縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

高村光太郎の人生

2006-05-12 22:03:18 | 芸術をひとかけら
 一つだけ諳んじることのできる詩がある。高村光太郎の「道程」だ。“僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる”という、あの詩である。先日、本箱から『智恵子抄』を取り出したとき、一緒に他の光太郎の詩集も出した。懐かしさから、ぱらぱらとページを繰った。

 初めて「道程」を読んだのは中学2年の時だ。「道程」は元々百行に及ぶ長い詩だったそうである。それが詩集『道程』に収められるにあたり、今の短い形に変えられた。この詩は、自分の人生は自分で切り開いて行かねばならない、という決意を表したものである。
 僕は若いときに「道程」に出会うことができ幸運だったと思う。苦しくても逃げるわけにはいかない。誰のでもない、自分の人生なのだから。勇気を持って前に進んで行こう。と、前向きに考えることができた。無論、いつもそうだとは言えない。泣きたいときもあれば、飲んですべてを忘れたいと思うときもある。が、良くも悪くも、一度きりの自分の人生、自らが頑張るしかない、と気持ちを切り替えることができたのは、多分にこの「道程」のお陰ではと思う。

 時間に余裕ができたら(定年でリタイアするか、宝くじにあたって悠々自適になるか)、高村光太郎のことを調べ、本を書きたいと考えている。
 詩人、彫刻家としての彼、若くしてアメリカ、イギリス、フランスの生活を経験し近代的自我を確立した光太郎、そして父、高村光雲との反目、デカダンの日々。光太郎の人生は智恵子との出会いで大きく変わった。陳腐な言い方だが、正に運命の出会いだった。しかし、愛に満ちた、充実した生活の中で、智恵子の実家の破産、光太郎に尽くし自らは芸術を諦めたという苛立ちや怒りの鬱積からか、次第に智恵子の精神は病んでいく。智恵子を献身的に看護する光太郎。二人の愛というか、精神的な繋がりの深さは本当に計り知れない。

 光太郎は欧米で暮らし自由を知っていたにも拘わらず、天皇崇拝者であった。戦時中は愛国詩というか、戦意高揚のための詩を自ら進んで書いている。これは父、光雲の影響であろう。彫刻では光太郎以上に評価の高い光雲だが、彼の明治天皇への崇拝は尋常ではなかった。御前制作の際、天皇の膝より上は畏れ多くて見ることができない、見ると目がつぶれると彼は言っていたそうだ。光太郎はこんな父の下で育ち、かつ父のことを大変尊敬していたのである。
 ところが、戦後、事実を知った、つまり大本営発表を鵜呑みにしてきた自分が愚かだったと悟った光太郎は、それを恥じ、岩手の山小屋に篭る。自らの道を求め、かつ妥協しない、彼の厳しい一面が表れている。

 こうして光太郎の人生を振り返ると、本当に波瀾にとんだ、激動の人生である。それに引き替え僕の人生は・・・・。一生懸命生きてきたつもりだし、会社を飛び出したし、プータローも経験したし、うーん、だけど、やっぱり平凡かな。いや、人生、まだまだ先は長い。新たな道を、新たな可能性を切り開いて行きたい。

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