあるのに気が付いた。なるほど、そういうことか、と悟った。勿論、その理由はわからない。ただ、因果関係が、ウンチ・アンド・ダッシュの法則の存在がわかったのである。
 このウンチ・アンド・ダッシュ、いつから始めたのかも実の所よくわからない。猫は妻の実家から1年ほど前に引き取った(正確には、妻が拉致してきた)のだが、妻は実家にいたときは気が付かなかったと言う。初めに僕が気付いたのは猫が我が家に来てから2、3ヶ月経ってからだと思う。家にも慣れ昔の癖を取り戻したのか、それとも単にボケてきたせいなのか、理由は今もってわからない。

 考えられる理由その1、「注意喚起説」。
「ねえ、私、ウンチしたのよ。トイレ、早く片付けなさいよ。なかなかウンチに気が付かないなんて鈍いわね。ホント呆れちゃうわ。それならひと騒ぎして、ウンチを教えてあげなきゃ。」と、猫がアピールしているとの説。きれい好きな猫の性質を考えると妥当性は認められるものの、その検証のためには、飼い主が不在の場合(但し、猫が飼い主不在の事実を明らかに認識していることが前提となるが)の猫の行動を観察することが必要(学説っぽく難しく書いて見たが、要は我々がいないときもウンチした後にダッシュするかどうか、ビデオでも撮って確認しないとわからないということ。)。

 考えられる理由その2、フロイトの「性の発展段階説」による解釈。
 フロイトは、性的欲望は子供、それこそ赤ちゃんの頃からあって、その発展の過程で何らかの抑圧が働き正常に発達しなかった場合、性格に影響を及ぼすことがあると言う。
 赤ちゃんの頃は口唇期と言われる。赤ちゃんは母乳を吸うため口の周りの筋肉が発達しており、そのため“吸う”という行為自体が快感になるという。指やおしゃぶりをしゃぶったりするのも、おそらくその表れなのだろう。次に来るのが肛門期。これは自分でウンチがコントロールできるようになったとき、2、3歳頃であろう。ウンチを母親へのプレゼントだと考え、頑固に貯め込むこともできれば、逆に母親を傷つけることにも利用できる、と知るのである。
 うちの猫が、このフロイトの言う肛門期にあり(2、3歳どころか、人間の100歳近い年齢だが)、ウンチをする行為そのものが、何らかの興奮、精神の高揚をもたらすと考えられないだろうか。年を取って、退行というか、幼児帰りしていると考えられないだろうか。

 などと、勝手なことを書いているが、このウンチ・アンド・ダッシュの法則、我が家の猫だけの特徴なのだろうか、それとも世間一般によくある話なのだろうか。心当たりのある方、是非教えて欲しい。

兵どもが夢のあと ~ ヤオハン、中国の夢

2007-01-27 01:13:47 | もう一度行きたい
 マカオのフェリー・ターミナルの側に“新八佰半”デパートがある。元はあのスーパー、ヤオハンの店であったが、今は“新”ヤオハンということで、現地資本の店になっているようだ。ブランド品から生活雑貨、それにフード・コートまであり、なかなか便利な店である。僕達はよくポルトガル・ワインを買うのでお世話になった。
 またマカオの話かというと、今日は違う。今日は上海の話である。

 上海に初めて行ったのは1993年の夏、もう13年半前のことだ。上海を中心とした中国沿岸部の発展が盛んに喧伝され、日本企業がこぞって中国進出を始めた頃だった。浦東へはまだ橋が1本しか架かっておらず、まもなく2本目が繋がると聞いた。高層ビルが立ち並ぶ今の浦東からは想像できないが、当時の浦東はだだっ広く、何もない所だった。そして、その先にある長江の河口も、これまた広く、とても川とは思えなかった。

 現地の駐在員から、ちょうど上海初の地下鉄が一部区間で運転を始めたから是非乗るようにと言われた。試しに乗って見た。すると目の前に一風変わった風景が。なんと、乗客が皆、窓から外を見ている。もう一度言うが、これは地下鉄の話である。当然、窓からはトンネルの暗い壁しか見えない。が、皆、大人も子供も、真剣にその壁を見ている。不思議というか、ひどく違和感を覚えた。
 僕が初めて地下鉄に乗ったのは小学校低学年のとき、オリンピック開催に向け、札幌に地下鉄が開通したときだ。さすがに窓からじっと外を見ることはしなかったが、初めての経験、物珍しさからウキウキしていた、はしゃいでいた気がする。そう思うと、当時上海の地下鉄が観光名所になっていたこと、遊園地のアトラクションのようだったことも、ある程度は納得できる。それに、乗客はその窓を通じ、技術の進歩や経済の発展、豊かさの実現を見ていたのかもしれない。
 10年一昔と言うが、今の上海には地下鉄が何本も走り、勿論、乗客がじっと真っ暗な壁を見つめていることはない。

 さて、その地下鉄に乗ってどこに行ったかというと、ヤオハンに行ったのである。中国の消費ブームの視察には、日本のスーパーを見るのが良いと思ったのである。商品の豊富さか、それとも日本流の陳列が垢抜けていたのか、店は随分混雑していた。
 が、今となっては、そのとき行ったヤオハンが何処にあったのか思い出せない。それどころか、今もあるのかすら定かではない。97年にヤオハンは倒産したが、その前後で海外の店はほとんど閉めたと記憶している。マカオは例外であり、おそらく上海の店は閉店した可能性が高いだろう。仮にもしあったとしても、全体にオシャレになった今の上海ではまったく目立たないに違いない。どこかでひっそり営業しているかもしれない。
 そんなヤオハンのことを思うと、諸行無常というか、かつて華々しく海外に展開したヤオハンの“夢のあと”を感じずにはいられない。

マーティン・ルーサー・キング Jr.の夢

2007-01-21 12:06:06 | 最近思うこと
 この前の月曜日、15日はマーティン・ルーサー・キング Jr. の誕生日だった。彼はキング牧師として知られる、アメリカの公民権運動の指導者である。又、ノーベル平和賞の受賞者でもある。アメリカでは彼の誕生日に因み、1月の第3月曜日を祝日にしている(たまたま今年は誕生日と重なっていた)。

 以前、20世紀の偉大な瞬間といったタイトルのカセット・テープを持っていた。アポロ11号のアームストロング船長が人類で初めて月に降り立ったときの一言とか、オーソン・ウェルズが『宇宙戦争』のラジオ放送でまさに宇宙人の襲来を告げるシーンとか(注:あまりにリアルだったため、本当に宇宙人が攻めて来たのかと思う人が出て一時パニックになったそうだ)、第二次大戦中、エリザベス王女(当時)がラジオで国民を励ましたものとか、そんな内容である。英語の勉強にと思い買ったものだ。
 このテープの中に、マーティン・ルーサー・キング Jr. の “ I have a dream “ の演説も入っていた。ケネディの大統領就任演説と並び賞される、20世紀を代表する演説である。

 まずは簡単にこの演説が行われた経緯を。ご存知のようにリンカーンの奴隷解放によりアメリカの奴隷制は廃止されたが、現実には人種差別は百年近く経ってもなくならなかった。特に南部の州では、学校、バス、映画館、レストラン等、様々な生活の場面において、白人と黒人の利用を分けることが合法とまでされていた。選挙権すら黒人には実質的に制限されていた。
 1950年代以降、こうした差別に反対する運動、公民権運動が盛り上がりを見せ、1963年、20万人以上もの人が参加したワシントン大行進が行われた。そこで演説されたのが、“ I have a dream “ である。

 演説で最も有名なのは、確かテープに入っていたのもこの部分だけだったが、I have a dream that ~ で繰り返される、人種差別がなくなり、黒人と白人が手に手を取って生きる姿、夢を語った一節だ。興奮することなく、どちらかと言うと淡々と話していた記憶がある。
 例えば、「私には夢がある、ジョージアでかつての奴隷の子供たちとかつての奴隷所有者の子供たちが、仲間として一緒のテーブルに座れるようになること。私には夢がある、不正と抑圧に苦しむ、砂漠のようなミシシッピーが、自由と正義のオアシスに変わること。私には夢がある、私の4人の子供たちが、その肌の色ではなく、その性格によって判断される国に住むこと。」といった内容だ。

 今のアメリカが彼の夢見た世界になっているのかどうかはわからない。が、黒人のライス国務長官の活躍や、民主党のオバマ上院議員が次期大統領候補として取りざたされる等、黒人の地位は確実に上がっていると思う。しかし、一方でヒスパニック系住民の増加により、新たな人種問題が持ち上がっているとの話も聞く。
 マーティン・ルーサー・キングJr. は説く、アメリカは自由、平等、そして正義の国であり、黒人に自由を与えることはアメリカにとっても喜びのはずだ、と。黒人に限らず、すべての人が、自由に、平等に暮らすことのできる世界が実現すること、そんな彼の夢の叶う日が来ることを信じたい。

第九、合唱付き・『歓喜に寄す』

2007-01-14 12:04:48 | 芸術をひとかけら
 年末、第九を聴きに行った。ミーハーと言われればそうだが、読売日響のシーズン・プログラムに含まれているので、もう何年も行っている。だいたいクリスマス前後に行くことが多い。良くも悪くも1年が終わったなと、その年を回顧しつつ、物思いに浸りながら第九を聴いている。

 ところで、なぜ年末に第九なのか?読売日響では12月だけで6回も第九を演奏している。他のオーケストラ、それこそ地方の素人合唱団の公演まで合わせると、いったい日本全国で年末に何件の第九が演奏されているだろう。おそらく100は下らないと思う。
 実は年末に第九というのは日本だけの風習である。海外で年末やクリスマスに第九がこぞって演奏されることはない。『歓喜に寄す』ということから祝典などで演奏されることが多いようだ。そうそう、先日話題にしたEUの歌(国歌?)は第九である。

 日本で第九が年末に演奏される確かな理由はわからないが、おそらく次の二つが大きいと思う。一つは日本人特有の年末や新年の意識、もう一つは経済的理由である。
 日本人にとって年末や新年は特別な意味がある。会社も学校も休みとなり、故郷へ、あるいは海外へと民族の大移動が起きる。年越には蕎麦を食べ、正月にはおぞうにやおせち料理を食べる。最近は多様化しているが、少し前までは、大晦日には「レコード大賞」、「紅白歌合戦」、そして「ゆく年くる年」を見、正月には演芸などの正月特番と駅伝を見る、気が向いたら初詣に行く。ただ食べて飲んで寝てを繰り返しても文句を言われない唯一の日々、それが日本の正月である。
 この1年、苦しかったかもしれないが、新しい1年が来る、目出度い正月だ、期待に満ちた、喜びに満ちた1年が始まる、こんな日本人の意識に『歓喜に寄す』という第九がマッチしたのである。

 更に、第九の構成もこうした日本人の意識にぴったりだとの説もある。第九といえば合唱だが、ご存知の方も多いように、合唱は第4楽章、つまり曲の最後にしかない。第3楽章までは合唱=喜びをただひたすら耐えて待ち、第4楽章で一気に喜びを爆発させる。これが、正に、苦しい1年だったものの新年は良い年にと願う日本人の意識と同じだというのである。なるほど、確かに最初から最後まで合唱があるのと、最後にしかないのでは、そのインパクトが違う気がする。

 もう一つの経済的理由というのはオーケストラ側の事情である。第九の演奏会は客が入る、多少価格を高くしてもチケットが売れる、第九一曲をマスターするだけで数回の公演ができる、要はコスト・パフォーマンスが高く、儲かるからである。概して日本のオーケストラの経営は苦しい。それは今も昔も変わらない。バレンタインを考えたチョコレート屋さん(モロゾフ?)と同じく、年末に第九を定着させた、目端が聴く、賢い人がオーケストラにいたのである。

 さて、なぜこの時期に第九の話なのかというと、年末に書き損なったということも多分にあるが、実はもうすぐ私の誕生日だからである。もう誕生日が嬉しい年でもないが、予定のない日曜の昼下がり、ワインでも飲みながら第九を聴き、一足早い誕生日を祝おうと思っている。
 蛇足ながら、意外に第九はスピードにも合う。ノリの良い第2楽章など、高速や田舎の道を車で飛ばしながら聴くのに最高だ。皆さん、是非一度お試しあれ。

ジプシーあるいはロマの話

2007-01-06 23:59:00 | 最近思うこと
 今日は、昨日の移民問題やルーマニアから連想したジプシーの話を紹介したい。因みに、“ジプシー”は差別語であるとし、最近では“ロマ”が使われている。が、彼らの中には、自らはロマではない、あるいはロマと言えるのは自分達だけだ等、様々な主張があり、なかなか一筋縄では行かないようだ。ここにも問題の複雑さが表れている。以下では便宜的にジプシーを使う。

 ジプシーと聞いたとき、皆さんはどのようなイメージを思い浮かべるだろうか。放浪の民、自然と一体となって暮らす人々、魅惑的な音楽、華麗な踊り等々、哀愁漂う、ロマンティックなイメージを持つ人もいれば、物乞い、スリ、泥棒など貧しく、不潔、不吉な人々といった悪いイメージを持つ人もいるだろう。いったい、どちらが本当のジプシーなのだろう。
(因みに、今、ジプシーキングスのCDを聴きながら、これを書いている。僕にとってのジプシーというのは、どちらかというと前者のイメージである。)

 冒頭、ルーマニアを挙げたが、実はルーマニアは世界でもっともジプシーの多い国である。人口にして200万人近く、なんと国の人口の1割近くがジプシーだと考えられる。しかし、ルーマニアの中でジプシーは明らかに差別されている。
 以前ルーマニア人夫婦の車でルーマニアを旅したことがある。そのとき、一度だけジプシーのことが話題になった。僕が「ルーマニアにはジプシーが多いんだって」と、軽いノリで聞いたのが始まりだったと思う。そのときの彼らの反応、それは、何を言うんだ、あんなのと俺たちを一緒にしないでくれ、という感じだった。理由を聞いても特に明確な理由はない。まるで、ジプシーはただジプシーであるがゆえに醜く、ひどい存在なのであり、忌み嫌うものだ、その何が悪いんだ、と言わんばかりだった。彼らは英語も話すインテリ夫婦であるが、その彼らにしてこの反応である。まして一般のルーマニア国民においておや、である。

 そもそもジプシーは、言語学的にはインドを起源とし、11世紀頃にバルカン半島に出現したと考えられている。黒い髪に褐色の肌というが、必ずしもインド人が起源かどうかはわからない。もとより、ジプシーの語源であるエジプト人でもない。ジプシーは、14世紀後半、オスマントルコの勢力拡大によりヨーロッパ各地へと散らばって行った。楽師や、鋳掛け・蹄鉄打ちなどの専門職人が多く、その土地の主流民族と協力しつつも、独立した文化、風俗を維持していた。一方、主流民族の側は、ジプシーを自分たちと違う存在、異質と認識しながらも、彼らの能力や仕事を評価し、そして彼らを必要とした。いわば持ちつ持たれつの関係であり、当初、差別はなかったようだ。
 ただルーマニアは、ジプシーを奴隷として自らの支配下に置いた。19世紀になって漸く奴隷制は廃止されたが、上述の通り、ルーマニアには当時の意識が今でも根強く残っているようだ。又、この奴隷制廃止がジプシーの流出・拡散に弾みをつけ、ジプシーは、ヨーロッパは勿論、遠くアメリカにも渡って行った。

 自らの国を持たない流浪の民という点でジプシーはユダヤ人に近いが、ユダヤ人ほどの強いアイデンティティはない。固有の宗教もない。一口にジプシーと言っても、各国の、その暮らす土地の主流社会の文化を受け容れたことから、ジプシーの文化や生活は国によっても異なる。そう考えるとジプシーが一つの、同一の民族と言えるかすら怪しい。
 では、いったいジプシーとはなんなのだろう。定住するジプシーもいるため、放浪の民という定義もあたらない。民族としてのアイデンティティもないとすれば、どう定義、説明すれば良いのだろう。一つ言えるとすれば、異質のものを排除するな、ただ自分と違うだけで差別するな、ということだろうか。これを日本に当てはめて考えれば、人間に優劣はない、差別するな、いじめるな、ということだろうか。


EU拡大、バルカン半島へ

2007-01-05 23:51:00 | 海外で今
 1月1日、ルーマニアとブルガリアがEUに加盟した。これでEU加盟国は27カ国になった。EUは、2004年にポーランドやチェコ、旧ソ連のバルト3国など10カ国が新規加盟し中・東欧へと拡大したが、これでバルカン半島にも拡がったことになる。新年早々、まずはめでたい話である。
 が、実はルーマニアとブルガリアはバルト3国などと同じ時期にEUへの加盟交渉が始められたのだが、両国の加盟は2年半以上も遅れてしまった。なぜだろう。

 それには大きく三つの理由がある。第一に司法制度改革の遅れ、第二に食品衛生の問題、そして移民問題である。
 まず司法制度改革の遅れ。ブルガリアといえばヨーグルトが思い出され、のどかな国のような気がするが、実はまったく違う。マフィアの支配する国である。多かれ少なかれ、これはルーマニアもそうだし、更にはロシアもそうだ。共産主義国家の秘密警察などによる強権、弾圧の仕組みは、闇の勢力と結び付き易いのだろうか。体制維持のため互いに協力し、共に利権を享受して来たのであろう。国家は崩壊したが、マフィアはそのまま残った。両国では汚職や組織暴力、売春目的の人身売買などが横行し、強盗も多い。
 両国の加盟には事情をよく知るドイツが最も強く反対していたという。黒海沿岸など両国はドイツ人の好むリゾート先であり、いきおい多くの被害を受けているからだ。
 次に食品衛生の問題。EUは食の安全性を大変重視している。両国はBSE対策など食品衛生のレベルが低いと判断された。確かに先般の鳥インフルエンザ流行の際、感染の恐れがあっても鳥を殺すなどとんでもないと、皆で死ぬほど(?)鳥を食べたとか、鳥を隠したというルーマニアのニュースを見たことがある。

 そして最後の移民問題。両国の労働者の平均賃金は西欧諸国に比し極めて低い。ルーマニアが西欧諸国の2割、ブルガリアが1割といったところだ。こうした労働者が大量に流入すれば、賃金の下落はもとより自国民の失業問題に繋がるとの不安は根強い。
 ドイツは、旧東ドイツの問題を抱えることもあって2004年に加盟した中・東欧諸国からの労働者の受け入れを制限しており、今回も両国からの移民を制限した。一方、2004年に受け入れを制限せず、その後、ポーランドを中心に60万人を越す移民が流入したイギリスは、今回、労働者の受け入れを制限する方針に転換した。フランス、イタリアなどは建設や飲食業など人手不足の業種に受け入れを限定している。いずれも、一つのヨーロッパ、域内の自由な移動と労働という、EUの精神に反する話だ。

 にもかかわらず、なぜEUは両国の加盟を認めたのだろうか。それは使命感からだという。かつて世界の火薬庫と言われ、またボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の記憶も新しい、バルカン半島。その安定、平和がヨーロッパ全体の安定に不可欠との判断が大きく働いた。
 今後はクロアチアやマケドニア、更にはトルコのEU加盟も検討されている。経済規模、所得水準、民族、宗教等の違いを乗り越え、EUが拡大、発展して行くことを願いたい。

感動再び 

2007-01-04 23:59:00 | おいしいもの食べ隊
 新年最初の話題はカニ。

 我が家ではマカオ料理がちょっとしたブーム。香港に行ったついでに日帰りでマカオに行き、マカオの、そしてマカオ料理の魅力に魅せられてしまった(『中国の”ヨーロッパ”』参照)。その後、泊まりで2度マカオを訪れた。
 マカオ料理はポルトガル料理がベースだが、ポルトガルからマカオに至るまでの、各地の素材、香辛料、料理法等々がミックスされた料理である。魚介類を使った素朴なポルトガル料理に、スパイシーな香辛料のエッセンスが加えられている。

 何軒か有名な(有名とおぼしき?)レストランに行ったが、中でもお気に入りはHenri’s Galley(ヘンリーズ・ギャレー)。galley というくらいだから、オーナーが船乗りだったのか、海や航海への思い入れが強い方なのであろう。シーフード料理がウリの店である。場所はマカオ半島の南西、西湾湖に面している。媽閣廟(マコウミュウ。中国風の寺院)やペンニャ教会を見た後で立ち寄るのにちょうど良い場所である。

 この店で食べたのは、マカオ料理では定番のアフリカン・チキン(様々なスパイスをまぶして鶏肉を煮込んだもの)、バカラウ・ボール(タラのすり身のコロッケ)、あと名前を忘れてしまったが、カニの甲羅揚げである。ハマグリ炒め(ハマグリをトマト、玉ねぎ、ニンニク等と一緒に炒めたものらしい)を食べたかったが、残念ながらハマグリはなかった。
 バカラウ・ボールはからっと、さくさくに揚げられており、大変美味。さくっとした歯ごたえのあとに来る、タラとマッシュポテトのハーモニーが堪らない。アフリカン・チキンのスパイスもおいしかった。が、何より感動したのはカニの甲羅揚げである。カニの甲羅の中にカニの身が、これでもかというほど詰まっている。身が少ししかなくグラタンにして誤魔化すような、そんじょそこらの甲羅揚げとは訳が違う。カニ好きの方にはたまらない一品だ。

 ん、この甲羅揚げ、どこか懐かしい感じが。そう、あれは今は無き『箱館城』の甲羅揚げと同じだ。カニの種類は違うが、甲羅の中にたっぷりとカニの身。そう、あれと同じだ。
 もう7、8年前だろうか、僕の両親と僕達夫婦とで函館を旅した。そこでガイドブックを見て入った店が『箱館城』。たまたま連休中で近くに開いている店がなかったこともあるが、あまり期待せずに入った。他に客はいなかった。しかし、これが大当たりだった。大感動のカニの甲羅揚げ。カニ(毛蟹)の身たっぷりというか、カニの身しか入っていないと言っても過言ではない。両親も僕も北海道生まれの北海道育ちだが、こんな甲羅揚げは初めてだった。大将にそう言うと、ファンが多く、止めるわけに行かないから、もう商売度外視でやっていると、うれしそうに、そしてちょっと恥ずかしそうに大将が答えた。青森からわざわざ甲羅揚げを食べに来る人もいるとのことだ。

 それから2、3年して、また函館を訪れた。真っ先に向かったのが『箱館城』。が、見つからない。確かこの辺りだったのに。どうやらつぶれてしまったようだ。ああ、あの甲羅揚げには二度と会うこができないのだろうか。そう思っていたところに、Henri’s Galley の甲羅揚げに出会った。あの感動が蘇った。僕と同じ『箱館城』ファンの皆さん、いざマカオへ行かん。
(まあ、マカオに行く暇とお金があったら、自分で毛蟹をしこたま買い込んで食べた方が良い気も・・・・)