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英語脳をつくる!~日本人はいかに効率良く英語を学べるか~

英語学習に関する事いろいろです。日本人がいかにすれば実用英語を身に付けられるか、その最短距離を考察!

英語学習法(87)

2005年05月24日 | 主語
EG85と、EG86に続いて、今回、新たなタイプの構文の検証をします。以下、見ましょう。

(1)Tom is kind to help Mary. (トムは、メアリーを助けるなんて、親切だね。)
(2)Tom is eager to help Mary. (トムは、メアリーを助けたがっているよ。)

(1)と(2)は、両方とも、OKとなる英語です。(1)は、‘be kind’「~ は親切だ」に、その「判断の根拠」となる意味を示す、副詞用法の‘to’不定詞を付け足したものです。 (EG85、EG86、参照) 一方、(2)は、よく、「‘be eager’+‘to’不定詞」、のカタチで、「しきりに ~ したがっている」、と覚えるように習う構文ですね。

そして、(1)と(2)は、よく見ると、両方とも、その姿カタチは、「‘be’動詞+形容詞+‘to’不定詞」であり、外観上、全く同じ構文であるかのように見えます。そこで、今回は、(2)のような、‘be eager’を述語にするタイプの構文を、見てみたいと思います。

(3)It is kind of Tom to help Mary. (〇) (訳同(1))
(4)It is eager for Tom to help Mary. (×) (訳同(2))

そこで、まず、(1)から(3)への書きかえですが、OKになります。しかし、一方、(2)から(4)への書きかえは、アウトです。このことから、‘be eager’は、‘be kind’ほどには、主語に対する制限が、ゆるくない、と言えます。しかし、そもそも、‘be kind’にしたって、それほど、主語に対する制限が、ゆるいわけではないことは、EG85と、EG86で、見たとおりです。

(5) a. Mary is kind to give a charity concert in the village. (〇)
    (メアリーは、その村でチャリティーコンサートをやるなんて、親切だね。)

   b. There is kind to be a charity concert in the village. (×)
    (その村で、チャリティーコンサートをやるなんて、親切だね。)


(6) a. Mary is likely to give a charity concert in the village. (〇)
    (メアリーは、その村で、チャリティーコンサートをやりそうだぞ。)

   b. There is likely to be a charity concert in the village. (〇)
    (その村で、チャリティーコンサートをやりそうだぞ。)

そこで、確認になりますが、(5a-b)のペアは、「‘be kind’+‘to’不定詞」の構文です。(5a)はOKでも、一方、(5b)はアウトです。それは、主語に対して、一応、意味的な制限があるからで、特に、意味内容をもつとは、考えられないような主語、‘there’構文の‘there’が、主語になったりすることはありません。

しかし、その一方で、(6a-b)のペアは、両方とも、OKになります。(6a)は、(5a)の‘kind’を、‘likely’に取りかえただけです。そして、同様に、(6b)も、(5b)の‘kind’を、‘likely’に取りかえただけです。そこでは、(6a)がOKになるのは、もちろんのこと、‘there’構文の‘there’が、主語になる(6b)までも、OKになります。

つまり、この点、「‘be kind’+‘to’不定詞」の構文は、「‘be likely’+‘to’不定詞」の構文ほどには、主語に対する制限が、ゆるくはない、と言えます。そこで、「‘be eager’+‘to’不定詞」の構文に戻ると、(2)がOKで、(4)がアウトですから、この構文は、「‘be kind’+‘to’不定詞」の構文よりも、主語に対する制限が、きついとは言えます。

しかし、逆に、共通点としては、(1)と(2)を見ると、わかるように、その主語が、‘to’不定詞の部分における、主語の役割も果たしている、ということです。つまり、「2つの述語に対して、1つの主語」、が成り立っています。そこで、今度は、後続する‘to’不定詞の部分を消してみます。

(7)Mary is kind. (〇) (メアリーは親切だね。)
(8)Mary is eager. (×) (メアリーは熱心だね。)

(7)の‘be kind’は、独立した文として、OKになりますが、一方、(8)は、基本的に、アウトです。ここで、注意すべきは、(7)と(8)は、どちらも、学校で習うような、英文法の基本文型としては、「主語+‘be’動詞+形容詞」のカタチで、文法的であり、全く問題なし、であるはずなんですが、確かに、(8)は、独立した文としては、アウトなんです。これは、どうしてなんでしょうか。

普通、「主語+‘be’動詞+形容詞」のカタチは、‘She is beautiful.’「彼女は美しい。」や、‘He is tall.’「彼は背が高い。」、といった類の構文として、扱われるのですが、しかし、どうやら、(8)のような文には、単純に、カタチの上でのみ、文法性を判断してはならない要因が、含まれているように思われます。

(9)Mary is eager in her hobbies. (〇) (メアリーは、趣味に関しては熱心だよ。)
(10)Mary is eager about the job. (〇) (メアリーは、その仕事には意欲的だよ。)

そこで、(9)や(10)のようにすると、‘be eager’の文は、OKになります。(9)と(10)では、‘is eager’「熱心だ、意欲的だ」の後に、いわゆる、その「熱意」や、「意欲」の対象となる表現、‘in her hobbies’「趣味において」や、‘about the job’「その仕事に関して」、を置いてみたわけですね。

このように、‘be eager’という述語が、意味的に要求していると思われる、「対象」の意味になる表現を置くと、OKになり、一方、置かなければ、アウトになる、という事実があると、実は、この‘be eager’という述語の振る舞いには、EG46や、EG81などで検証した、「前提」の概念がはたらいているのではないか、と思われます。 (EG46、EG81、参照)

さらに、(8)がアウトであることからは、(2)における‘to’不定詞、‘to help Mary’も、‘be eager’の前提とする、「対象」となる表現、ということになります。そこで、文の骨格とは、なり得ないような、いわゆる、「副詞的用法」の‘to’不定詞として、(2)の、‘to help Mary’を扱う、つまり、(1)における、‘to help Mary’と、同じステイタスをもつ、というような扱いをするのは、ちょっと、無理があるのではないか、と思われます。 (EG42、参照)

このことは、EG42で、副詞的用法の‘to’不定詞を扱う際に、少しだけ、触れてはいたのですが、やはり、カタチの上から、副詞的な扱いを受ける、‘to’不定詞であっても、そこには、どうやら、まるで、白から黒に向かうプロセスに、グレーゾーンが存在するような、「段階性」、とでも言うべき概念が存在するように思われます。

「前提」の概念は、カタチのみからの判断では、把握しきれない文法性に対して、その理解を補強してくれる、重要な概念となるものですが、(7)と(8)のような文法性の違いは、やはり、まず、「前提」の概念が絡んでいる、と見てよいでしょう。

今回のポイントは、‘eager’の構文を、可能な主語、という観点と、その後に続く‘to’不定詞のステイタス、という2つの観点から、考察してみました。そこで、‘eager’の構文は、‘kind’の構文ほどには、その主語に対する制限が、ゆるくない、ということに加えて、‘eager’に後続している‘to’不定詞は、カタチの上では、副詞的用法の‘to’不定詞と言えども、なくてはならない、必須の要素である、という、学校で習うような英文法からは、説明不可能な立場にある表現である、ということを検証しました。

この点については、まだ、もうちょっと、考察すべきポイントがありますが、また別の機会ということで。

●関連: EG42EG46EG81EG85EG86

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英語学習法(86)

2005年05月23日 | 主語
EG85の続きです。EG85の議論に、さらなる確認を加えます。以下、見ましょう。

(1)Tom is kind to help Mary. (メアリーを助けるなんて、トムは親切だね。)
(2)It is kind of Tom to help Mary. (訳同上)

EG85では、(1)をベースにして、(2)の構文が、派生的に成り立つ、つまり、(2)がベースで、(1)が成り立つのではない、ということを確認しました。そこで、(1)の主語である‘Tom’「トム」は、もちろん、述語が、‘is kind’「親切だ」の部分ですが、同時に、メアリーを助けたのも、トムであることから、その「判断の根拠」となる、‘to help Mary’「メアリーを助けるなんて」の、主語も兼ねています。

つまり、見方を変えれば、「2つの述語に対して、1つの主語」、という考え方もできる、ということになります。もちろん、主語‘Tom’に対して、‘is kind’の方が、文の骨格をなす必須の述語であり、一方、‘to help Mary’の方は、副詞的用法の‘to’不定詞になるので、それぞれの文法的ステイタスは違います。 (EG42参照) 今度は、以下の文を見ましょう。

(3)It is likely [ that there will be snow next week ]. (〇) (来週は雪になりそうだね。)

(4)There is likely [ (that) _ will be snow next week ]. (×) (訳同上)

(5)There is likely _ to be snow next week. (〇) (訳同上)

そこで、(3)のような構文ですが、これは、(5)のような書きかえが可能です。つまり、‘that’節内の主語を、‘is likely’の主語位置まで、移動させることが可能です。とは言っても、‘that’節は、その際、‘to’不定詞に書きかえることが条件になっていますので、(4)のままでは、アウトになります。 (EG83参照)

そして、(3)の、「‘it is likely’+‘that’節」から、(5)の、「‘be likely’+‘to’不定詞」のカタチへの変形は、EG62の、‘seem’構文の変形パターンと同じなので、‘seem’構文の仲間である、ということが、わかると思います。 (EG62、参照)

そこで、(1)と(5)の構文のカタチを、比較してみると、そのカタチは、全く同じ姿をしていることが、わかると思います。つまり、「主語+‘be’動詞 +形容詞+‘to’不定詞」のカタチです。そして、かつ、(1)と(5)の両方とも、「2つの述語に対して、1つの主語」、という特徴まで同じですね。

(3)の‘there’は、‘will be snow next week’を述語としていましたが、移動後の(5)では、‘there’は、‘is likely’を述語とする、主語になっています。ただし、ちょっと、注意すべき相異点もあります。

(6)Tom is kind. (〇) (トムは親切だね。)

(7) a. It is likely [ that Tom will win ]. (〇) (トムが勝利しそうだね。)

   b. Tom is likely _ to win. (〇) (訳同上)

   c. Tom is likely. (×) (トムがしそうだね。)

(6)は、(1)の後半部分の‘to’不定詞を消した文ですが、全くOKです。そして、(7a)から(7b)の書きかえは、(3)から(5)の書きかえと同じく、‘be likely’ (‘seem’の構文)を用いたものです。ここで、(7c)は、(7b)の後半部分の‘to’不定詞を消したものですが、OKである(6)とは違って、基本的には、アウトになってしまいます。

そもそも、(7c)は、それ自体、日本語に訳そうとしても、意味不明です。ここから、やはり、姿カタチが同じであっても、その成り立ちの違いが、(6)と(7c)の可否として表れている、と言えそうです。つまり、(1)がまず最初にあって、(2)がある、とは言えますが、一方、(7a)と(7b)の関係は、(7a)がまず最初にあって、(7b)がある、と言わなければならない、ということです。

これは、当然のことながら、(1)では、‘Tom is kind’という、独立した文に対して、あとから、その「判断の根拠」を、‘to’不定詞にして、くっつけているだけなんですが、一方、(7b)は、本来的に、‘Tom’が、‘win’「勝利する」の主語だからです。

(8)There is likely. (×) (‘there’がありそうだね。)

このことは、(3)と(5)の関係からも、より一層、明らかで、‘there’は、あくまでも、there’構文である、‘there will be snow next week’の、重要な1つのパーツである、ということからしても、(3)がまず、最初にあって、そこから、(5)が、変形によって派生される、と考えれば、なぜ、(5)では、‘there is likely ~’という、単語の並びが許されるのか、そして、一方、(8)は、なぜ、アウトなのか、一挙に説明されることになります。 (EG62、EG74、参照)

(9) a. It is kind of there to be a vending machine in the park. (×)
    (その公園は、自販機があるなんて、親切だね。)

   b. There is kind _ to be a vending machine in the park. (×) (訳同上)

今度は、「‘of’~ ‘to’不定詞」の構文に、‘there’構文を使って、‘of there to be a vending machine in the park’とした、(9a)から、(9b)への変形ですが、もともと、(9a)はアウトです。ですので、アウトである、(9a)から、‘there’を、‘is kind’の主語位置に移動した、(9b)もアウトになるだけのことです。ここからも、‘be kind’が、主語に対して、予め、意味的な制限を課していて、「ヒト」を指定しているから、という説明が、成り立つようです。

(10)It is kind of Tom. (〇) (トムは親切だね。)
(11)It is kind of there. (×) (‘there’は親切だね。)

今度は、(10)と(11)の比較ですが、(10)は、OKになります。これは、(2)から、副詞用法の‘to’不定詞、‘to help Mary’を消したものですが、それでも、OKになるのは、(10)が、意味的に独立し得る、と判断されるからで、ここから、どうやら、‘of ~’は、‘to’不定詞の主語も兼ねるが、それよりも、‘kind’にかかる表現としての特性の方が強い、と見てもよさそうです。

一方、(11)は、アウトですが、これは、もちろん、この文が、意味的に独立し得ないし、それに加えて、‘there’構文の‘there’は、必ず、どこかに、(本来的な) 述語としての表現がなければならない、典型的な、「主語」専用の表現だからですね。 ((3)と(5)がOKで、一方、(8)がアウトであることも、確認して下さい。)

今回のポイントは、(1)から(2)への変形パターンは、独自の特徴を備えている、ということを検証した、ということです。EG85でも、大雑把には確認していましたが、(1)のような構文があると、‘Tom’は、‘is kind’に対しての主語である、と同時に、後続する‘to’不定詞の主語でもある、という側面があります。

そこから、(2)を見ると、‘be kind’に付随している‘of ~’は、あたかも、「‘of’~‘to’不定詞」のカタチになった時点で、1つのカタマリのように感じられる印象があったわけですが、実は、それほど、強いカタマリではない、ということなんですね。

ここから、1つの結論として、「性質」を表している形容詞‘kind’に、くっついている‘of ~’は、文法的には、あくまでも、‘kind’の方にかかっている (依存している) 表現であり、そのボーナス的な効果として、偶然、後続する‘to’不定詞の主語の役割も兼ねている、という見方が有力です。‘to’不定詞が後続していない、(6)と(10)の例が、OKであることからも、この考えは、支持されると思います。

ですので、カタチが似ているからといって、‘seem’の構文 (今回は、その仲間となる述語、‘be likely’) と、同じようなものだ、と錯覚して、(2)から(1)への変形を、安易に想定してしまうと、(2)における、「‘of’~‘to’不定詞」のカタチが、1つのカタマリのように感じられて、日本語の側から表現しようとする際に、うっかり、(9a)のような英語をやってしまうことがあるので、要注意です。

●関連: EG42EG62EG74EG83EG85

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英語学習法(85)

2005年05月11日 | 主語
日本語の側から、英語を考えるとき、よくやる間違いです。以下、見ましょう。

(1)オレは、世界征服なんて簡単だよ。
(2)私は、世界征服なんて不可能ですよ。

(1)や(2)の日本語は、普通に、OKですが、じゃ、これらを英語では、どう表現するか、ということになるんですけど、まず、以下のように表現してしまうことが、多いみたいですね。

(3)I am easy to conquer the world. (×) (訳同(1))
(4)I am impossible to conquer the world. (×) (訳同(2))

何と、(3)や(4)は、アウトなんですが、じゃ、どうすればOKになるんだ、ということですね。そこで、この場合、「‘it’~ (for ・・・) ‘to’不定詞」のカタチをした構文で、対応させることなら、可能ということです。

(5)It is easy for me to conquer the world. (〇) (訳同(1))
(6)It is impossible for me to conquer the world. (〇) (訳同(2))

(5)と(6)は、OKになる、ということなんですが、(3)と(4)の主語である、‘I’「オレ」、(または、「私」)を、‘for me’として、‘to conquer the world’「世界を征服する」、の直前に、もっていったわけですね。‘I’が退いた主語位置には、かわりに、形式主語の、‘it’が入り込みます。 (EG84参照)

ここで思い出して欲しいのは、EG23で扱った、‘easy’構文ですが、そこで確認したのは、‘easy’構文は、‘to’不定詞内の「目的語」を、移動する構文である、ということです。そして、その目的語の移動先は、以下のように、‘be easy’や、‘be impossible’の主語位置です。

(7)The world is easy (for me) to conquer _ . (〇) (訳同(1))
(8)The world is impossible (for me) to conquer _ . (〇) (訳同(2))

(5)~(8)を見て、その全てが、OKになる、ということなんですが、一方、(3)と(4)はアウトなんですね。日本語である(1)と(2)の側からすれば、(3)と(4)こそ、OKになって欲しいところなんですが。つまり、英語の主語には、単純に、日本語の、「~ は」で、対応させることができないものがある、ということです。

(9)Tom is kind to help Mary. (メアリーを助けるなんて、トムは親切だね。)
(10)It is kind of Tom to help Mary. (訳同上)

今度は、(9)ですが、これは、‘Tom is kind’「トムは親切だ」に、その判断の根拠を表す、‘to help Mary’「メアリーを助けるとは」が、くっ付いているものです。‘kind’「親切な」、という形容詞は、もちろん、ヒトの性質を表現している、と言えます。ですので、その主語は、‘Tom’となっていて、OKになるわけですね。

しかし、一方で、英語では、(10)も、OKになるのです。これは、‘kind’の意味がもっている特性からは、予測不可能なカタチですので、よく、(9)から、(10)への書きかえはパターン化されて、覚えるようになっています。

ポイントは、あたかも、‘of ~’の部分が、「‘for’~ ‘to’不定詞」のカタチをとる構文における、‘for ~’と同じように、‘to’不定詞の主語の役割を果たしている、ということです。ですので、‘of Tom’が主語で、‘to help Mary’が、述語の役割を果たしている、と言ってもよいでしょう。

(11)For Tom to help Mary is impossible. (〇)
  (トムがメアリーを助けるなんて、不可能だよ。)
(12)Of Tom to help Mary is kind. (×) (訳同(9)).

しかし、今度は、(11)と(12)を比較すると、明らかに、その文法性に、差が出てしまいます。(11)は、基本的にOKですが、‘is impossible’を述語として、主語に、「‘for’~ ‘to’不定詞」のカタチがきています。しかし、一方で、(12)はアウトで、‘is kind’を述語として、主語に、「‘of’~ ‘to’不定詞」のカタチがきています。(ただし、(11)は、主語が、述語と比べて、情報量が多すぎるため、座りが悪い文である、との判断を受けます。 (EG84参照))

そこで、問題は、(12)が、なぜ、もともと、全くダメなのか、ということですが、これは、‘impossible’と‘kind’の意味的な特性の違いに帰する問題、としか言えないもので、本来的に、‘be impossible’は、「ヒト」が主語でなければならない、などという、意味的な制限はなく、「‘for’~ ‘to’不定詞」全体のカタチが、その主語になっても、基本は、OKです。

しかし、一方、‘be kind’の場合は、あくまで、‘of ~’で表現されるものが、その本来的な、もともとの主語であり、かつ、「ヒト」、という指定を受けています。つまり、「‘of’~ ‘to’不定詞」全体のカタチが、‘be kind’の主語になるわけではない、ということなのです。ですので、どのようなカタチになろうとも、この指定を無視したものは、アウトになります。

(13)a. It is easy to use yellow on the blackboard. (〇) (黄色は、黒板には使いやすいね。)
   b. Yellow is easy to use _ on the blackboard. (〇) (訳同上)

(14)a. It is kind of yellow to be used on the blackboard. (×)
    (黄色は、黒板に使われると、親切だね。)
   b. Yellow is kind _ to be used on the blackboard. (×) (訳同上)

主語に指定がない、ということに関してですが、例えば、(13a-b)にあるように、‘easy’構文では、ただ、‘to’不定詞内の目的語が、主語として、移動してくるという、決まりがあるだけです。ですので、たまたま、移動の対象である目的語が、ヒトであった場合、偶然、ヒトが、‘be easy’の主語位置に移動してくるだろうし、一方、モノが目的語なら、モノが主語位置に移動してくるだけのことなんです。

しかし、(14a-b)が、両方とも、アウトであることからも明らかなように、‘kind’は、主語として取れるものに、「ヒト」という、意味的な制限が、課されています。これを、詳しく述べると、(14a)が、まず最初にあって、(14b)が変形によって派生された、と考えることはできない、ということです。

日本語にしてみても、わかるように、「黄色は親切だ」とか、「そのイスは親切だ」、などと言っても、ナンセンスですからね。これとは逆に、例えば、OKである(9)と(10)を考えてみると、むしろ、(9)が基本であって、派生的に、(10)もまた、成り立つ、というような印象があります。そして、この印象は、正しいのです。

やはり、‘easy’構文とは違って、(9)や(10)は、あくまでも、述語である、‘be kind’に、予め、「ヒト」が主語になる、という指定がなされていて、場合によっては、その主語が、‘of ~’というカタチになり、‘be kind’の後方にまわった後、‘it’が挿入される、特殊なケースの構文である、と考えてよいでしょう。

今回のポイントは、「主語・述語」の関係では、あくまでも、予め、述語の側から要求する主語に、制限範囲の大小がある、ということです。同じ形容詞でも、‘easy’や‘impossible’に課されている制限と、‘kind’に課されている制限は、もともと、違っている、ということです。これは、一見、当たり前で、簡単なようでいても、日本語の「~ は」につられて、つい、うっかり、(3)や(4)のような間違いをやってしまいます。

一方で、日本語の感覚からは、(10)のような、構文の存在を見過ごしてしまいます。さらに、(10)の存在を知ったからといって、(12)のようなカタチにすることもできないし、(14a-b)のようなカタチにすることもできません。英語には、カタチが似ている構文が多いので、まぎらわしいのですが、その大半は、述語の特性を知ることで、可能な変形が制限されてきますので、今回、ひとまず、その一部を知った、ということで。

●関連: EG23EG84

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英語学習法(84)

2005年05月08日 | 主語
形式主語の‘it’と呼ばれるものを扱います。以下、見ましょう。

(1)John believes the story. (ジョンはその話を信じている。)

(2)John believes [ that Tom loves Mary ]. 
  (ジョンは、[ トムがメアリーを愛していると ] 信じている。)

(1)は、他動詞の‘believe’「~ を信じている」が、目的語の‘the story’「その話」を取っていますが、一方、(2)では、同じく、‘believe’が、‘that’節である、‘that Tom loves Mary’「トムがメアリーを愛している (と)」、を取っています。ここから、‘that Tom loves Mary’は、他動詞‘believe’の目的語としてはたらいている、ということになります。(EG41参照)

(3)The story is believed by John. (その話は、ジョンに信じられている。)

(4) [ That Tom loves Mary ] is believed by John.
  ([ トムがメアリーを愛していると ] ジョンに信じられている。)

能動文である(1)を、受身文にしてみると、当然、(3)になります。能動文から、受身文を生成する条件としては、まず、「目的語」が、主語になる、というカタチの上での制約がありました。(EG35参照) ですので、その約束に従って、同じく、(2)の目的語である、‘that Tom loves Mary’を、主語位置に移動させて、受身文(4)をつくってみたわけですね。

しかし、どうも、受身文(3)とは違って、受身文(4)は、あまり、座りがよくない感じがするそうです。別に、能動文から受身文をつくる際、そのルールを無視したわけではありません。ちゃんと、「目的語」として、認められている‘that’節を、主語位置に移動したわけですからね。そこで、とりあえず、こういった問題を回避するため、以下のようにするのが、通例となっています。

(5) It is believed by John [ that Tom loves Mary ]. (訳同(4))

(5)は、(4)よりも、はるかに座りがよい文なんだそうです。カタチとしては、‘it’を主語に立てた後、‘that’節には、後方にまわってもらう、ということですね。この‘it’は、通常の代名詞の‘it’とは、ちょっと性質が違うものです。

(5)の‘it’は、通常の代名詞‘it’とは違って、何を指すのかは、文脈から選ぶ、といったものではなく、必ず、本来、‘it’が相手にするべき表現が、‘that’節である、というように、予め決まっているという、約束があります。ですので、「‘it ~ that節’の構文」、などとパターン化されて、教わることになっています。

(6) [ That Tom loves Mary ] is predictable.
  ([ トムがメアリーを愛しているなんて ] すぐ予想ついちゃうね。)
(7) It is predictable [ that Tom loves Mary ]. (訳同上)

ところで、「‘it ~ that節’の構文」が、適用される条件は、何も、(4)のような、受身文に限ったことではありません。(6)のような、「‘be’動詞 (is)+形容詞 (predictable)」、の場合にも、(7)のように、適用は可能です。というよりも、どういったカタチが、「‘it ~ that節’の構文」に適用が可能かは、基本的には、あまり、受身文がどう、「‘be’動詞+形容詞」がどう、といった、単純に文法上の問題であるとは、言い切れません。

しかし、やはり、(4)より(5)の方が、座りがよい、と判断されるのと同様に、(6)よりも(7)の方が、座りがよい、といった、共通の判断があります。そこで、こういった問題は、むしろ、英語における、文のスタイル、つまり、文体的バランスの問題、と言ってもよいようなことが、原因であると考えられます。

例えば、(3)と(4)の主語を比較すると、その長さが、やはり、(4)の‘that’節の方が単語の数が多い分だけ、長いですね。そして、その表している内容に関しても、単語の数が多くなった分だけ、情報的な量が、どうしても多くなってしまいます。

そこで、そういった、主語は、述語と比較してみて、どうも重たい感じがするので、何とかして、主語を軽くしようとする意図がはたらくようなのです。つまり、「重いもの」は、後 (つまり、右側) にまわってもらい、その空いた位置には、「軽いもの」 (つまり、‘it’) を置く、といった発想なんですね。

ですので、この、「‘it ~ that節’の構文」は、一見、文法の問題のように見えるんだけれども、その発動のトリガーとなる原因は、実は、あくまでも、その伝達しようとする、「情報量」といった、どちらかと言えば、意味的な要因によるものだ、と言えるのです。ここが、実に、ややこしい問題なんです。

(8)It is impossible for Tom to deceive Mary. (〇)
  (トムがメアリーを騙すことは、不可能だよ。)
(9)To deceive Mary is impossible for Tom. (〇) (訳同上)

ちなみに、(8)のような文は、「‘it ~ (for A) ‘to’不定詞’の構文」、と呼ばれています。そして、この構文における、‘it’のはたらきも、「‘it ~ that節’の構文」の‘it’と、理屈は全く同じです。

そこで、(8)の‘it’は、‘to’不定詞の部分、‘to deceive Mary’「メアリーを騙すこと」、を受けています。そして、この不定詞表現を、主語位置に移動させて、(9)をつくってみます。 (もちろん、‘it’には、退場してもらいます。) そこでは、この移動そのものは、何の問題もなく、OKになりますので、「‘it ~ (for A)‘to’不定詞’の構文」は、‘it’が、不定詞だけを受けることもあるんですね。

(10)For Tom to deceive Mary is impossible. (訳同(8))

今度は、(8)から、‘for Tom to deceive Mary’を移動させました。 (もちろん、ここでも、‘it’には、退場してもらいます。) ‘for Tom to deceive Mary’の部分は、 ‘For Tom’が、主語で、‘to deceive Mary’が、その述語の役割をもっていますので、「‘for’ ~ ‘to’不定詞’」全体で、あたかも、1つの文であるかのような、意味的なまとまりを成している、と言えます。 (EG43参照)

そして、(10)は、一般的には、OKである、と判断されます。しかし、座りがよい文であるかどうかを判断させると、どうも、座りがよい、とは言えないらしいのです。そこで、(8)と(10)を比較してみると、(8)の方が、しっくりくる感じがする、つまり、座りがよい、と判断されます。

では、(9)はどうか、と問われると、それほど、座りが悪いとは思われない、と判断されます。このことから、主語の側に位置する情報量と、述語の側に位置する情報量とのバランスが、座りの「良い・悪い」を決定しているのではないか、と推測されます。

つまり、(8)は、主語が‘it’のみで、一方、述語は、‘is impossible for Tom to deceive Mary’と、圧倒的に、述語側に情報量があります。しかし、一方、(10)は、主語が、‘for Tom to deceive Mary’で、一方、述語が、‘is impossible’のみ、ということで、(8)とは、大きく異なり、圧倒的に、主語の側に情報量があります。

そこで、もちろん、(9)は、(8)と(10)の中間を占めており、主語の側が、‘to deceive Mary’で、一方、述語の側が、‘is impossible for Tom’となっているので、比較の問題上、当然、(8)よりは座りがよいとは言えないが、(10)に比べたら、全然マシである、と言えます。

今回のポイントは、学校でよく教わる、形式主語の‘it’と呼ばれるものの基本と、その機能です。カタチの上では、まさにその名の通り、形式的に主語を置いただけであり、実質的な主語は、後方にまわされた‘that’節や、‘to’不定詞である、ということに異論はないわけですが、その本質的な役割は、ただ単に、主語位置の交代と言うにとどまりません。

カタチの上での文法の問題とは別に、伝達される「情報」、と言った意味的な問題からも、本来、語られるべき構文なのです。そして、こういった、「情報」を処理する上での、コトバの問題の本質は、EC26と、EC27で述べた、「文法」の問題と、「知覚」の問題といった、2つの異なる要因の中では、後者である「知覚」の問題に属するものなのです。

そのような観点で述べる限り、今回扱った、「情報量」が及ぼす、文法上のカタチの変化は、まだまだ、言わなければならないことがありますので、これに関しては、ひとまず、別の機会ということに。

■注1 :「形式主語‘it’」は、「仮主語‘it’」、とも呼ばれています。ですので、後方にまわった、‘that’節や、‘to’不定詞は、これに対応する呼び方で、「真主語」などと、呼ばれます。

■注2 :(8)のような、「‘it ~ (for A) to不定詞’の構文」は、その‘to’不定詞が、いわば、「名詞(的)用法」です。ですので、本来、名詞表現がくる主語位置に、現れることが可能なんですね。

■注3 :(8)における、‘for Tom’は、「トムが」、という解釈と、「トムにとって」、という解釈の、両方がありますが、(9)では、「トムにとって」、という解釈しかなく、一方、(10)では、「トムが」、という解釈しかありません。これに関する議論は、EG43を参照して下さい。


●関連: EG35EG41EG43EC26EC27

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英語学習法(83)

2005年05月07日 | 変形
今回は、英語の移動現象に関してです。EG62の、‘seem’の構文から、以下、見ましょう。

(1)It seems [ that Tom loves Susan ]. ([ トムは、スーザンが好きな ] ようだね。)
(2)Tom seems to love Susan. (訳同上)

EG62では、(1)の‘Tom’は、移動によって、(2)にあるように、‘seem’の主語位置まで移動してくる、ということを見ました。しかし、それには、条件があって、(2)にあるように、(1)の‘that’節から、‘to’不定詞への書きかえが必要であり、以下のようなカタチでの移動は禁止されていました。

(3) Tom seems [ (that) _ loves Susan ]. (×) (訳同(1))

(3)は、‘to’不定詞への書きかえなしで、(1)の‘that’節内から、‘Tom’を、‘seem’の主語位置に移動したのですが、結果はアウトです。これは、‘that’があっても省略されていても、結果は同じ、アウトになります。そこで、(1)から(2)への書きかえは、暗記してすませるようなこととして教えられることが一般的になっていて、普通、(3)のようなことまで考える、ということは、まずありません。さらに、以下を見ましょう。

(4)It is easy (for Tom) to deceive Susan. ((トムには)スーザンを騙すなんて簡単だよ。)
(5)Susan is easy (for Tom) to deceive _ . (訳同上)

今度は、(4)から(5)への書きかえですが、これは、EG23の、‘easy’構文です。(4)では、‘Susan’が、‘to’不定詞の目的語ですが、そこから、(5)にあるように、‘is easy’の主語位置まで、移動しています。‘easy’構文の重要なポイントは、「目的語の移動」、だったわけですが、以下のような場合は、どうでしょうか。

(6)It is easy (for Tom) to imgine [ (that) John loves Susan ]. (〇)
  ((トムには) [ ジョンがスーザンを愛している ] なんて、想像するのは簡単だよ。)

(7)Susan is easy (for Tom) to imgine [ (that) John loves _ ]. (×) (訳同上)

(6)の‘to’不定詞内に、‘that’節を置いてみましたが、その「目的語」を移動の対象に選んでみたわけですね。そこで、(7)ができ上がるわけですが、何と、アウトになってしまいました。‘easy’構文は、その‘to’不定詞内部の目的語が、移動の対象となることは、EG23で既に確認済みです。しかし、‘to’不定詞内に、‘that’節を置いた場合、その中では、いくら目的語と言えども、移動の対象として選んではいけない、ということらしいのです。続けて、以下を見ましょう。

(8)It is said [ (that) Tom is smart ]. (〇) ([ トムは頭が良いと ] 言われている。)

(9)Tom is said _ to be smart. (〇) (訳同上)

(10)Tom is said [ (that) _ is smart ]. (×) (訳同上)

今度は、他でもよく解説されているように、(8)から(9)への書きかえパターンですが、もちろん、OKですね。この構文の特徴は、‘that’節内の主語が、必ず、移動の対象として選ばれる、ということです。そして、ポイントは、移動の際に、(8)の‘that’節が、(9)では、‘to’不定詞に変わっていることです。ですので、これらの点を踏まえると、‘seem’の構文と、同タイプの変形パターンと言えます。

そこで、(8)の‘that’節内から、‘to’不定詞に変えずに、そのまま、(10)のように、‘Tom’を移動させた場合は、アウトになります。(‘that’節の‘that’の直後にある要素は移動できない、という、別個に独立したルールがありますが、that’があろうと、省略されていようと、アウトです。(EG59参照))

こういったことから、どうやら、‘that’節には、その内部から外への移動を妨げるような要因がある、と言えそうです・・・。って、ちょっと待った!EG47の、「疑問詞の移動」はどうするんじゃい!そ、そうでした。以下も見てみましょう。

(12)John says [ (that) Tom saw Mary ]. (〇)
   (ジョンは [ トムはメアリーを見た ] と言ってるよ。)

(13)Who does John say [ (that) Tom saw _ ] ? (〇) 
   (ジョンは [ トムは誰を見たと ] 言ってるかい。)

そうなんですね。「疑問詞の移動」に関する例を見る限り、‘that’節には、その内部から外への移動を妨げるような要因がある、とは言えないんです。それに加えて、関係節の例もありますね。

(14)Susan thinks [ the boy bought bread ]. (〇) 
  (スーザンは [ 少年はパンを買ったと ] 思っている。)

(15)the boy [ who Susan thinks [ _ bought bread ] ] (〇)
  ([ スーザンが [ _ パンを買ったと ] 思っている ] 少年)

一般的に、関係節をつくる場合、(14)のような文を基にすると、(15)のように、‘the boy’は、関係代名詞‘who’に変化してから、関係節の先頭まで移動していく、と考えられています。この場合、‘that’節は、‘to’不定詞などへの書きかえはありません。

ですので、関係節の場合も、‘that’節には、その内部から外への移動を妨げるような要因がある、とは言えません。(that’は意図的に省略してあります。既に述べたように、‘that’節の‘that’の直後にある要素は、その外に移動できない、という、別個に独立したルールがあるためです。(EG59参照))

そこで、疑問詞や関係詞の移動、と言った問題は残っていますが、とりあえず、これらの疑問詞や関係詞を、「‘wh-’表現」、として、ひとまとめにしておき、ここでは、アウトである、(3)、(7)、(10)に対する例外として扱っておきます。とは言え、見方によっては、今回の議論の利点は、移動の種類は、実は、大きく、2通りに分類可能ではないか、という示唆があったということです。

つまり、‘that’節という、1つの基準を置いてみることで、その内部から外への移動が可能か否かで、移動には、「弱い移動」と、「強い移動」が、ありそうだ、ということです。「弱い移動」とは、実質的に、意味を変えずに、ただ、カタチが変わるだけの変形をするような移動で、‘seem’構文、‘easy’構文、受身文、といった類の構文で、‘that’節内の、移動対象とされる要素を、その外に移動させるだけの力はありません。

「強い移動」とは、「‘wh-’表現」の移動であり、肯定文から疑問文への意味的変化や、関係節という、文の一部として、他にかかる要素となる、文法的役割の変化が伴う構文において起こる移動のことです。‘wh-’表現は、‘that’節内から、その外に飛び出す力をもっています。

今回のポイントは、‘that’節を1つの基準として、英語には、やたらと多い移動現象の分類分けを試みた、ということです。とりあえず、今回、明らかになったのは、‘seem’構文、‘easy’構文、受身文、といった類の移動構文は、‘that’節内からの移動が起こると、アウトになってしまう、ということです。

疑問詞や関係詞の移動、つまり、「‘wh-’表現」の移動は、今回、その例外扱いとされましたが、実は、‘that’節から、その外の移動を、全く、ものともしないとは、完全には言い切れない証拠も、他にあるのです。この点に関しては、機会を改めて考えることにします。

■注1 :‘easy’構文の場合、‘It is easy [ that Tom deceive Susan ].’「[ トムにはスーザンを騙すなんて ] 簡単だよ。」、というような、「it ~ ‘that’節」のカタチは、もともとアウトで、必ず、it ~‘to’不定詞、のように、‘to’不定詞を取ることになっています。そこで、あえて、OKである‘that’節内からの移動テストをするため、(6)、(7)のように、to’不定詞内の動詞が‘that’節を取っているカタチの例にしてみました。

■注2 :受身文は、普通、‘John loves Mary.’「ジョンはメアリーを愛している。」、のような、‘Mary’を目的語とする能動文から、‘Mary is loved by John.’「メアリーはジョンに愛されている。」、というように、目的語が、主語位置に移動することで生成される、と定義されています。しかし、(9)に対応する能動文と考えられる、‘Someone says Tom to be smart.’自体が、アウトである、という事実があるので、必ずしも、(9)は、‘Someone says that Tom is smart.’が、‘Someone says Tom to be smart.’、というカタチになる、というように、‘that’節内の主語‘Tom’が目的語になる、という派生を受けてから、受身文になったのだ、という確証はありません。そこで、(9)を生成する他の可能性として、「主語」、というステイタスも、受身文の主語位置に、直接、移動する対象であると、一度、考えてみる必要があります。そうなると、(10)がアウトになる原因は、目的語の移動ではないから、というよりも、むしろ、‘that’節内から、その外に移動させたから、という可能性も十分に考慮できると思われます。ですので、この場合、(9)の‘to’不定詞は、‘Tom’の移動が起こった後で、(10)のままでは、アウトになるため、これを避けるために変化が起こったカタチである、と説明されることになります。


●関連: EG23EG47EG59EG62

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英語学習法(82)

2005年05月04日 | 前提の概念
EG22と、EG81の続きです。「前提」の概念と、‘do so’「そうする」、の関わり合いです。以下、見ましょう。

(1)Tom told me the story and John did so、too. (〇)
  (トムはボクにその話を語り、ジョンもそうした。)

(2)Tom told me the story and John did so another story. (×)
  (トムはボクにその話を語り、ジョンは別の話をそうした。)

(1)はOKですが、‘told me the story’「ボクにその話を語った」、の部分が、後半の文では、‘did so’で置き換えられています。しかし、一方、(2)はアウトです。この場合、‘told me’「ボクに語った」、の部分のみを、‘did so’がカバーしていると思われるのですが、どうやら、‘do so’は、‘tell A B’「AにBを語る」全体を、カバーしなくてはならないようです。

ですので、‘tell’「語る」、という動詞は、「語る相手」と、「語るテーマ (または、内容)」という、後に続く2つの目的語を前提とした表現であることがわかります。ところで、こういった、2つの目的語をとる構文は、その、「語るテーマ (または、内容)」を表す目的語が、「(that) 主語+動詞 ~」を組み込んだ、いわゆる、「節」であることもあります。 (EG22参照)

(3)Tom told me [ that the earth is round ] and John did so、too. (〇)
  (トムはボクに [ 地球は丸いと ] 言い、ジョンもそう言った。)

(4)Tom told me [ that the earth is round ] and John did so [ that Mars is round ]. (×)
  (トムはボクに [ 地球は丸いと ] 言い、ジョンは [ 火星は丸いと ] と言った。)

(1)がOKであることから、当然のことながら、(1)の‘the story’「その話」を、(3)のように、‘that the earth is round’「地球は丸い (ということ)」、という、‘that’節に換えても、やはり、‘did so’がカバーしていれば、何ら問題なく、OKになります。しかし、一方、(2)がアウトであることからもわかる通り、‘that’節を除いた、‘told me’のみを、‘did so’がカバーしている(4)はアウトですね。ところで、以下を見ましょう。

(5)Tom told me [ that the earth is round ] <yesterday>. (×) 
  (トムは、<昨日>ボクに [ 地球は丸いと ] 語りました。)

(6)Tom told me <yesterday> [ that the earth is round ]. (〇) (訳同(5))
 
ここで、EG22のお話を思い出して欲しいのですが、EG22では、(5)と(6)のような文法性の差があるのを確認しました。‘yesterday’「昨日」、という副詞が追加されて、「~ であると、昨日言った」、という意味になる場合、‘yesterday’の位置は、‘that’節の後ではなく、‘that’節の前でなければ、OKにできなくなる、という文法現象があるわけですね。では、これを、‘do so’の観点から見ると、どうなるんでしょうか。

(7)Tom told me <yesterday> [ that the earth is round ] and John did so、too. (〇)
  (トムは、<昨日>ボクに [ 地球は丸いと ] 言い、ジョンもそう言った。)

(8)Tom told me <yesterday> [ that the earth is round ] and John did so <today>. (〇)
  (トムは、<昨日>ボクに [ 地球は丸いと ] 言い、ジョンは、今日そう言った。)

(7)は、前半の‘told me yeaterday that the earth is round’を、後半の‘did so’が、カバーしていて、OKになっていますが、ここで、注目すべきは、(8)もOKである、ということです。EG81では、‘do so’は、少なくとも、動詞が、意味的に、「前提」としているものは、全てカバーしなければならない、ということを考察したわけですが、この点、OKである(8)の後半にあるように、‘~ did so today’が成り立つということは、‘tell’の前提とする、2つの目的語がカバーされているから、問題なし、ということになります。しかし、アウトである(5)のような例と比較すると、一見、不可解な点もあります。

つまり、‘yesterday’が、‘me’と‘that the earth is round’の間に挟まれている位置関係では、‘do so’が、1つのカタマリとして、‘told me yeaterday that the earth is round’全体を、カバーする義務が発生する、と考えるのが自然ではないか、と思われるのですが、この予想に反して、‘yesterday’が、どのような位置にあろうとも、‘do so’は、徹底的に、「前提」の概念にのみ従って、‘yeterday’を、必ずカバーする義務は負わない、ということなのです。(だから、後半で、‘told me today that the earth is round’の解釈となる、‘did so today’が許される。)

ここから、‘do so’は、「前提」の概念に、かなり強い関わり合いがある表現である、という証拠が、また1つ上がったことになります。そして、もう1つ重要なのは、この‘do so’を用いた検証結果から、ほぼ明らかであろうと思われることとして、「前提」の概念とは、また違った、他に独立した文法上の制約が存在するのではないか、ということです。

つまり、‘yesterday’と‘that’節の語順が入れかわる、「変形」です。「前提」の概念からすれば、動詞が前提とする要素は、語順的に (つまり、カタチ的に)、1つにまとまっていてくれれば、意味的なカタマリが、そのままカタチの上でのカタマリ、ということになり、それが私たちの理解としては、最も都合が良い、ということになるわけです。

そこで、‘tell A B’「AにBを語る」、という表現は目的語である、Aも、Bも、‘tell’が、意味的に前提としている要素であり、語順の上で、これらの要素が、途中で‘yesterday’のような、不純物を介入させることなく、一直線につながっていれば、意味のカタマリは、カタチのカタマリでもある、ということになるんですね。

しかし、(5)と(6)の文法性の差を見る限り、実際、そうはいかないので、「前提」の概念は、‘do so’の用法から見る限り、あくまで、意味に従う制約でしかなく、文のカタチを、100パーセントは制御するはたらきをもたない、ということになるのです。

(9)John ran after Mary. 
(10)a. ジョンはメアリーを追いかけた。 (〇)
   b. ジョンはメアリーの背後で駆け足をした。 (〇)

(11)After Mary John ran.
(12)a. ジョンはメアリーを追いかけた。 (×)
   b. ジョンはメアリーの背後で駆け足をした。 (〇)

しかし、EG46でも説明したように、(10a)と(10b)の2通りの解釈を許す(9)のような文で、ある要素を文の先頭に移動させた場合、つまり、(11)のように、‘after Mary’を文の先頭に移動させた場合、(12a)のように、‘run after ~’「~ を追いかける」、の意味がなくなり、ただ単に、「~ の後で駆け足をする」、という解釈しか得られないという事実は、「前提」の概念が、意味的なカタマリを、文のカタチに有効に反映させている、と言えますので、やはり、「前提」の概念を認めた上で、それとは違った概念を独立に求める、という方法が有効であると思われます。

今回のポイントは、EG81に引き続いて、‘do so’の用法が、「前提」の概念によって支えられている、ということを支持する新たな証拠を上げた、ということと、そういったことを検証していくプロセスで、(6)のような文をOKにする、新たな概念が存在する可能性があることが示唆された、ということです。果たして、その概念って、何なんでしょうね。また、別の機会に。

■注1 :Tom told me <before dark> [ that Mary had finished her job ].「[ メアリーは仕事を片付けたって ]、トムが、<暗くなる前に>、言ったんだ。」は、OKですが、一方、Tom told me [ that Mary had finished her job <before dark>].「[ メアリーは <暗くなる前に> 仕事を片付けたって ]、トムが言ったんだ。」も、OKになります。後者の文の場合、<before dark>は、その位置からして、‘that’節の内部でのみ、はたらいており、「メアリーが仕事を終えたのは、暗くなる前だ」、という意味に解釈されるからですね。

■注2 :‘Mary was run after by John’「メアリーはジョンに追いかけられた。」、という受身文では、「メアリーは、背後でジョンに駆け足された。」、という解釈はありません。これは、(11)の解釈が、(12a)では、アウトで、一方、(12b)では、OKになることとは、真逆であり、そこから、‘run’と‘after’の結束性の強さが、‘run after ~’「~ を追いかける」、という表現の解釈に貢献していることは明らかです。つまり、‘run after ~’が、「~ を追いかける」の意味になるときは、一種のイディオムである、と言えそうです。


●関連: EG22EG46EG81

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英語学習法(81)

2005年05月01日 | 前提の概念
ちょっと変わった小ネタですが、‘do so’「そうする」、という表現を扱ってみたいと思います。以下、見ましょう。

(1)John ate lunch. So did Bill. (ジョンは昼食を食べ、ビルもそうした。)
(2)John ate lunch and Bill did so、too. (訳同上)

(1)と(2)は、両方とも、同じ解釈が成り立つ文です。高校の英文法などでは、(1)のような表現を、よく習うと思いますが、だからと言って、別に、(2)がダメだ、というわけではありません。全く、OKな文です。とりあえず、(1)の、‘so did Bill’「ビルもそうした」、を文法的な観点から説明すると、(2)の、‘Bill did so’の、‘Bill’と‘so’が、語順変更をおこして、前後が入れかわったと見ることができます。

そこで、先行する文は、主語が‘John’「ジョン」で、述語が‘ate lunch’「昼食を食べた」、となっています。次に続く文では、「昼食を食べる」、という行為が、同じ行為であるわけだから、「そうする」、というような、先行する述語の代わりになる表現を使っているわけですね。しかし、主語は、‘Bill’「ビル」というように、ジョンとは違う人物になっていることが注意点です。

この場合、聞き手にとって、例え、ビルのことは、それ以前から話題になっていて、初登場ではなかったとしても、「昼食を食べる」、という行為に関しては、ジョンと違う人物 (つまり、ビル) も、同じく昼食を食べる、ということをするのだ、ということなので、ビルを、あえて、ジョンと対比させるために、「‘so did’+主語」、という倒置のカタチを使うことで、強調しているんですね。

そこで、ここでの、ビルの登場は、情報的価値としては、対比強調を受ける、という意味で、「新鮮な情報」になり、文の焦点を担いやすい位置、つまり、本来なら、述語があるべき位置に回される、ということなんですね。 (EG73、EG74、参照)

こういった、対比強調による、‘so did ~’のような語順変更は、そういった構文自体が、‘too’「~ も」、の意味をもっていると思われるので、‘too’がありませんが、一方、普通の語順で表現した、(2)のような、主語以外は、全く同じことを述べている行為を表す場合の、‘did so’を用いた文は、‘too’を付ければOKになります。

(3)John greeted Mary in the station and Tom did so、too.
  (ジョンは、メアリーに駅であいさつをして、トムもそうした。)

(4)John greeted Mary in the station and Tom did so in the park.
  (ジョンは、メアリーに駅であいさつをして、トムは、公園でそうした。)

(3)では、ジョンがしたことは、メアリーに駅であいさつをした、ということです、そして、トムも全く同じことをした、ということなので、‘too’を使っています。しかし、一方、(4)では、あいさつをした場所が違っていて、ジョンは駅で、トムは公園で、メアリーにあいさつをした、ということなので、この場合、トムは、ジョンと全く同じことをした、とは見なされず、‘too’が現れていません。

このように、‘do so’は、(1)のような倒置のカタチ、「‘so do’+主語」、よりも、汎用性が高いので、使用される頻度は、はるかに高い、と言えます。しかし、あまりにも簡単過ぎる、と思われているフシがあるのか、一般に、その使用上の重要な点が説明されることは、全くと言ってよいほどありません。

(5)John greeted Mary in the station and Tom did so Susan in the park. (×)
  (ジョンは、メアリーに駅であいさつをして、トムは、スーザンに公園でそうした。)

そこで、(5)は、アウトになっているのですが、ジョンはメアリーに駅で、そして、トムはスーザンに公園で、あいさつをした、ということですが、お互いに共通しているのは、‘greeted’「あいさつをした」、という、動詞の部分のみです。

つまり、ここから、(5)を、OKである(4)と比較して、目的語の部分は、必ず共通 (この場合、‘Mary’) でなければならず、‘do so’に含まれていることが、約束事になっているのがわかりますね。ここから、‘do so’の‘so’の部分は、目的語みたいなものか?と推測してしまいますが、その前に、以下を見ましょう。

(6)John swam yesterday and Tom did so today. (〇) 
  (ジョンは、昨日、水泳をして、トムは、今日そうした。)

(6)では、‘swam’「水泳をした」、の代わりに、‘did so’を用いてもOKになっています。ここで注意すべきは、‘swim’「水泳をする」は、自動詞であり、目的語は取らないということです。そこで、(6)がOKであるということは、つまり、‘do so’は、自動詞のみの表現とも置き換えができる、ということなのです。ですので、‘do so’の‘so’は、目的語のような役割を果たしているわけではなく、(6)を見る限り、‘swam’=‘did so’が成り立つので、‘do so’は、1つのカタマリ表現になっているものと思われます。

じゃ、今度は、(4)がOKで、(5)がアウトになった理由をどこに求めるんだ?ということになりますが、ここで登場するのが、EG46で扱った、「前提」の概念です。どうやら、‘do so’のキモは、動詞が、「前提」としているような表現を、義務的にカバーしなければならない、ということのようなのです。

例えば、‘greet’「あいさつする」という行為は、その概念上、あいさつする相手がいなければ、成り立ちません。その相手とは、もちろん、目的語の‘Mary’になるわけですから、「前提」の概念からすれば、目的語の‘Mary’は、‘greet’が、「前提」としている表現なのです。そこで、‘do so’は、「他動詞 (greet)+目的語 (Mary)」を、ひとまとめにしてカバーしなければならない、ということなのです。

一方、‘swim’「水泳をする」という表現は、その行為自体が、意味的に完結性をもっていて、何も前提とはしていません。ですので、‘swim’というような、動詞1つの場合でも、他に何も前提とはしていないのなら、「前提」の概念に従う‘do so’にとっては、何ら問題ではなく、そのまま、置き換えの対象とされます。今度は、ちょっと意外な‘do so’置き換えの例です。見ましょう。

(7)Mary put the ring on the sofa and Susan did so、too. (〇)
  (メアリーは指輪をソファーの上に置き、スーザンもそうした。)

(8)Mary put the ring on the sofa and Susan did so on the table. (×)
  (メアリーは指輪をソファーの上に置き、スーザンはテーブルの上にそうした。)

(7)では、‘did so’が、‘put the ring on the sofa’「指輪をソファーの上に置いた」、の置き換えとなっていて、OKですが、一方、(8)では、‘did so’が、‘put the ring’「指輪を置いた」、のみの置き換えとなっていて、アウトです。

‘put’「~ を置く」は、他動詞であり、目的語を取ります。そして、意味的にも、何が「置く」という行為の対象となるのかが、前提となりますので、当然、その目的語は‘do so’が、義務的にカバーしなくてはならない要素なのですが、(8)を見る限り、目的語のみならず、「前置詞+名詞」である、‘on the sofa’までも、カバーしなくてはならない、ということなのです。

そこで、「前提」の概念からすれば、「置く」という行為は、「置かれるモノ」、と同時に、「置く場所」も、前提としている、ということなのです。これは、確かに、「置く」という行為は、概念上、その「置かれるモノ」が、どこかを「着地点」にしているのは、当然と言えますので、‘do so’が、(8)のように、「着地点」をカバーしていない場合、アウトになるのは、「前提」の概念からは、当然の帰結と言えるでしょう。

ここで、(8)と同じ、「動詞+目的語+前置詞+名詞」のカタチである、(4)が、OKであることも、あわせて考えてみて下さい。「あいさつする」、という行為は、あいさつする相手を前提にはしますが、あいさつする場所までも前提とはしないことは、皆さんもよくおわかりになると思います。ですので、やはり、(4)と(8)の文法性の違いは、「前提」の概念が、的確に反映されたもの、と言えます。

今回のポイントは、EG46で登場した、「前提」の概念が、英語の文法性にどのように反映されているのかを、‘do so’という、特殊な代用表現によって検証した、ということです。「前提」の概念は、学校で習う英文法の弱点を補う強力な武器になり得ることは、EG46で述べた通りなのですが、この概念から説明が可能となる文法現象の1つが、‘do so’の用法なのです。

今回の議論で、‘do so’は、実は、かなり特殊な表現であることがわかったと思います。一般に英語を勉強している人たちから見て、‘do so’は、「そうする」と訳しておけば、それで終わりといった印象が、相当、強いらしいので、あえて今回、扱うことにしましたが、「前提」の概念という観点から、英語の文法性を検証するための、言わば、「試金石」、となる重要な表現だったわけですね。‘do so’の残りのお話しに関しては、またの機会にでも。

■注1 :(1)のような、「‘So do’+主語」の、倒置の文においては、その主語が、代名詞か否かということは、語順とは無関係です。‘Tom loves Mary.’「トムはメアリーを愛してるのよ。」、に対して、‘So do I.’「オレだってそうさ。」、とは言いますが、‘So I do.’とは言えません。これは、一度、話題に上がって、情報に新鮮度がないものには、「代名詞」を用いるとは言っても、個々のトピックの中では、代名詞の情報の新鮮度に変化が生じるためで、メアリーを愛しているのは誰か、というトピックの中では、代名詞の‘I’「オレ」は、「新鮮な情報」、として再浮上することが可能だからです。ちなみに、‘Tom loves Mary.’、に対して、‘So he does.’「彼は、全く、その通りだね。」、という場合は、OKです。もちろん、これは、明らかに、メアリーを愛しているのは誰か、というトピックにおいては、‘Tom’は、既に、先に言われてしまっているからで、‘Tom’が、「新鮮な情報」、ではなくなってしまっているからです。

■注2 :学校の英文法では、‘John greeted Mary <in the station>.’「ジョンは、<駅で>メアリーにあいさつした。」も、‘John put the ring <on the sofa>.’「ジョンは<ソファーの上に>指輪を置いた。」も、全く同じ、‘S+V+O’の文型として扱われ、<in the station>や、<on the sofa>は、全く同じ、前置詞句からなる、副詞表現として扱われますので、両者には、文法上の違いはない、ということになってしまいます。


● 関連 :EG46EG73EG74

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英語学習法(80)

2005年04月29日 | 動詞
EG79の続きです。動作動詞です。以下、見ましょう。

(1)サイフを見つけた。 (〇)
(2)今、サイフを見つけている。 (×)

今回は、「見つける」、という動詞ですが、(1)の過去形は、OKですが、(2)の進行形は、アウトです。EG79で確認したように、進行形である、「今、地面を掘っている」や、「今、イスをつくっている」は、OKであったことから、「見つける」は、どうやら、「掘る」や、「つくる」とは違って、別の種類の動作動詞として、分類分けされる動詞ではないのだろうか、という見方ができると思います。

(3)サイフを、3時間、見つけている。 (×)
(4)サイフを見つけるのに3時間かかった。 (〇)

(3)は、進行形、「見つけている」が、「3時間」、をともなって、アウトになっていますが、これは、「見つける」が、ある程度の時間の長さを、表現し得る行為とは、認識されないことを示しています。しかし、一方、(4)は、OKです。つまり、EG79で確認したように、「3時間かかる」、という表現に適合するということは、「見つける」、という動詞は、何らかの「変化」は、含意している、と言えますね。

つまり、サイフがどこにあるのかわからない、という状態が、ずっと続いていたのに、あるとき、その場所を発見した、ということで、サイフがない、という状態から、今はサイフがある、という、「変化」が起こったわけです。ですので、この点に関しては、「見つける」、という動詞は、EG79の、「つくる」や、完成したものを目的語に取っている場合の、「掘る」と、同じ性質をもっている、と言えます。

しかし、一方で、(3)が、アウトであることを考えると、「見つける」、という動詞は、その動作の、「開始から終結」を、段階的に表現することが、不可能な表現であり、言わば、その行為自体が、瞬間的である、ということのようです。EG79で見た、「つくる」は、「今、イスをつくっている」、という表現にして、イスが未完成状態であっても、OKでしたので、「つくる」、という行為の、「開始から終結」までを、ある段階にスポットを当てて表現することが可能です。

しかし、「サイフを見つける」、という行為には、そのプロセスとして、中途の段階という概念は、存在しません。そこで、動作の概念のタイプ分けには、①・「変化」を含意しない動作、②・「変化」と、それが起こるまでのプロセスを含意する動作、に加えて、③・「変化」のみを含意する動作、があるのがわかります。

(5)泳ぐ、歩く、走る、動く、運転する、(文を)書く、その他
(6)つくる、建てる、描く、(本を)書く、(スープを)煮る、その他
(7)見つける、無くす、終わる、やめる、始める、到着する、死ぬ、その他

(5)のグループは、「変化」を含意していませんので、特徴としては、その行為が均一的です。つまり、「~ するのに3時間かかる」、というような表現が、うまく適合しない動詞ということになります。一方、(6)のグループは、「変化」を含意しています。そして、その開始から終結までのプロセスを表現することが可能です。(7)のグループは、瞬間的行為として表現されており、その開始から終結までのプロセスを表現することは不可能です。

ところで、ここで、話の方向性を、少し、変えたいと思います。これまでは、動作動詞、という品詞の観点から、上の3タイプの概念を見てきたわけですが、そのままの理解では、実は、誤解を与えてしまいます。EG79では、「掘る」という動詞が、取っている目的語によっては、①のタイプ (つまり、(5)のグループ) にもなり、また、②のタイプ (つまり、(6)のグループ) にもなる、ということを見ましたが、これは、何も、目的語を取る動詞に、そのような規則性がはたらく、ということを、意味するわけではありません。

と言うよりも、むしろ、動作動詞と、他の表現との組み合わせによっては、上の、①か、②のタイプの、いずれかに解釈されるであろう、という理解の方が本質的なのです。つまり、その動詞に付随する他の表現とは、何も目的語に限ったことではないのです。

(8)歩くのに、3時間かかった。 (×)
(9)コンビニまで歩くのに、3時間かかった。 (〇)

(8)の「歩く」は、自動詞であり、他動詞ではないので、目的語をとることはありません。そして、意味的には、それ自体、均一的な行為と言えますので、「変化」を含意してはいません。そこで、「3時間かかる」とは共起せず、アウトになりますが、しかし、一方、(9)のように、「到着点」を含む、「コンビニまで歩く」、となれば、その表現全体を考慮して、概念上、動作の終結を含意する、と言えますので、「3時間かかる」、と適合するようになります。

つまり、動作動詞にプラスされる他の表現と、トータルで意味を考えて、「変化」を含意するか否かという見方が、動作動詞の表し得る、①と②のタイプの、様相を理解する上での、本来、正しい見方なのです。ですので、同じカタチの動作動詞 (例えば、「掘る」、「歩く」、「書く」、その他) であっても、他の表現とひっくるめて考えた上で、①のタイプに属するか、②のタイプに属するかを判断しなければなりません。

次に、同じカタチの動作動詞が、①や②の他のタイプに現れない、③のタイプ (つまり、(7)のグループ) ですが、(5)のグループのように、均一的行為でもなく、(6)のグループのように、動作の、「開始から終結」までを潜在的に含意することもない、という点で、表現できるカタチの中での解釈が限定されてしまいます。

(10)トムは、泳ぎ続けた。
(11)トムは、イスをつくり続けた。
(12)トムは、サイフを無くし続けた。

(10)は、「泳ぐ」という行為が、均一的に続いている解釈もあれば、泳いでは休み、また、泳いでは休み、という、「繰り返し」の解釈も可能です。そして、(11)も同様であり、1つのイスをつくるために、ずっと作業にかかりっきり、という解釈もあれば、何個ものイスをつくりだす作業をする、という、「繰り返し」の解釈もあります。

ところが、一方、(12)は、「サイフを無くす」、という行為が、繰り返されることを意味してはいますが、しかし、無くす、という1回の行為の経過を表現することはできません。これは、やはり、③のタイプの動作動詞が、その動作の、「均一性」も表現せず、「開始から終結」、といったプロセスも含意せず、瞬間的行為としての解釈しかもたないために、起こることだと説明されます。この点においても、③のタイプのような分類分けは、動作動詞の表現している様相をとらえる上で、有効であることを支持しています。

今回のポイントは、EG79から、引き続いたテーマで、動作動詞を、その表している様相によって、3タイプに分類する、ということです。しかし、それは、動詞だけを見て、どうのこうのと論じる問題ではなく、あくまでも、動作動詞を中心に置いて、他の表現も含めた上での分類であり、この分類方法は、むしろ、ヒトが認識活動を行っている際、どのような観点から、動詞化を行っているのかを考える、という発想に基づくものです。

そして、こういった表現上の様相に対する理解は、別に、英語でなくとも、日本語で十分である、というよりも、コトバの在り方の理解という意味で、英語も日本語もない、ということなのです。つまり、今回のテーマは、コトバのかなり、根源的な部分を扱った、ということなので、英語とは直接的には関わってきませんが、結果として、英語脳形成には、後から必要になってくる、と思われる概念だったので、あえて日本語のみで扱ってみました。

■注1: 「サイフを見つけつつある。」は、OKですが、もともと、「~ しつつある」は、「変化」を含意する表現と共起するものです。例えば、「走りつつある」を、OKにする人でも、この場合、「走り出しつつある」、の解釈に取っているのであり、止まっている状態や、歩いている状態からの、「変化」を含意しています。

■注2 :(7)のグループの動詞は、進行形、「~ ている」、とは適合しませんが、例えば、「死ぬ」、は、「オマエは、もう死んでいる。」、などと、言う場合、当然、進行中の動作の、ある時点に焦点を当てた進行形ではなく、「状態」の解釈になりますので、注意が必要です。

■注3 :「泳ぐのに、3時間かかった。」や、「運転するのに、3時間かかった。」は、アウトである一方、「3時間かけて泳いだ。」や、「3時間かけて運転した。」は、OKにしやすいのですが、この場合は、結局、「3時間、泳いだ。」や、「3時間、運転した。」、と言っているのと同じことなので、「3時間かけて」は、「3時間かかる」と違って、必ずしも、「変化」、を前提とする表現ではありません。


●関連: EG79

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英語学習法(79)

2005年04月27日 | 動詞
今回は、動作動詞に関してです。とは言っても、まず、日本語の例で概念的なことを考えてみたいと思います。以下、見ましょう。

(1)トムは地面を掘った。
(2)トムは穴を掘った。

(1)と(2)ですが、「~ を掘る」という動詞は、「地面」も、「穴」も目的語に取ることができます。普段は、あまり意識して考えることはないんですけど、よく考えてみると、ちょっと、おや?と思ってしまうことがあります。

それは、(1)の場合、ただ単に、「掘る」、という行為の対象が、「地面」である、ということを述べているだけなんですが、一方、(2)では、掘った結果として、「穴」ができるのであって、(2)は、「掘る」、という行為が、最終的に行き着くところに、「穴」という完成したものがある、ということを意味しているんですね。

つまり、(1)と(2)は、それぞれ、動詞は同じ、「掘る」でも、目的語の質は違う、ということです。このように、目的語が質的に違うと、文法的に、どのようなことが起こるんでしょうか。ちょっと、そこら辺を考えてみたいと思います。

(3)トムは、3時間、その地面を掘った。
(4)トムは、3時間、その穴を掘った。

(3)は、ただ単に、トムが、地面を、どんどん堀り続けて、3時間が経ったと言っているわけですね。一方、(4)は、(2)と比べると、何だか、「穴」が、完成したもののようには感じられません。穴があっても、さらに、その穴の大きさを広げるべく、どんどん掘り続けた、という感じがします。このような場合、「穴」は、完成したものではなく、「掘る」、という行為の、対象として扱われることになりますから、質的には、(3)の、「地面」と同じ扱いをうけることになります。

これは、完成したものとしての「穴」は、未完成の状態から、あるとき、その完成を迎えるという、「変化」を含意する行為によって、表現されることを前提としているからです。(4)は、時間の長さを表す、「3時間」という表現が、均一的な、一続きの行為が起こり続けることを前提とした表現であるにも関わらず、「穴」を、完成したもの、として解釈すると、均一的行為を要求する、「3時間」と、完成という、「変化」が、表現上の不適合を起こすため、それを回避しなければアウトになる、と言えます。

ですので、(4)を、無理のない自然な解釈にするためには、「穴」を、完成したものではなく、「掘る」という行為の対象にしなければなりません。こういった、行為の対象と、完成したものの違いを、もう少し詳しく言うと、行為の対象は、動詞の表現する動作によって、何らかの影響を受けるだけのもの、と言うことができますが、一方、完成したものは、動詞の表現する動作によって、何かが影響を受けて、さらに、その結果として、後から存在するもの、ということができます。

そこで、行為の影響を受けるだけのものが、目的語になっている場合は、均一的に、影響を与えるという行為を、ずっと行うことができるので、時間の長さに幅をもたせた、一続きの行為として表現することが可能ですが、一方、行為の影響を受けた結果として、後から存在するもの (完成したもの) が目的語になっている場合は、「変化」が起こっているわけですから、その完成という行為自体を、時間の長さに幅をもたせた、一続きの行為として表現することができません。そこで、以下を見ましょう。

(5)イスを、3時間つくる。 (×)
(6)イスを、3時間つくり続ける。 (〇)

(5)はアウトです。なぜかと言うと、(4)の「穴」とは違って、「イス」はサイズが固定されていて、広げることができませんからね。つまり、「イス」は、「つくる」という、行為の結果としてでき上がった、完成したもの、という解釈しか、もともと許されないのです。そこで、「変化」を含意する行為、という解釈しかない、「イスをつくる」に、無理やり、「3時間」という、ただ時間の長さを表すだけの表現をくっ付けたので、(5)はアウトになった、ということですね。

しかし、一方、(6)はOKです。ですが、これは、「つくる」ではなく、むしろ、「続ける」の方が、「3時間」という、時間の長さを表す表現を許容するために、(6)はOKになった、ということですね。その証拠として、今度は、以下を見ましょう。

(7)今、イスをつくり続ける。 (×)
(8)今、イスをつくっている。 (〇)

(7)は、「今」と「続ける」の組み合わせが悪いため、アウトになっています。つまり、「続ける」という動詞は、元来、瞬間的な行為ではなく、時間の経過を含意している、ということです。しかし、一方、(8)のように、「つくる」に、進行形のカタチ、「~ ている」を付けて、「つくっている」のような表現にしてやると、瞬間的な表現である、「今」と適合します。そこで、以下は、どうでしょうか。

(9)今、イスをつくる。 (×)

今度は、(9)ですが、「イスをつくる」の「つくる」が、現在形である、とは言っても、「今」とは適合せず、アウトになる、ということです。しかし、一方で、(8)のように、イスが完成するまでのプロセスを進行形によって表現した場合は、「今」と適合するという事実があります。そこで、注意点としては、(6)であろうと、(8)であろうと、解釈としては、イスが未完成である、ということです。

ここから、2つの問題が発生します。つまり、①・進行形、「~ ている」や、「続ける」の力を借りれば、イスが、未完成状態であっても、OKにすることができる、ということと、②・「つくる」という表現は、現在形なのに、なぜ、「今」、という表現と適合しないのか、ということです。

そこで、(9)を、ちょっと考え直すと、(9)は、「今から、イスをつくる」の意味でなら、OKにできる、ということに気付きますね。つまり、(9)を、「今から、イスをつくり始める」、という文と、同じ意味に解釈するとOKになる、ということです。この場合も、「イス」は、未完成状態ですね。

実は、「イスをつくる」という表現の、本来的な意味的性質は、「つくる」、という行為の、「開始から終結」までを含意している、ということなのです。しかし、(5)の例がアウトである、という事実がありますので、行為の、「開始から終結」までを含意する、とは言っても、そのまま、「イスをつくる」のカタチでは、「つくる」という行為の、「開始から終結」全体が、瞬間的に行われる行為として解釈されます。

そこで、「~ 続ける」の力を借りて、瞬間的な行為として解釈されることを防いだり、「~ ている」の力を借りて、「開始から終結」までの、ある「時点」に焦点を当てたりする必要が出てくるわけです。ですので、「つくる」という表現自体は、素のカタチのままでは、「開始から終結」までの行為全体の瞬間的な描写、ということでなければ、OKにできないわけですね。

次に、問題は、(9)が、「今から、イスをつくり始める」、の解釈でない場合、その描写は、瞬間的であるにも関わらず、なぜアウトになるのか、ということなのですが、どうやら、これは、瞬間的な表現である、「今」は、必ず、「出来事」を表す表現と共起する、という、別個の視点が必要のようです。

(10)トムはイスをつくる。
(11)トムはイスをつくった。

(10)は、「つくる」が、現在形ですが、「出来事」の解釈はありません。(10)は、トムが、イスの職人である、というような職業を表現していたり、トムの習慣的な行為を表現している、という別の含意でしか解釈できませんので、動作動詞、「つくる」が、意表を突いて、「状態」としての解釈になってしまいます。

しかし、一方、(11)は、過去形、「つくった」が、「出来事」を表現しています。つまり、動詞の現在形とは、そもそも、何であれ、「出来事」を、素で表現することができないのです。ですので、現実に起こっている「出来事」として、「~ ている」の力を借りなければ、瞬間的な表現である、「今」と共起することができない、というわけですね。以下を見ても、動詞の現在形は、素で、「出来事」を表せないのがわかります。

(12)a. 今、トムは地面を掘る。 (×)
   b. 今、トムは地面を掘っている。 (〇)

(13)a. 今、トムは走る。 (×)
   b. 今、トムは走っている。 (〇)

(12a)は、現在形、「掘る」が、「今」と共起せず、アウトになっていて、やはり、(1)の過去形とは違って、「出来事」の解釈はありません。(13a)の「走る」は、そもそも、目的語すらとっていないのですが、そんなこととは関係なく、これも、「今」と共起せず、アウトになっていて、やはり、「出来事」の解釈はありません。

(14)地面を掘るのに3時間かかった。 (×)
(15)穴を掘るのに3時間かかった。 (〇)

今度は、「3時間かかった」という表現との適合性ですが、「3時間かける」、という表現は、単なる、「3時間」とは違って、例えば、3時間後に、何かが終結を迎えることに焦点が当てられたり、ある変化が起こることに焦点が当てられたりすることが、前提となる表現です。(14)は、「地面を掘る」という表現が、動作の終結を含意していない、ということが、アウトになった原因である、と思われます。

しかし、一方、(15)がOKになるのは、やはり、「穴」を、「完成したもの」、と解釈することで、動作の終結を含意している、と考えられるからです。この場合、(15)の「穴」は、(4)とは違って、「完成したもの」という解釈しかできず、影響を受け続けて拡大される、というような解釈がないことからもそれがわかると思います。

今回のポイントは、「動作」を表す動詞が、実質的な意味として、どのようなことを表現しているのか、ということです。まず、動作の概念は、状態の概念とは違って、「出来事」を表現し得るということです。しかし、それには制約があって、素のカタチ、つまり、現在形では、「出来事」を表現できず、過去形にしたり、進行形、「~ ている」を付け足す、といったことが必要になります。

そして、「掘る」のように、同じカタチの動詞であっても、目的語の種類に応じて、その動詞の表現し得る様相が、変化してしまうということです。特に、完成したものを目的語にとっている動作動詞は、素のカタチでは、一見、「完成の瞬間」のみを表しているように見えるのですが、「~ 続ける」や、「~ ている」といった、他のカタチとの組み合わせが可能な点で、その動作の「開始から終結」までを、潜在的に含意していると言えます。

今回扱った、動詞が、「完成したもの」を目的語にとっている場合と、そうではない場合の区別は、他に、状態動詞という分類分けがあるのと同じく、動詞の表している基本的な概念の分類分けの1つです。まだ、他の概念ありますが、またの機会に。

■注1 :「今、イスをつくった。」、はOKですが、ちょっと、惑わされやすい文です。この場合の、「今」は、「今しがた」、「今さっき」、の意味ですから、純粋に、「現在の瞬間」を表す、「今」とは、異質のものです。

■注2 :「トムは、3時間、イスをつくっている。」は、OKになりますが、これは、「~ ている」が、瞬間的に、「進行」している出来事を表現することもできるけど、一方、「状態」も、表現できるからで、「3時間」は、この「状態」の解釈と適合している、と言えます。しかし、「出来事」は、動作動詞の「~ ている」から派生的に得られる、「状態」、の解釈とは、矛盾することはありません。

■注3 :(10)のように、「出来事」として認識されない文は、その中に含まれる動作動詞が、現実的、具体的な行為を表現していないため、何とか、聞き手にとって、「情報的価値」のある文に、解釈しようとして、転用現象が起こります。その1つが、「職種」、「習慣」、といった含意で、その結果として、偶然に、「状態」という解釈が発生してしまう、ということですね。

■注4 :(14)は、OKである、という人もいますが、その場合は、想像をはたらかせて、「地面を、すっかり、堀りつくすのに、3時間かかった。」、という解釈にしているものと思われます。しかし、「掘りつくす」は、均一的な行為ではなく、もう、掘るべきところはなくなった、という、「変化」、を含意するため、「3時間かかる」、と適合するものと思われます。


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英語学習法(78)

2005年04月24日 | 動詞
EG69の続きです。状態動詞です。以下、見ましょう。

(1)Mary resembles Lucy. (メアリーはルーシーに似ている。)
(2)Mary hates Lucy. (メアリーはルーシーが嫌いだ。)

(1)の‘resemble’「~ に似ている」も、(2)の‘hate’「~ を嫌っている」も、ある状態を表現している動詞です。(1)では、話者が、メアリーの性質・特徴を、ルーシーに「似ている」と述べているわけです。性質や特徴とは、一瞬のことを表現するものではなく、ずっと続いている一定の様を表現するものですね。

これに準じて考えれば、(2)で、メアリーがルーシーを「嫌っている」、というのは、メアリーのルーシーに対する、一定の心の様を表現しているわけです。ですので、(1)も(2)も、両方とも、メアリーが、ある状態にある、と解釈できるわけですね。

しかし、このような、一定の様を表現している動詞を、一括して、「状態動詞」と呼ぶからといって、その文法的な振る舞い方が全て同じである、とは言い切れない部分があります。

(3)Lucy is resembled by Mary. (×) (ルーシーはメアリーに似られている。)
(4)Lucy is hated by Mary. (〇) (ルーシーはメアリーから嫌われている。)

(1)を受身文にした(3)は、アウトですが、一方、(2)を受身文にした(4)はOKです。これは、どういうことなんでしょうか。そこで、ちょっと考えてみると、(1)と(2)の状態動詞は、それぞれ、その主語に対して、何か違った特性をもつものを要求している、と言えそうです。

しかし、(1)と(2)の主語なんて、どっちも同じ‘Mary’じゃんか、と言われてしまいそうなので、別の例から、何とか違いを出してみたいと思います。

(5)Cabbage resembles lettuce. (〇) (キャベツはレタスと似ている。)
(6)Cabbage hates lettuce. (×) (キャベツはレタスが嫌いだ。)

(5)と(6)では、(1)と(2)の‘Mary’を‘cabbage’に、そして、‘Lucy’を‘lettace’に入れかえてみました。そうすると、当たり前なんですが、(5)はOKで、一方、(6)はアウトになります。これは、(5)では、外見上、キャベツとレタスが同じように見えていて、そういったものが、‘resemble’「~ に似ている」の、主語と目的語になっていればよいから、ということですね。

しかし、(6)では、キャベツがレタスを嫌う、と聞くと、何か、童話の世界での、キャベツさんとレタスさんの関係、といった感じのお話を聞かされているような気がしてきます。これは、そういった解釈にでもしなければ、意味が取れなくなるからで、実は、こういった解釈を強制されることが、‘hate’「~ を嫌っている」の意味的な特徴を表している、と言えるのです。つまり、「嫌っている」という表現は、「~ に似ている」とは違って、「意思」をもつものが、主語でなければならない、ということになるわけです。

(7) a. The T-shirt fits John well. (〇) (そのTシャツは、ジョンにピッタリ合ってるね。)
   b. John is fitted by the T-shirt well. (×)
    (ジョンは、そのTシャツに、ピッタリ合わせられるね。)

(8) a. The book costs 1000 yen. (〇) (その本は、1000円かかるね。)
   b. 1000 yen are costed by the book. (×) (1000円がその本によってかかるね。)

‘the T-shirt’「そのTシャツ」が、‘fit’「~ に合う」の主語である、能動文(7a)はOKですが、受身文(7b)にするとアウトです。そして、同じく、‘the book’「その本」が、‘cost’「~ (の金額が) かかる」の主語である、能動文(8a)はOKですが、受身文(8b)にするとアウトです。やはり、状態動詞の場合、「意思」をもつものが、必ず能動文の主語になるような状態動詞でなければ、受身文にはできないようです。しかし、もうちょっと、考えてみたい例があります。

(8) a. John has the car. (〇) (ジョンは、そのクルマを所有している。)
   b. The car is had by John. (×) (そのクルマは、ジョンに所有されている。)

状態動詞として使われている場合の‘have’が、「~ をもっている」の意味で使われているときは、必ず、「意思」をもつものが主語になりますが、(8a)の能動文から(8b)の受身文をつくることはできません。つまり、状態動詞の場合、「意思」をもつものが主語でなければ、受身文をつくれない、というのは、必要条件ではあっても、十分条件ではない、ということになりますので、この点、注意が必要です。さらに、以下を見ましょう。

(8) a. Many trees surrounded the house. (〇) (たくさんの木がその家を囲んでいた。)
   b. The house was surrounded by many trees. (〇)
    (その家はたくさんの木に囲まれていた。)

(9) Many girls surrounded John.
(10)a. たくさんの女の子が、ジョンを取り囲んだ。 (〇)
   b. たくさんの女の子が、ジョンを取り囲んでいた。 (〇)

「意思」をもたないと思われる、‘many trees’「多くの木」が、状態動詞‘surround’「~ を囲んでいる」の主語である能動文(8a)はOKですが、この場合、意表をついて、受身文(8b)にしても、OKです。しかし、一方、(9)を見ると、‘surround’は、「動作」の解釈(10a)と、「状態」の解釈(10b)の、両方がOKにできることに気付きます。

これは、どうやら、(8a)の‘surround’「~ を囲んでいる」が状態動詞である、と言っても、‘surround’は、もともとの意味が、「~ を囲む」という、「動作」を表す動詞であり、そのときは、(9)のように、「意思」をもつものが主語でなければならないところに、ポイントがあるようです。

つまり、本来的に、「動作」の解釈が基本であるような動詞が、「意思」をもたないものを主語に取った場合は、その主語を、比喩的に、あたかも、「意思」をもっているかのように見なす、ということがあるのです。ですので、受身文(8b)がOKになるのは、一種のイメージ表現のようなもので、例えば、日本語の、「追う」という動詞は、本来的に、「意思」をもつものが主語でなければならないのに、「ボクらは、毎日、仕事に追われているね」、などと言うことができるのと類似した、比喩の表現方法なのです。

そして、もう1つ、気付いてもらいたいのが、(9)に対する、(10b)の解釈、つまり、‘surround’の「状態」解釈についてです。実は、「状態」の解釈(10b)には、2通りの解釈があり、「たくさんの女の子」の「意思」が行使されているか否かという観点があります。

つまり、ジョンにチョッカイを出された多くの女の子が怒って、一体どういうつもりだ、とばかりにジョンに寄ってきて、グルっとジョンの周囲を取り囲んだ状態になっている場合で、この場合は、女の子の「意思」がはたらいています。しかし、もう1つの解釈は、ジョンがボケっとしていて何気なく電車に乗ったところ、間違えて女性専用の車両に乗ってしまったという場合で、結果的に、女の子の集団に囲まれている状況になってしまったという、女の子の「意思」がはたらいていない解釈です。

ですので、「意思」をもつものが主語になっているからといって、その「意思」が行使されているか否かとは、関係ない場合があります。‘hate’は、常に、その主語が、「意思」をもっていることが前提となります。そして、その主語の意思が行使されています。‘resemble’は、「意思」をもつものが主語であってもなくてもよいけど、「意思」をもつものが主語の場合でも、その主語の「意思」は行使されません。

‘fit’や‘cost’は、もともと、「意思」をもつものを主語に取りません。‘surround’は、本来的に、動作動詞であり、「意思」をもつものが主語でなければなりませんが、状態動詞に変化することも可能で、その場合は、主語の「意思」が行使されていない場合と、比喩的な解釈もあるという意味で、「意思」をもつものを主語に取る必要がなくなります。

今回のポイントは、状態動詞の本来的な意味を考える、ということです。英語の解説本などを見ると、ただ単に状態動詞という分類があるだけであり、確かに、「状態」を表しているから、「状態動詞」と呼ばれているのはわかるんですが、それは、事実をそのまま言っているに過ぎず、そこから、実用英語をマスターする上で、どのような理解につながっていくのかが、今ひとつわからない、といった感じがします。

その理解の助けとなる1つが、主語に「意思」をもつものがくるかどうか、というものです。しかし、「意思」をもつものがくるかこないかで、即座に、「O・×」式に判断してよい、というものでもなく、その主語の「意思」が状態動詞にどのように関わっているかも考慮する必要がありますので、ちょっと事情は複雑ですが、日本語の感覚からも類似した点は多いと思われるので、よく考えてみれば、それほど難解なものではないはずです。

■注1 :‘have’は、ちょっと、難解な多義語で、「状態」と言っても、いろいろあります。‘Mary has long hair.’「メアリーは長い髪をしている。」、のように、「主語の一部分」を表す場合や、‘John has a bad memory.’「ジョンは記憶力が悪い。」、のように、単純な所有物とは、言えないようなものも、目的語に取ることができます。そして、一方で、「動作」を表現するものだと、‘I am having lunch now.’「今、昼ごはんを食べてるところなんだ。」、というように、進行形が可能ですし、加えて、‘Breakfast can be had at ten in this restaurant.’「このレストランでは、10時に朝食をとることができます。」、というような受身文も可能です。

■注2 :‘The slaves cost much money.’「その奴隷を買い付けるにゃ、ずいぶん金がかかるな。」、というような文では、たまたま、「意思」をもつものが、主語になっているわけですが、もちろん、そこから、‘cost’は、「意思」をもつものが主語になることもある、と一般化しても、ナンセンスであることは、おわかりになると思います。

■注3 :ヒト型や、動物型のロボットが主語になるような場合は、そのキャラクターによって、解釈が分かれるところです。ホンダ技研が開発した、二足歩行ロボット、「アシモ」は、意思をもたない、とは言えますが、あたかも意思をもっているかのように、「歩く」、ということをします。ソニーのロボット犬、「アイボ」は、本当に、犬のようなしぐさをしますので、あたかも、意思をもったものとして、扱われることはあり得ますね。鉄腕アトムの場合は、そのキャラクターから言って、もう、十分に意思をもつ、と言い切れるでしょう。ガンダムの場合は、パイロットの意思を通じて、という条件付きで、意思をもつ、と言えるんでしょうね。


●関連: EG69

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英語学習法(77)

2005年04月21日 | 主語
「一般人称」と呼ばれるものを扱います。以下、見ましょう。

(1)私たちはピクニックに行った。
(2)私たちは限りある資源を大切にしなくてはなりません。

(1)でも、(2)でも、「私たち」という表現が使われているんですけど、「私たち」って、一体、誰のことを言ってるんでしょうね。(1)でも、(2)でも、話者である「私」を含めた、複数の人たちであることは確かなんですけど、(1)の場合は、「私」の家族とか、友達とか、そういった特定の人たちなんでしょうね、きっと。

でも、(2)の場合はどうなんでしょうか。限りある資源を大切にしなくてはならないのは、特定の人数の「私たち」ってことなんでしょうか。例えば、「私」を含めた家族全員?「私」を含めた秋葉原の人たち?「私」を含めた栃木県の人たち?ちょっと違いますね。おそらく、(2)の「私たち」は、漠然とした不特定人数の「人」、というくらいの意味で使われているんですね。

というわけで、「私たち」には、狭い範囲の「私たち」もあれば、広い範囲の「私たち」もある、ということなんですが、決定的な違いは、(1)の「私たち」は、話者である、「私」を含む、2人以上のメンバーから成る特定人数のグループということです。しかし、一方、(2)の「私たち」は、特定人数のグループというわけではなく、人数も漠然とした、誰ともハッキリしないメンバーから成る「人」、ということなので、グループという概念自体が意味をなさないものです。

(3)私たちはクルマに乗るときは、慎重にならなくてはなりません。
(4) a. なぜなら、普通の人たちよりも反射神経が鈍いからね。
   b. なぜなら、そんなことは、ドライバーにとって当然の義務だからです。
   c. なぜなら、この国の交通ルールは特に厳しいからです。

(3)の「私たち」は、それ自体、特定のグループを指す「私たち」なのか、それとも、「人」、の意味になる「私たち」なのか、解釈があいまいです。そこで、(4a)の文が(3)の後に続けば、例えば、運転のヘタクソな仲良しグループの「私たち」というケースがあり得ますので、特定のグループを表す「私たち」になります。一方、(4b)が(3)の後に続けば、「人」、という意味の「私たち」になりますね。

しかし、(4c)が(3)の後に続く場合は、少し厄介です。この場合の「私たち」は、「人」、の解釈でもよいとは言えるでしょうが、しかし、「この国でクルマに乗る人に限り」、というような、限定付きということになりますので、漠然とはしていても、一定のワクが付いている上での、「人」、になるんですね。このように、(2)や、(3)+(4b)、(3)+(4c)の解釈になるような、「私たち」を、「一般人称」と呼ぶことがあります。要するに、一般人称とは、誰とは特定できないような人々のことを漠然と表しているだけなのです。

(5)We must save our resources because they are not unlimited. (訳同(2))

英語にも、もちろん、一般人称というものはあります。(5)の‘we’だって、日本語(2)の「私たち」と全く同じで、「人」の意味で使われています。しかし、それどころか、英語は、この一般人称の表現方法が、日本語以上に豊かである、と言えるような側面があります。

(6)They say that she is a famous actress.
(7) a. 彼らは、彼女が有名な女優だと言っている。
   b. 人は、彼女が有名な女優だと言う。

(6)の英語は、実は、(7a)と(7b)のような、2通りの解釈がOKです。これらの違いは、(7a)が、「彼ら」という特定のグループを主語にしている解釈で、「あの連中は」とか、「3年B組の生徒は」とか、具体的に表せる人たちの場合で、圧倒的に優勢となる解釈ですが、場合によっては、(6)の‘they’を不特定多数の人々と解釈して、人が言うには、彼女は有名な女優だそうだ、くらいの意味にとってもOKとなります。

これは英語と日本語の大きく異なる点で、日本語は、「彼ら」という表現を、一般人称としては用いません。「彼らは ~ だ」という表現は、必ず、特定のグループを指していますから。ですので、日本語(7a)の「彼ら」を、人数も漠然とした、誰ともハッキリしないメンバーから成る「人」の意味に解釈することは不可能です。ところで、‘they’は三人称ですが、二人称の‘you’も、一般人称として使われます。

(8)You should be careful when you drive a car.
(9) a. お前らはクルマの運転には注意せんといかん。
   b. クルマの運転には注意しなくては。

(8)の解釈としては、(‘you’が複数形であるという前提で) やはり、2通りがあり、(9a)ならば、話し相手 (聞き手) を含んだ特定のグループを指しますね。しかし、一方、(9b)ならば、話し相手 (聞き手) を含めて、人数も漠然とした、誰ともハッキリしないメンバーから成る「人」という解釈になります。日本語の場合、やはり、「お前ら」、「あなたたち」、「キミら」など、どれをとっても、聞き手を含んだ特定のグループという解釈になりますので、日本語(9a)の「お前ら」を、聞き手を含めた「人」の意味に解釈することは不可能です。

(10)They speak French in this country.
(11) a. 彼らは、この国では、フランス語を話している。 (〇)
    b. 人は、この国では、フランス語を話している。 (〇)

(12)French is spoken by them in this country. 
(13) a. この国では、フランス語が彼らによって話されている。 (〇)
    b. この国では、フランス語が話されている。 (×)

能動文である(10)の‘they’は、やはり、特定グループの解釈(13a)と、人数も漠然とした、誰ともハッキリしないメンバーから成る「人」の解釈(13b)の、2通りに解釈できますが、ここで面白いのは、能動文(10)の受身文である(12)は、‘them’が、特定グループの解釈(13a)しか許さない、ということです。では、なぜ、人数も漠然とした、誰ともハッキリしないメンバーから成る「人」の解釈になる(13b)が、アウトなんでしょうか。

ここで、能動文の主語と、受身文の‘by ~’の文法上の特性について考えてみると、英語の主語は、よく言われているように、日本語の主語とは違って、ある一定の例外を除いて、省略が不可能である、ということです。しかし、一方で、受身文の‘by ~’は、表す必要がない、と思われる場合は、なくても構わないものです。そこで、以下を見ましょう。

(14)French is spoken in this country. (訳同(13b))

(14)は、(12)から、‘by them’を取り除いた文ですが、このカタチでは、(13b)の解釈がOKになります。ここから言えそうなのは、英語の場合、一般人称の‘we’、‘you’、‘they’は、文法的に消去が可能ならば、消去しなければならない、というルールがあるのではないか、ということです。

(15)It is said by them [ that she is a famous actress ] .
(16) a. [ 彼女は有名な女優だと ] 彼らに言われている。 (〇)
    b. [ 彼女は有名な女優だと ] 言われている。 (×)

(17)It is said [ that she is a famous actress ] . (訳同(16b))

能動文(6)からつくられた、受身文(15)では、やはり、‘them’が、特定グループの解釈(16a)しか許さず、人数も漠然とした、誰ともハッキリしないメンバーから成る「人」の解釈になる(16b)が、アウトになります。しかし、(15)の‘by them’は、文法的に消去可能なので、(17)で、‘by them’を消去してみると、(16b)の解釈がOKになります。

(18)It is impossible for us to drink up the whiskey at one gulp.
(19)a. オレたちには、そのウイスキーを一気飲みなんて無理だ。 (〇)
   b. そのウイスキーを一気飲みなんて無理だ。 (×)

(20)It is impossible to drink up the whiskey at one gulp. (訳同(19b))

(20)の、「for A to 不定詞」のカタチでは、その不定詞の主語に、‘us’(=A)が使われていますが、(19a)のように、特定グループの解釈をOKにすることができます。しかし、一方で、数も漠然とした、誰ともハッキリしないメンバーから成る「人」の解釈になる(19b)はアウトです。この場合も、(20)のように、‘for us’を消去してやれば、(19b)の解釈がOKになります。 (EG43参照)

以上、受身文の‘by ~’や、「for A to 不定詞」のカタチでは英語の場合、一般人称の‘we’、‘you’、‘they’は、文法的に消去が可能ならば、消去しなければならない、というルールがあるのではないか、ということを支持する証拠を上げたわけですが、しかし、以下の例は、ちょっとした反例になるようです。

(21) Saving limited resources is very important for us.
(22)a. 限りある資源を節約することは、私たちにとって大事なことです。 (〇)
   b. 限りある資源を節約することは、大事なことです。 (〇)

(21)の‘for us’は、(22a)のように、特定グループの解釈がOKであり、そして、(22b)のように、数も漠然とした、誰ともハッキリしないメンバーから成る「人」の解釈もOKです。そこで、少し考え直して、受身文である、(12)や(15)の‘by them’は、もともとは、能動文の主語であったことに着目してみたいと思います。すると、(20)で消去されている、‘for us to drink ~’のカタチの‘for us’も、その不定詞の主語である、という共通点があります。そこで、以下のようなルールにするのがよい、ということになります。

(23)主語である一般人称は、その主語位置が、文法的に消去可能ならば、
   消去しなければならない。(変形によって派生された一般人称が、
   もとの文では主語である場合を含む)

今回のポイントは、一般人称と呼ばれる、‘we’、‘you’、‘they’ですが、一般に、あまり詳しく扱われることがない点を見てみました。そして、英語の一般人称は、日本語の一般人称と比べて、種類が多いので、解釈の仕方で、ちょっとカン違いしやすい場合がある、ということです。

一般人称が、受身文の‘by ~’には使えない、といったことは、断片的には、学校の英文法などでも教わるのですが、ハッキリとしたルールに基づいて教わる、ということはないようなので、この機会に、(23)のルールをマスターしておいて下さい。

● 関連: EG43

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英語学習法(76)

2005年04月18日 | 分詞
EG75の続きです。分詞構文です。以下、見ましょう。

(1)<Shocked at the news>、Lucy passed out.
  (<その知らせにショックを受けて>、ルーシーは気絶してしまった。)

(1)は、‘shocked at ~’の表現が、「~ にショックを受けて」、という意味になって、‘Lucy passed out’「ルーシーは気絶してしまった」、にかかっています。この‘shocked’は、過去形、過去分詞のどちらか、ということになるんですけど、結論から言うと、過去分詞です。

(2)Lucy was shocked at the news. (ルーシーは、その知らせにショックを受けた。)

(2)にあるように、「ショックを受ける」という表現は、‘A is shocked’というカタチで表して、「A はショックを受ける」という意味になります。本来、‘shock’という動詞は、‘shock A’で、「A にショックを与える」という意味になる他動詞なので、‘A is shocked’という、受身文のカタチにして、「A はショックを与えられる」、としてから、その平たい日本語の言いかえとして、「Aはショックを受ける」となるわけですね。

そこで、(1)の‘shocked at the news’の部分と、(2)の文を見比べてみると、‘Lucy was ~’の表現を除けば、同じ表現であることがわかると思います。ですので、受身文から、「主語+‘be’動詞」を取り除いて、いきなり‘-ed’から始まるカタチにしてやると、(1)のような使い方ができるんですね。(1)の‘shocked’が、過去分詞であると言ったのは、そういった経緯によるものです。類似した文として、以下の例を見ると、それがハッキリとわかると思います。

(3)<Beaten by a bank robber>、Lucy passed out.
  (<銀行強盗に打ちのめされて>ルーシーは気絶した。)

(3)では、‘beat-beat-beaten’「~ を打ちのめす」という活用をする動詞の過去分詞‘beaten’を用いていますが、構文的には、‘Beaten by a bank robber’の部分は、(1)の‘shocked at the news’と全く同じものです。ところで、(1)では、‘shocked at the news’が、‘Lucy passed out’にかかっている、と言いましたが、ということは、‘shocked at the news’は文の骨格にはならない表現である、ということになりますね。つまり、(1)の過去分詞は、副詞的な過去分詞であると言ってもよいでしょう。(3)の‘beaten’も、もちろん同様です。

そこで、EG75では、副詞的な‘-ing’のカタチである、分詞構文を扱いましたが、実は、この副詞的な過去分詞も、分詞構文の仲間なのです。つまり、分詞構文とは、基本的には、現在分詞‘-ing’や、過去分詞‘-ed’といった分詞を、副詞として使用する表現方法なのです。

さらに、EG75では、‘-ing’の分詞構文には、カタチとなって現れている主語がないので、それがかかる他の文の主語にその主語を求める、といった決まりごとがあるのを見ました。過去分詞の分詞構文もそれと同じルールに従います。

まず、(1)の文では、ショックを受けたのはルーシーですが、気絶したのもルーシーですね。つまり、(1)の‘shocked’は、(2)にあるように、本来、‘Lucy’を主語としている文がもとになっている、と考えてもよいと思います。(3)の文でも、銀行強盗に打ちのめされたのはルーシーですが、気絶したのもルーシーです。ですので、そこから、(3)の‘beaten’も、カタチとしては目に見えないけど、本来は、‘Lucy’を主語に取っていると解釈されるわけですね。

コトバは、述語があれば、必ず、その主語がある、と考えるのが普通ですので、まさに、分詞構文の特徴は、その本来あるはずの主語が、カタチとなって現れていないところにある、と言ってもよいでしょう。そこで、分詞構文の場合は、その目には見えない、カタチとなって現れてはいない主語を、どこか別の場所に求める、ということになっているのです。ですので、ここから、‘-ing’の場合と、過去分詞の場合とで、その主語として、どのようなものが可能であるかを、練習して慣れることが、英語脳的には重要となってきます。

(4)<この港から見ると>、あの船は小さな城にみえるね。
(5) a. <Seen from this harbor>、that ship looks like a small castle. (〇)
   b. <Seeing from this harbor>、that ship looks like a small castle. (×)

(4)の日本語を分詞構文で表現するとします。そこで、英語としては、(5a)が正しく、(5b)が間違い、ということになります。この手の分詞構文は、よく、ペーパー試験の問題としても見かけることがありますが、英語の主語・述語の関係に、あまり慣れていない日本人の心理を巧妙に突いた問題と言えます。

まず、(4)の日本語から、「~ 見ると」となれば、日本語としては能動文ですから、あたかも、(5b)の‘seeing’の方が適格ではないのか、という印象があり、まさか、受身文をベースにした(5a)の過去分詞‘seen’が正しいなどとは考えないわけですね。

これは、日本語は、< >の表現がかかる相手となる文に対して、厳密に主語は主語として対応させるということに、特にこだわらないコトバだからであり、そして、(4)の場合、「この港から見られると」、というような受身文の日本語にしてしまうと、英語の受身文とは違って、「迷惑・被害」という余分な意味が出てしまい、「この港から見ると」という表現と比べて、不適切に感じられてしまうからです。

(6) a. That ship is seen from this harbor. (あの船はこの港から見られる。)
   b. We see that ship from this harbor. (私たちは、あの船をこの港から見る。)

(6a)は、受身文であり、‘that ship’「あの船」が主語になっています。一方、(6b)は能動文であり、‘that ship’が目的語になっています。ここから、(5a)の‘that ship looks like a small castle.’の主語が、‘that ship’であることを考えると、同じく、‘that ship’を主語に取っている(6a)が、分詞構文のベースとしては適格であることがわかります。一方、(6b)の主語は、‘we’「私たち」であり、もちろん、(5b)の主語‘that ship’と同じではないので、そこから、(5b)のような分詞構文をつくることはできず、不適格となります。以下も、類似した表現ですね。

(7)メアリーと比べると、ジョンはそれほど慎重ではないね。
(8) a. <Compared with Mary>、John is not so careful. (〇)
   b. <Comparing with Mary>、John is not so careful. (×)

(8a)は、過去分詞‘compared’を使っていて、正しい英語ですが、一方、(8b)は、‘-ing’のカタチ‘comparing’を使っていて、間違いになります。これを正しく判断するのを妨げているのは、やはり、(7)の日本語で、「メアリーと比べると」の部分が能動文になっているからです。

(9) a. John is compared with Mary. (ジョンはメアリーと比較される。)
   b. We compare John with Mary. (私たちは、ジョンをメアリーと比較する。)

(9a)は、受身文‘A is compared with B’「AはBと比較される」からつくられた文ですが、‘John’(=A)が主語になっていて、(8a)の、‘John is not so careful’の部分と主語が一致しますね。ですので、‘compared with Mary’の表現を使った(8a)は、適格なのです。一方、能動文‘X compare A with B’「Xは、AをBと比較する」からつくられた(8b)は、‘we’(=X)が主語なので、‘John is not so careful’の部分と主語が一致しませんから、不適格ということになります。

ここで、(9a)の日本語訳を見てほしいのですが、受身文として表現された日本語は、「ジョンは ~ される」となっていて、どこか、ジョンにとって、「迷惑・被害」の含意があるのが感じられます。ところが、(9a)の英語の受身文の場合、そのような含意はなく、ただジョンとの比較の対象が、メアリーであることが示されているにすぎません。

ですので、(9a)の日本語訳のような、余計な意味をもつ表現は、避けられるものなら避けたいので、(8a)の英語に対して、(7)のような日本語にした方が、「メアリーと比較されると」よりも、座りがよい表現になるわけです。(5a)の英語に対する、(4)の日本語も、やはり、同じことが言えます。

こういった日本語と英語のカタチの上での表現方法が、同じ解釈の中でブツかり合って、能動文(日本語)に対して、受動文(英語)というように、お互いに対応するカタチが取れない場合、英語はとても難しく感じられます。しかし、考え方として、一定の法則に従っていることが理解できさえすれば、それほど扱いは難しいものではありません。

今回のポイントは、過去分詞のカタチを取る分詞構文ですが、やはり、‘-ing’の分詞構文と同じく、副詞的なはたらきをもっている、ということと、依存する(かかる)他の文の主語に、その主語を求めるということです。この点は、お互いの共通点となります。

そして、過去分詞の分詞構文は、その成り立ちが、受身文からくるものなので、その点、性質が異なる日本語の受身文とは、対応する訳が、能動文・受身文で正反対になる傾向がある、ということです。おそらく、日本人にとっては、この点が、最大の注意点となるでしょうから、練習あるのみです。これで分詞構文の基本的な理解は終わったわけですが、他の派生的な分詞構文に関しては、また別の機会にでも。

■注1 :それほどあまり見かけることはないのですが、過去分詞のカタチをとる分詞構文は、受身文の性質をもっているので、そこから、「‘be’動詞+過去分詞」の分詞構文、‘being+過去分詞’となることもあります。つまり、単純に、過去分詞のアタマに‘being’が付加されている、とだけ理解しておけばよいものです。

■注2 :日本語の受身文、「~ れる、~ られる」は、ある程度、それ自体が、「迷惑・被害」を含意する傾向がありますが、英語の受身文は、それ自体で、「迷惑・被害」を表現するというようなことはなく、一般的な常識や、受身文の主語がどのような立場のものであるか、といった構文自体の性質とは違った観点から、「迷惑・被害」が表現されます。これに関しては、EG68を参照して下さい。


●関連: EG68EG75

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英語学習法(75)

2005年04月15日 | 分詞
分詞構文と呼ばれている‘-ing’のカタチの基本を扱います。以下、見ましょう。

(1)Tom reads a book. (トムは本を読む。)
(2)Tom listens to music. (トムは音楽を聴く。)

(1)と(2)をつないで、1つの文にしてみたいと思います。その方法はいろいろありますが、1つの方法として、動詞の‘-ing’のカタチを使ったものがあります。

(3)Tom reads a book <listening to music>. (<音楽を聴きながら>、トムは本を読む。)

(3)の‘listening’は、もちろん、(2)の動詞‘listen’「聞く」が、‘-ing’を末尾に付けることによって、カタチを変化させたものです。この‘-ing’のカタチに対する日本語訳は、「~ ながら」となっています。つまり、あることをしながら、一方で、別のことをしていることを表すときに、便利な表現ですね。

(4)John sings <walking on the street>. (<通りを歩きながら>、ジョンは歌う。)

(5)They ran away <crying>. (<泣きながら>、ヤツらは逃げていった。)

(6)Mary watchs TV <eating breakfast>.
  (<朝食を食べながら>、メアリーはテレビをみる。)

(4)~(6)において、やはり、「~ ながら」という表現は‘-ing’のカタチを付け足してやることで、表現できることがわかると思います。ですので、「~ ながら」を英語で表現してやるのは、とても簡単なんですね。ここで注意点ですが、こういった、‘-ing’の付け足しでは、意味として、「~ ながら」だけが表現されるわけではありません。

(7)<Seeing the snake> I was very scared.
   (<そのヘビを見ると>とても怖かった。)

(8)<Turning to the left> you can find a red house.
   (<左に曲がると>赤い家が見つかりますよ。)

(9)<Drinking too much> John fell asleep on the street.
   (<飲みすぎて>ジョンは路上で寝てしまった。)

(10)<Accepting what you insist> I want you to accept mine too.
   (<君の主張は受け入れるけど>ボクのも受け入れて欲しい。)

(7)~(10)を見てもわかるように、付け足しの‘-ing’には、いろんな意味があります。「~すると」、「~して」、「~ので」、「~けど」、などありますね。そこで、一体、何種類くらいの日本語訳を覚えたらいいんだ、と考え込んでしまいますが、別に、ふさわしい日本語訳を暗記して、カチっと対応させる、などということは、考えなくてもよいと思います。

こういった‘-ing’の解釈は、文全体の意味や、その他の文脈から判断して、最も自然な意味になるようにもっていきさえすればよいだけで、特に、どういった意味に取らなければならない、というような決まりごとはありません。明らかに変だな、と思われる意味にならないように注意して、最も自然な意味になっていれば、大丈夫です。

それよりも、少々厄介なのは、(3)にあるように、(2)の動詞‘listen’を、‘-ing’のカタチに変えたときに、主語の‘Tom’がなくなっていることです。このように、基本的には、分詞構文の‘-ing’は、動詞でありながら、主語をもっていない、ということから、その主語は、どのようにして判別したらよいのか、ということが問題になります。そこで、(3)の文では、音楽を聴いているのは誰か、と考えると、もちろん、トムですね。トム以外の人物ではないということです。つまり、トムは、‘read’の主語でもあり、同時に、‘listening’の主語でもある、ということです。

今度は、(4)~(6)を考えてみます。(4)で、ジョンは、もちろん、‘sing’の主語であるわけですが、同時に、‘walking’の主語でもあるわけです。(5)では、‘they’「ヤツら」が、‘run away’の主語ですが、同時に、‘crying’の主語でもあります。(6)では、メアリーが、‘watch’の主語ですが、同時に、‘eating’の主語でもあります。

こんなふうに、付け足しの‘-ing’は、目に見えるカタチでの主語をもっていないので、他の文の主語を、解釈上の主語として借りてくることになっているのがわかります。これが、付け足しの‘-ing’、つまり、分詞構文の基本的なルールということになります。それと、この、‘-ing’の付け足し、という文のつくり方において、そういった‘-ing’は、文法的には、どのような扱いになるか、ということですが、さすがに、「付け足し」というだけあって、この種の‘-ing’は、副詞として扱うことになっています。 (EG39、EG40、EG44参照)

つまり、分詞構文の正体は、副詞的‘-ing’と言ってもよく、そこから、当然、文の骨格にはなり得ません。ですので、語順に関しては、比較的、自由度が高く、依存する文の前でも、後でも、くっ付くことができます。(3)~(6)では、‘-ing’が、依存する文の後に位置していますが、一方、(7)~(10)では、‘-ing’が、依存する文の前に位置しています。そういったことで、やはり、‘-ing’が置かれる位置が、前の方がよいか、後の方がよいかは、文の意味に応じて選ばれるということになります。

例えば、(8)の文では、左に曲がってから、その後で、赤い家が見つかる、という順番になりますから、‘turning to the left’は、‘you can find a red house’の前にあった方がよい、ということになりますね。これは、(8)と似たような意味を表す以下のような文(11a)とは、ちょっと使い勝手が違ってきます。

(11)a. You can find a red house <if you turn to the left>. (訳同(8))

   b. <If you turn to the left> you can find a red house. (訳同(8))

(11a)では、< >の副詞節である表現が、文の末尾に位置していますが、そのような語順は、別に逆であってもよく、(11b)のように、< >の表現が文の先頭にあっても構いません。これは、前後の文において、それぞれが担う意味の役割が、もとからハッキリしていて、語順変更しても、意味の解釈に支障が出ないからです。

‘if ~’「~ ならば」が、アタマにくっ付いている文は、<if+主語+動詞 ~>というように、1つのまとまりを成して、副詞節となります。もちろん意味も、副詞的‘-ing’とは違って、それ自体を見てわかるので、その点、さして語順は重要ではないわけですね。

しかし、付け足しの‘-ing’の場合は、それ自体を見た段階で、意味が決まっているのではなく、その他、文全体を考慮したり、文脈を考慮したりしてから、適切な意味に取るという作業が必要になってきますので、極力自然な語順を選ばなければなりません。

そこで、一般的な傾向としては、(3)~(6)のような、「~ ながら」の意味になる、付け足しの‘-ing’は、文の先頭にも末尾にも現れますが、(7)~(10)のような意味の‘-ing’は、文の先頭に置かれます。しかし、どちらのケースでも、文の中に割って入るときもあります。文の中に割って入る場合は、一般的には、‘-ing’の主語と解釈される表現の直後である位置が普通です。

(12)Tom、<listening to music>、reads a book. (訳同(3))
(13)John、<drinking too much>、fell asleep on the street. (訳同(9))

今回のポイントは、分詞構文と呼ばれる、‘-ing’のカタチをした、付け足しの副詞表現です。こういった‘-ing’は、(11a)や(11b)にあるような、< >の副詞節のように、それ自体で意味がハッキリしているわけではないので、意味によっては語順に注意しなければなりません。

そして、‘-ing’自体に、ハッキリと目に見えるカタチで主語が付いているわけでもないので、‘-ing’が依存する(かかる)他の文の主語に、その主語を求めなければならない、という点で、思いのまま勝手自由に付け足す、ということを許すものでもありません。あと、分詞構文には、その仲間として、他のカタチもありますが、その紹介は、別の機会になります。

■注 :‘Mary worked hard、<finishing the job in two days>.’「メアリーは、がんばってはたらいて、2日でその仕事を終わらせた。」、のように、「結果」を表す分詞構文の、‘-ing’もあります。もちろん、語順は、意味の流れに従って、文の末尾に置かれます。

●関連: EG39EG40EG44

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英語学習法(74)

2005年04月12日 | there構文
EG31の続きです。‘there is/are ~’の構文です。以下、見ましょう。

(1)There is a book on the desk. (机の上に本があるよ。)
(2)The book is on the desk. (その本は机の上にあるよ。)

EG31では、(1)のような、‘there is/are ~’の構文は、「不定」の解釈を受けるような名詞が後に続く、ということを確認しました。一方、(2)のような、‘there’のないカタチの文の主語位置には、「定」の解釈を受けるような名詞がくることも確認しました。そこで、ちょっと以下のような文を見てみましょう。

(3)A book is on the desk. (×) (訳同(1))

(3)の文は、(2)の‘the’を、‘a’に変えてみたんですが、〇か、×かどちらか、と問われると、どうも、しっくりこない意味になる感じで、良い文とは言えないようなので、とりあえず、×です。というのは、主語の位置で、‘a book’とやって、不定の解釈を受けるような名詞がくると、どうも後に続く、‘on the desk’とのバランスが、どこか不自然だと感じられるからのようです。では、このバランスの不自然さとは、一体、どういったことからくるものなんでしょうか。

そこで、当たり前のことなんですが、普通、主語の位置というのは、文の先頭です。この文の先頭の位置というのは、あまり新鮮な情報をもった表現がくるのが好まれないようなのです。新鮮な情報とは、聞き手にとって、目下の話題の中に、既に登場しているとは思われないものや、逐一、コトバにして言わなければ、了解済みである、とは思われないであろうと予想されることです。 (EG73参照)

ですので、逆に、新鮮な情報ではないものとは、聞き手にとって、目下の話題の中に、既に登場していると思われるものや、逐一、コトバにして言わなくても、もう既に、了解済みである、と思われるようなことになりますね。そこで、以下の文を見ましょう。

(4)A man is running in the park. (公園で男の人が走ってるよ。)

(4)は、不定の解釈を受ける名詞、‘a man’が主語になっていますが、別に、おかしな文ではありません。これは、不定解釈を受ける‘a book’が主語になっている(3)が、しっくりこない文であることとは矛盾しています。そこで、(3)の文は、(4)のような文とは違って、どこが特殊なんだろうか、と考えてみると、その中で使われている‘is’が、「~ がある」という、「存在」の意味をもった‘be’動詞である、ということです。 (EG70参照)

「存在する」という意味は、(4)にあるような、「走っている」という表現と比べて、意味内容が「薄い」と考えられます。というのは、誰かが「走っている」という表現は、その誰かが存在することなど、もとから前提にしている表現であって、存在しないものが走っている、というのは意味不明ですね。ですので、「存在する」という表現よりも、「走っている」は、意味内容が「濃い」と考えられます。

つまり、(3)の文が、容認度が低い、と判断されるのは、比較的、情報の新鮮度が高いと思われるような、不定解釈の名詞が主語にくると、意味内容の薄いと考えられる「存在する」のような表現が述語では、主語と述語のバランスが不自然で、しっくりしないと感じられる、ということらしいんですね。これが、(4)のように、述語の方に意味内容の「濃い」表現がきていると、不定解釈の名詞が主語であってもバランスが不自然とは感じられないのでOKになる、ということなのです。

そこで、「主語・述語」における、バランスの自然さとは、どのような関係で捉えたらよいのか、ということになります。ここで、「焦点」という概念が登場します。つまり、文の中で、言いたいことを言うときに、まず、テーマのようなことを決めてから、そのテーマについて述べるというのが、文の自然な意味の流れということなんです。「焦点」とは、普通、提示されたテーマついて、こう言いたい、ああ言いたい、といった、まさに言いたい部分のことを指している場合が多いんですね。

これを簡単に言い換えると、「テーマの出現 → そのテーマの中の焦点」というのが、「主語 → 述語」の基本的な流れで、それは、「~ は ・・・ だ」というようなカタチになってコトバになる、と言ってもよいでしょう。そこで、(4)を例に取って考えると、ある男の人がテーマとなって取り上げられ、その男の人はどうか、と言うと、「走る」という行動をとっていることに、目下の焦点が当てられている、と言えるわけですね。

そこで、コトバでは、大抵の場合、述語の方に当てられるべき焦点の役割を担わせるのですが、英語の場合、ただ単に「存在」を表しているだけ、というような意味内容の薄い表現に対しては、あまり強い「焦点」を担わせにくい、と感じられるようなのです。

そういった述語の主語として、情報的に新鮮度の高い「不定」解釈の名詞がきたりすると、情報的価値のバランスといった点で、あたかも、「焦点」が主語の方にもあるように思われ、述語に当てられる焦点が弱くなった時点で、主語・述語の「焦点」が、ちょうど等しく当てられているようなレベルになり、どちらに焦点があるのかハッキリしなくなるので、直感的にしっくりこない、と感じられるようなのです。

だから、「存在する」のような意味内容の薄い表現が述語にくる場合は、主語に、情報的な新鮮度があまりない表現が好まれるようです。ですので、(2)のように定冠詞の付いた‘the book’のような、初登場とは思われないような表現が主語になると、焦点が述語の方にのみ当てやすくなるということですね。

ここから、英語には、「存在」の意味を表す特別な構文として、‘there is/are ~’の構文がある理由がわかると思います。つまり、(3)のような文が好ましくないのなら、主語の位置を、カタチだけ持たせておいて意味など何もないような表現にしておけばよい、という発想なんですね。そのため、(1)のような文では、‘there’は何も意味をもっておらず、ただ、主語位置を埋める役割だけを担っています。最初から意味をもたない表現が主語になれば、焦点など主語に当てようがない、ということですね。

ここで、(1)の文の‘there’は、意味をもたないカタチだけの主語である、と言ったわけですが、普通、‘there’は、「そこに」という意味をもった副詞ではないのか、という疑問をもつ人がいると思います。というのは、以下のような文(5a)があるからですね。

(5) a. There is the book. (〇) (ほら、そこにその本はあるよ。)
   b. The book is there. (〇) (そこにその本はあるよ。)

(6) On the desk is the book. (〇) (ほら、机の上にその本はあるよ。)

結論から言うと、(5a)の文における‘there’は、「そこに」という意味の副詞です。しかし、この‘there’は、(5b)の文から、「そこに」の意味を強調させるために、語順変更して倒置させた文であると考えるのが妥当であり、事実、発音の上では、(5a)の‘there’と、(5b)‘there’は、両方とも、ストレスを置いたイントネーションになり、同じ発音になる一方で、(1)の、何ら意味をもたない‘there’は、ストレスを置かない、弱いイントネーションで発音されます。

そして、カタチの上では、(5a)のような‘there’は、「そこに」という意味をもっているわけですから、(6)にあるような、‘on the desk’「机の上に」という、場所を表す表現との置きかえが可能です。ここから、もちろん、同様に、(5b)の‘there’は、(2)のように、‘on the desk’といった場所を表す表現との置きかえが可能です。しかし、一方で、今度は(1)を見ると、‘there’と‘on the desk’が同時に出現しているのがわかりますね。そこで以下の文を見ましょう。

(7)There is a book there. (そこに本があるよ。)

(7)では、‘there’が同時に2つ現れています。ここから、もう、おわかりの通り、(5a)の‘there’と、(6)の‘on the desk’が置きかえられるのと同様に、(1)の‘on the desk’も、「場所」の意味をもつ‘there’「そこに」と置きかえが可能なのです。

(7)では、文の先頭にあるのが、意味をもたいない主語の‘there’であり、弱いイントネーションで発音されます。一方、文の末尾にあるのが、「場所」の副詞である‘there’であり、ストレスを置いたイントネーションで発音されます。ですので、結論として言えるのは、(7)が決定的な証拠となって、実は、2タイプの‘there’が存在する、ということなのです。ダメ押しとして、前者の‘there’が明らかに、主語のステイタスをもっているという証拠も上げておきます。(EG43参照)

(8)It is unpleasant for there to be many flies in the kitchen.
  (台所にハエがいっぱいいるなんて不愉快だな。)

今回のポイントは、場所の‘there’「そこに」とは、明らかに異なる、もう1つの‘there’が存在するということです。この‘there’は、「存在」の‘there’と言ってもよく、(3)のような、主語・述語の間での意味的バランスが不自然な文を回避するために、特別に、こしらえられたものなのです。(5a)の文などの類推から、(1)の文は、倒置である、などと誤解されているフシもありますが、(7)が証拠となって、それは完全に否定されます。この、もう1つの‘there’の認識があまり一般的ではないため、今回、特別に扱ってみましたが、これでもう理解は大丈夫だと思います。

■注 :(3)がアウトになるのは、文法性の問題というよりも、むしろ、「主語・述語」の間で、どちらが焦点になるのかがハッキリしないので、不自然な感じになるわけですが、これを回避する方法は、‘there’構文を使う以外に、語順変更という手段もあります。(3)を、‘On the desk is a book.’としても、OKになります。これは、やはり、「テーマ (on the desk) → 焦点 (is a book)」のカタチとなることで、情報の新鮮度が低い‘on the desk’がテーマとなる一方で、不定解釈の‘a book’が、本来、焦点を担いやすい位置にまわり、完全に‘a book’の方のみが焦点を担うからです。

●関連: EG31EG43EG70EG73

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チョット気になる英語(か?)・2005年04月10日(日)

2005年04月09日 | その他

【チョット気になる英語(か?)(^^;】 2005年04月10日(日)
「マナー」は、‘manners’(複数形)で、「作法、行儀」の意味でOKですが、形容詞としては、意外と使いやすく、‘well-mannered’「行儀が良い」と、‘ill-mannered’「行儀が悪い」というように単純な使い方ができます。

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