縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

“Morton’s”といえば・・・ (ハワイの話その3)

2010-12-21 23:43:43 | おいしいもの食べ隊
 ハワイに着いた日の夜、「この疲れと時差ぼけの体を癒すには、やはりパワーが必要だ。」と、二人はステーキを食べに行くことにした。
 アラモアナ・センター(ハワイ随一のショッピング・モール)に “Morton’s”というステーキハウスがある。若干高そうではあるが、ここならホテルからも近い。「いかにもアメリカらしい、豪快なステーキを食べるぞ。」と、二人はいそいそと出かけたのであった。

 歩いて10分足らずでアラモアナ到着。が、ここからが遠い。着いたといっても、まだワイキキ側の駐車場のすみ。レストランの入口は2階にあるというが、そもそもこの駐車場が地下か地上かさえ定かではない。エスカレーターを見つけて2階に上がったが、どうやらレストランはダウンタウン側にあるようだ。広いアラモアナ、あと直線で300mは歩かないといけない。やれやれ。
 そして、漸く「入口」に到着。ここからエレベーターで3階に上がり、漸く店に入ることができた。

 店内は薄暗く、ブラウンを色調とした落ち着いた感じである。著名人の写真が多く飾られていたり、お気に入りのワインを保管しておく棚が並んでいたりと、高級感が漂っている。木曜日のちょっと遅い時間であったが、店内は思いのほか混んでいた。いやがおうにも期待感が高まる。
 中央のホールにテーブルが並んでおり、ホールを取り囲むようにボックス席がある。我々は入口近くのボックス席に案内された。日本人だから入口のそばにされたのか、遅い時間だったからサービスでボックス席にしてくれたのか、どちらかわからなかったが、いずれにしろ、ゆったり座れたことは確かだ。

 ほどなく、ぴしっと決まった服装のウェイターさんがやって来た。さすがは高級店。我々はメニューを見て前菜にシーフードの盛り合わせ(冷製)を選んだ。すると今度は彼がトレーで肉を運んできた。これはフィレ、隣がTボーン等、実物を見せながら説明してくれる。ただ、プライム・リブは金曜と土曜のみということで、その日(木曜)はなかった、残念。
 我々は「アメリカらしく豪快に」と言いつつ、目の前の肉の大きさにひるみ、小さめのカットのリブアイを頼んだ。それと、シーフードに合う白ワインとリブアイに合う赤ワインをグラスで頼んだ。

 まず、キャベツみたいに大きなパンが塊で出てきた。このパンと白ワインだけで十分お腹いっぱいになりそうである。
 と、思っていた矢先、シーフードの盛り合わせが来た。これが凄い量だ。大きな皿からこぼれんばかりにエビ、カニ、カキが山盛りに載っている。カキは普通の大きさだが、カニやエビがでかい。キングクラブとロブスター。それに少し小ぶりのエビもある。エビ・カニ好きの二人にとって、これは堪らない。近年稀にみる感動だ。これぞ至福のとき。

 このあとに来たリブアイ・ステーキもおいしかったが、エビ・カニの感動には敵わない。因みに、ハワイの最後の夜、老舗と言われる某シーフード・レストランで同じ盛り合わせを頼んだが、満足度は“Morton’s” の方が一枚も二枚も上だ。
 シーフードとステーキとワイン(グラス4杯)、〆て2万円と確かに安くはない。が、それだけの価値はある。“Morton’s”、ハワイを訪れた際、是非寄って頂きたい店の一つだ。

【追記】
“Morton’s” はシカゴに本店のある高級ステーキハウスで、お店はアメリカ国内のほか、アジアでは香港、マカオ、シンガポールにある。いつかシンガポールの店で(注:シンガポールはエビ・カニがおいしい!)、シーフードの盛り合わせを食べることを夢見ている。失礼、勿論、ステーキも・・・。

終わり良ければ・・・ (ハワイの話その2)

2010-12-16 23:02:42 | もう一度行きたい
 久しぶりのハワイ。それも試験のないハワイは何年振りだろう(注:以前CPAの試験でハワイに来ていた)。
 飛行機に乗るまではドタバタだったが、なんとか無事ハワイに着いた。やれやれ。のんびり過ごそう、日頃の疲れを癒そうと思ったものの、哀しいかな、貧乏性の二人にそれは出来なかった。さすがに初日こそアラモアナやワイキキを回り、のんびり過ごしたが、翌日からはなかなかハードである。

 2日目はレンタカーを借り、島の北側へと向かった。オアフ島北部・ノース・ショアはサーフィンの聖地である。映画「ビッグ・ウェンズデー」のロケは、ここのサンセット・ビーチで行われたという。
 我々はサーフィンはやらないが、その代り、ノース・ショアにある「タートル・ベイ・リゾート」で馬に乗った。日本と違い、ハワイの乗馬はお手軽かつワイルド。ちょっと病みつきになりそうな感じである。
 「馬に乗ったことはあるか?」と聞かれ、「初心者だ。」と答えると、「OK。じゃあ、まず乗り方を教えよう。簡単だ。」と宣う。で、「右に行きたいときは手綱を右に引っ張る。左に行きたいときは左に。OK? よし、出発しよう。」と言って、歩き始めた。
 あの~、あまりにいい加減というか、イージーすぎる気が・・・。日本だと、こうは行かない。まず、「馬に向かって左からは近づくな。」「馬を撫でながらやさしく話しかけろ・名前を呼べ。」といった注意から始まり、次は馬への乗り方(これがなかなか難しい)、さらに手綱がどうの、鐙がどうの、と説明が延々と続く。そして漸く柵の中を馬で歩くことが許されるのである。いきなり外に出るなんて考えられない。
 ところが、ハワイの乗馬は極めてカジュアル。ほとんど説明なしに外を歩かせてくれる。台を使って馬に乗るので、苦労して乗り方を会得する必要もない。勿論、馬がよく慣れている、調教されているというのはあるが、海辺や林の中を楽しく馬に乗ることができた。一応ハワイもアメリカだし、気分はいっぱしのカウボーイである。

 続いて3日目。この日は朝からツアーでシュノーケリングに行った。場所はカネオヘ。ワイキキから北に車で1時間弱、“天国の海”と言われる、エメラルド・グリーンの、それは美しい海、らしい。というのも当日は天気が悪く、曇り・一時スコール、だったのである。憧れの“青い海と青い空”状態からは程遠い。二人とも日頃の行いは悪くない(?)のに、まったくうらめしい天気だ。もっとも海の中であれば天気は関係ない。サンゴ礁の中を泳ぐ魚たちは美しく、短い時間ではあったが、シュノーケリングを楽しんだ。
 このツアーのもう一つのウリは“ウミガメ”。船からウミガメの泳ぐ姿が何度か見えた。が、「では、ウミガメと一緒に泳ぎましょう。」と海に入ったが、探せど探せど、ウミガメの姿が見えない。いつの間にか深く潜ってしまったのであろう。陸の上ではのろまなカメかもしれないが、海の中では立派なスイマーだ。僕はあえなくギブ・アップし、すごすごと船に戻ったのであった。

 そして4日目、帰国の日。来る時と同じく夜間のフライトである。馬やらカメやらで疲れていたし、お酒も飲んだし、僕は熟睡した。で、起きてみると腰に違和感が。最初は「ちょっと痛いな」程度だったのが、時間とともに痛みが増していく。帰りの車で座っているのも苦痛だった。
「ああ、エコノミーの狭い席じゃなく、ゆったりとビジネスに乗れる身分になりたい。」
 結局、2度針を打ってもらい、漸く普通に寝返りできるまで回復した。が、今でも、多少おっかなびっくりな感じはある。
 「終わり良ければすべて良し」ということわざがある。初めは飛行機に間に合って喜んでいたが、最後にひどい腰痛になるなんて、これって良い旅だったのだろうか。「終わり悪ければすべて帳消し?」

共に生きる社会 ~ 在日コリアンを巡る問題

2010-12-07 21:22:52 | 最近思うこと
 今年は日韓併合100年にあたる。そのため僕の勤める会社の今年度の人権啓発のテーマは“在日コリアン”。先日、会社で在日の方の講演があった。

 講演を聴いて感じた、いや痛感したのは、自分って何も知らないんだな、ということ。僕は北海道の出身ということもあり、在日や同和の問題について頭ではわかっていても、正直、身近な問題として考えたことはない。東京に出てきて30年近くになるが、差別の問題に直面することもなかった。
 しかし、これは、自分は差別をしていないのだから関係ないと言って済む話なのだろうか。遠い外国の話ではなく、日本の話である。差別の生まれた理由や背景について考えたことがあるか、在日の人の生の声を聞いたことがあるか等、今回改めて考えさせられた。

 講師はNPO法人 多民族共生人権教育センターの李美葉(い みよぷ)氏。仰々しい名前の団体であるが、氏は正真正銘(?)の“関西のおばちゃん”である。本人曰く、在日2.5世。関西のおばちゃんだけあって口、もとい日本語は極めて達者であるが、韓国語はまったく話せないそうだ。

 講演で特に印象に残っているのは、国籍の問題と、名前についての話である。

 まずは国籍について。
 はじめに在日コリアン、つまり在日韓国・朝鮮人についておさらいしよう。日本に在留する韓国籍・朝鮮籍の人で、主に戦前・戦中より日本に定住していた人およびその子孫を在日コリアンという。韓国籍というのは大韓民国籍。では、朝鮮籍は北朝鮮籍かというと、そうではない。あくまで“朝鮮”籍なのである。僕も今回話を聞くまで知らなかった。韓国併合により朝鮮という国はなくなっていたが、戦後日本に住んでいた朝鮮人は皆 朝鮮籍とされたのである。国というよりは、出身地表記としての符号に近い。
 そして、1965年の日韓基本条約締結により大韓民国との国交が正常化した後、韓国籍を取得する人が増え、在日韓国人という言い方も一般的になってきた。
 一方、韓国籍を取らず朝鮮籍のままという人が、全員北朝鮮シンパというのでもない。勿論、中には共産主義を信奉する北朝鮮シンパの人もいて、(日本は認めていない)北朝鮮籍を持っている人もいる。が、単に、自分は大韓民国など知らない・住んだこともなければ見たこともないといった理由で朝鮮籍のままの人も多いのである。また、日本に帰化した人も多い。
 と、なかなか一口に在日といっても複雑である。そのため、最近は“在日コリアン”という呼称が好んで使われているようだ。

 次に名前。
 実は、芸能人やスポーツ選手には在日コリアンが多い。が、ほとんどが通名、つまり日本式の名前を使っている。何も芸能人に限ったことではない。本名で暮らす在日コリアンは、全体の1割程度とも言われている。
 では、朝鮮と同じく日本の植民地だった台湾の場合はどうだろう。在日台湾人、例えば、陳舜臣、蓮舫、王貞治(父が中華民国籍)など、台湾の名前を使っている人が多いように思う。この差はどこから来るのだろう。
 在日台湾人の数が少なかったこと、いにしえの中国(注:中華人民共和国ではない)への敬愛、台湾が共産主義と対峙する同志であること、等が理由として思い浮かぶが、本当のところはわからない。

 こうした中、講師の李氏は通名ではなく、朝鮮の名前を名乗っていらっしゃる。よく、民族としての誇り・アイデンティティですね、と言われるらしい。が、氏はそれを否定する。「だって、これが自分の名前だもの。民族としての誇りとか、そんな大それた思いからじゃない。ただ、あたりまえのことをしているだけ。」

 日本人であろうとなかろうと、自分の名前を名乗る、そんなあたりまえのことが、あたりまえにできる社会に早くなって欲しいと思う。

ハワイへの道 (ハワイの話その1)

2010-12-02 23:25:50 | もう一度行きたい
 夫婦は次第に顔が似てくるという。確かにそうかもしれない。ウチもたまにそう言われる。おそらく、年月を重ねるとともに、表情の作り方が似てくるのであろう。
 では、性格はどうだろう。僕は、性格も表面的なところは似てくる(あるいは、互いに合わせるようになる)かもしれないが、根っこの部分はさほど変わらない、つまり似ることはないように思う。

 これは、先日、ハワイに行ったときの話。

 僕らは、平日、仕事が終わった後、成田発22時の飛行機でハワイに行くことにした。僕は早々に仕事を切り上げ、18時半に帰宅した。が、妻がなかなか帰って来ない。19時半を過ぎ、20時を過ぎ、それでも帰って来ない。
 タクシーで箱崎に出て、そこからバスで成田に行こうと思っていたが、もうそれでは間に合わない。仕方がない、家の車で成田に行こう。そうすれば40、50分で着く。駐車場代が高く付くが、それでも乗り遅れるのに比べればマシだ。
 そうこうする内に妻が帰って来た。20時15分に出発。これで21時には成田に着く。やれやれ、なんとか間に合いそうだ。
 
 幸い道路は空いていた。車はすぐに東関東自動車道に繋がる豊洲の入口に。ふと、情報板を見上げる妻。「ねえ、辰巳から渋滞3kmって出てるよ。」「えっ、辰巳って深川線じゃなかったっけ? 関係ないよ。」と僕。
 が、しかし、これが大いに関係あった。辰巳というのは辰巳ジャンクションのことで、なんと豊洲とは目と鼻の先。5分もしないうちに、僕らは渋滞の真っ只中に入ってしまった。ナビの成田到着予定時刻は22時5分。それでは飛行機は飛び立ってしまい、成田に着いたところで後の祭りだ。

 さて、ここからが本題。

 僕はここで気持ちを切り替えた。さっきまでの“ハワイでのんびり リゾート”モードから、“あきらめ、悟り”のモードに入ったのである。一方、妻はというと、未だ“ハワイに行くぞ! 行けるぞ!”モードのまま・・・・。

 20分近くで漸く渋滞を抜けた。僕は急ぎつつも、あくまで安全運転。間に合わない可能性が高いのに、焦って事故を起こしては元も子もない。
 あまり期待してはいけない。はなから諦めていれば、やっぱりダメだったかで済む。が、期待していたのに間に合わなかったとき、そのショックは測り知れない。逆に、万が一諦めていた飛行機に乗ることができれば、その喜びは限りなく大きいはずだ。これならどっちに転んでも悪くはない。僕はこう考えた。

 この間、妻は、なんとかなると信じ、電話を掛けまくっていた。まずはパーキング業者。空港の駐車場に車を停めるのは時間が掛かる、空港ターミナルの前で車を預かってもらえないか、というのである(もっとも営業時間終了、もう人手がない等でダメ)。
 次にJALのカウンター。(若干サバを読んで)21時半には着くから待っていて下さいとお願いしようというのである(こちらもJALのカウンターに電話が繋がらず、断念)。

 しかし、妻の思いが通じたのか、車が成田に近づくにつれ、ナビの到着予定時刻が次第に早くなって行った。そして、21時35分に成田到着。妻をターミナルのJALの看板の前で降ろし、彼女はそのままカウンターへと走った。駐車場に車を停めた僕は、荷物を引き摺りながら、カウンターへと急いだ。

 なんと、これが間に合った。JALの方のご厚意で二人を飛行機に乗せてくれたのである。この22時のハワイ行きが最終便であったことも幸いしたようだ。空港はガラガラで、セキュリティチェックも出国手続きも、あっという間に終わった。そして、僕らは出発10分前には飛行機の座席に着くことができた。

 慎重な僕と、楽観的な妻。最悪の事態を想定し対応を考える僕と、物事を自分の都合の良いように考える妻。足して2で割れば普通の人? ちょうど夫婦としてはバランスが取れていて良いのだろうか。いずれにしろ、僕は妻のようにはなれない。
 もっとも、私だって、あなたのように暗くはなれないわ、と妻に言われそうだ。きっと妻の方が長生きするに違いない。