縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

ククルカンの降臨

2007-04-30 20:55:12 | もう一度行きたい
 またスペイン語の勉強を始めた。今月からNHKのテレビ『スペイン語会話』を見ている。スペイン語は今まで何度かトライし、その度に数週間で挫折している。そのためスペイン語の勉強を始めて4年になるが、未だに、代名詞、英語でいうbe動詞やhave など基本動詞、男性形・女性形による活用の違いなど、入門レベルから脱することができない。別にロルカの詩やマルケスの小説を原語で読みたいというのではない。ただ旅行に行って困らない程度、簡単な日常会話くらいは話せるようになりたいと思っているだけだが、それにしても先は長い。
 が、幸い、今回のスペイン語講座は一味違う内容になっている。スペイン語でスペイン料理を楽しもう、というのがコンセプト。ついでに料理にあったスペイン・ワインの紹介もある。今回は続きそうな予感。

 さて、先日のスペイン語講座でメキシコの“チチェン・イッツア”が紹介されていた。月に1、2度スペイン語圏の世界遺産を紹介するようだ。チチェン・イッツアというのは、マヤ文明を代表する遺跡で、ユカタン半島のジャングルの中にある。年代としては紀元7世紀~10世紀頃、マヤ後期にあたる。場所はユカタン州の州都メリダと、カリブ海のリゾート・カンクンのほぼ中央。戦士の神殿、球技場、天文台など多くの建物が残っているが、中でも一番の見所はピラミッド型の神殿、“カスティージョ”である。

 カスティージョは高さ23m、9層のピラミッド、その4面は正確に東西南北を向いている。階段は91段×4面で364段、それに頂上の祭壇を合わせ365段。これは1年を表している。
 ここの最大の見せ場は年2回の“ククルカンの降臨”。春分と秋分の日の日没近く、太陽による光と陰のコントラストにより、階段の淵にある“ククルカン(マヤの神の一つ、羽毛のある蛇)”がスーッと浮かび上がる。それはそれは幻想的である。当日はメキシコはもとより海外からも多くの観光客が訪れるという。
 僕達が訪れたのは年末・年始の休みであり、実際に降臨を見たわけではない。このテレビで見たのが初めてだ。話には聞いていたが、見事というか、不思議というか、壮大なマジックのようだった。まったく当時のマヤの人の叡智には恐れ入ってしまう。
(再放送が5月1日朝6時からあるので興味のある方はご覧下さい。因みに、もれなくスペイン語の勉強付き。)

 もともとマヤの人達は数学や天文学に長けていた。だからこそ、方角は勿論、太陽の運行、春分・秋分の日の太陽の高さ・角度等を熟知し、ククルカンの降臨を計算、演出したのである。超自然現象ではない。人間の知恵である。マヤ人は宇宙から来たのではとの説すらあるが、コンピュータのない中、本当によく計算したものだと思う。
 今でもマヤの人達は近くに住んでいる。おそらく、トウモロコシの栽培を主とした自給自足、当時とあまり変わらない生活であろう。そんな彼らを見ると、千年以上も前にこれだけの知識や技術を持っていた昔のマヤ人と、とても結び付かない。連続性の欠如。なぜだろうか。
 思うに、必要は発明の母、ということではないか。当時においてククルカンの降臨が必要だった理由。一つには統治のための王の神性の誇示。つまり、神が王と一体であることを皆にククルカンの降臨で見せようとしたのではないか。そのために人々の叡智を結集させ、建設したのである。更には農耕を行う際の目安として春分や秋分を皆にわかりやすく伝える必要があったのかもしれない。これなら一目でわかる。

 必要は発明の母、とすれば、僕のスペイン語、今のように超ドメスティックな生活を送っていては、とても上達しそうにない。普段の生活でスペイン語に接する機会などまったくない。やれやれ、やはり先は長そうだ。

クロマグロ、マルハの二つの挑戦

2007-04-19 00:21:09 | 環境を考える
 今朝の新聞で『マルハがクロマグロの完全養殖に再挑戦』との記事を見た。「完全養殖」とは、人工孵化から育てた成魚が産卵、それを人工孵化させ、成長した魚がまた卵を産む、というサイクルの養殖方法である。養殖といえば、すべてこのサイクルだと思われがちだが、実はマグロやウナギは違う。天然の稚魚を捕まえ、それを生簀で育てる形で養殖が行われているのである。

 クロマグロは大変デリケートな魚で光や音にも敏感。稚魚は共食いをすることもあり、成魚に育てるのが大変難しい魚だ。マルハは1987年にクロマグロの完全養殖に挑戦したものの、最終的な生育の成功率が0.01%と極めて低く、とても採算に合わないと撤退したそうだ。
 世界で唯一クロマグロの完全養殖に成功しているのが、近畿大学のベンチャー企業アーマリン近大である。しかし、そのマグロは大阪などのデパートで販売されているだけで、流通量は極僅かである。

 では、なぜ、今、マルハがクロマグロの完全養殖に再び挑戦したのだろうか。
 一番の理由(表の理由?)は資源問題への対応。乱獲に加え、漁獲量の管理が徹底されていないことから、マグロ、特にクロマグロは絶滅の危機に瀕している。クロマグロもクジラの二の舞となる恐れがあるのだ。
 クロマグロは日本向けに高く売れるため、各国の乱獲がひどい。わが国のマグロ漁は延縄(はえなわ)漁業で行われている。簡単に言えば、大掛かりな1本釣りである。これに対し海外では大型船による巻き網漁業が行われている。それこそ一つの群れを一網打尽にする、容赦の無い漁法である。漁獲効率は雲泥の差だ。当然、輸入マグロの価格は安い。おかげで、需要が伸びているにも拘わらず、日本のマグロ漁業は崩壊の危機にある。

 資源保護といえば養殖。では養殖はどうだろう。
 日本の養殖はヨコワといわれる体長20、30cm(重さ数百グラム)の幼魚を捕り、生簀で2、3年掛けて成長させ出荷している。一方、最近増えている海外の養殖は、もっと大きい10キロ程度の幼魚を捕獲しては、6ヶ月など短期間で40、50キロまで急成長させ出荷している。これは業界では「畜養」と言われ、最近とみに伸びている。オーストラリア、地中海の国々、メキシコなどが多い。もっとも、この畜養マグロ、スーパーでは単に「養殖マグロ」と呼ばれており、その養殖方法までは区別が付かない。悲しいかな、畜養マグロは、沢山食べさせられるものの狭い生簀で運動不足のため、かえって脂が乗って旨い、全身トロだ、という説もある。
 しかし、こうした養殖にも問題がある。一つは幼魚の乱獲を招いていること。どれだけ幼魚を捕っているか把握できないし、更にはどの国がどれだけ捕っているかの把握も難しい。例えば、イタリア船が捕ったマグロをクロアチアの生簀に入れたとすれば、どこの国の漁獲量にカウントすれば良いのだろう。こうした問題から一応各国の漁獲割当が定められているものの、まったく守られていないのが実態だ。

 そして、こうした乱獲や畜養を陰で支えている、いや支配しているのが、日本の総合商社である。三菱商事、双日、丸紅がビック3。しかし、利に聡い商社ばかりを責めるのもお門違いかもしれない。そもそも日本人が異常なまでにクロマグロを、トロを好むのがいけないのである。マグロ資源云々と問題にする前に、まずは自らの食生活を反省すべきであろう。

 ところで、先程、マルハが完全養殖に再挑戦する表の(?)理由は資源問題と書いたが、裏の理由は総合商社への挑戦なのではないだろうか。傘下の漁船団縮小を余儀なくされるは、乱獲や畜養による安値輸入で市場を乱すは、商社はとんでもない、と。
 理由はともあれ、マルハの挑戦を応援したい。

男と女の違い ~ 松田聖子の場合

2007-04-17 00:01:19 | 最近思うこと
 “Precious Moment”を聴きながら書いている。これを見て「あー、あのCDね」と即座にピンと来たあなたは立派な聖子ファンだ。1989年発売の松田聖子のCDである。
 僕は彼女のファンではない。一応CDは4枚持っているし、一度武道館のライブに行ったこともある。が、彼女の熱烈なファンを見ると、自分をファンというのはおこがましい気がする。

 先週、偶然付けたテレビで松田聖子の特集を見た。NHKスペシャル『松田聖子・女性の時代の物語』である。デビュー27周年の彼女の生き様を振り返るとともに、彼女の現在の姿、生の声を伝える。そして、彼女を熱烈に支持する女性達。聖子ファンは9割方女性である。それも30から40代の、彼女と同年代の女性達。
 番組は彼女のファンには2種類あると言う。一つは成功した働く女性。聖子と同じように、自ら時代を切り開いてきた男女雇用均等法世代の女性。苦労を共にした同士として共感し、支持する。もう一つは何事にも中途半端な生活・人生に疲れ、悩む女性。自分にない強さや成功を聖子に求める。
 うーん、さすがNHK。立派な、もっともそうな分類、分析だ。だが、本当にそれだけなのだろうか。

 松田聖子は、老若男女問わず誰もが知っているという意味で、おそらく最後のアイドルではないだろうか。僕が物心付いてから、日本のアイドルといえば天地真理、山口百恵、そして松田聖子。音楽の優劣は別として、世の中の認知度、浸透度では、宇多田ヒカルも浜崎あゆみも足下にも及ばない。
 彼女がデビューした1980年は歌番組の全盛期。TBSのザ・ベストテンに、日テレのトップテン。テレビを付ければ、毎日のようにそこには歌う彼女の姿があった。若い女性はこぞって“聖子ちゃんカット”にした。そんな時代である。
 デビュー当時、聖子のファンは同年代の男性が中心だった。多くの女性は「あんな、ぶりっ子」と言ってはソッポを向いていた。それがいつからだろう。男性の人気がなくなり、逆に女性の人気が高まって行ったのは。

 男性の人気が無くなった理由は大きく二つだと思う。一つはファンも彼女も年を取ったこと。男が就職したり、結婚した後、女性アイドルにうつつを抜かすことは少ない。そんな余裕がないのである。一方で彼女より若い男性は、自分より若い、新しいアイドルを求めた。もう一つは彼女のスキャンダル。実際にどこまでが本当で、どこからが作り話かはわからない。が、普通の男性だと、あれだけ騒がれるともう沢山だ、いい加減にしてくれ、ということになる。
 これに対し女性ファンが増えた理由。バッシングに負けず自らの信念を曲げない、やりたいことをやり、欲しい物は全て手に入れる。そんな彼女の生き様が女性の共感を呼んだ、あるいは目標に、憧れの的になった。番組の言うように、そういう面もあると思う。
 でも、本当のところはもっと単純なのではないだろうか。ただ“かわいい”から、松田聖子がかわいく、けなげな女心を歌っていたからではないだろうか。聖子ちゃんの歌を歌えば、素直な気持ちになれる、かわいい自分に会える、それが女性に人気のある理由なのだと思う。

 少し古いが、『小さな恋のものがたり』という漫画があった。僕は何もおもしろいと思わなかったが、ウチの姉が大のお気に入りで、新しいのが出る度に買っていた。男にはよくわからないが、女は“かわいい”ものに弱い生き物なのである。

Easter

2007-04-08 23:59:00 | 芸術をひとかけら
 今日はイースター、復活祭の日である。
 
 イースターと言っても、キリスト教徒でない僕にとってはあまりピンと来ないが、イエスの復活を、十字架で処刑された後によみがえったことを祝う日である。「春分後の最初の満月の次の日曜日」ということで年によって変わるが、その定義から3月22日から4月25日までの間ということになる。
 その由来については、ユダヤ教の「過越(すぎこし)の祭り」から来るとする説もあれば、春の女神 Eostreに因んだゲルマン人の祭りに由来するとの説もある。もっともユダヤ教においてイエスは存在しないわけだし、いずれにしろ、長い寒く厳しい冬が終わり、草木が芽吹き、動物たちが再び活動を始める春が来たという喜びを、イエスの復活のイメージと重ね合わせた祝日なのであろう。

 イースターで思い出すことといえば、『イースター・パレード』という映画があったな、ということと、パティ・スミスである。
 パティ・スミスというのは詩人であり、ミュージシャンである。“パンクの女王”とも言われ、1970年代後半のニューヨーク・パンクを代表するアーティストの一人である。彼女の3枚目のアルバムが『 Easter(イースター)』。パンク通の中では、デビュー作『 Horses(ホーセズ)』や2作目の『 Radio Ethiopia(ラジオ・エチオピア)』を評価する声が強いが、僕はこの『 Easter 』が一番好きだった。“Because the night”や“ Rock’n’Roll Nigger”は最高に良かった。詩の朗読のような雰囲気から、一転歌へと繋がって行く“ Rock’n’Roll Nigger”、その独特の歌い方、迫力というか、その説得力には本当にゾクゾクした。英語力に乏しく、彼女の詩を理解できなかったのが悲しい。

 彼女はまず詩人として活動を始めた。それは詩の朗読会であったり、ロックのライブの前座に自作の詩を披露したりしていた。バックに音楽を流して詩を詠んだり、時には歌うこともあったかもしれない。詩人として一部でカリスマ的人気を誇った彼女はついにレコード・デビューを果たした。熱狂的に評価するファンがいる一方、レコードの売れ行きは冴えなかった。
 そこで梃入れを図るべく、若干ポップな要素を強めたのが、3作目『 Easter 』である。特に“Because the night”は、パティ・スミスの詩に当時売り出し中のブルース・スプリングスティーンが曲を書き、シングルとしてもチャートの上位に入った。

 その後の彼女の活動についてはほとんど知らない。彼女が結婚して活動を一時中断したこと、僕が就職後あまり音楽を聴かなくなったことが理由である。持っていた『 Easter 』など彼女のLP3枚も実家の引越の際に処分されてしまった。今の僕に彼女の歌を聴く術はない。CDを買えば良いのだが、何もそこまではと思い、つい躊躇してしまう。

 実は、以前スペインに行った際、数年、いや十数年振りに“Because the night”を耳にした。バスで田舎の畑の中を走っているとき、突然ラジオからパティ・スミスの声が響いて来たのである。懐かしい。見知らぬ土地で、偶然、旧知の友人に出会ったような嬉しさだ。
 イエスは三日後に復活したそうだが、パティ・スミスの歌も三十年の歳月を経て復活すると良い。

桜、そして生きるということ

2007-04-03 22:23:45 | 最近思うこと
 先日、屋形船で花見をした。夜桜である。粋というか、乙というか、風情があるな、と思われた方、それは違う。何のことはない、歓送迎会、ただの宴会である。飲んで騒ぐには、船の上も陸の上も変わらない。おまけに寒いときた。遠目に見た桜は妖しく美しかったが、花より団子ならぬ、花よりお酒の2時間半だった。
 一応コースを説明すると、晴海トリトンの近くから運河を通って隅田川に入り、浅草の先、桜橋あたりまで行って戻ってくるコース。本来の趣旨は、桜橋と言問橋の間で小一時間ほど停まり、船から隅田公園の桜を楽しもうというものである。
 まあ、物は試し、一度経験されては如何かと思う。もっとも、できれば船を貸し切り、気の置けない仲間で楽しむか、少人数で静かに花を愛でるのが良いのではないだろうか。

 屋形船は高い、お金がもったいないと思われる方には、水上バスがお勧め。日の出桟橋から浅草まで方道1,000円も掛からずに行ける。船は隅田公園の手前までしか行かないが、浅草の船着場から隅田公園までは歩いてもさほど距離はない。また、隅田公園まで行かずとも、途中の川岸でも結構桜が楽しめる。特に中央大橋の手前、リバーシティや聖路加のあたりの桜が綺麗だ。桜を楽しんだ後、浅草でちょっと一杯遣るも良し、下町情緒の中、思い思いに余韻に浸れるだろう。

 東京の桜はこの週末あたりから満開になった。そろそろ散り始めかと思われたが、ここ2日の寒さで少し持つのではないかと期待している。それこそ、雨にも負けず、風にも負けず、咲いていて欲しい。
 が、天邪鬼的に言えば、桜は散るから良いのかも知れない。いくら美しくても、年中咲いていては、いずれ飽きが来て見向きもされなくなるだろう。明日をも知れぬ命なればこそ、それが愛おしく、この上なく貴重なものに思えるのである。

 英語で mortal というのは、“死ぬ運命にある”といった意味で、それは人間を意味する。その否定形、 immortal は“不死の”という意味で、これは神を意味する。確かギリシア神話の中に、不死である神となるより、自分は死すべき者、人間でありたい、といった一節があったと思う。限られた時間であればこそ、輝きに充ちた時間なのだと。
 ここで我が身を振り返って反省、年とともに、だんだん怠惰な人間になっている気がする。目には見えないが、誰しも刻一刻死に近づいていることは紛れもない事実だ。短い一生を精一杯咲き続ける桜に恥じぬよう、明日から気を引き締めて生きて行かねば。