縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

“ドラえもん”が提起する死刑の問題

2007-06-30 15:53:48 | 最近思うこと
 光市母子殺害事件の差し戻し審のニュースを見た。正直言って、茶番としか思えない内容である。

 まず簡単に事件について振り返ろう。1999年4月、当時18歳1ヵ月だった少年が山口県光市のアパートに強姦目的で押し入り、女性から強い抵抗を受けたため、女性を殺害した上で強姦。更に傍らで泣き止まない生後11ヵ月の娘も殺害。二人の遺体を押入れに入れ、財布を盗んで逃走。これが事件の概要。
 次にその後の裁判であるが、一審の山口地裁は検察の死刑求刑に対し無期懲役の判決。二審の広島高裁も同じく無期懲役。ところが最高裁が一審、二審の情状酌量に疑問を呈し今回の差し戻し審に。よって、この差し戻し審で無期懲役が覆され死刑判決が出される可能性が高く、俄然この裁判が注目を浴びることになったのである。18歳を1ヵ月過ぎただけの少年に死刑判決が下される恐れあり、これが死刑廃止論者の弁護士の心に火をつけ、全国から大弁護団が組成されるに至った。

 ところで、アムネスティの調べによれば、現在死刑を廃止した国129カ国に対し、死刑制度を持つ国は68カ国。地域としては、宗教上の理由もあってか中東・アジアに多いが、先進国ではアメリカと日本くらいである。実際の死刑執行数は年間約2,000人、その8割以上を中国が一国で占め(あくまで公表数字の話であり実際はもっと多いとの声も)、残りをイラン、サウジアラビア、米国の3カ国が占めるイメージ。我が日本は年数人である。

 人権の尊重が死刑廃止を求める理由であるが、加えて死刑は犯罪の抑止力として機能しない、無実の者を死刑にするリスクあり、等の運用に関する問題も指摘されている。一方、死刑存続を求める側は、殺害された被害者の人権をどう考えるのか、被害者の家族の心のケアをどう考えるのか、又、死刑は抑止力となる、わが国の制度の下では無実の者を死刑にすることはない、と主張している。
 どちらの側も定量的なデータ等確たる根拠があるわけではなく、その良し悪しは定性的な判断、個人の判断になる。僕個人としては、死刑存続を支持する。戦争や大量虐殺の決定・遂行に関する政治的責任、無差別大規模テロの犯罪者など、十分死刑に値するのではと考える。犯罪者の人権を言う前に、何の罪もなく殺された被害者の側の人権をどう考えれば良いのだろう。

 翻って、この光市母子殺害事件、被告が死刑に値するのか、それとも無期懲役が妥当なのか、僕にはそこまでの判断は付かない。一審後に友人に宛てた手紙を見ると、そこにはまったく反省のかけらも見られない。無期懲役を勝ち取った、7年やそこらで刑務所を出る、かわいいからやった、等々、言語道断である。もっとも7年前の話なので、今の被告が事件を、そして被害者のことをどう考えているのかはわからない。

 が、しかし、である。今回の差し戻し審で殺意や強姦目的を否認し、「優しくしてもらいたいという甘えの気持ち」だの、娘を「泣き止ますために首に蝶々結びした」だの、娘の遺体を押入れに入れたのは「ドラえもんがなんとかしてくれると思った」、「死後に姦淫したのは~死者を生き返らせようと思ってやった」などと言うのでは話にならない。犯行当時の精神状態の異常性を主張する作戦なのだろうが、状況証拠からは説明に無理がある。又、一審、二審では強姦目的等を認めており、今更それを覆すこと自体おかしい。

 被告は自らの犯した罪を認め、その事実を真摯に受け止め、自分に何が出来るか、自分は何をすべきかを真剣に考えるべきである。もっとも今回の発言内容は弁護士の考えで被告本人の気持ちとは違うのかもしれない。本当のところは誰にもわからない。
 もし被告が無期懲役となり時間の猶予が与えられたとしたら、彼が深く反省し、そこから更生することは可能だろうか。あるいは、自らを裁いた者や被害者の家族への憎しみ、逆恨みだけで彼は生きて行くのだろうか。性善説に立つか、性悪説に立つか、そして何を判断軸にするのか、本当に難しい問題である。

ワインと和食と小田原(前編)

2007-06-16 15:34:18 | おいしいもの食べ隊
 先日、偶然『ラ・クロシェット・ドール』という店に入った。外の黒板に書いてあった“ホワイトアスパラ”に惹かれて入ったのである。場所は銀座3丁目、ちょうど王子製紙の向かいのビルにある。
 場所は一等地だが、ビルは飲食店というより普通の事務所が入っていそうな雑居ビル。これなら高くないかな、と思ったものの銀座であることに変わりは無い、油断は禁物。案の定、店の扉に手を掛けた途端、嫌な予感が。うっ、扉が重い。重厚な扉の店が必ず高級な店だとは言わないが、安い店に重厚な扉はあまりない。さらに店に一歩入ると、不安に追い討ちを掛けるような光景が。ここはどこ?ワイン・バーのはずが・・・・。思わず目を疑ってしまった。店の左側にはゆったりとしたソファーが置かれ、まるでサロンというか、どこかのお屋敷のような雰囲気。ま、まずい、帰ろうと思ったものの、一応席に着いた。そう、夜の11時過ぎで、他に開いている店がなく、漸く辿り着いた店だったのである。それに空腹には勝てない。我々はまだ夕食を食べていなかったのである。

 しかし、メニューを見るとリーズナブルな値段、それに今日はワインの試飲会があった関係でグラスワインが30種類以上あり、だいたい1,000円前後で出しているとのこと。これを聞いてほっと胸をなでおろし、二人はおいしい料理とワインを堪能した。

 ここはご夫婦の店で、ご主人が料理を作り、奥さんがワインを担当している。金曜の夜とはいえ、12時を過ぎると他のお客さんは帰り、それにご夫婦以外のスタッフも帰り、店には我々4人だけになった。そこでいろいろお話をお伺いした。
 この店は2年前に開き、その前は小田原でワイン・バーをやっていたこと。なぜ小田原かというと、ご主人がその前に箱根の『オー・ミラド』で働いていて偶々住んでいたから。奥さんは日本で第1号の女性ソムリエで、業界では有名な方であること。以前は六本木や代官山の店で働いていたこと。ワインスクールでも教えていて、その関係もあってよく試飲会をやっていること。試飲会の後に来店すると、その恩恵で珍しいワインを楽しめること(今日のようなケース)。等々。

 この店の何がすごいって、奥さん、松本和子さんのパワーがすごい。まず、よく喋る。言葉からはわからないが、聞けば関西出身とのこと。ここで納得、さすが関西のオバさんパワー恐るべし(因みに彼女は僕と同い年)。元々は料理人(芸人ではありません、念のため)を目指したものの、女性であることに加え左利きであることがハンディとなり断念、ワインの世界に入ったとのこと。
 彼女の偉いところというか、関心したのが、決して知識をひけらかさないこと。僕のような素人は、どこかスノッブを気取るワイン好き・ワイン通は苦手である。そう、あの『神の雫』の世界にはちょっと付いて行けない。ところが彼女の場合、その知識たるや相当なものであるに違いないが(長年のソムリエ経験に加えボルドー大学で醸造を学んでいる)、自分はワインが好きで“飲み”から入ったからと言って、まったく偉ぶらない。そして、お客さんからもよく教えてもらうんです、と言って笑う。勿論、お客様の気分を害しないよう気を遣っていることが多いのだろうが、本当に謙虚である。

 「能ある鷹は爪を隠す」、ことワインに関してはそうだと思うが、ご主人に対して彼女は爪を隠してない(?)、実力を遺憾なく発揮しているように見えた。
 我々が帰ろうとしたとき、ご主人は後ろで寝ていた。午前2時過ぎ、料理の仕込みなど大変だったのであろう、無理もない。と、そこに「あなた、起きなさいよ。」と、しきりに彼女の声。会計を済ませ店を出、そしてエレべーターを降りた我々の前に、なんと寝ていたはずのご主人の姿が。深夜で正面の出口が閉まっているため、我々を案内するため先回りして待っていたのである。

 ああ、男は、もとい、夫はつらいよ。

(長くなったので、小田原話はまた次回に。あしからず。)

神が死ぬとき

2007-06-11 23:10:47 | 最近思うこと
 「私、ガンで死ぬところだったの。」と彼女は言った。「婦人科系のとっても珍しいガンで、検査しても全然わからなかったんだ。調子がおかしいなと思って病院に行っても何でもありませんと言われ、他の病院に行っても同じことの繰り返し。やっぱり変だと思いながらも、そんなこんなで3ヶ月くらい経ってしまい、そこで漸くガンだとわかったの。ガンはこの間も確実に進んでいたわけだし、本当に危ないところだったのよ。」久々に、そう13、14年振りに会った彼女は笑いながら話した。昔の会社の後輩と偶然出会ったのである。
 「そのとき、おかしな経験をしたの。それこそ毎晩のように同じ夢、それも自分が病気で死ぬ夢を見たの。これは絶対に変だ、検査結果がおかしいに違いない。そう信じていくつもの病院に通ったわ。おかげでガンが見つかり、今でも私はこうして生きている。ある意味、自分は生かされたわけだし、きっと自分には何かやらなければいけないことがあると思うの。」

 「女教祖様になろうと思わなかったの?」と僕は尋ねた。「そうね、そうは思わなかったわ。でも、壺でも売れば儲かったかしら。」話はここで終わった。そのうち皆で会おうと言って別れた。

 ところで、新興宗教の流行るというか、成り立つ理由をご存知だろうか。それは、人の弱さや、不安、恐れに付け込むか、あるいは人の欲や願望を利用するからだと思う。怪しげな教祖様から、私を信じればお金が儲かるとか、私を信じれば病気が治るとか言われたとする。その中に、それこそ本当の偶然、ごくごく稀に、思わぬお金を手にしたり、医師から見離された病気の治る人が出たとする。すると彼は、当初の怪しさなど忘れ、この宗教に感謝し、心底惚れ込み、そしてこの宗教を家族や知人・友人に熱心に勧めるようになる。これが新興宗教拡大の仕組みなのである。

 が、彼女は宗教家の道を選んではいなかった。

 アメリカの宇宙飛行士の中には宗教家になった者が多いと聞く。宇宙から自分たちの住む星、地球を客観的に見る。それは、あたかも幽体離脱のような不思議な感覚なのかもしれない。果てしない宇宙の中のちっぽけな星、更にはそこで暮らすちっぽけな人間達、そして自分自身。無力感、あるいは絶望。自らを客体化することにより、創造主としての神の力を感じるのかもしれない。いや、自らの力がまったく及ばない世界に一人放り投げだされたからこそ、何か底知れぬ、大きな力の存在を感じたのであろう。それこそキリストやアラーを超えた存在なのだと思う。

 将来、医学や医療技術の進歩により、人は老衰でしか死なない時代が来るかもしれない。病気で苦しんだり、病気で死んだりとは無縁の世界である。又、宇宙旅行が近くの温泉に行くのと同じくらい気軽な旅になる時代が来るかもしれない。

 このとき、神は存在するのだろうか。