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縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

私たちが光と想うすべて(★★☆☆☆)

2025-08-25 13:02:02 | とある田舎のミニシアター
 日本経済新聞で「現代インドの光と影、鮮烈に描く」、「インド映画の新たな傑作」と大絶賛されており(因みに評点は★★★★★)、見逃してなるものかと観に行くことにした。が、僕の感性の問題だろうか、残念ながらそこまでは感動しなかったが・・・。

 大都会ムンバイで暮らす3人の女性の物語。早ければ今年にでもGDPで日本を抜くと言われるインド。日本の高度成長期を思わせるエネルギーを感じる。が、皆が豊かになったわけではない。貧しい者も多い。昔からのしきたりもあり、特に女性にとっては窮屈な社会でもある。

 ムンバイの病院で働くプラバは、親の決めた男性と、相手のことをよく知らぬまま結婚した。夫は結婚早々ドイツへ出稼ぎに行ったきり帰って来ない。最近は連絡も途絶えがちだ。今は同僚のアヌとルームシェアをして暮らしている。2人は仲が良いわけではない。年も離れているし(プラバの方が上)、真面目なプラバに対し陽気なアヌ。が、共に田舎から都会に出てきた2人、互いに依存している。
 アヌは親から執拗に見合い結婚を勧められているが、実はイスラム教徒の恋人がいる。ヒンズー教徒がイスラム教徒と結婚するのはタブー(ときに結婚をめぐり殺人事件が発生することさえあるらしい)。アヌの周りでは彼女の危険な恋愛が噂になっている。
 3人目はプラバの友人パルヴァティ。プラバやアヌの働く病院の食堂で働いている。夫に先立たれ一人暮らし。長年暮らしたアパートを、高層ビル建設のために立ち退きを迫られている。
 そう、3人ともそれぞれ問題を抱えながら生きているのである。

 パルヴァティは、プラバの紹介で弁護士に相談するが、結局アパートを退去するはめになる。彼女はムンバイでの生活を諦め、田舎に帰ることにした。海辺の何もない村である。プラバとアヌは、お別れと引越しの手伝いのため、パルヴァティと一緒に彼女の田舎へと向かった。その田舎で3人とも新しい生活のきっかけを掴むことになる。

 話の筋はざっとこんな感じ。生きづらい世の中で互いに認めあい、支え合って生きて行こうとする女性たちの物語である。インド映画によくある “いきなり歌って踊って” はなく、ちょっと寂しい。バックの音楽もインド音楽ではなく西洋音楽。全体に抑制の利いた、洗練された映画である。そうか、フランス、インド、オランダ、ルクセンブルクの合作映画なんだ。インドが舞台で、監督はインド人であるが、純粋なインド映画ではなかったのである。

 題名『私たちが光と想うすべて(All We Imagine as Light)』は、”私” ではなく、”私たち” であるのがミソなのだろう。同じような環境で生活していても、友人やパートナーと同じ夢や希望を持つことはできないかもしれない。でも、わかり合うことはできる。だからこそ人は生きて行ける。ラストシーン、暗い闇の中に浮かぶ店の灯を見て、そんなメッセージを感じた。

ATMからカードが出て来ない!(シンガポールでの出来事)

2025-08-14 16:07:58 | お金の話
 えーっ、カードが出て来ない。それにお金も。出てきたのはレシートだけ。

 ATMでお金を下ろそうとしたときの出来事である。
 これが日本の町中で起きても結構パニックになるが、ここはシンガポール。あー、どうしよう・・・。

 ATMに問い合わせ先電話番号が書いてあった。が、電話をしたものの繋がらない。ATMの横のコンビニの人に尋ねたら、ウチは管理していないので何も分からないとのこと。
 じゃあ、近くの支店に電話しよう、いや言葉の問題もあるから店に行った方が良いか、と思いインターネットで調べた。ATMは香港上海銀行(注:名前の通り香港の銀行。略称HSBC)のもので、シンガポールにもいくつか支店があった。しかし住所を見てもどこが近いのか皆目見当が付かない。八方塞がり・・・。

 そんなとき後ろに並んだ2人がどうしたのかと尋ねてきた。事情を話したところ、1人が私も同じ事があったという。カードは1週間くらい出て来なかったので、カードをキャンセルし再発行せざるを得なかったとのこと。そして、ここにいても仕方が無いから一緒に近くの支店に行こう、と言ってくれた。おー、なんてやさしい人だろう。女神のようだ。
(今にして思えば、HSBCは香港の銀行なのでシンガポールの町中にATMは少なく、ここのATMが使えないのなら支店に行くのが早かったのかもしれない。が、それにしても親切な人だ。)

 歩いて5分で支店に着いた。相談窓口で事情を話したが、その対応にびっくり。日本人の感覚だと「誠に申し訳ありません。直ちに係の者を派遣します。もうしばらくお待ち下さい。」との返事を期待してしまう。が、彼はまったく謝らない。機械が悪い、あるいはお前が操作を間違えたのではないか、いずれにしろこちらに責任はないといった感じ。僕は怒るどころか呆れてしまった。カードは2、3日で取り出せるという(その頃僕はもうシンガポールにいないけど)。僕の口座からお金は引き出されているかと聞かれ、アプリで確認した。いったん引き落とされた金額が返金されている。であれば何も問題はない。終了、お次の方 ~。

 もうカードは諦めるとして、安全のためカードを止めてもらわないといけない。カードにはキャッシュカードの機能に加え、クレジットカードとデビットカードの機能も付いている。僕は日本に電話を掛けた。せめてこの国際電話の費用くらいHSBCに払って欲しいところだが、取り付く島もなく、お願いするのも無駄だろう。

 そこにATMにお金を下ろしに行ったもう1人の女性が戻ってきた。なんと、彼女のカードもATMに吸い込まれたまま出て来ないという。へぇー、こんなトラブルが重なるんだ。店に案内してくれた女性も前に同じ事があったというし、シンガポールでは(いやシンガポールのHSBCでは?)よくある事なのだろう。まったくひどい話だ。

 教訓:海外でATMを使うときは銀行を選ぶこと。地元の大手銀行、シンガポールであればSDB(シンガポール開発銀行)、OCBC(華僑銀行)、UOB(大華銀行)が無難か。支店もATMも多く、何かあったときもHSBCのような外銀より安心だと思う。

 一方、銀行の対応を考えたとき、実際に被害を被った人間としては“お客様は神様です” 的な日本の銀行の方が良いが、生産性というか効率を考えた場合はドライなシンガポールの銀行の方が上だろう。僕はやはり日本のサービスが好きだが、こうした過剰サービス、過剰品質が日本経済低迷の一つの理由になっているのは間違いない。だから残業も増えるのだろう。そう考えると、本当はどちらの方が良いか分からなくなってしまう・・・。

もうシンガポールにB級グルメはない??

2025-08-14 10:46:40 | おいしいもの食べ隊
 おいいしいけど二人で1万円以上か・・・。もう全然B級グルメじゃないな。庶民には(というか日本人には?)たまにしか食べられない高級グルメになってしまった。

 5年ぶりのシンガポール。食べ物が安くておいしいのが気に入り、シンガポールにはよく遊びに行っていた。それがコロナ禍と円安ですっかりご無沙汰に。が、待てど暮らせど円高に戻らないことから、痺れを切らしシンガポールへと旅立った次第。

 食べ物で一番の楽しみは、前回気に入り2日続けて通った煮炒屋台の老舗『国成菜館』。店の場所が100mくらい移り、店は新しく、きれいになっていた。名前も『国成球記餐室』から微妙に変わっている(ただ英語名はKOK SEN RESTAURANTで変わらず)。メニューは英語が併記され分かりやすくなった。以前のメニューは中国語だけで、写真があれば写真、漢字、そして何よりも勘が頼りだった。店がきれいになったこともあり、昔ほど注文や店に入るのに勇気は要らない。

【昔のお店】


 店にはお昼のピークを外して行ったので少し待っただけで座ることが出来た。昼も夜も、いつも行列する人気店なのである。
 僕らは、料理4品 ― ロメインレタスの腐乳を使った炒め物、ヤム・リング(すりつぶしたタロイモ(本来はヤムイモ?)をリング状に揚げ、その中に野菜やエビなどの炒め物を入れたシンガポール料理)、鶏の蝦味噌風味の唐揚げ、大蝦入りのあんかけ河粉(平たいライスヌードル)― と瓶ビール2本を注文。
 料理は変わらずどれもおいしい。特に大蝦入りのあんかけ河粉。前回は河粉ではなく かたやきそばのバージョンを食べたが河粉の方が断然いい。平たい麺があんとよく絡む。






 さて、気になるお会計はというと108.9シンガポールドル(税・サ込み)。実際に両替すると1シンガポールドルは120円前後なので日本円にすると約13,000円。高い!お昼だし、ビールは2本しか飲んでいないのに。いやぁ、もうとてもB級グルメとは言えないな。ちょっとリッチなお食事だ。

 以前「続・シンガポールでB級グルメ!(2015/11/18)」で書いたが、15年くらい前1シンガポールドルは60円台前半だった。それが10年前は80円台半ば。そして今は120円。順調(?)かつ大幅に円安が進んでいる。為替だけで15年前のほぼ2倍。加えて、日本と違いシンガポールは成長を続けているので物価自体上がっているに違いない。これではもう気軽にシンガポールには行けない。日本の政治のていたらく、経済の弱体化を肌で感じたシンガポールだった。

中山教頭の人生テスト(★★☆☆☆)

2025-08-01 15:58:58 | とある田舎のミニシアター
 人生テスト? 果たして中山教頭は合格なのか不合格なのか。これは死ぬときに漸く答えが出るのだろう。それは閻魔様でも、最後の審判でもなく、自分自身で人生を振り返って判断すれば良いのではないか。
 一方、中山教頭の校長試験の結果は映画を観れば分かる(若干曖昧なところはあるが)。人間は誰だって間違いを犯す。子供だって、大人だって、それに先生だって。でも、あの行為は教育者としてどうなのだろう。

 物語は山梨県の小学校が舞台。中山教頭は教員生活30年のベテラン。真面目で人が良さそうであるが、ちょっと頼りない感じで、あまり指導者向きには見えない。が、4年前に妻が亡くなるまでは熱血教師だったというから人は見かけによらない。校長への昇進を目指しているが、日々の忙しさから校長試験の勉強はあまりはかどっていない。教頭といっても中間管理職。先生の管理に加えPTA関係、学校行事、総務、雑用等々、教頭は大忙しなのである。
 そんなある日、ひょんなことから彼は5年1組の臨時担任を務めることになる。モンスターペアレントや近所のクレイマーも怖いが、実は一番怖いのは子供たち。無邪気な顔の裏には・・・。そして中山教頭の奮闘が始まる。

 子供たちの中には家庭の問題を抱えている子もいる。仲間はずれにされている子もいる。劣等感に悩む子もいる。はたからは分からないが、心に闇を抱えている子もいる。
 そんな子の一人に臨時担任となった中山教頭が言う、「先生や大人がこうしなさいっていうことは全部まちがってる」。自分を信じろということだが、ある意味子供を突き放す言葉でもある。
 映画の中で明らかになった子供たちの問題は何一つ解決しない。確かに中山教頭のリーダーシップ、指導力の欠如もあるが、それだけが理由ではない。子供の残酷さ、子供世界のしきたりであったり力関係は、そうそう簡単に変わらないのである。もっとも映画の状況が今の現実であるのなら、僕らの子供の頃より陰湿で逃げ場がなくなっているような気がする。

 中山教頭は、子供たちに進むべき道を示すのではなく、子供たち自らが考え進んで行くことを期待する。自分はそれを後ろから見守るだけ。だって、何が正しく、何が間違っているかなんて分からないのだから。それに自らの選択の結果を、それが良い悪いは別として、引き受けるのも子供たち自身なのである。
 当時熱血教師だった彼は、学校の授業を優先した結果、愛する妻の死に目に会うことが出来なかった。そこで彼は自問する。今まで自分が信じていたこと、正しいとしていたことは、本当に正しかったのか、それで良かったのか、と。答えは出ない。が、そこから彼は子供たちに自分で考え、決断することを望むようになったのであろう。よく言えば自主性を尊重する形だが、要は結果の責任など負えないと考えたからだ。
 うーん、分かる気もするが、なにぶん相手はまだ小学生である。一つに決め打ちする必要はないにしても、いくつかの選択肢を示すくらいはやっても良いだろう。自らの経験、信念を基に子供たちに方向性を示すのが校長の役割だと僕は思う。

カーテンコールの灯(★★★☆☆)

2025-07-22 08:35:15 | とある田舎のミニシアター
 とある事件、悲劇により壊れた家族の関係を、父親が演劇仲間との交流を通じ自分を見つめ直し、修復、再生して行く物語である。
 イケメン俳優や美人女優は出て来ない。巨額の制作費を掛けた大作ではなく独立系の低予算の映画。舞台は美しい自然の中でも、きらめく大都会でもない。アメリカのどこにでもありそうな地方都市が舞台。物語のクライマックスは地元のアマチュア劇団の公演。それも現代劇や前衛劇ではなく古典、シェークスピアの『ロミオとジュリエット』。と聞くと、つまらない映画と思うかもしれないが、見終わって心が温まる、ちょっといい映画である。
 
 建設作業員のダンは妻と娘の三人暮らし。ただ家族を襲った悲劇により家族は崩壊の危機にある。娘は暴力行為で学校を停学となるし、妻との関係もしっくり行かない。ダンは、男は強くあるべき、人に弱さを見せてはいけないと考えるタイプ。二人と距離を置き弱さを見せまいとするが、つい苛立ってしまうことが多い。家族の間に壁ができてしまった。
 そんな彼がひょんなことから地元劇団に参加することになる。最初は乗り気でなかったダンであるが、次第に良い公演を作ろうと心を一つにする劇団員との時間を楽しむようになる。彼は安心できる居場所、逃げ場を見つけたのである。
 『ロミオとジュリエット』の練習を進める中、いくつかの偶然によりダンがロミオを演じることになる。が、クライマックスにあるロミオの自殺が自らに起きた悲劇と重なり、ダンはロミオを演じることが出来ない。それでも舞台の幕は開く…

 脚本が巧い。なぜ『ロミオとジュリエット』か。同じシェークスピアでも『ハムレット』や『マクベス』ではダメだ。『ロミオとジュリエット』とダンやその家族の置かれた状況がオーバーラップするのである。若者の悲恋、自殺、両家の争いと反省等々。
 ダンの家族に起きた悲劇はなかなか明かされない。日本人からすると無理筋とも思える訴訟の話があり、そこで漸く全体像が見えてくる。この悲劇で、表面的には娘が一番衝撃を受けたように見える。自身の感情をコントロール出来なくなる。こんなとき寄り添って欲しい父親は自分と向き合ってくれない。男らしさを信条とする父親ダンは、つらさ、苦しさを表に出すことが出来ず、一人苦しんでいたのである。一方、妻は比較的冷静に受け止めているように見えるが、その思いのほどはよく分からない。

 そんなダンに変化を起こすのが『ロミオとジュリエット』。演劇の力である。自らに起きた悲劇を追体験する。それも自分とは違う人間を演じることで自らを客観的に見られるようになった。このダンの変化がまずは娘との、そして妻との関係を元へと戻して行く。いや、皆で苦難を乗り越えることで、今まで以上に家族の絆が深まるかもしれない。
 いい家族だな。この家族、初めはどうなることかと思ったが、エンディングが良い。世の中っていうか、家族っていうか、まんざら捨てたものじゃないなと、ちょっと元気をもらった映画である。