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縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

舞台と映画の違い ~ 『ジャージー・ボーイズ』の場合

2014-11-25 18:33:21 | 芸術をひとかけら
 初めてミュージカル映画を見た時、それは強い違和感を覚えた。あり得ない、不自然、なんでコイツ突然歌い出すんだ、と。しかし、次第に慣れと割り切りにより、主人公が唐突に歌い始めてもさほど動揺しなくなった。
 が、今回、映画『ジャージー・ボーイズ』を見終わった時、また違う違和感を覚えてしまった。ひとことで言えば、ミュージカルっぽくない、といった感じだろうか。
 
 さて、この違和感について話す前に、まずはミュージカル映画の流れをおさらいしたい。ミュージカル映画の全盛期は1940~50年代。ジュディ・ガーランドが唄い、ジーン・ケリーが、そしてフレッド・アステアがスクリーン狭しと踊っていた時代だ。当時の映画はオリジナル作品が多い。『オズの魔法使』、『雨に唄えば』、『巴里のアメリカ人』など、ミュージカル映画を代表する作品の多くはこの時期に創られている。

 それが1960年代に入って一転、今度はブロードウェイでヒットしたミュージカルの映画化が増えてきた。一つは映画会社が冒険を避け安全策を取ろうとしたこと、もう一つは『ウエスト・サイド物語』の大ヒットがその理由であろう。
 60年代、テレビの普及により映画会社の経営は転機を迎え、制作費の嵩むミュージカル映画での失敗は許されない状況となっていた。いきおい作品の完成度が高く、集客の見込める舞台のヒット作に目が行ったのである。一方、ご存じ『ウエスト・サイド物語』は、1957年ブロードウェイ初演、1961年に映画化され、作品賞を含むアカデミー賞10部門受賞の大ヒットとなった。この成功体験が、後の『マイ・フェア・レディ』、『サウンド・オブ・ミュージック』、『キャバレー』など、ブロードウェイ・ヒット作の映画化に繋がったことは間違いない。
 そしてこの流れは、『マンマ・ミーア!』や一昨年大ヒットした『レ・ミゼラブル』などを見てもわかるように、今も続いている。

 翻って映画『ジャージー・ボーイズ』、この作品も2006年にトニー賞(注:アカデミー賞の舞台版)を受賞したブロードウェイ・ヒット作の映画化である。60年代に一世を風靡したロック・グループ“フォー・シーズンズ”の苦難と成功そして挫折を描いている。
 実は『ジャージー・ボーイズ』の舞台を見たことがある。言葉はよくわからなかったが、とても面白いミュージカルだった。“フォー・シーズンズ”については、名前を知っている程度でほとんど知識はなかったが、舞台を見て主人公フランキー・ヴァリの苦悩、生き様がストレートに伝わってきた。音楽も意外に聞き覚えのある曲が多く、結構ノリノリで聴けた。

 が、これに対し映画は、音楽は変わらず良かったが、筋が分かりにくかった。話を膨らませたり、伏線を張ったりして、一つの人間ドラマに仕立てようとした感じ。そう、ミュージカル映画というより、ロック・スターが主人公の一般映画なのである。
 映画は舞台と違って制約が少ない。場面を沢山使うことができるし、それをいくつものアングルから見せることも、簡単に切り替えることもできる。過去のエピソードの挿入も容易い。そんな映画の特徴を活かし、舞台との差別化を図ろうとする気持ちも解らなくはない。しかし、ミュージカルなのだから、ストーリーをもっとシンプルにした方が良かった。主人公がセリフの途中で突然歌い出しても構わないが、ストーリーが錯綜するのは良くない。複雑な人間模様を味わいたいのであれば、観客は違う映画を選ぶのだから。

(えっ、「そう言うおまえのブログは長い。もっとシンプルに!短く!」って。ど~もすみません。)

新橋文化劇場の閉館、そして名画座へのオマージュ

2014-08-12 22:57:01 | 芸術をひとかけら
 新橋文化劇場が今月末で閉館するという。新橋の烏森口のガード下にある映画館である。僕自身ここには2回しか行ったことがなく、さほど愛着があるわけではないが、名画座がまた姿を消すのかと思うと、やはり寂しい。
 これで東京に残る昔ながらの名画座といえば、早稲田松竹、飯田橋ギンレイホール、目黒シネマ、そして下高井戸シネマくらいだ。

 “名画座”と聞いてあまりピンとこない若い方のために若干説明すると、名画座とは旧作映画を上映する映画館である。つまり、ロードショーの終わった作品や、過去の名作・ヒット作、あるいは ほとんど見たことも聞いたこともない作品まで上映する映画館である。
 名画座の名画座たる特徴としては、以下のようなことが思い浮かぶ。
 2本あるいは3本立て、入替なし、全席自由、そして安い。僕がよく通っていた80年代の料金は500、600円であったが、今でも1,000円程度だ。あと、椅子が狭く、固く、たいてい1本目の途中からお尻が痛くなることや、どこか暗く(まあ映画館だから暗いのは当たり前かもしれないが)、どこかカビ臭いこと。失礼、最後は遠い昭和の話であり、今の名画座は違うと思う(もとい、新橋文化はまさにこのイメージなので、それ以外の名画座は、としておこう)。

 作品の組合せは、同じ監督や俳優、同じ時代・ジャンル等何らかのテーマのある場合がほとんどだが、映画であるということ以外にあまり共通項のない、単に配給会社の都合による場合もある。
 ほとんどの名画座は月毎にスケジュール表を作っており、併せて映画の紹介を書いていた。映画館の方のその映画に対する思いが伝わってくる。また、スケジュール表には地元商店の広告が入っていることが多かった。下高井戸京王(現 下高井戸シネマ)の「波止場」とか、国立スカラ座の「国立写真店」とか。映画好きの人間が集うだけではなく、地元の人が非日常に浸るため、あるいは単なる暇つぶしや時間調整のため気軽にやって来る、それが低料金の名画座の良いところである。

 こうした名画座が町から消えている理由は、直接的にはレンタルビデオとの競合であり、間接的というかその背景には人々の映画離れがある。映連の統計によると、映画人口(映画館の入場者数)のピークは1958(昭和33)年の11億27百万人。当時の人口は92百万人なので、一人当たり年間12本、月1本映画を観ていたことになる。一方、昨年2013年の映画人口はというと1億56百万人。人口は1億26百万人なので、一人当たり年間1.2本とピークの 1/10 にすぎない。
 シネコンの増加により映画館(スクリーン)数は1993年の1,734を底に増えており、昨年は3,318となった。それでも映画館数のピーク 7,457(1960(昭和35)年)の半分以下である。そして、3,318のうち2,831がシネコンであり、その差487がロードショー館と名画座の合計である。2000年には1,401あったので、この13年で従来型の映画館は914も減ったことになる。時代の流れと言えばそれまでであるが、名画座のような個性のある映画館が減っていくのは悲しい。

 新橋文化の最後の上映(8/23~8/31)は、「デス・プルーフ in グラインドハウス(2007年)」と「タクシー・ドライバー(1976年)」の2本立て。前者はクエンティン・タランティーノの作品(B級スリラー?)。後者はマーティン・スコセッシ監督、ロバート・デ・ニーロ主演の名作。僕は以前名画座、早稲田松竹で観た。ロバート・デ・ニーロの常軌を逸した行動、狂気を強烈に覚えている。
 この年になると名画座で2本観るのは辛い。よし、30年振りに「タクシー・ドライバー」を観に行こう。

いつか『いつかティファニーで朝食を』

2014-05-31 14:28:07 | 芸術をひとかけら
 今朝、早起きして築地に行った。久々に和食『かとう』で朝食(『かとう』については 2006/3/15付『魚市場とダミ声の法則(?)』をどうぞ)。いつものように、刺し盛り、野菜3点盛りと金目鯛(カマ)の煮付け、それにビール。やっぱり旨い。

 そろそろ帰ろうとしたとき、隣に若い女性の二人組が来た。
「私、カレイの煮付け。私達、マンガを見て来ました。」
もう一人が注文する。「私、金目の西京漬け。」
「マンガに出たのは銀ダラだよ。」とお店のお姉さん。
「あっ、じゃあ、銀ダラ。」と彼女。

 マンガ? いったいなんの話だろう。
 お姉さんに訊ねたところ、「これ、これ。」と言ってスタンプカードをくれた。そこには『いつかティファニーで朝食を』朝食ラリー、と書いてある。「ウチ、1巻目に出たんだ。」と教えてくれた。「このマンガ、めちゃおもしろいですよ。」と隣の女性がたたみかける。

 知らなかった。『かとう』には十年近く通っているが、マンガに出たことなど全く知らなかったし、そもそもこのマンガ自体知らない。家に戻り、早速マンガについて調べたところ、実際にあるお店の美味しい朝食を紹介しながら、現代の東京に生きる若い女性達の姿を描いたものらしい。

 僕だって『ティファニーで朝食を』なら知っている。トルーマン・カポーティの小説だ。ティファニーは宝石店で朝食など出していないが、題名は「ティファニーのような高級なお店で、朝食を食べられる身分、お金持ちになりたい」というたとえである。
 もっとも日本ではオードリー・ヘップバーンの映画の方が有名。僕は小説を読んだし、映画も見たが、いずれも30年近く前。もうあまり覚えていない。覚えているのは、主人公のホリー(オードリー)がティファニーのショーウィンドウを覗きながらパンを食べるシーン、「ムーン・リヴァー」の甘く、少し切ない調べ、そして「ホリー・ゴライトリー、旅行中」という表札(?)くらい。あと、確か映画はハリウッド映画らしくハッピーエンドだったが、小説は違った気がする。ホリーは恋人のもとを去って行った。

 ホリーは「旅行中」という表札の通り自由に生きている。実際にいつも旅に出ているわけではなく、精神的というか、考え方や気持ちが自由、何物にも束縛されない、といった感じだ。長いこと会社勤めで、決められた枠の中でしか生きていない僕からすると、それは羨ましく、憧れる反面、怖くもある。

 『いつかティファニーで朝食を』の作者は、マキ ヒロチさんという女性である。彼女がなぜこのタイトルを選んだのか気になる。文字通り、ティファニーのような素敵なお店で美味しい朝食をというだけかもしれない。あるいは、女性よ、朝からしっかり美味しい朝食を摂って、強く、自由に生きようと訴えているのかもしれない。それは本を読んでみないとわからない。
 美味しい朝食と偶然の出会いから、いつか『いつかティファニーで朝食を』を読んでみようと思う。

“20 FEET FROM STARDOM (バックコーラスの歌姫たち)”

2014-02-18 00:10:20 | 芸術をひとかけら
 先日CNNを見ていたら、今年のアカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞にノミネートされた作品として、“20 FEET FROM STARDOM”という映画が紹介されていた。直訳すれば「スターの座から20フィート(約6m)」。何分英語なので内容はよくわからなかったが、スターのバックで歌う人達の話のようだ。
 そういえば、スターのバックバンドがデビューして有名になった話はよく聞くが(例えば、ボブ・ディランのザ・バンドや、リンダ・ロンシュタットのイーグルスとか)、バックで歌っていた人が有名になった話はあまり聞いたことがない。スターのバックで歌うというのは、いったいどういうことなのだろう。興味を持った僕は、早速映画館を調べ、見に行くことにした。

 ブルース・スプリングスティーン、スティング、ミック・ジャガー、スティーヴィー・ワンダーなどのスターが、バックで歌う女性たちの思い出を語り、皆その歌の素晴らしさを称える。そして彼らと彼女たちのステージの様子が映し出される。聞き覚えのある歌、それに聞き覚えのあるハーモニー。彼女たちの名前は表に出ないことが多いが、確かにその歌声は我々の記憶に残っている。
 バックで歌っていた女性たちのインタビューや独白が続く。彼女たちはスターに負けない歌唱力を持ちながらも注目を浴びることはない。物理的にはわずかな距離、20feetどころかスターのすぐ隣りで歌うこともあるが、現実のスターへの道のりは果てしなく遠い。
 バックで歌う人間とスターとでは求められる資質が違うという。バックの人間に個性は必要ない。皆と合わせること、コーラスを乱さないことが重要なのである。映画で“background singer” という言葉が使われていたが、自らを背景と化し、スターを引き立てる役に徹する存在という意味なのであろう。

 バックで歌うことに慣れ、居心地の良さを感じ安住する者も多いが、中には夢を忘れずバックから中央で歌うことを目指す者もいる。元々歌唱力は抜群、忘れていた個性を取り戻せばスターへの道が・・・、と思いきや、そんな甘い世界ではない。この世の中、歌の上手い人間はいくらでもいる。自ら曲を作れない彼女たちはプロデューサーに依存せざるを得ない。変なプロデューサーにあたると、自らが録音した曲が他人の名前で発売されることすらあるという。良いプロデューサー(そもそも いればの話だが)に会えるかどうか、スターへの道も運次第である。
 そんな中、チャンスを掴みかけている女性がいる。“This is it”でマイケル・ジャクソンと歌ったジュディス・ヒルである。彼女は副業(?)としてバックで歌いつつ、今もセンターで歌う夢を追いかけている。

 この映画は日本では昨年12月中旬に公開された。当初は渋谷Bunkamuraだけの上映であったが、その後順次地方でも公開されている。もっとも既に上映を終了している映画館も多いようだ。
 60年代から80年代にかけての洋楽の好きな方(注:なぜか最近はバックコーラスを使わない歌が多い)、夢を追い、挫折し、それでも夢を追い続ける彼女たちの人生に興味のある方は、急いで映画館へどうぞ。大きな感動とまではいかないものの、彼女たちの歌に、人生に励まされ、しっかり前を見て映画館を出られる、そんな映画だと思う。

大雪の日に想う ~ 高村光太郎と冬の詩

2014-02-15 22:30:34 | 芸術をひとかけら
 今週末も東京は雪。それも2週続けて記録的な大雪。朝には雪が雨に変わり、時折強い雨が降っていたが、それも昼前には上がった。道路は雪が解け、べちゃべちゃに違いない。あまり出掛ける気がしない。家でのんびりしていたところ、ふと高村光太郎のことを思い出した。
 高村光太郎は『道程』や『智恵子抄』で有名な詩人そして彫刻家であるが(ご関心のある方は2006/5/12『高村光太郎の人生』をご覧ください)、彼には冬の詩が多い。「冬が来る」、「冬が来た」、「冬の朝のめざめ」、「冬の詩」等々。“きつぱりと冬が来た”で始まる「冬が来た」は、僕のお気に入りの詩の一つである。

 光太郎はなぜ冬を好んだのだろう。冬の厳しさや、妥協しない、媚びることのない、凛とした美しさ、強さを、自らの人生を強く生きて行こうという意思、あるいは決意と重ね合わせたからではないか。
 冬の詩は彼の初期の作品に多い。20代、欧米で学んだ彼は近代的自我に目覚め、帰国後、同じく彫刻家である父・高村光雲をはじめとする伝統的、封建的な社会に相容れないものを感じるようになった。彼は悩み、苦しみ、堕落した生活を送り、生きる目標すら失いかけた。そこに現れたのが智恵子である。光太郎29歳、智恵子26歳のときであった。智恵子への愛により彼は救われた。
 智恵子と出会った後、多くの冬の詩が書かれるようになった。それまでの苦悩や行き先の見えない不安から抜け出し、自らの進むべき道をはっきりと自覚したからこそ、光太郎は凛とした、力強い冬に共感したのであろう。冬の詩は、“僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る”で有名な「道程」に相通ずるものがあると思う。

 ところで、『智恵子抄』の中に「あどけない話」という詩がある。あの“智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ。”で始まる詩である。智恵子にとってのほんとの空は、故郷・福島の阿多多羅山の上に広がる青い空であって、東京の空は違うというのである。
 初めてこの詩を読んだとき、僕は「東京の空は汚いから、やはりほんとの空とは言えないんだ。」と素直にそう思った。が、考えてみると、この詩が書かれたのは昭和3(1928)年。いくら東京でも空が汚いとは思えない。事実、光太郎も詩の中で東京の空のことを“むかしなじみのきれいな空”と言っている。では、いったい智恵子の言う“ほんとの空”とはなんだろう。
 それは、ただ空だけではなく、智恵子の愛した故郷・福島の自然そのものである。さらに智恵子が大切にした家族や友人など、ふるさとの人との繋がりも含むかもしれない。空が常に智恵子を見ているように、ふるさとの自然や多くの愛する人たちが智恵子をずっと見守り、育んできたからである。智恵子は東京に暮らす中でふるさとを想い、後にふるさとを失ったことが精神を病む一つの原因となった。

 『智恵子抄』には、明治45年から昭和16年までの詩が収められている。明治45年はちょうど光太郎が冬を主題にした詩を書き始めた頃。光太郎が、その後30年以上に亘り、彼が冬の詩に託した、自らに妥協せず、自らの信念に従い強く生きるとの思いを持ち続けたからこそ、『智恵子抄』は誕生したといえる。
 そう思うと、記録的な大雪だ、大変だなどと騒ぐ自らの未熟さを恥じ、冬に負けぬよう、自らを厳しく律して生きて行かねばと反省した次第である。

舞台化された『ショーシャンクの空に』

2013-11-10 20:39:12 | 芸術をひとかけら
 あの『ショーシャンクの空に』が舞台になったというので観てきた。

 『ショーシャンクの空に』は1994年に公開されたアメリカ映画である。無実の罪で投獄されたエリート銀行員が、腐敗した刑務所の中でも自分を見失わず、そして希望を捨てることなく生きて行く姿を描いている。絶望の中にあっても諦めることなく、今、何をすべきかを考えることで、ささやかな自由、満足感を勝ち取り、最後に本当の自由を手に入れるという話である。
 刑務所の悲惨な状況は『ミッドナイト・エクスプレス』を彷彿させる一方、自由を手に入れるまでのストーリーは『スティング』のどんでん返しに相通じるところがあり、なかなか面白い映画である。特にイケメン俳優が出ているわけではないが、なぜか、女性に人気のある映画だ。

 さて、肝心の舞台であるが、よく出来ているな、思いのほか楽しめた、というのが僕の正直な感想である。
 まず、この舞台が映画から独立して存在できるようにとの工夫、つまり映画を観ていない人でも舞台を楽しめるようにとの工夫が心憎い。主人公アンディーの入れられた牢の壁には映画女優のポスターが貼られていた。ポスターはリタ・ヘイワーズに始まり、マリリン・モンロー、ラクエル・ウェルチと続く。舞台では彼女達を実際に登場させ、ナレーターというかMCの代わりに使っているのである。また、アンディーの親友レッドが、仮釈放後、アンディーの自伝を書く設定になっており、それが話の筋の確認を助けている。
 もう一つ、刑務所で暮らす囚人、特に終身刑を言い渡された囚人の心の葛藤が、映画よりも上手く描かれていた。何十年もの間、毎日毎日同じことの繰り返しが続き、外の世界からは取り残され、ただ老いて行くのみ。希望を持つことなど出来ず、仮釈放になったところで、時代に、世の中に付いて行けないのではとの不安。こうした焦り、不安、諦めを感じているレッドなど囚人達との対比で、ぶれない、諦めないアンディーの価値、稀有な存在であることが、より際立っていたと思う。

 もっとも、この人物の内面表現へのフォーカスは、場面を簡単に切り替えることのできない舞台の制約に依るのかもしれない。舞台は刑務所の中をメインにしており、主に塀の外で起きるどんでん返しのおもしろさは、この舞台ではよく分からない。若干登場人物の説明に頼る部分があり、そのおもしろさがストレートに伝わって来ないのである。ここがこの舞台の弱点といえる。
 もちろん、内面の葛藤を採るか痛快な展開を採るかは好き好きなので、舞台の方が人物表現に深みがあって良いという人がいるのかもしれないが。

 東京は今日、10日の公演で終わりだが、来週以降、週末を中心に大阪、福岡、名古屋そして松本で公演がある。『ショーシャンク』ファンの方はご覧になるとおもしろいと思う。そして、もし映画をまだご覧でない方は、まずDVDを借りて映画を観よう。その方が舞台を10倍楽しめること請け合いだ。

 

キャラメルボックス『雨と夢のあとに』を観て

2013-08-05 00:56:54 | 芸術をひとかけら
 初めて演劇を観たのは、小学校で観た『夕鶴』だったと思う。学校側としては、情操教育とともに、何か良いことをすれば自分に返って来る(だから進んで他人に良いことをすべき)、約束を破ってはいけない、といった教育的見地から観劇を行ったのであろう。『夕顔』は子供に安心して見せられる劇なのである。
 しかし、今どきのすれた小学生に『夕鶴』ではちょっと無理がある気がする。鶴の恩返し、と言っただけで鼻で笑われそうだ。そんなときにお勧めしたいのが、この『雨と夢のあとに』である。愛すること、そして信じることの大切さについて教えてくれる。

 まずは簡単に劇について説明しよう。演じるのは『演劇集団キャラメルボックス』。1985年設立の劇団である。設立以来、成井豊と真柴あずき(あるいはどちらか一人)が脚本を担当。 "人が人を想う気持ち" をテーマに、"誰が観ても分かる"、"誰が観ても楽しめる" 舞台作りを心掛けているという。
 『雨と夢のあとに』は柳美里の小説。彼女初の“ファンタジック・ホラー”という触れ込みだったそうだ。そう、怖くはないが、幽霊の話なのである。2005年に単行本が発売され、その年に成井・真柴の脚本でドラマ化され、翌2006年にはキャラメルボックスで舞台化されている。今回はその再演である。ただキャストのほとんどは初演から変わっている。
 物語は、幻の蝶を捕まえに台湾に行った朝晴が、無事蝶を捕まえて自宅に戻ったところから始まる。母を亡くし、父と二人で暮らす娘の雨は涙を流して喜んだ。が、朝晴の姿は、雨と、朝晴と親しいごく一部の人間にしか見えない。そう、朝晴は蝶を捕まえた途端、大きな穴に落ち、そこで死んだのであった。肉体を穴の底に置き、彼の魂だけが戻って来たのである。もう一度雨に会いたい、ずっと雨を守りたい、との一心で。しかし、そこから朝晴の父親としての、更には幽霊としての葛藤が始まるのであった。

 『雨と夢のあとに』は、8月18日まで池袋のサンシャイン劇場、8月22日から25日まで大阪、8月30日から9月1日まで名古屋で公演されている。小学校高学年から中学生にかけての、雨に近い年齢のお子さんをお持ちの方は、是非親子でご覧頂きたい。父・朝晴の娘・雨を想う心、あるいは雨の朝晴を慕う心に触れ、親子関係に何か良い変化が起きるかもしれない。また、お子さんが、自分は一人で生きているのではない、皆に守られて生きているのだと感じてくれるかもしれない。
 一方、ご両親には違う観点からも考えて欲しい。『夕鶴』が人間の欲や愚かさも表していたように。この劇のタイトルは『雨と夢のあとに』。“夢”というのは誰の夢だろう? 朝晴の夢? そして、どんな夢なのだろう? 幻の蝶を捕まえること、それとも・・・。僕自身、何か明確な答を持っているわけではない。しかし、このあと、雨が朝晴のいない世界を生きて行かなければいけないことは確かだ。

 いずれにしろ、観終わって「よし、僕も頑張らないと。」と前向きな気持ちにしてくれる、心温まる話だった。

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

2013-04-29 22:10:48 | 芸術をひとかけら
 ポール・マッカートニーには聖母マリアがやって来て“Let it be.”(そのままで良いのよ。)と言ってくれたが、この主人公・多崎つくるには、聖母マリアの代わりに木元沙羅がやって来て「そのままにしていてはダメ。」と言う。
 なぜ自分が仲間から突然拒絶されたのか、つくるはその理由と向き合わねばならないと沙羅は言うのである。かくして彼の巡礼の旅が始まった。

 “巡礼”というと、四国八十八箇所やスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラが思い浮かぶが、ここでは特に宗教的な意味は無く、“自分探し”といった感じである。
 つくるは高校時代の友人を訪ね、東京から地元・名古屋へ、さらにフィンランドへと旅をする。自分が拒絶された理由は案外あっさりわかるが、そこに次から次へと新たな疑問、謎が生じて来る。そして謎の多くは解決されない。正直、消化不良というか、欲求不満の残る内容であった。

 タイトルに「色彩を持たない多崎つくる」とあるが、本当に彼に“色彩”はないのだろうか。
 つくると沙羅以外の主な登場人物(高校時代の親友4人に加え、その後知り合う大学時代の友人や、その友人の父親が会ったという不思議なジャズ・ピアニスト)は、皆、名前に“色彩”を持っている。赤松、青海といった具合である。併せて、各々際立った個性も持っている。
 高校時代、つくるは「目立った個性や特質を持ち合わせない」、つまり“色彩”のない自分が、なぜ4人の仲間に加えられているのかわからなかった。自分は周りの人間とは違うとおぼろげに感じながらも、それが何かはわからなかったし、自分がそのグループにいる意味、役割もわからなかった。
 しかし、彼には何か特別な印(しるし)があるのだと思う。おそらく、あのジャズ・ピアニストのように選ばれた特殊な人間にしか見えない類のものであろう。このつくるの“色彩”に係る謎は解き明かされておらず、もしかすると次回作へと繋がって行くのかもしれない。

 もう一つの大きな消化不良、欲求不満の原因は、その結末。えっ、ここで終わるんだ、という唐突感というか、裏切られた感は否めない。
 村上春樹の小説では、生と死、あるいは正気と狂気が隣り合わせにあり、何かの拍子で(いや、それは必然の流れかもしれないが)違う側に変わってしまうことがよくある。そんな中、自分の世界を飄々と生きていた主人公は、大きな挫折、喪失感に傷つき、苦しみながらも、最後は女性への愛により救われる。安全な側に引き戻されるのである。
 沙羅は、『ノルウェーの森』のレイコさんと緑(彼女も名前に“色彩”を持っている!)を合わせたような役割を担っている。そのため僕は彼女によってつくるが救われるのだと思う。それに「巡礼」の結果が“死”であっては、あまりに哀しい。

エルトンとトリュフォー ~ 『ピアニストを撃て』

2013-03-25 22:00:36 | 芸術をひとかけら
 エルトン・ジョンに『ピアニストを撃つな!』というアルバムがある。1973年1月のリリース。彼が初めて全米と全英両方のチャートで1位を獲得したアルバムであり、まさに彼の黄金時代の幕開けとなったアルバムである。初めて全米シングル・チャートで1位となった『クロコダイル・ロック』や『ダニエル』などが入っている。
 このアルバムのタイトルが、フランソワ・トリュフォーの映画『ピアニストを撃て』にインスパイアされたものだと聞き、一度その映画を見てみたいと思っていた。もう30年以上前の話である。すっかり忘れていたが、先日、ふとそのタイトルを新聞で見つけ、漸く見ることが出来た。

 で、正直、「エルトン・ジョンは、この映画のどこが良かったのだろう。」というのが、僕の感想。

 『ピアニストを撃て』は1960年のフランス映画、トリュフォーの『大人は判ってくれない』に次ぐ2作目の長編映画(といっても80分程度)である。ギャング映画というか、ハードボイルドには成りきれない主人公の悲劇というか、ドタバタのB級映画というか、そんな感じの映画である。ヌーヴェルヴァーグっぽく、即興的で、ロケ中心で、低予算の映画だな、といった感じがした。
 ストーリーはいたって単純。ある事故をきっかけに輝きを失ったピアニストが、兄弟のいざこざに巻き込まれギャングに追われる羽目になり、掴みかけた愛を、そして生きる希望を失ってしまう、というものである。間に本筋とは関係ない話が入っていたり、突然過去の話になったりと、若干展開のわかりにくい所もあるが、全体にシンプルな作りである。何か伏線が敷かれていたり、推理が必要だったりということはない。見て、純粋に楽しむことは出来る。が、だからどうした、と思ってしまう。エルトンは何がそんなに良かったのだろう。

 強いて言えば、それは「愛」だろうか。映画の中で、男は女のことばかり話し、皆、女を追いかけている。一方、女は女で男のことばかり話し、男のために生きようとしている。映画のラストシーンはちょっと暗示的だった。愛する女性を亡くし、また元の単調な生活に戻った主人公に、新しい恋の芽生える可能性が・・・という終わり方。でも、エルトンは男女の愛に関心があったのかな。

クリムト『接吻』

2013-02-15 23:56:09 | 芸術をひとかけら
 昨年、ウィーンでクリムトの『接吻』を見た。クリムトの代表作であるこの絵は、ベルヴェデーレ上宮にある。ここは世界最大のクリムトのコレクションを誇る美術館である。
 クリムトというと女性ばかり描いているイメージがあるが、『接吻』は男女がキスをする姿が描かれている。男はクリムト自身、女性は彼の生涯の恋人であったエミーリエ・フレーゲがモデルと言われる。
 ふんだんに金箔が使用されたきらびやかな雰囲気の中、まさに口づけを交わそうとしている男と女。女性は恍惚の表情を浮かべ、男性に包まれ、そして二人は一つになっている。が、二人が立っているのは崖の上。愛のもろさやはかなさを現しているのだろう。

 もう随分昔になるが、この絵を、といってもポスターであるが、女性に贈ったことがある。別に色恋の話ではない。当時の僕の上司が、いつも頑張ってくれている子会社の女性に、誕生日プレゼントに絵を贈ろうと言いだしたのである。上司は、彼が1万円出すから残りを僕が出し、気の利いた絵を買うようにと言った。
 僕は困ってしまった。まず金額。二人合わせて精々2万円では、なかなか気の利いた絵は買えない。版画か、複製、あるいはポスターがいいところだろう。次に彼女の趣味がわからない。彼女は40代後半で子供が二人。何年か前に離婚したと聞いている。一方、当時の僕はまだ30前の独身。正直、おばさん(失礼!)の趣味はわからない。

 が、突然、僕は閃いた。
 「そうだ、クリムトにしよう。『接吻』がいい。ポスターなら値段も大丈夫だ。」

 なぜクリムトか?それは、彼女がよく大きな金のネックレスをしていたからであった。彼女が古代エジプト風のジャラジャラ系のネックレスをしているのを何度も見たことがある。黄金、幾何学模様、よし、きっと彼女はクリムトが好きに違いない。というわけで、僕は三越にポスターを買いに走った。
 案の定、彼女はクリムトが好きだった。特に『接吻』は大のお気に入りだと言う。僕はほっとした。

 ところで、昨年はクリムトの生誕150周年でベルヴェデーレではクリムトの特別展が開催されていた。そこでクリムトの説明を見て僕は驚いてしまった。なんと彼には14人もの子供がいたという。因みに彼は生涯独身。つまり、皆、私生児なのである。母親が何人かは書いていなかったが、クリムトがシングルマザーを何人も作ったことは間違いない。
 これを知って、「あのとき、あの絵を選んだのはまずかったかな。」と思った。そもそも、離婚した女性に男女のキス・シーンはどうかと思うし、ましてや女性の敵といえる、ふしだらな男の描いた絵である。彼女がこの事実を知らないと良いが。

 しかし、絵も私生活も、この現実離れしたところがクリムトの魅力の一つなのだろう。真面目で小心者の芸術家などつまらないと思う。

常盤新平氏に捧ぐ

2013-02-02 00:08:54 | 芸術をひとかけら
 1月22日(奇しくも僕の誕生日であるが)、翻訳家で、直木賞作家でもある常盤新平氏が肺炎で亡くなられた。81歳だった。

 “The New Yorker” は、彼がこよなく愛した雑誌である。以前、“『夏服を着た女たち』の謎(2006.8.13)”で書いたが、この雑誌や、そこに掲載されていた男女の機微や人生の悲哀を描く都会小説を日本に広めた、浸透させたのは、氏の力が大変大きい。“The New Yorker”といえば常盤新平であり、同誌を代表する作家・アーウィン・ショーといえば常盤新平なのである。

 1986年、氏は『遠いアメリカ』で直木賞を受賞された。僕は、あの『夏服を着た女たち』を訳した常盤新平の本だったので、早速買うことにした。アメリカに憧れ、ペイパーバックを読みあさりながら、不安と希望を感じつつ翻訳の勉強をする若者の話である。氏自らの青春時代を描いた作品であろう。こんな自分に何ができるのだろうと悩みながらも、自分もいつかは・・・と夢を忘れない主人公に共感したことを覚えている。そう、当時は僕も若かったのである。カバーは相当色褪せてしまったが、今でもその本を持っている。

 『遠いアメリカ』が書かれたのは30年近く前、そこで描かれていた時代は1960年前後、つまり50年以上前、さらに『夏服を着た女たち』に至っては、1940年前後から50年代に書かれた短編が収められた本である。古典とまではいかないが、古いことに違いはない。
 氏の訃報に接し、改めてこの2冊をざっと読み返してみた。が、どうしてどうして、どちらも古さなど微塵も感じさせない。特に『夏服を着た女たち』は舞台がアメリカということもあって、21世紀の日本で読んでも何の違和感もない。

 もっとも、これは単に人間のやること、考えることが、いつの時代になっても変わらないせいかもしれない。男と女は恋をする。そして駆け引きもする。人生に成功する人間もいれば、失敗する人間もいる。世渡りの上手い人間もいれば、不器用な人間もいる。遠く万葉の昔から、あるいは卑弥呼の時代から、人は本質的なところではさほど変わっていないと思う。だからこそ古典は読み継がれるのであろう。
 そして『遠いアメリカ』も、誰もが経験した、不安と夢が錯綜する青春時代を描いた作品として、人々の記憶に残って行くのだと思う。常盤新平氏のご冥福をお祈りする。

地元では不人気、『サウンド・オブ・ミュージック』

2012-09-20 00:13:40 | 芸術をひとかけら
 この夏、ザルツブルクに行った。今日は、そのとき祝祭劇場のガイドツアーで聞いた話を紹介したい。

 僕らがザルツブルクを訪れたのは、『サウンド・オブ・ミュージック』ゆかりの場所を訪ねるのが一番の目的(映画の説明は、以前“マイ・フェイヴァリット・シングス”に書いたので、そちらをご覧頂きたい)。やはり音楽祭の行われた場所、祝祭劇場の「フェルゼンライトシューレ」は外せない。というわけで、ガイドツアーに参加したのだった。

 で、ガイド氏曰く、「ザルツブルクの人は、『サウンド・オブ・ミュージック』をほとんど知りません。ドイツ語圏では全然人気ないですね。」
 えっ、僕は一瞬耳を疑った。あのミュージカルの最高傑作『サウンド・オブ・ミュージック』を知らない?ロジャース&ハマースタインの名曲の数々や、ジュリー・アンドリュースの美しい歌声を知らないって?信じられない。
 が、ガイド氏の説明を聞くと、なるほど、と合点の行く話だった。
 大きく三つの理由があるというが、一言でいえば、実話を脚色したハリウッド映画だから、ということになる。

 まず、位置関係が目茶苦茶である点。この建物の横にあの建物が出てくるのはおかしい、といったかわいいものから、そもそもザルツブルクからスイスまで400kmもあるのに山を越えて歩いて行くなんてありえない、といった驚愕の事実も。さらに、家族が力を合わせて山を登る感動のラストシーン、あの山はドイツとの国境にある山で、なんと山を下っていくとヒトラーの山荘に出るという、笑うに笑えない話まである。これでは、地元の方は映画に没頭できない、安心して観ていられないのである。

 二つ目は、誰も「エーデルワイス」なんか知らないということ。映画の中では、この曲がオーストリア国民の心の歌、愛国歌として歌われているが、実はロジャース&ハマースタインの創作である。ナチスとの併合に抵抗するかのように、フェルゼンライトシューレの観客全員がトラップ大佐と「エーデルワイス」を唱和する感動の場面があるが、その撮影は、まずエキストラに「エーデルワイス」を教えることから始まったという。やれやれ。

 最後の理由はなかなか重い。それは、オーストリアはドイツに一方的に併合されたのではなく、オーストリア国民が自ら進んでドイツとの統合を選んだということ。映画では、一部の人間はドイツとの併合に積極的であるものの、他の多くは反対だけれど何もできない、逃れようがないと考えているように描かれていた。しかし、それは違う、史実に反するというのだ。

 うーん、オーストリアって凄いな、過去の過ちを過ちとして今の世代にきっちり教えているんだ。
 日本だと、太平洋戦争を起こしたのは軍国主義だった昔の日本で今の日本とは違う、といった感じで、どこか遠い国、違う世界のことのように思っている人が多いのではないだろうか。意識の断絶。
 僕は、同じように第二次世界大戦を起こした国に生まれた人間として、恥ずかしい気持ちがした。卑屈になることはないと思うが、やはり事実は事実として受け入れるべきであり、その上で次へと進むしかないのであろう。

 逆に、オーストリアやドイツの方には、どこか遠い国の話として、フィクションとして、是非『サウンド・オブ・ミュージック』を楽しんで頂きたい。本当に素晴らしい映画なのだから。

ちょっとお洒落なファンタジー、『ミッドナイト・イン・パリ』

2012-06-21 00:36:59 | 芸術をひとかけら
 ウディ・アレン、1935年生まれ、映画監督・俳優・脚本家・小説家等々。本当に多才な方である。
 この映画を作ったのは、ウディ・アレンが75、76歳の頃。うーん、本当に恐れ入ってしまう。穏やかな年金生活を送っていたり、はたまた死んでもおかしくない(失礼!)年齢なのに、この想像力や愛情、エネルギーはいったい何処から来るのだろう。

 『ミッドナイト・イン・パリ』は大人のファンタジーである。主人公は、1920年代のパリに憧れる、アメリカ人の映画脚本家。パリを旅行中の彼が、深夜12時の鐘とともにクラシック・カーに乗り込み、21世紀から1920年代のパリへとタイム・スリップ。そこは、フィッツジェラルドやヘミングウェイといった作家や、ピカソやダリといった画家など多くの芸術家が活躍する、華の都、芸術の都パリ。まさにその絶頂期。毎夜繰り広げられるパーティー、狂乱の日々。彼は想う、ああ、この世界に暮らすことが出来れば、と。
 ファンタジーなので、あまり細かいことを気にしてはいけない。例えば、どうして簡単に稀代の天才と知り合うのかとか、当時のお金は持っていないのにとか、あるいは、さえない中年男なのに何故美女と恋に落ちるのか、等々。ファンタジーに?は要らない。ただ信じる、素直にその世界に入り込むだけである。

 彼は脚本家として成功し、そのうえ裕福な家の美しい娘と婚約している。間違いなく勝ち組、上位1%側の人間といえよう。が、彼は、金儲けのためにシナリオを書き散らすことを止め、小説を書く、それもジャズ・エイジの作家のように、パリに暮らし、パリで小説を書きたいと考えている。フィアンセのことを愛しているが、そんな彼の夢を理解しない彼女との間に最近隙間風が・・・。
 そんなとき彼は、1920年代のパリで絶世の美女に出会い、一目惚れする。この世界で彼女と暮らし、小説を書く、それは彼が想い続けてきた夢。しかし、フィアンセを捨てることもできない。二人の間、さらに二つの世界の間で、揺れ動く乙女心、もとい中年男の心。
 結末は是非映画をご覧頂きたいが、彼は最後に現実を選ぶ。地に足のついた生活を選ぶ(ように思える)。

 「隣の芝生は青い」と言うように、厳しい現実を前にすると、人はつい別の時代や別の世界に憧れてしまう。夢、あるいは現実逃避。生きて行くのは本当に大変だし、厳しく、辛いことばかり。いきおい、あの時代は本当に華やかだった・自由だったなど、違う時代に憧れ、礼賛してしまう。
 しかし、実際はどうだろう。映画の中でも、1920年代の美女は1890年代、世紀末のパリが最高だと言い、一方、世紀末のドガやロートレックはルネッサンスが理想だと言う。つまるところ、結局は『オズの魔法使い』ではないが、“There's no place like home.”という気がしてならない。
 嫌なことから逃げることなく、与えられた今を大事に生きて行きたい。そんなことを考えさせられた映画だった。

p.s. 前にもウディ・アレンのことを書いているので良かったらご覧ください。【久々のウディ・アレン、『マッチ・ポイント』】

ディケンズよりも『ア・ラ・カルト2』

2011-12-09 22:41:01 | 芸術をひとかけら
 「クリスマスには、心温まる話に触れ、嫌なことなど忘れて、他人(ひと)にやさしくなれる人間になりたい。」

 そう思っている貴方、ディケンズの『クリスマス・キャロル』なんかを読んでいてはいけない。有名だけども詰らない。僕は、高泉淳子さん主演の『ア・ラ・カルト2 ~ 役者と音楽家のいるレストラン』を是非お勧めしたい。

 以前、年末恒例で『ア・ラ・カルト ~ 役者と音楽家のいるレストラン』という舞台を見ていると書いた(『カエルの王子が導く超個人的恋愛作法』(2009/6/6))。劇団「遊◎機械/全自動シアター」を支えた面々、白井晃、高泉淳子、陰山泰と、バイオリンの中西俊博率いる音楽家による、笑いあり、歌あり、涙あり(?)の楽しい舞台である。なんと1989年から2008年まで20年も続いた。

 20周年を機に白井、陰山両氏が卒業。そして高泉さんが新たにパントマイムの山本光洋と本多愛也を従えて始めたのが、この『ア・ラ・カルト2』である。
 2009年は『ア・ラ・カルト ~リニューアルオープン 準備中~』とのタイトルで公演され、翌2010年に『ア・ラ・カルト2』として再開された。正直、この二つの公演は、ちょっと物足りないな、前の方が良かったな、という感じであった。
 が、どうしてどうして、今年の『ア・ラ・カルト2』は出色の出来である。以前と比べて遜色ない、いや以前を超えたかもしれない。僕は12/3、初日の舞台を見た。今はさらに完成度が上がっているに違いない。

 ストーリーはというと、クリスマスの夜、とあるフレンチ・レストランで繰り広げられる悲喜こもごもの人間模様である。待ちぼうけ、恋の予感、そして『徹子の部屋』風のゲスト(12/3は俳優の池田鉄洋だった)とのトークもあれば、歌と踊りのショータイムもある。詳しくは見てのお楽しみということで書かないが、絶対損のしない3時間だ。
 幕間には協賛のメルシャンのワインが安く振舞われる(舞台では高そうなワインが飲まれているが・・・)。僕らは、慣れたもので、近くの紀ノ国屋でつまみを買ってから行く。心もお腹も満ち足り、やさしく、ちょっと幸せな気持ちになる。

 『ア・ラ・カルト2』は青山円形劇場で12月25日(日)まで。
 慌ただしい年の瀬、一息ついて、ちょっぴり心温まる一時(ひととき)をどうぞ。

演奏会1回分の幸せ

2011-04-27 00:50:20 | 芸術をひとかけら
 昨日、読売日響の演奏会に行った。冒頭、東日本大震災の犠牲者追悼の意から、オリヴィエ・メシアンの『忘れられた捧げもの(交響的瞑想)』から「聖体」が演奏された。
 震災で1万4千人もの方が亡くなられた。ご冥福をお祈りしたい。そして震災からもう一月半経つというのに、未だ1万2千人弱もの方が行方不明である。一日も早く、何か手掛かりが見つかれば良い。

 震災で被災された方々の多くは、まだオーケストラの演奏を聴く状況になどないと思う。いや、そもそも音楽を聴く気にすらならないのかもしれない。
 しかし、音楽は、悲しいときは慰めになり、辛い時は励ましになり、我々に夢や希望を感じさせてくれるものだ。被災地の方が、音楽を聴こうという気持ちに早くなれるよう祈りたい。

 昨日の演目にスメタナの『モルダウ』があった。有名な『わが祖国』の中の1曲である。ベートーヴェンが聴覚を失った中でも音楽への情熱を失うことなく、かつ第九をはじめとする名曲を作曲したことは有名である。が、実はスメタナも晩年聴覚を失い、その中で『わが祖国』を作曲したのであった。祖国チェコを、その美しい自然を想い、書かれた曲である。幾多の苦難を乗り越え、そして故郷のことを思って作られた曲である。
 岩手、宮城そして福島で、皆が明日への希望を持って、あるいは新たなスタートへの期待を感じて、『モルダウ』を聴ける日が来ることを願ってやまない。

 ところで、以前も書いたが、この7、8年、読売日響の年間会員券を買っている。今まではA席、サントリーホールの2階の中ほどの席だった。更新のたびにS席に変えようとしたのだが、電話が繋がらないは、漸く繋がってもS席に空きはありませんとのつれない返事で、変更できなかった。それが昨年の更新の際は簡単に電話が繋がり、これまた簡単にS席が採れた。
 今度の席は1階の中ほどである。不況の影響に加え、クラシック・ファンの高齢化の影響もあるかもしれない。何はともあれ、念願の1階進出。そして昨日が1階デビューの日であった。
 2階と1階では、やはり臨場感が違う。指揮者の動きがはっきり見える。人も楽器も、何もかもが大きく見える。心なしか、音も良く響くように思えた。会員券の販売が終わった後、S席だけ1回券が千円値下げされ年間会員券のお得度が下がるという酷い仕打ちを受けたものの(せこい話ですみません)、そんなことは忘れ、演奏を心行くまで堪能できた。そして、ささやかな幸せを感じることができた。

 僕は歌も上手く歌えないし、楽器も演奏できない。ましてや、被災地に行き、そこにいるだけで人々に感動を与えたり、勇気付けられる人間でもない。出来ることといえば、こうして皆の明日を信じ、祈ることだけ。
 たまたま先月の読響の演奏会が震災の影響で中止となり、会場でその払い戻しがあった。僕は受け取ったお金をそのまま募金箱に入れた。演奏会1回分の幸せが、皆に届くことを願って。