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縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

リー・ミラー(★★★☆☆)

2025-06-10 13:37:33 | とある田舎のミニシアター
 映画『タイタニック』で有名な女優ケイト・ウィンスレットが、リー・ミラーの才能や生き様に興味を持ち、制作、自ら主演した映画である。
 VOUGE誌などのトップモデルからファッション写真家へ、そして報道写真家へと転身したリー・ミラー。その間には公私ともにパートナーだった写真家マン・レイをはじめ、ピカソやダリなど芸術家との交流もあった。彼女は第二次世界大戦中、従軍記者として戦争の悲惨さ、残酷さを数々の写真に残している。
 この映画は、ファシズムが台頭する1930年代後半から1945年のドイツ降伏まで、報道写真家、特に従軍記者としてフランスやドイツで撮影したリー・ミラーにスポットを当てている。

 舞台は第二次世界大戦中のヨーロッパ。リー・ミラーはアメリカ人であるが、当時イギリスに住んでいた。開戦当初のナチスドイツの勢いは凄まじく、フランスは陥落、イギリスも風前の灯火の状況である。そんな中、リーはVOUGE誌のカメラマンとなり、戦渦のロンドンの状況や軍に従事する女性の写真などを撮るようになる。リーは次第に前線で何が起きているかを撮りたいと思い、従軍記者を希望する。が、当時のイギリスは男性優位の権威的な社会であり、女性は前線に送れないと拒否される。が、そこでめげないのがリー。英軍がダメでも米軍ならと無事従軍記者となり、ついにヨーロッパ上陸を果たす。
 彼女がカメラを向けるのは、女性や子供などの弱者、時代に翻弄された人々、強制収容所の悲惨な状況などである。人が簡単にいなくなり、その行方は分からない。強制収容所で人が無残に殺されていく、人が壊れていく。リーはそれを写真に収めた。これが今ヨーロッパで起きている事実であり、それを皆に知って欲しいと。

 正直、見て楽しい映画ではない。だが、戦争という極限状況の中で何が起きたかを知るには見るべき映画である。ナチスドイツの人を人とも思わない残虐な行為、権威の前に盲従する人々、普通の人でもタガが外れると極端な行動に走ってしまう怖さ、等々。
 この映画は第二次世界大戦前後の話であるが、不思議と今の時代と似ている。ロシアによるウクライナ侵攻やイスラエルによるガザ侵攻といった戦争だけではない。極右、あるいはポピュリズムの台頭もそうだ。人は歴史から何も学ばないのだろうか。そんなことを考えさせられた映画である。

そして、アイヌ(★★★★☆)

2025-05-22 18:09:39 | とある田舎のミニシアター
 この映画は、アイヌの文化を継承し、次の世代へと引き継ぐべく活動されている方々のドキュメンタリーである。

 僕は北海道の出身である。が、アイヌのことに詳しいかというと、そうでもない。正直、身近にアイヌを感じたことがないからだ。アイヌの人たちは、明治以降の同化政策により和人、大和民族として生きることを強いられた。そのため実際にアイヌの人を見るのは白老など観光地に行ったときだけだった。
 アイヌの人たちは、差別や偏見などから自分がアイヌであることを隠している人が多いという。僕のクラスにもアイヌの人がいたかもしれないが、誰も気づかず、皆何も気にせず一緒に過ごしていた。知らないのだから当然そこに差別はない。それはそれで良かったが、一方でアイヌの方の民族としての思いやアイデンティティを考えると、やはり良いとは言えない。
 僕がアイヌへの差別を詳しく知ったのは昨年のこと、『カムイのうた』という映画だった。知里(ちり)幸恵という、大正時代にアイヌの詩(ユーカラ)の和訳を行った女性の映画である。日本でも、アメリカで白人がネイティブ・アメリカンに行ったのと同じようなことがあった。哀しい事実である。

 さて、映画は東京でアイヌ料理店『ハルコロ』を営む宇佐照代さんを中心に描かれている。彼女は“アイヌ文化アドバイザー”としてアイヌの踊りや、ムックリ(口琴)・トンコリなどアイヌに伝わる楽器の紹介を行っている。またアイヌとしての自らの経験を踏まえ、人権問題に関する講演などもされている。祖母や母親から受け継いだアイヌの文化、そして民族の誇りを、自分の娘や娘たちの世代に伝えたいと願い、活動されているのである。
 また、人類学の研究のためと称してアイヌの墓を盗掘し、遺骨を持ち去り今も保管する京都大学などに、遺族への遺骨の返還を求める陳情などもされており、まさに八面六臂の活躍である。

 僕は白老にあるウポポイ(民族共生象徴空間)の国立アイヌ民族博物館に行ったが、今のアイヌの方の生活や思いなど、この映画を見て知ることが多かった。『ゴールデンカムイ』でアイヌに興味をもたれた方には、アイヌの今を知るためにも是非この映画を見て欲しい。といっても、この『そして、アイヌ』は元々上映する映画館が少なく、さらに既に上映が終了した映画館が多く、現状では見るのが難しいだろう。皆さんの声が盛り上がり、上映する映画館が広がることを望みたい。この映画が、日本にも民族問題があることを考えるきっかけになると良い。


ゲッベルス(★★★☆☆)

2025-05-17 14:37:41 | とある田舎のミニシアター
 ドキュメンタリーではないが、希代のプロパガンダの天才ゲッベルスが、ヒトラーのために、いや、おそらくは自分自身のために何をやったかを描いた作品である。
 そして恐ろしいのは、同じようなことが今の世の中でも起きていることだ。意図を持ったフェイクニュース、ポピュリストの耳障りのいい言葉、自身の力を背景に身勝手な言い分を正当化する大国(侵略戦争を起こしたり、それを支援したり、はたまた恐喝まがいに高関税を課したり)等々。「真実は私が決める」というゲッペルスの言葉は今も変わらないようだ。本当に薄ら寒いものを感じてしまう。

 ゲッベルスは、1933年にナチスが政権を握って以降、国民啓蒙・宣伝大臣としてヒトラーを支えてきた。演説、新聞、ラジオ、映画など、あらゆる媒体を通じて国民感情を煽り、ヒトラーの神格化を推し進めてきたのである。彼は目的を達成するためにどのスイッチを入れれば良いかを熟知していた。その目的は戦意高揚であったり、ユダヤ人の大量虐殺であったりした。
 彼に何か信念があったかというとそうは思えない。自らの才能に酔い、権力を愛する、薄っぺらい男。ついでに女好き。担ぐ神輿は必ずしもヒトラーでなくても良かった。ただヒトラーが権力に一番近い存在だったから彼を選んだのであろう。これが20世紀最大の悲劇を引き起こす一つの要因になった。

 映画は第二次世界大戦の開戦前、ナチスによるオーストリア併合から話が始まる。既にナチスが政権を取った後である。個人的にはもう少し前、ナチスが政権を取る過程を知りたかった。当時のドイツは第一次世界大戦の敗戦を踏まえ、世界でも稀な民主的な憲法、ワイマール憲法が制定されていた。そこには20歳以上の男女の普通選挙に基づく議会政治が定められている。つまり、ナチスは暴力や反乱などではなく、ドイツ国民の民主的な手続きにより政権政党になったのである。そこでゲッペルスがどのような活動をしたのか、それを見たかった。二度と同じ過ちを起こさないために。嘘や欺瞞にあふれた世の中だからこそ、それを知ることが必要である。
 映画として面白いかどうかは置いておいて、多くの人が見るべき映画だと思う。

教皇選挙(★★★☆☆)

2025-05-07 14:09:14 | とある田舎のミニシアター
 タイムリーな映画である。今日5月7日からコンクラーベ(ローマ教皇選挙)が行われるのだから。
 
 コンクラーベを巡る人間模様を描いた映画である。陰謀あり、スキャンダルあり、どこかの国の政治家や企業と変わらない派閥争いあり。映画はフィクションであるが、実際のコンクラーベがここまでひどくないことを願わざるを得ない。余計なお世話かもしれないが、ローマ・カトリック教会から抗議されないかと心配になってしまう。

 映画では亡くなった前教皇は改革派。改革の道半ばで亡くなられた。聖職者による子どもへの性的虐待、LGBTQ+、離婚等々、現在カトリック教会が直面する問題は多い。そうした中、コンクラーベを取り仕切ることになったのがローレンス枢機卿。彼は前教皇に近い立場で改革の継続を願っている。一方、新教皇の有力候補には改革に反対する保守派が多い。彼は盟友ベリーニの勝利を望むが、まずは選挙の責任者として公正を重んじる。コンクラーベ開始にあたっての彼の演説では女性の活躍や多様性についても触れていた。これが結末の伏線だったと最後に分かる。

 確か『ゴッドファーザーPART Ⅲ』では、カトリック教会の幹部とマフィアとの癒着が描かれていた。すべてが真実とは思わないが、そうした関係は一部で昔からあったのだと思う。聖職者といえども人間である。中には自らの野望や金に目がくらむ者がいてもおかしくない。映画の教皇候補者も大なり小なり同じである。
 しかし、当初は教皇候補でなかったローレンスとベニデス枢機卿は違う。二人とも信念の方である。また、シスター・アグネスもそう。いつの時代にもこうした信仰心、良心をお持ちの方がいらしたからこそカトリック教会はずっと続いて来たのであろう。

 有力な候補者が次々と脱落し、さらには大きなアクシデントも起きる。そして驚きの結末。新教皇は誰に?果たしてローレンスはどのような決断を下すのか。見てのお楽しみである。

シンシン(★★☆☆☆)

2025-05-03 17:27:26 | とある田舎のミニシアター
 『ライフ・イズ・ビューティフル』を引き合いに出した『ドマーニ(★★★☆☆)(2025.4.10)』の教訓を活かすことなく、「『ショーシャンクの空に』の友情再び!」の宣伝文句に騙され、もとい期待し、見に行ってしまった。♪ 私バカよね おバカさんよね ♪ って、僕のこと??

 アメリカの最高警備レベルの刑務所、『シンシン刑務所』が舞台である。ニューヨークにほど近いことから小説や映画などで名前が出ることがあり、ご存じの方も多いと思う。ここでは1996年よりRTA(Rehabilitation Through the Arts)という芸術を通した更生プログラムが行われている。演劇を通じた意識改革を図ることで再犯率の低下に繋がっているという。この映画は、演劇を共に行い、一つの舞台を創り上げていく中で友情が生まれ、挫折から立ち上がり、生きる意欲を取り戻して行く男たちの物語である。

 こう書くと感動の物語に思えるが、実はそうでもない。まず主人公の悲惨さが伝わってこない。映画で見るシンシン刑務所は案外暮らしやすそうだ。アメリカの刑務所というと、暴力や性虐待は日常茶飯事、ギャンブルや麻薬も当たり前、といったイメージである。が、ここはいたってクリーン(1件恐喝が描かれているだけ)。部屋は個室だし(最高警備レベルだから?)、私物も多い。日本のような刑務作業もなさそうだ。そう、囚人は結構自由に見える。勿論刑務所ゆえ制約は多いと思うが、少なくともがんじがらめ、杓子定規の生活ではない。このためショーシャンクのように、悲惨な状況から漸く逃れ自由が得られたという喜びは感じにくい。またコンゲーム的な要素もない。
 ついでに言えば、主人公は無実の罪で収監されたことになっているが、本人がそう言っているだけで我々にその確証はない。

 ただ驚くべきは、主要キャストの85%以上が実際のシンシン刑務所の受刑者でRTAの卒業生・関係者だということ。主人公こそアカデミー賞にノミネートされた俳優であるが、彼の友人となる凶悪犯など演劇仲間はほぼ全員元受刑者である。皆本人役で出ている。当然演技は自然だし、リアリティ抜群である。管理・運営方法など日本の刑務所との違いは大きいと思うが、日本でもRTAのような取り組みが行われると良い。このRTAを知っただけでもこの映画を見た甲斐があった。

光る川(★★☆☆☆)

2025-04-25 23:10:17 | とある田舎のミニシアター
 大きな川の上流にある山あいの集落を舞台に、まだ幼い男の子が大好きな母のために川を一人で奥へ、奥へと遡り、集落に伝わる哀しい言い伝えと現実が交錯する中、不思議な経験をする物語である。
 川、滝、山など自然の美しさ、静寂、強さ、そして恐ろしさを、CGを一切使わず、実際の映像で描いている。すべて郡上市、山県市、下呂市など岐阜県でロケしたそうだ。この映画は、映像の美しさだけでハマる人にはハマると思うが、残念ながら僕にはあまり響かなかった。ところどころ脚本に無理がある気がしてしまったもので。

 まずは紙芝居の内容。これが小学生(それも低学年主体?)相手にお金を取ってする話だろうか。集落に住む娘と、山を渡り歩く木地屋(山から山へと渡り歩き、山の木を切ってはろくろでお椀などを作っている人たち)の青年との悲恋である。生活習慣や風習の違い、今でいう多様性を知るのは早いに超したことはない。が、青年は泣く泣く娘を諦めて次の山へと去って行き、それを知った娘が入水自殺する話である。この話が映画の柱となっているが、小学生にはちょっとハードではないだろうか。紙芝居ならもっと無邪気に楽しめる話が良い。これでは親からクレームが来そうだ。
 次に川を遡る男の子が、でこぼこで滑りそうな道を、ときに斜面や水の中もあるが、手に持ったお椀の水をこぼさないで歩くこと。そんなの僕でも無理だ。絶対水をこぼしてしまう。
 そして、ほかにも・・・・。

 木地屋の存在自体この映画で初めて知ったし、木に依存するがゆえに木を敬う彼らの生活習慣、風習も僕には新鮮だった。彼らにとって自然は開発や克服の対象などではなく、力を借りるもの、共に生きていくものなのである。この映画からは、森林伐採が洪水に繋がるなど、自らの利益、それも短期的な利益のために自然を利用してはいけないというメッセ-ジが感じられた。
 もっとも、美しく神秘的な自然の映像といい、悲恋の言い伝えに起きる変化といい、心に余裕のない僕のような人間にはあまり響かなかった。この映画を見て素直に感動できるやさしい人間に僕はなりたい。

ドマーニ(★★★☆☆)

2025-04-10 11:13:24 | とある田舎のミニシアター
 最後の最後に意外な落ち。でも座布団一枚とまでは行かないかな。イタリアの戦後を垣間見るには良かったけど。

 物語の舞台は第二次世界大戦後のローマ。まだまだ庶民の生活は厳しい。主人公のデリアは、夫と3人の子供、それに寝たきりの義父と半地下のアパートで暮らしている。夫イヴァーノはDV夫。たいした稼ぎも良くないのにいばりちらし、ことある毎にデリアに手を上げる。人格を否定する発言もいつものこと。
 デリアに何か問題があるかというと決してそんなことはない。デリアは家事や義父の介護をきっちりこなし、そのうえいくつもの仕事をかけもちして家計を助けている。彼女なしにこの家族は成り立たないのである。本当にいつ気が狂ってもおかしくない状況のデリア。そんな彼女の心の支えは、信頼する女友達マリーザと昔から彼女に思いを寄せる自動車工ニーノの存在。ただニーノは近々ローマを離れると言う。どうも自分に付いてきて欲しいようだ。
 一方、年頃の娘マルチェッラが金持ちの息子と結婚間近となり、デリアは大きな期待を寄せている。娘には自分のような人生を送って欲しくない。
 そんなデリアに手紙が届く。彼女宛の手紙など滅多にないこと。この手紙はデリアの明日を、人生を変えるかもしれない。

 イタリアの女性、特にマンマ(お母ちゃん!)には強いイメージがある。が、この映画を見る限り、当時のイタリアは男尊女卑の極み。イタリアはカトリックの国であり昔は離婚できなかった。デリアのような女性はただ耐えるしかなったのだろう。デリアでなくとも娘のマルチェッラには母と違う人生を歩んで欲しいと思う。明日に希望を持てる生活を。

 この映画はよく計算されている。明日への希望に向け(因みに題名のドマーニはイタリア語で明日という意味)、幾多のアクシデントに見舞われながらも一直線に進んでいく。手に汗握るとまでは言わないが、それなりにドキドキもする。思わせぶりな伏線も用意されている。ただイタリアの事情が分からない僕にしてみると、最後の落ちはちょっと弱い。若干拍子抜け。
 もっとも見終わって悪い感じはないし、デリアのこれからを応援したい気持ちでいっぱいである。が、しかし、あの『ライフ・イズ・ビューティフル』の興行収入を上回った映画との宣伝文句に騙された感は残る。有名人の知り合いと語る人間を信用してはいけないように、名作映画を引き合いに出す宣伝の多くは眉唾かもしれない。注意しないと。

エミリア・ペレス(★★★☆☆)

2025-04-04 18:08:45 | とある田舎のミニシアター
 荒唐無稽というかマンガみたいなストーリーである。突っ込みどころ満載。まあ一言で言えば、家族愛の物語である。ただこの“家族愛”はちょっと複雑。本当は夫であり子どもたちの父親であるのに名乗ることのできない主人公。なぜなら彼は性別適合手術により女性へと生まれ変わったから。

 舞台はメキシコ。メキシコ最大の麻薬カルテルのボス、マニタスは実はトランスジェンダー。身体的には男性であるが心は女性。しかし、彼は生き延びるため、暴力を厭わずマッチョに生きてきた。結婚し子どもも2人いる。が、彼は自らの性自認を偽って生きることに疲れてしまった。ついに彼は見ず知らずの土地で女性として一人静かに生きることを選ぶ。

 その手助けをし、彼に新たな人生を用意すべく雇われたのが女性弁護士のリタ。有能な若い弁護士であるが、金のためなら犯罪者でも無罪にすべしという事務所で働いている。彼女は心身ともに疲れ自分を見失いそうになり、やはり現実からの脱出を夢見ていた。そんな彼女の大活躍により(一介の若手弁護士にこれだけのことが出来るのかという疑問はさておき)、マニタスは新しい人生を手に入れた。多額の報酬を得たリタもイギリスに移住し、新たな生活をスタートさせた。

 そして数年後、女性となったマニタス、“エミリア・ペレス”が突然リタの前に現れる。エミリアは、自分の妻と子どもたちとメキシコで一緒に暮らすことを熱望していた。勿論自分がマニタスであることは明かせない。そのため事情を知るリタの協力が不可欠なのであった。乗りかかった船とリタはエミリアの手助けをする。秘密を共有する二人は仕事でも重要なパートナーとなり、さらには女性同士というより一個の人間として互いの友情、信頼を深めて行く。
 一方、マニタスの妻は、エミリアをマニタスのいとこと聞かされており、子どもたちに異常な愛情を注ぐエミリアに次第に不審を抱く。加えて、かごの鳥のような生活に耐えられなくなった妻はエミリアのもとを去ることを決意する。そこに妻のボーイフレンドのチンピラも加わり、事態は意外な展開を見せる。

 ところで、この映画はミュージカルである。メキシコが舞台のため映画で話されるのはスペイン語。よって歌もスペイン語である。歌詞が英語であっても僕は満足に聞き取れないがスペイン語だと諦めが付く。歌詞よりも俳優の表情や踊り、歌のリズムを楽しんだ。特にリタを演じるゾーイ・サルタナ(祝・アカデミー助演女優賞!)が良い。彼女はドミニカ系アメリカ人であり母国語はスペイン語、また元々ダンサーである。彼女の躍動感のある踊りが良かった。リタを演じるのにうってつけの女優である。

 この映画はフランス映画であり、ハリウッド的なハッピーエンドでは終わらない。物語としては悲劇である。しかし、エミリア・ペレス、いやマニタスは、女性として生まれ変わったことを後悔していない。エミリアになった彼は本当に生き生きしていた。が、真実を明かさない限り、すべて元通りとは行かない。それが哀しい結末を招いてしまう。

 残念ながらこの映画は、映画そのものではなく、何かとそれ以外のところで話題が多かった(アカデミー賞絡みのあら探し??)。しかし、そんな雑音を気にする必要はない。純粋に映画を楽しもう。歌あり踊りあり、そして怒濤のストーリー展開。若干無理があるなと思いながらも話に引き込まれ、あっという間に2時間が過ぎてしまうに違いない。

愛を耕すひと(★★★☆☆)

2025-03-15 14:04:30 | とある田舎のミニシアター
 愛を知らない孤独な男が、荒野の開拓を通じ愛に気づき、愛を知る物語である。
 主人公のケーレンは、自分を認めなかった父親を見返してやりたい、世の中に自分の価値を証明したいとの思いだけで生きてきた。何事にも厳格な性格。そんな彼が、自分のように寂しい女性や見捨てられた少女と家族のように暮らし、共に苦労し、共に喜び、やがて夫としての、そして父親としての愛を知るのである。

 物語の舞台は18世紀デンマーク。退役軍人のケーレン大尉は、誰もがなし得なかった荒野の開拓に名乗りを上げる。成功の報酬は貴族の称号。役人達は はなから無理と何の期待もしていないが、開拓を望む国王へのポーズになると彼の申し出を認めた。少ない資金で人手を集め開拓を始めるケーレンであったが、地元有力者デ・シンゲルの執拗な妨害にあい、たった一人になってしまう。そこに逃亡した使用人の女性アン・バーバラとタタール人(ロマ?)少女アンマイ・ムスが加わり、はぐれもの同士の共同生活が始まった。

 デンマーク ユトランド半島の荒地はヒースと呼ばれる。あの『嵐が丘』の舞台、北イングランドのヒースと同じ平坦な荒地。薄い表土と砂でできており耕作にも牧畜にも適さない土地である。おまけに冷涼な気候。そんな不毛の土地であるが、ケーレンの不屈の闘志により漸く一筋の光が見えた。が、そこにデ・シンゲルの魔の手が。小物ゆえにケーレンの自信におびえ、狂信的な行動に出るデ・シンゲル。もはやこれまでと思ったところで、物語は意外な方向へと展開する。

 映画の原題 “Bastarden” はデンマーク語で “私生児” という意味。ケーレンは私生児だったのである。貴族の使用人であったケーレンの母に、その家の主人が手を付け、生まれたのがケーレン。だが主人はケーレンを自らの子どもとは認めなかった。それどころか名誉の戦死でもしてくれればとケーレンを軍隊に送り込む始末。が、ケーレンは努力と忍耐により、家柄や学歴がないにも拘わらず大尉まで上り詰めたのであった。父親を見返したいとの一心で耐え忍んで生きてきたのであろう。

 最後にケーレンが人生の唯一の目標としてきたことが実現する。しかし、そこでケーレンは自問する。それに何の意味があるのか。自分は恨みや憎しみを生きる原動力として来たが、これから先もそれで良いのだろうか。そして、ついにケーレンは決断を下す。はたから見ると、それが正解かどうかは分からない。が、ケーレンには何の迷いもない。

ノー・アザー・ランド(★★☆☆☆)

2025-03-09 14:35:42 | とある田舎のミニシアター
 面白いかどうかは別として、今のパレスチナの状況を知るのに良い映画である。

 この映画はガザでの戦争が始まる前に撮られたドキュメンタリー。場所もガザではなく、ヨルダン川西岸地区が舞台である。この地で生まれ育ったパレスチナ人のバゼルは、イスラエル軍やユダヤ人入植者の理不尽で残酷な行為の数々をカメラに収め、それを世界に発信してきた。イスラエルによる占領の終結を世界に訴えるために。そんな彼に協力するイスラエル人ジャーナリストのユーバール。民族も宗教も違う2人の繋がりに、先の見えないパレスチナにおける一筋の光を感じる。

 イスラエル軍により破壊されるパレスチナ人の家。住民が苦労して建設した小学校まで壊されてしまう。法に基づく強制執行というが、それはイスラエルによるイスラエルのための法律。裁判所はパレスチナ人のことなど顧みはしない。反抗する者は容赦なく逮捕される。
 ユダヤ人入植者もタチが悪い。武器を持たず、ただ抗議するだけのパレスチナ人に銃口を向け、しまいには発砲する。
 パレスチナに正義はないのだろうか。

 もっともこれはパレスチナの側から見た物語である。イスラエルにしてみると、パレスチナやアラブ、あるいはユダヤ人を蔑視し迫害してきた人類全体への怒りや恐怖が、斯かる行動に駆り立てるだけかもしれない。実際、ハマスの中にはイスラエル人の殲滅や隷属化を目標とする者が多いらしい。今回の戦争のきっかけが、民間人千人以上を殺害し、数百人を人質にしたハマスのイスラエルへの越境攻撃だったことを見ても分かる。
 が、だからといって、パレスチナにおけるイスラエルの残酷な行為が許されるとは思わない。怒りは怒りしか生まない。どこかで怒りの連鎖を断ち切らない限り、前には進めない。バゼルとユーバールの友情の輪が、二つの民族の中で少しずつ広がっていくことを願わざるを得ない。

 以前パレスチナ問題をブログに書いたことがある(「パレスチナ問題は土地問題(2006/3/23)」)。残念ながら、そのときから状況は何も変わっていない。

お引越し(★★★☆☆)

2025-02-17 08:31:22 | とある田舎のミニシアター
 いやぁ~、田畑智子がすごい。走るわ走る…。勿論、演技も素晴らしい。表情がいい。わずか12歳にして、それもデビュー作でいきなり主演である。相米監督自らオーディションに参加するよう誘ったというから、主人公レンコのイメージ通りの女の子だったに違いない。

 物語は、少女が一夏の経験を経て一歩大人へと成長する話である。大人は勝手だというが、子どもはやっぱり自分が一番。別居し、離婚目前の両親をなんとか仲直りさせようと奮闘するが、どれもうまく行かない。父と母の気持ちは既に修復しがたい状態だった。子どもにしてみると両親は仲が良く家族皆一緒にいるのが当たり前。離婚なんかとんでもない。レンコには両親が自分の父と母である以前に男と女であることなどまだ分からない。それが、家族で旅行した思い出の琵琶湖で不思議な経験(夢?)をし、理由は分からないままだと思うが、両親の離婚を受け入れる気持ちへと変わって行く。「おめでとうございま~す。」と、2人の、そして自分の新たな門出だと考えられるようになった。

 本作は1993年の作品の4Kリマスター版である。30年以上前の映画であり、自動車、電話、家電、服装、髪型等々、時代を感じる所が多い。懐かしい。が、それ以上に俳優の昔を見ることができおもしろかった。
 朝ドラ女優となり今も活躍する田畑智子が子役。父親役は中井貴一であるが、とにかく若い。彼がこんな薄っぺらい男の役が合うとは思っても見なかった。レンコの担任の先生は笑福亭鶴瓶。当時は40代前半、今よりはふてぶてしくない。
 そして母親役は桜田淳子。今のところ彼女の最後の映画出演である。歌は知っているが、彼女の演技はほとんど見たことがなかった。思いのほか上手い。芸能活動を続けていれば いしだあゆみのように女優としても活躍できたであろうに残念だ。
 映画の楽しみ方としては邪道かもしれないが、古い映画ってこうした発見もあっておもしろい。

ドリーミン・ワイルド(★★★☆☆)

2025-02-15 14:10:11 | とある田舎のミニシアター
 家族の愛情と再生の物語である。「信じる者は救われる」ではないが、互いを信じ、支え合う家族に幸せな偶然、幸運が訪れる。映画はアメリカの兄弟デュオ、ドニー&ジョー・エマーソンの数奇なアルバム“Dreamin’ Wild”を巡る実話が基。が、音楽映画というより心温まるヒューマン・ストーリーである。

 舞台はアメリカ北西部ワシントン州の片田舎。1,600エーカーもある広大な農場を営む家族の話。父親が買ったトラクターのラジオから流れる音楽を夢中で聴いた十代の兄弟。才能に恵まれた弟ドニーは、独学でギター、ピアノ等の演奏をマスターし、やがて曲まで作るようになる。兄のジョーはドラムをたたき、ドニーと一緒に演奏した。2人の音楽に熱中する姿を見た父親は、自ら練習場を作って応援する。しまいには立派な機材を購入し、レコーディング・スタジオまで作った。そこで録音されたのが “Dreamin’ Wild”。もっとも田舎の農家だからレコードの流通など何も分からない。ご近所さんに売るのが関の山。彼らの音楽が世間に知られることはなかった。残ったのは借金だけ。農場の大部分を売却する羽目になる。
 そこから30年、奇跡が起こる。偶然アンティーク・ショップで “Dreamin’ Wild”を買い、その音楽に感動した人間がブログで彼らの音楽を紹介。そこからじわじわっと人気が拡がり、ついには “Dreamin’ Wild”がレコード会社から再リリースされることになった。素直に喜ぶジョーと両親。ただ1人、戸惑うドニー。
 実はジョーは音楽から足を洗い、両親の農場の仕事を引き継いでいた。一方、ドニーは音楽活動を続けていたものの、ずっと鳴かず飛ばす。あのときは見向きもされなかったのに何故今認められたのか。十代の頃と同じようには歌えない。そこからの進化を見せなくてはいけない。そして、金銭的に大きな負担をかけてしまった両親に何か埋め合わせはできるだろうか。そう、ドニーは父親にずっと負い目を感じていたのである。焦り、苛立つドニーだった。そして、ジョーに暴言を吐いてしまう…。

 ドニーは家族の深い愛情を知り、過去と向き合い、前に進むことができた。詳しくは映画を見てのお楽しみ。

 このエマーソン・ファミリーって本当に素晴しい家族だ。最近の流行で言えば “利他” の極み。ブレない信念と愛情。でも、ドニーのように才能のある人間なら良いが、僕のような特段取り柄のない人間だと却って重荷に感じてしまうに違いない。生まれ育ったのがさほど立派な家でなくて良かった! ほっ。

敵(★★★☆☆)

2025-02-11 18:43:05 | とある田舎のミニシアター
 “老い” の物語である。妄想(あるいは夢?)と現実が交錯し、何が事実で何が虚構かあやふやになる。長塚京三演じる77歳の元大学教授が創る世界に見る側も混乱する。
 この映画は、きっちりした起承転結がないと嫌な人やハッピーエンドを期待する人にはお勧めできない。監督は何を言いたいのか、あのシーンの意味は?等、あれこれ考えるのが好きな人向きの映画である。

 主人公の元大学教授 渡辺は、妻に先立たれて20年一人暮らし。かといって家が散らかることもなく、炊事、洗濯、掃除はお手のもの、日々整然と暮らしている。社会から孤立もしていない。友人もいれば、未だ訪ねて来る教え子もいる。出版社とのつきあいもあるし、時折講演することもある。フランス文学の大御所なのである。日々の収支と預貯金から、あと何年お金が持つか、生きられるかを計算し、その時点で死ねば良いと考えている。大学教授らしい理性の人だ。
 が、そこに突然“敵”がやって来る。

 ところで、この映画には食事のシーンが多い。渡辺が一人で食事を作り黙々と食べる。外食ではなく、また総菜を買ってきて済ませるのでもない。それなりに拘って料理する。コーヒーも手動のコーヒーミルで豆を挽き丁寧に淹れる。食欲については貪欲というか、抑えてはいない。
 では、同じ欲求でも性欲はどうか。理性の人である渡辺は、女性に対する思いをずっと抑えて来た。女性に対しては真面目というか、奥手だった。教授時代、お気に入りの教え子と食事に行くことはあっても、その先に進むことはなかった。どうも亡くなった妻との関係も淡泊だったようだ。そしてその反動が、年老いて何かのタガが外れ(ボケではないと思う)、妄想として出て来るようになった。そう、彼の妄想は性と係わるものが多い(もっとも嫌らしいというより滑稽なものが多いのでご安心を)。性欲というか、女性への思いを抑圧して来た結果、いびつな形での妄想になったのだろう。

 しかし、妄想で渡辺の理性が崩壊することはない。バーで出会った女性にお金を騙し取られることはあったが(これは妄想ではなくリアルだと思う)、それで路頭に迷うことはない。信じたくないものの事実として受け止めている。ただ、彼は妄想と現実の区別がだんだんつかなくなったのではないだろうか。そのために遺言を書き直したのだと思う。
 勿論、彼は“敵”に殺されるわけではない。“敵”は彼の妄想が創ったのだから当然である。“老い” による妄想、それにボケや認知症、これは皆に起きるとは限らない。一種賭けのようなものだろうか。その賭けに当たらないことを願うが、渡辺を見ていると彼は彼なりに楽しかったのかもしれない。大変なのは周りの人間か。

型破りな教室(★★★★☆)

2025-02-07 14:58:57 | とある田舎のミニシアター
 夢を諦めてはいけない。自ら可能性を狭めてはいけない。
 その大切さを改めて感じさせてくれた良い映画だった。実話だというのも驚きだ。

 筋としては割とありきたり。落ちこぼればかりの学校に赴任した熱血教師が子どもたちに大きな変化をもたらし、成績を国内トップクラスへと向上させるというもの。これだけ聞くと「あー、よくあるパターンね。」とあまり見る気が起きないかもしれない。
 が、この映画には他と違う面白さがある。

 まずは舞台というかシチュエーション。メキシコ映画であるが、首都のメキシコシティではなく、アメリカ国境近くのマタモロスという町が舞台。麻薬絡みの犯罪が多く、殺人も日常のようだ。
 次に子どもたちの才能。数学の天才がいたり(因みに1から100まで足すといくつになるか瞬時に計算できますか?)、小学校6年生にも拘わらず哲学に目覚める子がいたり(メキシコはカトリックが多いが、その子が市の役人の前で中絶について語るのは面白かった)。また子どもたちの演技がとても自然で良かった。
 そして熱血教師の悩み、人間らしさ。前の学校で挫折を経験したが、自らの理想を追い求めることを諦めない。新しい学校で、指導要領なんか無視し、子どもたち自らが疑問を持ち、考え、答えを探して行く、そんな教育をしたい。教師はただ子どもたちにきっかけを与えるだけ。教師は、そして親や貧しさなどの家庭環境も、子どもたちの可能性を閉ざしてはいけない。
 しかし、熱血教師も自らの行動に自信を持てず悩むことも。そんな彼を上手に導く校長先生が良かった。最初は権威主義の嫌なやつかと思ったが、とってもステキな人物だった。まさに理想の上司である。

 大人になるということは、これはダメ、あれはできないと、自らの可能性を切り捨てて行くことかもしれない。でも中年の熱血教師を見ていると、自分にもまだ出来ることがあるのではと思えた。年齢などは関係ない。この映画は子どもや若者だけでなく、悩める中高年にも見て欲しい映画だ。
 映画館を出た僕は、心なしか、いつもより力強く、しっかりと歩いていた。