縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

健保組合の解散 ~ 怒れるオジサンの叫び

2008-08-30 23:04:08 | お金の話
 最近、年を取ったせいか、怒りっぽくなった。よくつまらないことで怒ってしまう。例えば、タクシーがトロトロ走っていたり、黄色信号で停まったときなど。「バカヤロー、こっちは急いでるんだ。だからタクシーに乗ってるんだろ。ここの制限速度は何キロだ、黄色は注意して進めだろ、おまえ教習所で何習ったんだ。」勿論、口に出して言わないだけの分別はあるが、今のところ・・・・。

 が、しかし、これは怒って良い、いやサラリーマンとして怒るべきだと思う。健康保険組合が解散に追い込まれている話である。

 先日新聞で西濃運輸が「運営を続ける意義が見出せなくなった」として健康保険組合(健保組合)を解散するとの記事を見た。健保組合を解散し、同社の従業員・家族等57,000人は政府管掌健康保険(政管健保)に移ったそうである。
 この理由は以下の通り。今年4月に75歳以上の後期高齢者医療制度が導入され、「年金天引き」が話題になったことは皆さん記憶にあると思う。その陰に隠れ、あまり話題にならなかったが、同時に65~74歳をカバーする前期高齢者医療制度も導入されたのであった。そこで「財政調整」の美名の下、健保組合から国民健康保険に対し、前期高齢者の医療費を負担するため支援金を拠出する仕組みが設けられたのである。
 西濃運輸は、この高齢者医療への負担に応じて保険料を引き上げるよりも、健保組合を解散し政管健保に移管した方が合理的と判断したのである。なぜなら新たな負担を行うには保険料を10%以上に引き上げる必要があり、政管健保の保険料8.2%を大きく上回ってしまうからだ。

 もっとも従来より健保組合から高齢者医療への拠出金はあり、健保組合は相当な額の負担を行っていた。よって今回の問題の根底には、なぜ健保組合がこうした支援を行うのか、個々の健保組合の負担額の決め方はこれで正しいのか、といった基本の議論がない中で制度が始まり、企業・健保組合の側に制度への不信が生じたことがある。加えて、健保組合への影響が一律でなく、年齢構成の若い健保組合の負担が大きいとの問題もあった。早い話、取りやすそうな所からお金を取ろうというだけで、明確な根拠がないのである。健保組合の解散はまだまだ続くであろう。

 私は我が国の国民皆保険の制度は大変素晴らしいと考えている。が、こうした場当たり的な対応だけでは早晩限界に達するのは明らかであり、現に健保組合の解散という制度のほころびが出てきているのである。

 ここで簡単に医療保険の現状をおさらいすると、大雑把に、国民の半分が国民健康保険(主に自営業者)と後期高齢者医療制度、1/4が政管健保(主に中小企業の従業員)、1/4が健保組合(主に大企業の従業員)、という加入状況である。健保組合に国からの資金はほとんど入っていないが、政管健保には国の負担が8,100億円あり、国民健康保険や後期高齢者医療制度となるとそれ以上、国と地方自治体を合わせ10兆円近いお金、つまり税金が使われている。
 このとき、ほぼ企業と従業員の負担だけで、つまり税金をほとんど使っていない健保組合が、多額の税金が使われている国民健康保険や高齢者医療をどこまで支援する必要があるのだろうか。今回のように2兆円を超す負担が必要なのだろうか。更に言えば、企業やその従業員は別途税金を払っており、既に国民医療費の負担を支えているのである。

 これは平等、公正あるいは社会的正義に関する問題であり、簡単に答えは出せないであろう。しかし、経済合理性だけ考えれば、経営者は皆、政管健保への移管を選ぶのではなかろうか。健保組合を運営し、政管健保にはないサービスを提供することにより、従業員の健康維持・増進に役立ち、延いては企業の利益に資すると証明できない限り、高いコストを掛けて自らの健保組合を持つことは正当化できない。今の世の中、それこそ株主代表訴訟にもなりかねないだろう。

 私は、医療保険の一元化、即ち国民健康保険、政管健保それに健保組合とを統合し、負担と給付を合わせるべきだと思う。皆が同じ基準・料率で負担し、同じ内容の給付を受ける。そして足らずまいは国が負担する形だ。もうその場しのぎの対応では間がつまない状況ではないだろうか。

スペインの話(第2回) ~ ヘレス、フラメンコの聖地で??

2008-08-29 23:56:49 | もう一度行きたい
 行ってきました、フラメンコの聖地、ヘレス・デ・ラ・フロンテーラに。といいつつ、実はフラメンコは見なかった。飲んで、食べて、飲んで、寝た、以上、といった感じ。まあ、今回の旅行にありがちなパターンではあったが・・・・。気を取り直し、まずはスケジュールの説明から。

 マドリッドからAVE(スペイン新幹線)でセビーリャに入ったノンベエ様ご一行は、無謀にもレンタカーを借り、カディスへと向かった。昼食は地元の人で人気の Joselito(ホセリート)へ。漁業の盛んなカディスは魚介類が新鮮で本当においしかった。特にエビがいい。スペインで食べるエビは生が多く、日本で食べる冷凍エビとは“ぷりっと感”がまったく違う。我々は、運の悪い運転手1名を除き、魚介類と地元の白ワインとを堪能したのであった。
 食後はカディス市内を散策。ここのカテドラルはモスクを思わせるドーム屋根がおもしろい。さすがはアフリカと目と鼻の先にあるカディスだ。青い海と青い空、そして照りつける太陽がまぶしい。ときおり路地を吹き抜けるさわやかな風は、心なしかアフリカの香りがするような気がした。

 カディスとヘレスは近い。車で1時間も掛からない。が、ホテルに着いたのは17時過ぎだった。Tio Pepeで有名なボデガ(注:ワイナリー) Gonzalez Byass(ゴンザレス・ビアス)の予約は18時。我々は荷物を置いてすぐ出掛けた。

 東京では最近シェリー酒を飲ませる店が増えているが、まだまだ知名度というか浸透度は低い。などと偉そうに言っている自分にしても、シェリー酒の主な種類について知ったのは、この3年くらいの話である。それまではシェリー酒をほとんど飲んだこともなかったし、食前酒のイメージしかなかった。
 確かに、きりりと冷やした辛口のフィノやアモンティリャードは夏の暑い日など食前酒に最高だ。が、シェリー酒の中には、ペドロ・ヒメネスというブドウから造る甘口のものもある。ウーン、シェリー酒の奥は深い。

 話が前後して恐縮だが、そもそもシェリー酒とは、ここヘレスの周辺で作られる酒精強化ワインをいう。つまり、ブドウを発酵させた後、アルコール度数を上げるためブランデーなどを加えたワインである。ヘレス(Jerez)が英語で訛ってシェリー(sherry)になったのである。
 シェリー酒は、寝かせた樽を積み上げ、一番下の段の樽からシェリー酒を取っては、中段の樽からその分を補充し、そして中段の樽には上段の樽から補充する、独特の“ソレラ”という方法で造られる。したがって、何種類かのシェリー酒がブレンドされるため、シェリー酒には○○○○年物というヴィンテージはない(もっとも王室向けなど、ごく稀には造っているようだが)。
 個人的には、ドライで、青リンゴの香りのするフィノか、フィノを熟成させたミディアムドライでナッツ臭のするアモンティリャードが好きだ。スパイシーでバニラ臭のするオロロソや、甘いクレアムはさほど好きではない。

 Gonzalez Byassを見学し試飲した後、夕食へ。案内の方が勧めてくれた Juanito(フアニート)に行った。広場からちょっと路地を入った、わかりにくい場所にある店だ。ここでおもしろい経験をした。流しだ。スパニッシュ・ギター(この人は下手)と、フラメンコのカンテ=歌(この人はとても上手)の二組である。彼が太く、しゃがれた声でフラメンコを歌いあげるのを聞くと、意味はわからないが、どこか切なく、物悲しい感じがした。
 ストップ、だめ、そんな感傷に耽る暇はない。気がつけば、目の前の大皿からエビが一尾、また一尾と消えていく。ワインもそうだ。ここでぼんやりしていては我が家の生存競争に負けてしまう。現実に戻らねば。

 と、そんなこんなでヘレスでフラメンコを見ることもなく、いつもと同じ夜、「飲んで、食べて、そしてまた飲む」夜が更けていったのであった。フラメンコの歌が遠くでむなしく響いている。ああ、これが人生というものか。

“おらが音楽祭” ~ 『木曽音楽祭』に行って 

2008-08-27 23:20:10 | 芸術をひとかけら
 先週末、木曽音楽祭に行ってきた。毎年この時期に、長野県南部は木曽町で行われる音楽祭である。今年で34回目を迎えた。キャッチフレーズ『小さな町の素敵な音楽祭』のとおり、人口1万3千人の小さな町の人たちによる、手作りでアットホームな、本当に素敵な音楽祭である。
 我々は今回で2回目。おととし、サントリーホールでもらったチラシの中で偶然見つけたのがきっかけだった。避暑を兼ねて信州に行き音楽三昧というのも悪くないなと思ったのである。去年は忙しく行くことができなかったが、今年こそはと勢い込んでやって来たのだった。

 まずは木曽町について。木曽町は2005年11月に木曽福島町を中心に周りの3つの村と合併してできた町である。源平の合戦で有名な「木曾義仲」の育った町である。北アルプスと中央アルプスとに挟まれた山あいにあり、中山道の宿場町としても有名である。
 行って初めて知ったが、木曽駒高原は別荘地になっており、おそらく名古屋の人にとっての箱根といった感じではなかろうか。今回はあいにくの雨だったが、前回は天気に恵まれ、星空が大変きれいだったことを覚えている。

 で、肝心の音楽はというと、モーツァルトなどの室内楽が中心である。日本の著名なソリストやオーケストラの首席奏者など、錚々たるメンバーが参加している。下世話な話で恐縮だが、会場は定員700名の小さなホールであり、きっと出演料は安いに違いない。それでもこれだけのメンバーが集まるというのが凄い。今年のメンバーではピアノの野島稔やヴァイオリンの長原幸太が一番人気だったと思う。
 「だったと思う」というのは、恥ずかしながら、僕はこの二人のことを昨日までよく知らなかったのである。野島稔は、日本に加えアメリカを拠点に活動していること、CDの録音が少ないことなどから、わが国での知名度こそ低いが、「知る人ぞ知る、クラッシクマニア垂涎のピアニスト」(妻の知人談)だそうである。
 一方、長原幸太は1981年生まれと若いが、現在大阪フィルの主席コンサートマスターを務めるほか、ジャズも演奏するは、「のだめオーケストラ」のコンサートマスターになるは、八面六臂の活躍である。又、あしながコンサートなどチャリティ活動にも熱心とのことである。(と、昨日もらった読売日響のプログラムに書いてあった。)

 お隣の松本市で行われるサイトウ・キネンほどの規模も派手さもない、いたって地味なこの木曽音楽祭の、何がこうした一流の演奏家を集めるのか。そして、何が根強いファンを集めるのか。
 それは、この音楽祭が、温かい町の人たちに支えられた手作りの音楽祭であり、それが木曽の美しい自然と相俟って、人々に安らぎを与えるからだと思う。
 この音楽祭は1975年に地元の有志によって始められた。こんな田舎の町だけれど、皆に生の音楽を聞かせたい、との思いからである。当時の唐沢町長と奥様が随分ご尽力されたと聞いたが、それは町としての支援ではなく、金銭面も含め、個人としての支援だったそうである。そんな中、町の人たちも宿を提供したり、食事の準備をしたり、会場のお手伝いをしたりと、今でいうボランティアとして協力したそうだ。
 80年代半ばから町が運営に携わるようになったものの、今でも町の人たちのボランティア精神は受け継がれている。又、出演者の方もいまだにホテルに泊まる方は少なく、多くの方は町の人のお世話になるのを楽しみにしているらしい。
 そう、言ってみれば「おらが町の、おらが音楽祭」なのである。だからこそ落ち着く、安心するのである。

 ところで、木曾義仲は、倶梨伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って上洛するも、朝廷から山村育ちで知識も教養もない粗野な人物だと疎んじられた。もし義仲の時代に「木曽音楽祭」的なものがあったなら、日本の歴史は変わっていたかもしれない。

8月、『敵こそ、我が友』を見て

2008-08-14 00:07:47 | 芸術をひとかけら
 目的は手段を正当化するのか。
 国家は国民を裏切らないのか。
 人間は正しい存在なのか。

 この映画を見ると、いずれの質問にも自信を持って答えられなくなってしまう。人間の弱さ、そしてその一方での残虐さ、更には国家権力の恐ろしさを再認識させられた映画だった。

 『敵こそ、我が友』。これは、敵の敵は味方であり、たとえそれが以前は自分の敵だったとしても、どんなに残酷、極悪非道だったとしても、利用できるものは利用しよう、という国家のあり方を言ったものである。
 クラウス・バルビーは、第二次大戦中のナチス占領下のフランス、リヨンでゲシュタポを指揮した男である。巧みに人を操っては密告などで情報収集を行い、多くのユダヤ人やレジスタンスを逮捕、拷問しては収容所に送り、“リヨンの虐殺者”と恐れられた。
 戦後、当然の如く裁かれ、その報いを受けたかというと事実は違う。アメリカの庇護の下、フランスへの引き渡しを免れ、ぬくぬくと暮らしていたのである。バルビーの知識・ノウハウ、そして旧ナチスの情報網をアメリカは必要としたのだった。彼はアウグスブルクのCIC(アメリカ陸軍情報局)で工作員として働いていたのである。ソ連やフランス共産党に関する情報収集や、他の情報部員の教育にあたったという。
 そして、フランスの要求に抗しきれないと判断したところで、アメリカは彼をバチカン経由(協力者に極右の神父がいたのである)で南米はボリビアに逃がしたのであった。ご丁寧に偽名から偽のパスポートまで用意し、おそらく当座の資金も渡したのであろう。更に驚くのは、バルビーだけが特別扱いだったのではなく、相当数の人間が同じように南米に渡ったということである。
 その後彼らは南米でナチス再興を目指して軍部に接近し、アメリカのCIAとともに軍事クーデター扇動に一役買うことになる。第二次大戦の実戦経験を持つ彼らは南米の軍部には貴重な存在であったし、CIAにとっても頼もしいパートナー、プロ集団であった。

 最初の問いに戻ろう。目的は手段を正当化する、つまり、戦争に勝つためには何をやっても良い、反抗するものは皆殺しにしても構わないのだろうか。
同様に、国家は国民を裏切ってはいけないのだろうか。例えば、一人の人間が将来多くの人々を救うと考えられるとしたとき、国家が彼を、彼がどんな人間であろうと、守ることは否定されるのだろうか。
 人間は常に正しいことを行う存在なのか。戦争という極限状況において、あるいは国の制度自体が間違っていたとき、それでも人間は正義を行うものなのだろうか。

 理想主義的に言えば、最初の二つはNOであり、最後の質問はYESである。が、現実はどうだろう。
 僕はアメリカのやったことが正しいことだとは思わない。しかし、これが現実であり、そしてそれは今でも起きているのである。
 共産主義との戦いのためであれば、狂信的なイスラム主義者であろうと独裁者であろうと支援、利用したアメリカ。資源のためであれば、人権を抑圧している国であろうが気にせず支援する中国。そして、今まさにグルジアに侵攻したロシア。

 正義とはなんだろう。我々は何をなすべきだろう。そんなことを考える良いきっかけになる映画だった。

スペインの話(第1回) ~ 十年一昔、あるいは“ぼやき”

2008-08-07 00:06:42 | もう一度行きたい
 先月の半ば、一足早い夏休みを取ってスペインに行った。12年ぶりのスペインである。コースはほぼ前回と同じ。マドリッドに入りアンダルシアを回ってバルセロナへ、である。
 前回の話は『スペイン紀行』として4回書いたので(2006年2月27日、3月27日、11月21日、11月23日)、今回は、前回行かなかった先や新たに気が付いたことについて書くことにしたい。

 さて、十年一昔と言うが、今回行って随分変わっていることが多かった。

 まずは飛行機。以前はイベリア航空の直行便があったが、それが1998年に廃止された。そのため今はフランスやイタリアなどを経由して行くしかない。以前と比べ、乗り換えその他で不便になった(おまけに今回は、パリへの飛行機の到着が遅れ、乗り継ぎの便を逃すというトラブルにも見舞われた)。スペインへの観光客は多いが、ビジネス客は少なく、採算が合わなかったようだ。もっとも、来年、日本とスペインを結ぶ路線が復活するらしい。ありがたい話だ。

 次に驚いたこと。風車が増えている。ドン・キホーテにあるような、のどかな風車ではない。風力発電の風車である。スペインの荒れた、乾いた大地の中、勢いよく回る風車の群れ。そう、まさしく“群れ”と呼ぶにふさわしい。壮観である。スペインはドイツやアメリカと並ぶ風力発電の国。風車の数というか風車密度?というか、それは我が国の比ではない。
 日本で安定した風力の得られる地域といえば北海道や東北北部の海岸部であるが、いかんせん電気の消費地から遠い。電気を運ぶ際のロスを考えると、ただ風が良いからといって風車を増やすことはできない。逆に、日本には台風があるから風力発電に適しているかというと、それも違う。多くの風車は風速25mを超す強風の場合、安全を考えてストップする構造になっている。それでも時に台風で壊れたり、落下する風車もあるようだ。

 話がそれてしまったが、スペインの話に戻ろう。もう一つ驚いたこと。それはアルハンブラ宮殿で入場制限が行われていたこと。詳しく書くと、アルハンブラ宮殿のメインである「ナスル朝宮殿」へは30分毎の決められた時間にしか入ることができない。チケットに入場時間が書かれており、その時間に宮殿の入口に行って並ばないと入れないのである。
 僕らが行ったのは平日であったが、アルハンブラはひどく混んでいた。指定された時間の少し前に入口に行ったところ、この列はまだ前の回の人の列だと言う。つまり、今並んでいる人達は30分近く、それもこの炎天下の中で立っていることになる。堪らないなと、近くの売店にビールを買いに行った。
 一口ビールを飲んだ、まさにそのとき、一斉に人が動いた。列が我々の回に切り替わったのである。近くで待機していた人が一気に動いたのだった。僕らは出遅れてしまった。やれやれ。

 以前、アルハンブラに来た時は、自由に宮殿に入ることができた。庭園でのんびり座ったり、ぼーっと外の町並みを眺めたり、イスラムの模様や彫刻を楽しんだりと、アルハンブラを心行くまで堪能した。グラナダに2泊した僕は、2日続けてアルハンブラに来たのだった。当時は予約など必要なかったし、チケットを買うのにさほど並んだ記憶もない。あの頃が懐かしい。

 なぜ、こんな趣のない、それにお世辞でも効率的とは言えない(まあ、宮殿の方もビールを買いに行って出遅れた人間に文句など言われたくないだろうが)入場制限が行われるようになったのか。それは観光客が増えたからに他ならない。
 では、なぜ観光客が増えたのか。アルハンブラの人気が高まったこともあるだろうが、それ以上に、純粋に観光客が増えたのだと思う。それだけ世界が豊かになったのである。1980年代、海外で会うアジア系の観光客といえば日本人ばかりだった。それが90年代になって韓国人が増え、今では中国人も多い。又、見た目ではよくわからないが、今はロシアや東欧からの観光客も増えているに違いない。確実に海外旅行に行く人の母集合が拡大しているのである。

 これは本来喜ぶべきことであるが、炎天下の中待たされた僕に、そんな心の余裕はない。暑さで朦朧とする中、頭に思い浮かぶのはディズニーのファストパス。ここでも欲しい。宮殿の入り口は遠かった。ただひたすらに遠かった。

ソルジェニーツィンに捧ぐ

2008-08-05 00:27:10 | 芸術をひとかけら
 3日夜、ソルジェニーツィンがモスクワで死んだ。

 たいていの人は、ソルジェニーツィンって誰、何者、と思ったに違いない。彼は、『収容所群島』、『イワン・デニーソビッチの一日』等で有名な旧ソ連の反体制作家である。1970年にノーベル文学賞を受賞している。
 かくいう私も彼のことは半ば忘れかけていた。ソ連を追放され米国に移住したことは知っていたが、94年にロシアに戻っていたことすら知らなかった。いや、聞いたかもしれないが、さして気にしなかったのであろう。彼はソ連の全体主義を告発した作家であるが、その対象であったソ連はもはや存在せず、当時の僕の関心は新しいロシアに向いていたから。

 ニュースを知って、家で『イワン・デニーソビッチの一日』を探してみた。案の定、ない。この本は誰もが一度は読むべき本だと思う。が、一度読めば十分ではないかとも思う。そう思って引越しの時に捨てた気がする。
 なにせ凄まじい本である。強制収容所での極限の生活。死や発狂と隣り合わせの生活。イワン・デニソビッチの一日、それも彼にしてはごくありふれた一日の生活が描かれているのだが、我々には正に地獄の一日である。そして、そんな過酷で壮絶な日々が、何百、何千と繰り返されるのである。全体主義を前にして、悲しいまでに個人は無力である。自分にこんな生活は耐えられない。
 しかし、実はこれはソルジェニーツィン自らの経験に基づく話である。彼はスターリン批判をしたかどで1945年に逮捕され、8年間強制収容所で過ごしたのであった。更に彼がすごいのは、そうした経験にも拘わらず、又、国家からの圧力にもめげず反体制を貫き、作品を発表し続けたことにある。彼のノーベル賞は、ある意味、彼の命を守るために与えられたものかもしれない。

 新聞にロシア文学者、亀山郁夫・東京外大学長のコメントがあった。ソルジェニーツィンは「政府が強力な指導力を持つ“独裁体制”を取りつつ、民衆が自由を享受するべきという独特のロシアの理想像を持ち続けた人物だ。」と書かれていた。
 そうか、独裁国家に苦しめられた彼だが、独裁には良い独裁と悪い独裁があると考えていたのか。スターリンは前者であるが、必ずしや正しいロシアの指導者による良い独裁があるに違いない、ということか。年老いた彼にはプーチンがそれに近い存在に見えていたのかもしれない。

 僕は、理論上というか理念上は“良い独裁”はあると思う。プラトンのいう哲人政治である。が、それは一時的には成立し得ても、永続する保証はない。一つ間違えばヒトラーやスターリンの生まれる可能性もある。
 ソルジェニーツィンはロシア、そしてロシア民族に夢を託していたのかもしれないが、僕は、たとえそれが不完全なものであっても、やはり民主主義の方が良い。理由なく人を収容所に送る国、その恐れのある国には住みたくないから。この本を読んで、しみじみそう思ったことを覚えている。