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縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

私たちが光と想うすべて(★★☆☆☆)

2025-08-25 13:02:02 | とある田舎のミニシアター
 日本経済新聞で「現代インドの光と影、鮮烈に描く」、「インド映画の新たな傑作」と大絶賛されており(因みに評点は★★★★★)、見逃してなるものかと観に行くことにした。が、僕の感性の問題だろうか、残念ながらそこまでは感動しなかったが・・・。

 大都会ムンバイで暮らす3人の女性の物語。早ければ今年にでもGDPで日本を抜くと言われるインド。日本の高度成長期を思わせるエネルギーを感じる。が、皆が豊かになったわけではない。貧しい者も多い。昔からのしきたりもあり、特に女性にとっては窮屈な社会でもある。

 ムンバイの病院で働くプラバは、親の決めた男性と、相手のことをよく知らぬまま結婚した。夫は結婚早々ドイツへ出稼ぎに行ったきり帰って来ない。最近は連絡も途絶えがちだ。今は同僚のアヌとルームシェアをして暮らしている。2人は仲が良いわけではない。年も離れているし(プラバの方が上)、真面目なプラバに対し陽気なアヌ。が、共に田舎から都会に出てきた2人、互いに依存している。
 アヌは親から執拗に見合い結婚を勧められているが、実はイスラム教徒の恋人がいる。ヒンズー教徒がイスラム教徒と結婚するのはタブー(ときに結婚をめぐり殺人事件が発生することさえあるらしい)。アヌの周りでは彼女の危険な恋愛が噂になっている。
 3人目はプラバの友人パルヴァティ。プラバやアヌの働く病院の食堂で働いている。夫に先立たれ一人暮らし。長年暮らしたアパートを、高層ビル建設のために立ち退きを迫られている。
 そう、3人ともそれぞれ問題を抱えながら生きているのである。

 パルヴァティは、プラバの紹介で弁護士に相談するが、結局アパートを退去するはめになる。彼女はムンバイでの生活を諦め、田舎に帰ることにした。海辺の何もない村である。プラバとアヌは、お別れと引越しの手伝いのため、パルヴァティと一緒に彼女の田舎へと向かった。その田舎で3人とも新しい生活のきっかけを掴むことになる。

 話の筋はざっとこんな感じ。生きづらい世の中で互いに認めあい、支え合って生きて行こうとする女性たちの物語である。インド映画によくある “いきなり歌って踊って” はなく、ちょっと寂しい。バックの音楽もインド音楽ではなく西洋音楽。全体に抑制の利いた、洗練された映画である。そうか、フランス、インド、オランダ、ルクセンブルクの合作映画なんだ。インドが舞台で、監督はインド人であるが、純粋なインド映画ではなかったのである。

 題名『私たちが光と想うすべて(All We Imagine as Light)』は、”私” ではなく、”私たち” であるのがミソなのだろう。同じような環境で生活していても、友人やパートナーと同じ夢や希望を持つことはできないかもしれない。でも、わかり合うことはできる。だからこそ人は生きて行ける。ラストシーン、暗い闇の中に浮かぶ店の灯を見て、そんなメッセージを感じた。

中山教頭の人生テスト(★★☆☆☆)

2025-08-01 15:58:58 | とある田舎のミニシアター
 人生テスト? 果たして中山教頭は合格なのか不合格なのか。これは死ぬときに漸く答えが出るのだろう。それは閻魔様でも、最後の審判でもなく、自分自身で人生を振り返って判断すれば良いのではないか。
 一方、中山教頭の校長試験の結果は映画を観れば分かる(若干曖昧なところはあるが)。人間は誰だって間違いを犯す。子供だって、大人だって、それに先生だって。でも、あの行為は教育者としてどうなのだろう。

 物語は山梨県の小学校が舞台。中山教頭は教員生活30年のベテラン。真面目で人が良さそうであるが、ちょっと頼りない感じで、あまり指導者向きには見えない。が、4年前に妻が亡くなるまでは熱血教師だったというから人は見かけによらない。校長への昇進を目指しているが、日々の忙しさから校長試験の勉強はあまりはかどっていない。教頭といっても中間管理職。先生の管理に加えPTA関係、学校行事、総務、雑用等々、教頭は大忙しなのである。
 そんなある日、ひょんなことから彼は5年1組の臨時担任を務めることになる。モンスターペアレントや近所のクレイマーも怖いが、実は一番怖いのは子供たち。無邪気な顔の裏には・・・。そして中山教頭の奮闘が始まる。

 子供たちの中には家庭の問題を抱えている子もいる。仲間はずれにされている子もいる。劣等感に悩む子もいる。はたからは分からないが、心に闇を抱えている子もいる。
 そんな子の一人に臨時担任となった中山教頭が言う、「先生や大人がこうしなさいっていうことは全部まちがってる」。自分を信じろということだが、ある意味子供を突き放す言葉でもある。
 映画の中で明らかになった子供たちの問題は何一つ解決しない。確かに中山教頭のリーダーシップ、指導力の欠如もあるが、それだけが理由ではない。子供の残酷さ、子供世界のしきたりであったり力関係は、そうそう簡単に変わらないのである。もっとも映画の状況が今の現実であるのなら、僕らの子供の頃より陰湿で逃げ場がなくなっているような気がする。

 中山教頭は、子供たちに進むべき道を示すのではなく、子供たち自らが考え進んで行くことを期待する。自分はそれを後ろから見守るだけ。だって、何が正しく、何が間違っているかなんて分からないのだから。それに自らの選択の結果を、それが良い悪いは別として、引き受けるのも子供たち自身なのである。
 当時熱血教師だった彼は、学校の授業を優先した結果、愛する妻の死に目に会うことが出来なかった。そこで彼は自問する。今まで自分が信じていたこと、正しいとしていたことは、本当に正しかったのか、それで良かったのか、と。答えは出ない。が、そこから彼は子供たちに自分で考え、決断することを望むようになったのであろう。よく言えば自主性を尊重する形だが、要は結果の責任など負えないと考えたからだ。
 うーん、分かる気もするが、なにぶん相手はまだ小学生である。一つに決め打ちする必要はないにしても、いくつかの選択肢を示すくらいはやっても良いだろう。自らの経験、信念を基に子供たちに方向性を示すのが校長の役割だと僕は思う。

カーテンコールの灯(★★★☆☆)

2025-07-22 08:35:15 | とある田舎のミニシアター
 とある事件、悲劇により壊れた家族の関係を、父親が演劇仲間との交流を通じ自分を見つめ直し、修復、再生して行く物語である。
 イケメン俳優や美人女優は出て来ない。巨額の制作費を掛けた大作ではなく独立系の低予算の映画。舞台は美しい自然の中でも、きらめく大都会でもない。アメリカのどこにでもありそうな地方都市が舞台。物語のクライマックスは地元のアマチュア劇団の公演。それも現代劇や前衛劇ではなく古典、シェークスピアの『ロミオとジュリエット』。と聞くと、つまらない映画と思うかもしれないが、見終わって心が温まる、ちょっといい映画である。
 
 建設作業員のダンは妻と娘の三人暮らし。ただ家族を襲った悲劇により家族は崩壊の危機にある。娘は暴力行為で学校を停学となるし、妻との関係もしっくり行かない。ダンは、男は強くあるべき、人に弱さを見せてはいけないと考えるタイプ。二人と距離を置き弱さを見せまいとするが、つい苛立ってしまうことが多い。家族の間に壁ができてしまった。
 そんな彼がひょんなことから地元劇団に参加することになる。最初は乗り気でなかったダンであるが、次第に良い公演を作ろうと心を一つにする劇団員との時間を楽しむようになる。彼は安心できる居場所、逃げ場を見つけたのである。
 『ロミオとジュリエット』の練習を進める中、いくつかの偶然によりダンがロミオを演じることになる。が、クライマックスにあるロミオの自殺が自らに起きた悲劇と重なり、ダンはロミオを演じることが出来ない。それでも舞台の幕は開く…

 脚本が巧い。なぜ『ロミオとジュリエット』か。同じシェークスピアでも『ハムレット』や『マクベス』ではダメだ。『ロミオとジュリエット』とダンやその家族の置かれた状況がオーバーラップするのである。若者の悲恋、自殺、両家の争いと反省等々。
 ダンの家族に起きた悲劇はなかなか明かされない。日本人からすると無理筋とも思える訴訟の話があり、そこで漸く全体像が見えてくる。この悲劇で、表面的には娘が一番衝撃を受けたように見える。自身の感情をコントロール出来なくなる。こんなとき寄り添って欲しい父親は自分と向き合ってくれない。男らしさを信条とする父親ダンは、つらさ、苦しさを表に出すことが出来ず、一人苦しんでいたのである。一方、妻は比較的冷静に受け止めているように見えるが、その思いのほどはよく分からない。

 そんなダンに変化を起こすのが『ロミオとジュリエット』。演劇の力である。自らに起きた悲劇を追体験する。それも自分とは違う人間を演じることで自らを客観的に見られるようになった。このダンの変化がまずは娘との、そして妻との関係を元へと戻して行く。いや、皆で苦難を乗り越えることで、今まで以上に家族の絆が深まるかもしれない。
 いい家族だな。この家族、初めはどうなることかと思ったが、エンディングが良い。世の中っていうか、家族っていうか、まんざら捨てたものじゃないなと、ちょっと元気をもらった映画である。

それでも私は(★★★☆☆)

2025-07-20 15:54:59 | とある田舎のミニシアター
 哀しい映画である。同時に考えさせられる映画だった。
 加害者の家族は、その妻、子ども、あるいは両親は、肉親の犯罪にどれだけ責任があるのだろうか。どこまで責められないといけないのだろうか。

 この映画は、オウム真理教の教祖、麻原彰晃こと松本智津夫の三女、松本麗華(りか)の現在を描くドキュメンタリーである。
 平成以降に生まれた方にはオウム真理教といってもピンと来ないだろう。1995年、死者14人、負傷者6千人以上に及ぶ地下鉄サリン事件を起こした宗教団体である。不特定多数を狙った無差別テロ事件は日本中を恐怖に陥れた。事件当初からオウムが怪しいと見られていたものの証拠が見つからない。松本智津夫ら関係者が逮捕されるまでに1ヵ月半近く掛かった。その間、テレビのワイドショーはオウムの話題で持ちきり。松本麗華は当時まだ12歳であったものの“アーチャリー”の別名(ホーリーネーム)を持ち、マスコミからは教祖の後継者の一人と目されていた。

 12歳の子どもが事件に関与するはずもないが、世間は麗華をオウムの中枢の人間だと考えた。このため事件後彼女は通学拒否や転入反対運動に遭い、小学校にも中学校にも通えなかったという。通信制高校を経て大学を受験するも、身元が知れた途端、多くの大学で入学を拒否された。バイトを辞めさせられたこともある。また反社会的勢力の一員と見られ、銀行口座を作ることも出来ない。海外で入国を拒否されたこともある。
 今現在、麗華とオウムとの関係は切れているように見えるが、国はそうは考えていない。事なかれ主義というか、くさい物には蓋的な役人らしい対応である。もっとも麗華が袂を分かった母親と弟(次男)が、オウムの後継団体の1つであるアレフと密接な関係にあることが、国の麗華への対応を難しくしている面もあるのだろう。

 麗華の当時のオウムでの立ち位置、そして現在のオウムとの関係は、外部の人間にはよく解らない。それにサリンやその他のオウム関連事件の被害者やその家族の方の心情、苦難を忘れてはいけない。が、それにしても麗華が、ただ麻原彰晃の娘だからという理由だけで、ここまでの試練を負う必要があるのだろうか。彼女は自殺未遂を何度も起こし、今でも死にたいと思うときがあるという。PTSD、鬱である。彼女が幸せを、いや、ごく普通の生活を求めてはいけないのだろうか。それを誰にも止める権利はないと僕は思う。
 せめてもの救いは、麗華が今前を見て生きているということ。自らの経験を活かし(ここまで壮絶な経験をした人はいないと思うが)、生きづらさを感じている人へのカウンセリングを行い、講演活動も行っているという。手記も出されていた。
 多くの人がこの映画を観て、犯罪の加害者家族への対応はどうあるべきか、何が正しいのかを考えてくれると良い。

ルノワール(★★★☆☆)

2025-07-02 16:25:25 | とある田舎のミニシアター
 思春期の女の子フキが主人公。彼女は自由で好奇心旺盛、無邪気であるがときに意地悪。大人の哀しさや生きづらさ、それに怖さはまだよく解らないが、否応なしに触れることになる夏。彼女は少し大人になった。
 ハリウッド映画によくあるハッピーエンドや、映画にストーリーを求める人には向かない映画である。映画には、ただ小学5年生のフキの一夏の経験が綴られているのみ。さすがにありふれた日常とは言わないが、多かれ少なかれ誰もが似たような経験はあるだろう。
 映画を観て何を感じ、何を考えるかは映画を観た貴方に委ねられている。カンヌ映画祭に出品するためフランス映画を意識した作りなのかもしれない。

 舞台は1980年代終わりの地方都市。フキは両親との3人暮らし。父親は末期のガンで入院中。管理職に成り立ての母親は、仕事や家事・子育てに加え看病に追われる日々。2人とも日々必死で心に余裕がない。一方フキはというと、超能力に夢中になったり、自分の葬式やみなしごになったことを想像して作文を書くなど自由奔放。そう、まだ子供なのである。
 そんなフキが、同じマンションに住む若い女性の心の闇を聞き、裕福な友達の家庭の秘密を知り、母親の心の弱さを見る。本人も伝言ダイヤルで危険な目に遭ってしまう。そして父親が亡くなる。フキが物事をどこまで理解しているか、受け止めているのかは分からない。が、解らないなりに多くの経験をしたフキは、どこか吹っ切れたように見える。

 ところで、題名の“ルノワール”といえば印象派を代表する画家である。その“印象派”の特徴と言えば、まさしく印象、つまり、そのとき、その瞬間に感じたこと、思ったことを描くこと。例えば、緑の葉も光線の関係で黄色や赤に見えたり、あるいは輝いて金色に見える瞬間があるかもしれない。そうした一瞬の驚き、印象をそのまま描くのが印象派である。
 そう考えると、この映画はフキに起きた出来事(一部想像も)の、各々その瞬間を捉えた早川監督の印象なのかもしれない。話に脈絡がなかったり、ときにドキッとすることがあったりと。そこには善し悪しの判断も正解もない。

 先日、相米監督の『お引越し』を観た。早川監督が本作を作るにあたり影響を受けた映画の1つに挙げられている。主人公は同じ11歳の小学生の女の子。一夏の経験を経て成長するという展開も同じ。ただ『お引越し』には話に一本の筋があったが、本作はメインとなるストーリーはなく、複数の出来事や問題が提起される形。『お引越し』は30年以上前の作品だが、この間、世の中がより複雑になった、問題が増えたということだろうか。

おばあちゃんと僕の約束(★★★★☆)

2025-06-25 11:12:42 | とある田舎のミニシアター
 初めてのタイ映画。家族愛の物語である。おばあちゃんと子供3人に孫2人、一見問題ありげでひどい家族に見えるが、実は皆の心はあたたかい。離れて暮らしていても、ちゃんと繋がっている。地元タイでは号泣する観客が続出したらしい。さすがにすれた日本人(僕も?)は号泣こそしないが、ほっこりする良い映画だった。

 大学を中退しゲーム実況者を目指す主人公エム(“ビルキン”というタイで大人気のスターが演じている)。楽して金を稼ぎたい今時の若者である。そんな彼が、従妹のムイが祖父を介護したことで豪邸を相続したと知る。自分にはおばあちゃんメンジュがいる。あわよくば・・・。
 タイミング良く(?)メンジュがステージ4のガンに侵され余命1年と宣告されたことから、彼は家の相続を狙い、おばあちゃんとの同居生活を始める。

 メンジュの家は豪邸とはほど遠い下町の古い家。彼女はお粥を売って生計を立てている(因みにタイは自炊よりも外食が多く、様々な屋台がある)。エムは“おばちゃんの一番”になるため彼女の生活のお手伝いをする。何事も楽をしたいと考えているエムには、何事にも手を抜かないメンジュは驚きの的だ。そしてエムは次第におばあちゃんの子供達への深い愛情に気づき、また自分の母親のメンジュを思う気持ちを知り、少しずつ考えを変えて行く。が、肝心の家の相続は・・・。

 親の介護、相続を巡る争い、それにドラ息子、これは万国共通か。舞台を日本に替えても何ら違和感ない。おまけにタイと日本で似ているところがある。親族でお墓参りに行ったり(日本のお盆のよう)、家に仏壇みたいのがあったり、家の入口で靴を脱いだり、等々。タイには何度も行っているが、さすがに個人宅には行ったことがないので靴を脱ぐのは知らなかった(でも日本的な玄関はない)。

 タイトルから考えるに、エムがおばあちゃんと暮らしているときに何か約束するのだろうと観ていたら、なんと約束することなくおばあちゃんが亡くなってしまった。えっ “約束”はどこに行った? と思ったら最後の最後にどんでん返し。
 おばあちゃんはエムとの約束を守ってくれていたし、エムもおばちゃんとの約束を守った。おばあちゃんは自分のことよりも子供達の幸せを願っていた。それが叶うかどうかは分からないが、少なくとも子供達や孫達は仲良く暮らして行くだろう、おばあちゃんのおかげで。
 お伽噺のようでもあるが、ちょっといい話だった。

春をかさねて/あなたの瞳に話せたら(★★★☆☆)

2025-06-24 14:21:35 | とある田舎のミニシアター
 東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県石巻市。この2本の映画は、児童74名、教職員10名が犠牲になった石巻市立大川小学校をめぐる物語である。監督の佐藤そのみさんは、大川小学校で2つ下の妹さん(小学6年生)を亡くされた。また大川小学校は監督の母校でもある。映画には監督の思いが込められている。
 映画は2019年に作られたが、その後のコロナ渦に加え、監督の地元の方の心の問題への配慮等もあり、映画が上映されることはなかったという。それが2022年以降全国各地で自主上映の形で上映されるようになり、次第に評判を呼び、今年に入って全国の劇場で公開されることになった。
 『春をかさねて』は被災後の人々を描いたフィクションであり、『あなたの瞳に話せたら』は犠牲になった方への3通の手紙を中心としたドキュメンタリーである。『春を~』では分からない大川地区の状況が、『あなたの~』を観ることでおぼろげに見えてくる。

 震災の極限状況の中、人は何を思い、どう行動したか。身内や親しかった人が数多く亡くなり、当たり前だった生活が一瞬にして手の届かないものとなる。やり場のない怒り、あきらめ。心の傷は目に見えないが、ずっと残っているに違いない。こればかりは経験した者でなければ分からない。当時中学生だった監督は、そのときの記憶を基にそれを我々に伝えてくれる。
 『春を~』では、女子中学生2人の心の揺らぎ、行き違いが描かれている。ともに妹を大川小学校で亡くしている。マスコミ的には「妹の分まで精一杯生きる」といった言葉を期待するが、そう言いたくても言えない人がいる。皆が皆強い人間ではない。ときには逃げ道も必要だ。
 『あなたの~』では、震災で家族や友人を亡くした人が、その後何を思って生きて来たかが描かれている。手紙を綴った3人が各々前に向かって進んでいるのが嬉しい。監督自身も妹さんへの手紙を書かれている。一方、学校側の避難に関する過失を訴える遺族の話があった。お金をもらったところで子供達は帰って来ないが、せめて何があったのかを明らかにしたいとの思いのようだ。

 震災から3年後、僕は被災にあった三陸の町をいくつか訪れた(三陸にて~がんばろう東北!、2014/7/26)。石巻にも1泊したが、その前に見た南三陸町や気仙沼の衝撃があまりに大きく、石巻の記憶は少ない。宿と物産館くらいしか行かなかったと思う。大川小学校はじめ石巻で何が起きていたかを僕は知らなかった。
 南三陸で“語り部”の話を聞いた。その中で「南三陸の神社は高台にある」という話だけはよく覚えている。昔から何度か大きな津波に襲われた南三陸、そのため神社は大津波を避けるため高台に建てられたのだという。よって、津波の際は神社に逃げるのが一番とのこと。
 この2本の映画も“語り部”である。



黒い瞳(4k修復ロングバージョン)(★★★☆☆)

2025-06-22 14:55:34 | とある田舎のミニシアター
 放蕩息子ならぬ 放蕩“夫” の、身勝手で、お気軽で、ときに滑稽で、そして哀しい物語である。
 1987年の作品であるが、原作のチェーホフ没後120年、主演マルチェロ・マストロヤンニ生誕100年ということで4K修復がなされ、25分のシーンが追加されたロングバージョンである。

 物語はチェーホフの『犬を連れた奥さん』など4つの短編を基に作られた。舞台は20世紀初めのイタリアとロシア。イタリアに向かう客船のレストランで偶然出会った二人の男。初老のイタリア人ロマーノが、中年ではあるが新婚旅行中というロシア人に、自らの半生を語る形で物語は進められる。
 ロマーノは貧乏な家に生まれたが、大学で大富豪の一人娘エリザと出会い結婚。おかげで彼は裕福になり、働きもせず遊んでばかり。しまいには既婚者でありながら多くの女性と遊ぶようになる。夫婦の仲は、子供を設けたものの、次第に冷めて行く。
 女性との関係はあくまで遊びと割り切っていたロマーノであるが、温泉保養地で知り合ったロシア人女性アンナと本当の恋に落ちてしまう。アンナは人妻であり(こちらも打算的な夫婦のよう)、子犬を連れ、一人で保養に来ていた。今風に言えばダブル不倫。ロマーノを愛しながらも自らの立場を考え、ロマーノに置き手紙を残しロシアに戻るアンナ。ロマーノはすべてを捨てる決心でロシアへ、アンナのもとへ向かうが・・・・。

 イタリアからロシアへ愛する人を探しに行くと言えば『ひまわり』を思い出す(マストロヤンニも出ていたが、一面に咲くひまわりとソフィア・ローレンの印象しかなく、彼のことは忘れていた)。『ひまわり』は戦争によるすれ違いが引き起こす悲劇、メロドラマである。
 一方、この『黒い瞳』は、どちらかというと喜劇。ロマーノは後先考えずに行動する。それが周囲にどんな影響を与えるかは考えない。子供のまま大人になったような感じ。どこか憎めないところがある。が、アンナを見ると、ロマーノのいい加減さ、身勝手さに振り回され、苦悩し絶望する悲劇である。
 そんな彼が、新婚の中年ロシア人と話す中で、今までの自分の人生は何だったのかと後悔する。ロマーノは口が達者だし、いい加減な人間なので、彼の回想もどこまで本当かは分からない。ただ、そのときアンナを愛していたことと、この後悔は真実の気がする。やったこと、やってしまったこと、そしてやらなかったこと、もう昔に戻ってやり直すことはできない。
 そして再会。そこから先は映画を観た貴方に任されている。

リー・ミラー(★★★☆☆)

2025-06-10 13:37:33 | とある田舎のミニシアター
 映画『タイタニック』で有名な女優ケイト・ウィンスレットが、リー・ミラーの才能や生き様に興味を持ち、制作、自ら主演した映画である。
 VOUGE誌などのトップモデルからファッション写真家へ、そして報道写真家へと転身したリー・ミラー。その間には公私ともにパートナーだった写真家マン・レイをはじめ、ピカソやダリなど芸術家との交流もあった。彼女は第二次世界大戦中、従軍記者として戦争の悲惨さ、残酷さを数々の写真に残している。
 この映画は、ファシズムが台頭する1930年代後半から1945年のドイツ降伏まで、報道写真家、特に従軍記者としてフランスやドイツで撮影したリー・ミラーにスポットを当てている。

 舞台は第二次世界大戦中のヨーロッパ。リー・ミラーはアメリカ人であるが、当時イギリスに住んでいた。開戦当初のナチスドイツの勢いは凄まじく、フランスは陥落、イギリスも風前の灯火の状況である。そんな中、リーはVOUGE誌のカメラマンとなり、戦渦のロンドンの状況や軍に従事する女性の写真などを撮るようになる。リーは次第に前線で何が起きているかを撮りたいと思い、従軍記者を希望する。が、当時のイギリスは男性優位の権威的な社会であり、女性は前線に送れないと拒否される。が、そこでめげないのがリー。英軍がダメでも米軍ならと無事従軍記者となり、ついにヨーロッパ上陸を果たす。
 彼女がカメラを向けるのは、女性や子供などの弱者、時代に翻弄された人々、強制収容所の悲惨な状況などである。人が簡単にいなくなり、その行方は分からない。強制収容所で人が無残に殺されていく、人が壊れていく。リーはそれを写真に収めた。これが今ヨーロッパで起きている事実であり、それを皆に知って欲しいと。

 正直、見て楽しい映画ではない。だが、戦争という極限状況の中で何が起きたかを知るには見るべき映画である。ナチスドイツの人を人とも思わない残虐な行為、権威の前に盲従する人々、普通の人でもタガが外れると極端な行動に走ってしまう怖さ、等々。
 この映画は第二次世界大戦前後の話であるが、不思議と今の時代と似ている。ロシアによるウクライナ侵攻やイスラエルによるガザ侵攻といった戦争だけではない。極右、あるいはポピュリズムの台頭もそうだ。人は歴史から何も学ばないのだろうか。そんなことを考えさせられた映画である。

そして、アイヌ(★★★★☆)

2025-05-22 18:09:39 | とある田舎のミニシアター
 この映画は、アイヌの文化を継承し、次の世代へと引き継ぐべく活動されている方々のドキュメンタリーである。

 僕は北海道の出身である。が、アイヌのことに詳しいかというと、そうでもない。正直、身近にアイヌを感じたことがないからだ。アイヌの人たちは、明治以降の同化政策により和人、大和民族として生きることを強いられた。そのため実際にアイヌの人を見るのは白老など観光地に行ったときだけだった。
 アイヌの人たちは、差別や偏見などから自分がアイヌであることを隠している人が多いという。僕のクラスにもアイヌの人がいたかもしれないが、誰も気づかず、皆何も気にせず一緒に過ごしていた。知らないのだから当然そこに差別はない。それはそれで良かったが、一方でアイヌの方の民族としての思いやアイデンティティを考えると、やはり良いとは言えない。
 僕がアイヌへの差別を詳しく知ったのは昨年のこと、『カムイのうた』という映画だった。知里(ちり)幸恵という、大正時代にアイヌの詩(ユーカラ)の和訳を行った女性の映画である。日本でも、アメリカで白人がネイティブ・アメリカンに行ったのと同じようなことがあった。哀しい事実である。

 さて、映画は東京でアイヌ料理店『ハルコロ』を営む宇佐照代さんを中心に描かれている。彼女は“アイヌ文化アドバイザー”としてアイヌの踊りや、ムックリ(口琴)・トンコリなどアイヌに伝わる楽器の紹介を行っている。またアイヌとしての自らの経験を踏まえ、人権問題に関する講演などもされている。祖母や母親から受け継いだアイヌの文化、そして民族の誇りを、自分の娘や娘たちの世代に伝えたいと願い、活動されているのである。
 また、人類学の研究のためと称してアイヌの墓を盗掘し、遺骨を持ち去り今も保管する京都大学などに、遺族への遺骨の返還を求める陳情などもされており、まさに八面六臂の活躍である。

 僕は白老にあるウポポイ(民族共生象徴空間)の国立アイヌ民族博物館に行ったが、今のアイヌの方の生活や思いなど、この映画を見て知ることが多かった。『ゴールデンカムイ』でアイヌに興味をもたれた方には、アイヌの今を知るためにも是非この映画を見て欲しい。といっても、この『そして、アイヌ』は元々上映する映画館が少なく、さらに既に上映が終了した映画館が多く、現状では見るのが難しいだろう。皆さんの声が盛り上がり、上映する映画館が広がることを望みたい。この映画が、日本にも民族問題があることを考えるきっかけになると良い。


ゲッベルス(★★★☆☆)

2025-05-17 14:37:41 | とある田舎のミニシアター
 ドキュメンタリーではないが、希代のプロパガンダの天才ゲッベルスが、ヒトラーのために、いや、おそらくは自分自身のために何をやったかを描いた作品である。
 そして恐ろしいのは、同じようなことが今の世の中でも起きていることだ。意図を持ったフェイクニュース、ポピュリストの耳障りのいい言葉、自身の力を背景に身勝手な言い分を正当化する大国(侵略戦争を起こしたり、それを支援したり、はたまた恐喝まがいに高関税を課したり)等々。「真実は私が決める」というゲッペルスの言葉は今も変わらないようだ。本当に薄ら寒いものを感じてしまう。

 ゲッベルスは、1933年にナチスが政権を握って以降、国民啓蒙・宣伝大臣としてヒトラーを支えてきた。演説、新聞、ラジオ、映画など、あらゆる媒体を通じて国民感情を煽り、ヒトラーの神格化を推し進めてきたのである。彼は目的を達成するためにどのスイッチを入れれば良いかを熟知していた。その目的は戦意高揚であったり、ユダヤ人の大量虐殺であったりした。
 彼に何か信念があったかというとそうは思えない。自らの才能に酔い、権力を愛する、薄っぺらい男。ついでに女好き。担ぐ神輿は必ずしもヒトラーでなくても良かった。ただヒトラーが権力に一番近い存在だったから彼を選んだのであろう。これが20世紀最大の悲劇を引き起こす一つの要因になった。

 映画は第二次世界大戦の開戦前、ナチスによるオーストリア併合から話が始まる。既にナチスが政権を取った後である。個人的にはもう少し前、ナチスが政権を取る過程を知りたかった。当時のドイツは第一次世界大戦の敗戦を踏まえ、世界でも稀な民主的な憲法、ワイマール憲法が制定されていた。そこには20歳以上の男女の普通選挙に基づく議会政治が定められている。つまり、ナチスは暴力や反乱などではなく、ドイツ国民の民主的な手続きにより政権政党になったのである。そこでゲッペルスがどのような活動をしたのか、それを見たかった。二度と同じ過ちを起こさないために。嘘や欺瞞にあふれた世の中だからこそ、それを知ることが必要である。
 映画として面白いかどうかは置いておいて、多くの人が見るべき映画だと思う。

教皇選挙(★★★☆☆)

2025-05-07 14:09:14 | とある田舎のミニシアター
 タイムリーな映画である。今日5月7日からコンクラーベ(ローマ教皇選挙)が行われるのだから。
 
 コンクラーベを巡る人間模様を描いた映画である。陰謀あり、スキャンダルあり、どこかの国の政治家や企業と変わらない派閥争いあり。映画はフィクションであるが、実際のコンクラーベがここまでひどくないことを願わざるを得ない。余計なお世話かもしれないが、ローマ・カトリック教会から抗議されないかと心配になってしまう。

 映画では亡くなった前教皇は改革派。改革の道半ばで亡くなられた。聖職者による子どもへの性的虐待、LGBTQ+、離婚等々、現在カトリック教会が直面する問題は多い。そうした中、コンクラーベを取り仕切ることになったのがローレンス枢機卿。彼は前教皇に近い立場で改革の継続を願っている。一方、新教皇の有力候補には改革に反対する保守派が多い。彼は盟友ベリーニの勝利を望むが、まずは選挙の責任者として公正を重んじる。コンクラーベ開始にあたっての彼の演説では女性の活躍や多様性についても触れていた。これが結末の伏線だったと最後に分かる。

 確か『ゴッドファーザーPART Ⅲ』では、カトリック教会の幹部とマフィアとの癒着が描かれていた。すべてが真実とは思わないが、そうした関係は一部で昔からあったのだと思う。聖職者といえども人間である。中には自らの野望や金に目がくらむ者がいてもおかしくない。映画の教皇候補者も大なり小なり同じである。
 しかし、当初は教皇候補でなかったローレンスとベニデス枢機卿は違う。二人とも信念の方である。また、シスター・アグネスもそう。いつの時代にもこうした信仰心、良心をお持ちの方がいらしたからこそカトリック教会はずっと続いて来たのであろう。

 有力な候補者が次々と脱落し、さらには大きなアクシデントも起きる。そして驚きの結末。新教皇は誰に?果たしてローレンスはどのような決断を下すのか。見てのお楽しみである。

シンシン(★★☆☆☆)

2025-05-03 17:27:26 | とある田舎のミニシアター
 『ライフ・イズ・ビューティフル』を引き合いに出した『ドマーニ(★★★☆☆)(2025.4.10)』の教訓を活かすことなく、「『ショーシャンクの空に』の友情再び!」の宣伝文句に騙され、もとい期待し、見に行ってしまった。♪ 私バカよね おバカさんよね ♪ って、僕のこと??

 アメリカの最高警備レベルの刑務所、『シンシン刑務所』が舞台である。ニューヨークにほど近いことから小説や映画などで名前が出ることがあり、ご存じの方も多いと思う。ここでは1996年よりRTA(Rehabilitation Through the Arts)という芸術を通した更生プログラムが行われている。演劇を通じた意識改革を図ることで再犯率の低下に繋がっているという。この映画は、演劇を共に行い、一つの舞台を創り上げていく中で友情が生まれ、挫折から立ち上がり、生きる意欲を取り戻して行く男たちの物語である。

 こう書くと感動の物語に思えるが、実はそうでもない。まず主人公の悲惨さが伝わってこない。映画で見るシンシン刑務所は案外暮らしやすそうだ。アメリカの刑務所というと、暴力や性虐待は日常茶飯事、ギャンブルや麻薬も当たり前、といったイメージである。が、ここはいたってクリーン(1件恐喝が描かれているだけ)。部屋は個室だし(最高警備レベルだから?)、私物も多い。日本のような刑務作業もなさそうだ。そう、囚人は結構自由に見える。勿論刑務所ゆえ制約は多いと思うが、少なくともがんじがらめ、杓子定規の生活ではない。このためショーシャンクのように、悲惨な状況から漸く逃れ自由が得られたという喜びは感じにくい。またコンゲーム的な要素もない。
 ついでに言えば、主人公は無実の罪で収監されたことになっているが、本人がそう言っているだけで我々にその確証はない。

 ただ驚くべきは、主要キャストの85%以上が実際のシンシン刑務所の受刑者でRTAの卒業生・関係者だということ。主人公こそアカデミー賞にノミネートされた俳優であるが、彼の友人となる凶悪犯など演劇仲間はほぼ全員元受刑者である。皆本人役で出ている。当然演技は自然だし、リアリティ抜群である。管理・運営方法など日本の刑務所との違いは大きいと思うが、日本でもRTAのような取り組みが行われると良い。このRTAを知っただけでもこの映画を見た甲斐があった。

光る川(★★☆☆☆)

2025-04-25 23:10:17 | とある田舎のミニシアター
 大きな川の上流にある山あいの集落を舞台に、まだ幼い男の子が大好きな母のために川を一人で奥へ、奥へと遡り、集落に伝わる哀しい言い伝えと現実が交錯する中、不思議な経験をする物語である。
 川、滝、山など自然の美しさ、静寂、強さ、そして恐ろしさを、CGを一切使わず、実際の映像で描いている。すべて郡上市、山県市、下呂市など岐阜県でロケしたそうだ。この映画は、映像の美しさだけでハマる人にはハマると思うが、残念ながら僕にはあまり響かなかった。ところどころ脚本に無理がある気がしてしまったもので。

 まずは紙芝居の内容。これが小学生(それも低学年主体?)相手にお金を取ってする話だろうか。集落に住む娘と、山を渡り歩く木地屋(山から山へと渡り歩き、山の木を切ってはろくろでお椀などを作っている人たち)の青年との悲恋である。生活習慣や風習の違い、今でいう多様性を知るのは早いに超したことはない。が、青年は泣く泣く娘を諦めて次の山へと去って行き、それを知った娘が入水自殺する話である。この話が映画の柱となっているが、小学生にはちょっとハードではないだろうか。紙芝居ならもっと無邪気に楽しめる話が良い。これでは親からクレームが来そうだ。
 次に川を遡る男の子が、でこぼこで滑りそうな道を、ときに斜面や水の中もあるが、手に持ったお椀の水をこぼさないで歩くこと。そんなの僕でも無理だ。絶対水をこぼしてしまう。
 そして、ほかにも・・・・。

 木地屋の存在自体この映画で初めて知ったし、木に依存するがゆえに木を敬う彼らの生活習慣、風習も僕には新鮮だった。彼らにとって自然は開発や克服の対象などではなく、力を借りるもの、共に生きていくものなのである。この映画からは、森林伐採が洪水に繋がるなど、自らの利益、それも短期的な利益のために自然を利用してはいけないというメッセ-ジが感じられた。
 もっとも、美しく神秘的な自然の映像といい、悲恋の言い伝えに起きる変化といい、心に余裕のない僕のような人間にはあまり響かなかった。この映画を見て素直に感動できるやさしい人間に僕はなりたい。

ドマーニ(★★★☆☆)

2025-04-10 11:13:24 | とある田舎のミニシアター
 最後の最後に意外な落ち。でも座布団一枚とまでは行かないかな。イタリアの戦後を垣間見るには良かったけど。

 物語の舞台は第二次世界大戦後のローマ。まだまだ庶民の生活は厳しい。主人公のデリアは、夫と3人の子供、それに寝たきりの義父と半地下のアパートで暮らしている。夫イヴァーノはDV夫。たいした稼ぎも良くないのにいばりちらし、ことある毎にデリアに手を上げる。人格を否定する発言もいつものこと。
 デリアに何か問題があるかというと決してそんなことはない。デリアは家事や義父の介護をきっちりこなし、そのうえいくつもの仕事をかけもちして家計を助けている。彼女なしにこの家族は成り立たないのである。本当にいつ気が狂ってもおかしくない状況のデリア。そんな彼女の心の支えは、信頼する女友達マリーザと昔から彼女に思いを寄せる自動車工ニーノの存在。ただニーノは近々ローマを離れると言う。どうも自分に付いてきて欲しいようだ。
 一方、年頃の娘マルチェッラが金持ちの息子と結婚間近となり、デリアは大きな期待を寄せている。娘には自分のような人生を送って欲しくない。
 そんなデリアに手紙が届く。彼女宛の手紙など滅多にないこと。この手紙はデリアの明日を、人生を変えるかもしれない。

 イタリアの女性、特にマンマ(お母ちゃん!)には強いイメージがある。が、この映画を見る限り、当時のイタリアは男尊女卑の極み。イタリアはカトリックの国であり昔は離婚できなかった。デリアのような女性はただ耐えるしかなったのだろう。デリアでなくとも娘のマルチェッラには母と違う人生を歩んで欲しいと思う。明日に希望を持てる生活を。

 この映画はよく計算されている。明日への希望に向け(因みに題名のドマーニはイタリア語で明日という意味)、幾多のアクシデントに見舞われながらも一直線に進んでいく。手に汗握るとまでは言わないが、それなりにドキドキもする。思わせぶりな伏線も用意されている。ただイタリアの事情が分からない僕にしてみると、最後の落ちはちょっと弱い。若干拍子抜け。
 もっとも見終わって悪い感じはないし、デリアのこれからを応援したい気持ちでいっぱいである。が、しかし、あの『ライフ・イズ・ビューティフル』の興行収入を上回った映画との宣伝文句に騙された感は残る。有名人の知り合いと語る人間を信用してはいけないように、名作映画を引き合いに出す宣伝の多くは眉唾かもしれない。注意しないと。