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英語脳をつくる!~日本人はいかに効率良く英語を学べるか~

英語学習に関する事いろいろです。日本人がいかにすれば実用英語を身に付けられるか、その最短距離を考察!

英語学習法(80)

2005年04月29日 | 動詞
EG79の続きです。動作動詞です。以下、見ましょう。

(1)サイフを見つけた。 (〇)
(2)今、サイフを見つけている。 (×)

今回は、「見つける」、という動詞ですが、(1)の過去形は、OKですが、(2)の進行形は、アウトです。EG79で確認したように、進行形である、「今、地面を掘っている」や、「今、イスをつくっている」は、OKであったことから、「見つける」は、どうやら、「掘る」や、「つくる」とは違って、別の種類の動作動詞として、分類分けされる動詞ではないのだろうか、という見方ができると思います。

(3)サイフを、3時間、見つけている。 (×)
(4)サイフを見つけるのに3時間かかった。 (〇)

(3)は、進行形、「見つけている」が、「3時間」、をともなって、アウトになっていますが、これは、「見つける」が、ある程度の時間の長さを、表現し得る行為とは、認識されないことを示しています。しかし、一方、(4)は、OKです。つまり、EG79で確認したように、「3時間かかる」、という表現に適合するということは、「見つける」、という動詞は、何らかの「変化」は、含意している、と言えますね。

つまり、サイフがどこにあるのかわからない、という状態が、ずっと続いていたのに、あるとき、その場所を発見した、ということで、サイフがない、という状態から、今はサイフがある、という、「変化」が起こったわけです。ですので、この点に関しては、「見つける」、という動詞は、EG79の、「つくる」や、完成したものを目的語に取っている場合の、「掘る」と、同じ性質をもっている、と言えます。

しかし、一方で、(3)が、アウトであることを考えると、「見つける」、という動詞は、その動作の、「開始から終結」を、段階的に表現することが、不可能な表現であり、言わば、その行為自体が、瞬間的である、ということのようです。EG79で見た、「つくる」は、「今、イスをつくっている」、という表現にして、イスが未完成状態であっても、OKでしたので、「つくる」、という行為の、「開始から終結」までを、ある段階にスポットを当てて表現することが可能です。

しかし、「サイフを見つける」、という行為には、そのプロセスとして、中途の段階という概念は、存在しません。そこで、動作の概念のタイプ分けには、①・「変化」を含意しない動作、②・「変化」と、それが起こるまでのプロセスを含意する動作、に加えて、③・「変化」のみを含意する動作、があるのがわかります。

(5)泳ぐ、歩く、走る、動く、運転する、(文を)書く、その他
(6)つくる、建てる、描く、(本を)書く、(スープを)煮る、その他
(7)見つける、無くす、終わる、やめる、始める、到着する、死ぬ、その他

(5)のグループは、「変化」を含意していませんので、特徴としては、その行為が均一的です。つまり、「~ するのに3時間かかる」、というような表現が、うまく適合しない動詞ということになります。一方、(6)のグループは、「変化」を含意しています。そして、その開始から終結までのプロセスを表現することが可能です。(7)のグループは、瞬間的行為として表現されており、その開始から終結までのプロセスを表現することは不可能です。

ところで、ここで、話の方向性を、少し、変えたいと思います。これまでは、動作動詞、という品詞の観点から、上の3タイプの概念を見てきたわけですが、そのままの理解では、実は、誤解を与えてしまいます。EG79では、「掘る」という動詞が、取っている目的語によっては、①のタイプ (つまり、(5)のグループ) にもなり、また、②のタイプ (つまり、(6)のグループ) にもなる、ということを見ましたが、これは、何も、目的語を取る動詞に、そのような規則性がはたらく、ということを、意味するわけではありません。

と言うよりも、むしろ、動作動詞と、他の表現との組み合わせによっては、上の、①か、②のタイプの、いずれかに解釈されるであろう、という理解の方が本質的なのです。つまり、その動詞に付随する他の表現とは、何も目的語に限ったことではないのです。

(8)歩くのに、3時間かかった。 (×)
(9)コンビニまで歩くのに、3時間かかった。 (〇)

(8)の「歩く」は、自動詞であり、他動詞ではないので、目的語をとることはありません。そして、意味的には、それ自体、均一的な行為と言えますので、「変化」を含意してはいません。そこで、「3時間かかる」とは共起せず、アウトになりますが、しかし、一方、(9)のように、「到着点」を含む、「コンビニまで歩く」、となれば、その表現全体を考慮して、概念上、動作の終結を含意する、と言えますので、「3時間かかる」、と適合するようになります。

つまり、動作動詞にプラスされる他の表現と、トータルで意味を考えて、「変化」を含意するか否かという見方が、動作動詞の表し得る、①と②のタイプの、様相を理解する上での、本来、正しい見方なのです。ですので、同じカタチの動作動詞 (例えば、「掘る」、「歩く」、「書く」、その他) であっても、他の表現とひっくるめて考えた上で、①のタイプに属するか、②のタイプに属するかを判断しなければなりません。

次に、同じカタチの動作動詞が、①や②の他のタイプに現れない、③のタイプ (つまり、(7)のグループ) ですが、(5)のグループのように、均一的行為でもなく、(6)のグループのように、動作の、「開始から終結」までを潜在的に含意することもない、という点で、表現できるカタチの中での解釈が限定されてしまいます。

(10)トムは、泳ぎ続けた。
(11)トムは、イスをつくり続けた。
(12)トムは、サイフを無くし続けた。

(10)は、「泳ぐ」という行為が、均一的に続いている解釈もあれば、泳いでは休み、また、泳いでは休み、という、「繰り返し」の解釈も可能です。そして、(11)も同様であり、1つのイスをつくるために、ずっと作業にかかりっきり、という解釈もあれば、何個ものイスをつくりだす作業をする、という、「繰り返し」の解釈もあります。

ところが、一方、(12)は、「サイフを無くす」、という行為が、繰り返されることを意味してはいますが、しかし、無くす、という1回の行為の経過を表現することはできません。これは、やはり、③のタイプの動作動詞が、その動作の、「均一性」も表現せず、「開始から終結」、といったプロセスも含意せず、瞬間的行為としての解釈しかもたないために、起こることだと説明されます。この点においても、③のタイプのような分類分けは、動作動詞の表現している様相をとらえる上で、有効であることを支持しています。

今回のポイントは、EG79から、引き続いたテーマで、動作動詞を、その表している様相によって、3タイプに分類する、ということです。しかし、それは、動詞だけを見て、どうのこうのと論じる問題ではなく、あくまでも、動作動詞を中心に置いて、他の表現も含めた上での分類であり、この分類方法は、むしろ、ヒトが認識活動を行っている際、どのような観点から、動詞化を行っているのかを考える、という発想に基づくものです。

そして、こういった表現上の様相に対する理解は、別に、英語でなくとも、日本語で十分である、というよりも、コトバの在り方の理解という意味で、英語も日本語もない、ということなのです。つまり、今回のテーマは、コトバのかなり、根源的な部分を扱った、ということなので、英語とは直接的には関わってきませんが、結果として、英語脳形成には、後から必要になってくる、と思われる概念だったので、あえて日本語のみで扱ってみました。

■注1: 「サイフを見つけつつある。」は、OKですが、もともと、「~ しつつある」は、「変化」を含意する表現と共起するものです。例えば、「走りつつある」を、OKにする人でも、この場合、「走り出しつつある」、の解釈に取っているのであり、止まっている状態や、歩いている状態からの、「変化」を含意しています。

■注2 :(7)のグループの動詞は、進行形、「~ ている」、とは適合しませんが、例えば、「死ぬ」、は、「オマエは、もう死んでいる。」、などと、言う場合、当然、進行中の動作の、ある時点に焦点を当てた進行形ではなく、「状態」の解釈になりますので、注意が必要です。

■注3 :「泳ぐのに、3時間かかった。」や、「運転するのに、3時間かかった。」は、アウトである一方、「3時間かけて泳いだ。」や、「3時間かけて運転した。」は、OKにしやすいのですが、この場合は、結局、「3時間、泳いだ。」や、「3時間、運転した。」、と言っているのと同じことなので、「3時間かけて」は、「3時間かかる」と違って、必ずしも、「変化」、を前提とする表現ではありません。


●関連: EG79

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英語学習法(79)

2005年04月27日 | 動詞
今回は、動作動詞に関してです。とは言っても、まず、日本語の例で概念的なことを考えてみたいと思います。以下、見ましょう。

(1)トムは地面を掘った。
(2)トムは穴を掘った。

(1)と(2)ですが、「~ を掘る」という動詞は、「地面」も、「穴」も目的語に取ることができます。普段は、あまり意識して考えることはないんですけど、よく考えてみると、ちょっと、おや?と思ってしまうことがあります。

それは、(1)の場合、ただ単に、「掘る」、という行為の対象が、「地面」である、ということを述べているだけなんですが、一方、(2)では、掘った結果として、「穴」ができるのであって、(2)は、「掘る」、という行為が、最終的に行き着くところに、「穴」という完成したものがある、ということを意味しているんですね。

つまり、(1)と(2)は、それぞれ、動詞は同じ、「掘る」でも、目的語の質は違う、ということです。このように、目的語が質的に違うと、文法的に、どのようなことが起こるんでしょうか。ちょっと、そこら辺を考えてみたいと思います。

(3)トムは、3時間、その地面を掘った。
(4)トムは、3時間、その穴を掘った。

(3)は、ただ単に、トムが、地面を、どんどん堀り続けて、3時間が経ったと言っているわけですね。一方、(4)は、(2)と比べると、何だか、「穴」が、完成したもののようには感じられません。穴があっても、さらに、その穴の大きさを広げるべく、どんどん掘り続けた、という感じがします。このような場合、「穴」は、完成したものではなく、「掘る」、という行為の、対象として扱われることになりますから、質的には、(3)の、「地面」と同じ扱いをうけることになります。

これは、完成したものとしての「穴」は、未完成の状態から、あるとき、その完成を迎えるという、「変化」を含意する行為によって、表現されることを前提としているからです。(4)は、時間の長さを表す、「3時間」という表現が、均一的な、一続きの行為が起こり続けることを前提とした表現であるにも関わらず、「穴」を、完成したもの、として解釈すると、均一的行為を要求する、「3時間」と、完成という、「変化」が、表現上の不適合を起こすため、それを回避しなければアウトになる、と言えます。

ですので、(4)を、無理のない自然な解釈にするためには、「穴」を、完成したものではなく、「掘る」という行為の対象にしなければなりません。こういった、行為の対象と、完成したものの違いを、もう少し詳しく言うと、行為の対象は、動詞の表現する動作によって、何らかの影響を受けるだけのもの、と言うことができますが、一方、完成したものは、動詞の表現する動作によって、何かが影響を受けて、さらに、その結果として、後から存在するもの、ということができます。

そこで、行為の影響を受けるだけのものが、目的語になっている場合は、均一的に、影響を与えるという行為を、ずっと行うことができるので、時間の長さに幅をもたせた、一続きの行為として表現することが可能ですが、一方、行為の影響を受けた結果として、後から存在するもの (完成したもの) が目的語になっている場合は、「変化」が起こっているわけですから、その完成という行為自体を、時間の長さに幅をもたせた、一続きの行為として表現することができません。そこで、以下を見ましょう。

(5)イスを、3時間つくる。 (×)
(6)イスを、3時間つくり続ける。 (〇)

(5)はアウトです。なぜかと言うと、(4)の「穴」とは違って、「イス」はサイズが固定されていて、広げることができませんからね。つまり、「イス」は、「つくる」という、行為の結果としてでき上がった、完成したもの、という解釈しか、もともと許されないのです。そこで、「変化」を含意する行為、という解釈しかない、「イスをつくる」に、無理やり、「3時間」という、ただ時間の長さを表すだけの表現をくっ付けたので、(5)はアウトになった、ということですね。

しかし、一方、(6)はOKです。ですが、これは、「つくる」ではなく、むしろ、「続ける」の方が、「3時間」という、時間の長さを表す表現を許容するために、(6)はOKになった、ということですね。その証拠として、今度は、以下を見ましょう。

(7)今、イスをつくり続ける。 (×)
(8)今、イスをつくっている。 (〇)

(7)は、「今」と「続ける」の組み合わせが悪いため、アウトになっています。つまり、「続ける」という動詞は、元来、瞬間的な行為ではなく、時間の経過を含意している、ということです。しかし、一方、(8)のように、「つくる」に、進行形のカタチ、「~ ている」を付けて、「つくっている」のような表現にしてやると、瞬間的な表現である、「今」と適合します。そこで、以下は、どうでしょうか。

(9)今、イスをつくる。 (×)

今度は、(9)ですが、「イスをつくる」の「つくる」が、現在形である、とは言っても、「今」とは適合せず、アウトになる、ということです。しかし、一方で、(8)のように、イスが完成するまでのプロセスを進行形によって表現した場合は、「今」と適合するという事実があります。そこで、注意点としては、(6)であろうと、(8)であろうと、解釈としては、イスが未完成である、ということです。

ここから、2つの問題が発生します。つまり、①・進行形、「~ ている」や、「続ける」の力を借りれば、イスが、未完成状態であっても、OKにすることができる、ということと、②・「つくる」という表現は、現在形なのに、なぜ、「今」、という表現と適合しないのか、ということです。

そこで、(9)を、ちょっと考え直すと、(9)は、「今から、イスをつくる」の意味でなら、OKにできる、ということに気付きますね。つまり、(9)を、「今から、イスをつくり始める」、という文と、同じ意味に解釈するとOKになる、ということです。この場合も、「イス」は、未完成状態ですね。

実は、「イスをつくる」という表現の、本来的な意味的性質は、「つくる」、という行為の、「開始から終結」までを含意している、ということなのです。しかし、(5)の例がアウトである、という事実がありますので、行為の、「開始から終結」までを含意する、とは言っても、そのまま、「イスをつくる」のカタチでは、「つくる」という行為の、「開始から終結」全体が、瞬間的に行われる行為として解釈されます。

そこで、「~ 続ける」の力を借りて、瞬間的な行為として解釈されることを防いだり、「~ ている」の力を借りて、「開始から終結」までの、ある「時点」に焦点を当てたりする必要が出てくるわけです。ですので、「つくる」という表現自体は、素のカタチのままでは、「開始から終結」までの行為全体の瞬間的な描写、ということでなければ、OKにできないわけですね。

次に、問題は、(9)が、「今から、イスをつくり始める」、の解釈でない場合、その描写は、瞬間的であるにも関わらず、なぜアウトになるのか、ということなのですが、どうやら、これは、瞬間的な表現である、「今」は、必ず、「出来事」を表す表現と共起する、という、別個の視点が必要のようです。

(10)トムはイスをつくる。
(11)トムはイスをつくった。

(10)は、「つくる」が、現在形ですが、「出来事」の解釈はありません。(10)は、トムが、イスの職人である、というような職業を表現していたり、トムの習慣的な行為を表現している、という別の含意でしか解釈できませんので、動作動詞、「つくる」が、意表を突いて、「状態」としての解釈になってしまいます。

しかし、一方、(11)は、過去形、「つくった」が、「出来事」を表現しています。つまり、動詞の現在形とは、そもそも、何であれ、「出来事」を、素で表現することができないのです。ですので、現実に起こっている「出来事」として、「~ ている」の力を借りなければ、瞬間的な表現である、「今」と共起することができない、というわけですね。以下を見ても、動詞の現在形は、素で、「出来事」を表せないのがわかります。

(12)a. 今、トムは地面を掘る。 (×)
   b. 今、トムは地面を掘っている。 (〇)

(13)a. 今、トムは走る。 (×)
   b. 今、トムは走っている。 (〇)

(12a)は、現在形、「掘る」が、「今」と共起せず、アウトになっていて、やはり、(1)の過去形とは違って、「出来事」の解釈はありません。(13a)の「走る」は、そもそも、目的語すらとっていないのですが、そんなこととは関係なく、これも、「今」と共起せず、アウトになっていて、やはり、「出来事」の解釈はありません。

(14)地面を掘るのに3時間かかった。 (×)
(15)穴を掘るのに3時間かかった。 (〇)

今度は、「3時間かかった」という表現との適合性ですが、「3時間かける」、という表現は、単なる、「3時間」とは違って、例えば、3時間後に、何かが終結を迎えることに焦点が当てられたり、ある変化が起こることに焦点が当てられたりすることが、前提となる表現です。(14)は、「地面を掘る」という表現が、動作の終結を含意していない、ということが、アウトになった原因である、と思われます。

しかし、一方、(15)がOKになるのは、やはり、「穴」を、「完成したもの」、と解釈することで、動作の終結を含意している、と考えられるからです。この場合、(15)の「穴」は、(4)とは違って、「完成したもの」という解釈しかできず、影響を受け続けて拡大される、というような解釈がないことからもそれがわかると思います。

今回のポイントは、「動作」を表す動詞が、実質的な意味として、どのようなことを表現しているのか、ということです。まず、動作の概念は、状態の概念とは違って、「出来事」を表現し得るということです。しかし、それには制約があって、素のカタチ、つまり、現在形では、「出来事」を表現できず、過去形にしたり、進行形、「~ ている」を付け足す、といったことが必要になります。

そして、「掘る」のように、同じカタチの動詞であっても、目的語の種類に応じて、その動詞の表現し得る様相が、変化してしまうということです。特に、完成したものを目的語にとっている動作動詞は、素のカタチでは、一見、「完成の瞬間」のみを表しているように見えるのですが、「~ 続ける」や、「~ ている」といった、他のカタチとの組み合わせが可能な点で、その動作の「開始から終結」までを、潜在的に含意していると言えます。

今回扱った、動詞が、「完成したもの」を目的語にとっている場合と、そうではない場合の区別は、他に、状態動詞という分類分けがあるのと同じく、動詞の表している基本的な概念の分類分けの1つです。まだ、他の概念ありますが、またの機会に。

■注1 :「今、イスをつくった。」、はOKですが、ちょっと、惑わされやすい文です。この場合の、「今」は、「今しがた」、「今さっき」、の意味ですから、純粋に、「現在の瞬間」を表す、「今」とは、異質のものです。

■注2 :「トムは、3時間、イスをつくっている。」は、OKになりますが、これは、「~ ている」が、瞬間的に、「進行」している出来事を表現することもできるけど、一方、「状態」も、表現できるからで、「3時間」は、この「状態」の解釈と適合している、と言えます。しかし、「出来事」は、動作動詞の「~ ている」から派生的に得られる、「状態」、の解釈とは、矛盾することはありません。

■注3 :(10)のように、「出来事」として認識されない文は、その中に含まれる動作動詞が、現実的、具体的な行為を表現していないため、何とか、聞き手にとって、「情報的価値」のある文に、解釈しようとして、転用現象が起こります。その1つが、「職種」、「習慣」、といった含意で、その結果として、偶然に、「状態」という解釈が発生してしまう、ということですね。

■注4 :(14)は、OKである、という人もいますが、その場合は、想像をはたらかせて、「地面を、すっかり、堀りつくすのに、3時間かかった。」、という解釈にしているものと思われます。しかし、「掘りつくす」は、均一的な行為ではなく、もう、掘るべきところはなくなった、という、「変化」、を含意するため、「3時間かかる」、と適合するものと思われます。


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英語学習法(78)

2005年04月24日 | 動詞
EG69の続きです。状態動詞です。以下、見ましょう。

(1)Mary resembles Lucy. (メアリーはルーシーに似ている。)
(2)Mary hates Lucy. (メアリーはルーシーが嫌いだ。)

(1)の‘resemble’「~ に似ている」も、(2)の‘hate’「~ を嫌っている」も、ある状態を表現している動詞です。(1)では、話者が、メアリーの性質・特徴を、ルーシーに「似ている」と述べているわけです。性質や特徴とは、一瞬のことを表現するものではなく、ずっと続いている一定の様を表現するものですね。

これに準じて考えれば、(2)で、メアリーがルーシーを「嫌っている」、というのは、メアリーのルーシーに対する、一定の心の様を表現しているわけです。ですので、(1)も(2)も、両方とも、メアリーが、ある状態にある、と解釈できるわけですね。

しかし、このような、一定の様を表現している動詞を、一括して、「状態動詞」と呼ぶからといって、その文法的な振る舞い方が全て同じである、とは言い切れない部分があります。

(3)Lucy is resembled by Mary. (×) (ルーシーはメアリーに似られている。)
(4)Lucy is hated by Mary. (〇) (ルーシーはメアリーから嫌われている。)

(1)を受身文にした(3)は、アウトですが、一方、(2)を受身文にした(4)はOKです。これは、どういうことなんでしょうか。そこで、ちょっと考えてみると、(1)と(2)の状態動詞は、それぞれ、その主語に対して、何か違った特性をもつものを要求している、と言えそうです。

しかし、(1)と(2)の主語なんて、どっちも同じ‘Mary’じゃんか、と言われてしまいそうなので、別の例から、何とか違いを出してみたいと思います。

(5)Cabbage resembles lettuce. (〇) (キャベツはレタスと似ている。)
(6)Cabbage hates lettuce. (×) (キャベツはレタスが嫌いだ。)

(5)と(6)では、(1)と(2)の‘Mary’を‘cabbage’に、そして、‘Lucy’を‘lettace’に入れかえてみました。そうすると、当たり前なんですが、(5)はOKで、一方、(6)はアウトになります。これは、(5)では、外見上、キャベツとレタスが同じように見えていて、そういったものが、‘resemble’「~ に似ている」の、主語と目的語になっていればよいから、ということですね。

しかし、(6)では、キャベツがレタスを嫌う、と聞くと、何か、童話の世界での、キャベツさんとレタスさんの関係、といった感じのお話を聞かされているような気がしてきます。これは、そういった解釈にでもしなければ、意味が取れなくなるからで、実は、こういった解釈を強制されることが、‘hate’「~ を嫌っている」の意味的な特徴を表している、と言えるのです。つまり、「嫌っている」という表現は、「~ に似ている」とは違って、「意思」をもつものが、主語でなければならない、ということになるわけです。

(7) a. The T-shirt fits John well. (〇) (そのTシャツは、ジョンにピッタリ合ってるね。)
   b. John is fitted by the T-shirt well. (×)
    (ジョンは、そのTシャツに、ピッタリ合わせられるね。)

(8) a. The book costs 1000 yen. (〇) (その本は、1000円かかるね。)
   b. 1000 yen are costed by the book. (×) (1000円がその本によってかかるね。)

‘the T-shirt’「そのTシャツ」が、‘fit’「~ に合う」の主語である、能動文(7a)はOKですが、受身文(7b)にするとアウトです。そして、同じく、‘the book’「その本」が、‘cost’「~ (の金額が) かかる」の主語である、能動文(8a)はOKですが、受身文(8b)にするとアウトです。やはり、状態動詞の場合、「意思」をもつものが、必ず能動文の主語になるような状態動詞でなければ、受身文にはできないようです。しかし、もうちょっと、考えてみたい例があります。

(8) a. John has the car. (〇) (ジョンは、そのクルマを所有している。)
   b. The car is had by John. (×) (そのクルマは、ジョンに所有されている。)

状態動詞として使われている場合の‘have’が、「~ をもっている」の意味で使われているときは、必ず、「意思」をもつものが主語になりますが、(8a)の能動文から(8b)の受身文をつくることはできません。つまり、状態動詞の場合、「意思」をもつものが主語でなければ、受身文をつくれない、というのは、必要条件ではあっても、十分条件ではない、ということになりますので、この点、注意が必要です。さらに、以下を見ましょう。

(8) a. Many trees surrounded the house. (〇) (たくさんの木がその家を囲んでいた。)
   b. The house was surrounded by many trees. (〇)
    (その家はたくさんの木に囲まれていた。)

(9) Many girls surrounded John.
(10)a. たくさんの女の子が、ジョンを取り囲んだ。 (〇)
   b. たくさんの女の子が、ジョンを取り囲んでいた。 (〇)

「意思」をもたないと思われる、‘many trees’「多くの木」が、状態動詞‘surround’「~ を囲んでいる」の主語である能動文(8a)はOKですが、この場合、意表をついて、受身文(8b)にしても、OKです。しかし、一方、(9)を見ると、‘surround’は、「動作」の解釈(10a)と、「状態」の解釈(10b)の、両方がOKにできることに気付きます。

これは、どうやら、(8a)の‘surround’「~ を囲んでいる」が状態動詞である、と言っても、‘surround’は、もともとの意味が、「~ を囲む」という、「動作」を表す動詞であり、そのときは、(9)のように、「意思」をもつものが主語でなければならないところに、ポイントがあるようです。

つまり、本来的に、「動作」の解釈が基本であるような動詞が、「意思」をもたないものを主語に取った場合は、その主語を、比喩的に、あたかも、「意思」をもっているかのように見なす、ということがあるのです。ですので、受身文(8b)がOKになるのは、一種のイメージ表現のようなもので、例えば、日本語の、「追う」という動詞は、本来的に、「意思」をもつものが主語でなければならないのに、「ボクらは、毎日、仕事に追われているね」、などと言うことができるのと類似した、比喩の表現方法なのです。

そして、もう1つ、気付いてもらいたいのが、(9)に対する、(10b)の解釈、つまり、‘surround’の「状態」解釈についてです。実は、「状態」の解釈(10b)には、2通りの解釈があり、「たくさんの女の子」の「意思」が行使されているか否かという観点があります。

つまり、ジョンにチョッカイを出された多くの女の子が怒って、一体どういうつもりだ、とばかりにジョンに寄ってきて、グルっとジョンの周囲を取り囲んだ状態になっている場合で、この場合は、女の子の「意思」がはたらいています。しかし、もう1つの解釈は、ジョンがボケっとしていて何気なく電車に乗ったところ、間違えて女性専用の車両に乗ってしまったという場合で、結果的に、女の子の集団に囲まれている状況になってしまったという、女の子の「意思」がはたらいていない解釈です。

ですので、「意思」をもつものが主語になっているからといって、その「意思」が行使されているか否かとは、関係ない場合があります。‘hate’は、常に、その主語が、「意思」をもっていることが前提となります。そして、その主語の意思が行使されています。‘resemble’は、「意思」をもつものが主語であってもなくてもよいけど、「意思」をもつものが主語の場合でも、その主語の「意思」は行使されません。

‘fit’や‘cost’は、もともと、「意思」をもつものを主語に取りません。‘surround’は、本来的に、動作動詞であり、「意思」をもつものが主語でなければなりませんが、状態動詞に変化することも可能で、その場合は、主語の「意思」が行使されていない場合と、比喩的な解釈もあるという意味で、「意思」をもつものを主語に取る必要がなくなります。

今回のポイントは、状態動詞の本来的な意味を考える、ということです。英語の解説本などを見ると、ただ単に状態動詞という分類があるだけであり、確かに、「状態」を表しているから、「状態動詞」と呼ばれているのはわかるんですが、それは、事実をそのまま言っているに過ぎず、そこから、実用英語をマスターする上で、どのような理解につながっていくのかが、今ひとつわからない、といった感じがします。

その理解の助けとなる1つが、主語に「意思」をもつものがくるかどうか、というものです。しかし、「意思」をもつものがくるかこないかで、即座に、「O・×」式に判断してよい、というものでもなく、その主語の「意思」が状態動詞にどのように関わっているかも考慮する必要がありますので、ちょっと事情は複雑ですが、日本語の感覚からも類似した点は多いと思われるので、よく考えてみれば、それほど難解なものではないはずです。

■注1 :‘have’は、ちょっと、難解な多義語で、「状態」と言っても、いろいろあります。‘Mary has long hair.’「メアリーは長い髪をしている。」、のように、「主語の一部分」を表す場合や、‘John has a bad memory.’「ジョンは記憶力が悪い。」、のように、単純な所有物とは、言えないようなものも、目的語に取ることができます。そして、一方で、「動作」を表現するものだと、‘I am having lunch now.’「今、昼ごはんを食べてるところなんだ。」、というように、進行形が可能ですし、加えて、‘Breakfast can be had at ten in this restaurant.’「このレストランでは、10時に朝食をとることができます。」、というような受身文も可能です。

■注2 :‘The slaves cost much money.’「その奴隷を買い付けるにゃ、ずいぶん金がかかるな。」、というような文では、たまたま、「意思」をもつものが、主語になっているわけですが、もちろん、そこから、‘cost’は、「意思」をもつものが主語になることもある、と一般化しても、ナンセンスであることは、おわかりになると思います。

■注3 :ヒト型や、動物型のロボットが主語になるような場合は、そのキャラクターによって、解釈が分かれるところです。ホンダ技研が開発した、二足歩行ロボット、「アシモ」は、意思をもたない、とは言えますが、あたかも意思をもっているかのように、「歩く」、ということをします。ソニーのロボット犬、「アイボ」は、本当に、犬のようなしぐさをしますので、あたかも、意思をもったものとして、扱われることはあり得ますね。鉄腕アトムの場合は、そのキャラクターから言って、もう、十分に意思をもつ、と言い切れるでしょう。ガンダムの場合は、パイロットの意思を通じて、という条件付きで、意思をもつ、と言えるんでしょうね。


●関連: EG69

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英語学習法(77)

2005年04月21日 | 主語
「一般人称」と呼ばれるものを扱います。以下、見ましょう。

(1)私たちはピクニックに行った。
(2)私たちは限りある資源を大切にしなくてはなりません。

(1)でも、(2)でも、「私たち」という表現が使われているんですけど、「私たち」って、一体、誰のことを言ってるんでしょうね。(1)でも、(2)でも、話者である「私」を含めた、複数の人たちであることは確かなんですけど、(1)の場合は、「私」の家族とか、友達とか、そういった特定の人たちなんでしょうね、きっと。

でも、(2)の場合はどうなんでしょうか。限りある資源を大切にしなくてはならないのは、特定の人数の「私たち」ってことなんでしょうか。例えば、「私」を含めた家族全員?「私」を含めた秋葉原の人たち?「私」を含めた栃木県の人たち?ちょっと違いますね。おそらく、(2)の「私たち」は、漠然とした不特定人数の「人」、というくらいの意味で使われているんですね。

というわけで、「私たち」には、狭い範囲の「私たち」もあれば、広い範囲の「私たち」もある、ということなんですが、決定的な違いは、(1)の「私たち」は、話者である、「私」を含む、2人以上のメンバーから成る特定人数のグループということです。しかし、一方、(2)の「私たち」は、特定人数のグループというわけではなく、人数も漠然とした、誰ともハッキリしないメンバーから成る「人」、ということなので、グループという概念自体が意味をなさないものです。

(3)私たちはクルマに乗るときは、慎重にならなくてはなりません。
(4) a. なぜなら、普通の人たちよりも反射神経が鈍いからね。
   b. なぜなら、そんなことは、ドライバーにとって当然の義務だからです。
   c. なぜなら、この国の交通ルールは特に厳しいからです。

(3)の「私たち」は、それ自体、特定のグループを指す「私たち」なのか、それとも、「人」、の意味になる「私たち」なのか、解釈があいまいです。そこで、(4a)の文が(3)の後に続けば、例えば、運転のヘタクソな仲良しグループの「私たち」というケースがあり得ますので、特定のグループを表す「私たち」になります。一方、(4b)が(3)の後に続けば、「人」、という意味の「私たち」になりますね。

しかし、(4c)が(3)の後に続く場合は、少し厄介です。この場合の「私たち」は、「人」、の解釈でもよいとは言えるでしょうが、しかし、「この国でクルマに乗る人に限り」、というような、限定付きということになりますので、漠然とはしていても、一定のワクが付いている上での、「人」、になるんですね。このように、(2)や、(3)+(4b)、(3)+(4c)の解釈になるような、「私たち」を、「一般人称」と呼ぶことがあります。要するに、一般人称とは、誰とは特定できないような人々のことを漠然と表しているだけなのです。

(5)We must save our resources because they are not unlimited. (訳同(2))

英語にも、もちろん、一般人称というものはあります。(5)の‘we’だって、日本語(2)の「私たち」と全く同じで、「人」の意味で使われています。しかし、それどころか、英語は、この一般人称の表現方法が、日本語以上に豊かである、と言えるような側面があります。

(6)They say that she is a famous actress.
(7) a. 彼らは、彼女が有名な女優だと言っている。
   b. 人は、彼女が有名な女優だと言う。

(6)の英語は、実は、(7a)と(7b)のような、2通りの解釈がOKです。これらの違いは、(7a)が、「彼ら」という特定のグループを主語にしている解釈で、「あの連中は」とか、「3年B組の生徒は」とか、具体的に表せる人たちの場合で、圧倒的に優勢となる解釈ですが、場合によっては、(6)の‘they’を不特定多数の人々と解釈して、人が言うには、彼女は有名な女優だそうだ、くらいの意味にとってもOKとなります。

これは英語と日本語の大きく異なる点で、日本語は、「彼ら」という表現を、一般人称としては用いません。「彼らは ~ だ」という表現は、必ず、特定のグループを指していますから。ですので、日本語(7a)の「彼ら」を、人数も漠然とした、誰ともハッキリしないメンバーから成る「人」の意味に解釈することは不可能です。ところで、‘they’は三人称ですが、二人称の‘you’も、一般人称として使われます。

(8)You should be careful when you drive a car.
(9) a. お前らはクルマの運転には注意せんといかん。
   b. クルマの運転には注意しなくては。

(8)の解釈としては、(‘you’が複数形であるという前提で) やはり、2通りがあり、(9a)ならば、話し相手 (聞き手) を含んだ特定のグループを指しますね。しかし、一方、(9b)ならば、話し相手 (聞き手) を含めて、人数も漠然とした、誰ともハッキリしないメンバーから成る「人」という解釈になります。日本語の場合、やはり、「お前ら」、「あなたたち」、「キミら」など、どれをとっても、聞き手を含んだ特定のグループという解釈になりますので、日本語(9a)の「お前ら」を、聞き手を含めた「人」の意味に解釈することは不可能です。

(10)They speak French in this country.
(11) a. 彼らは、この国では、フランス語を話している。 (〇)
    b. 人は、この国では、フランス語を話している。 (〇)

(12)French is spoken by them in this country. 
(13) a. この国では、フランス語が彼らによって話されている。 (〇)
    b. この国では、フランス語が話されている。 (×)

能動文である(10)の‘they’は、やはり、特定グループの解釈(13a)と、人数も漠然とした、誰ともハッキリしないメンバーから成る「人」の解釈(13b)の、2通りに解釈できますが、ここで面白いのは、能動文(10)の受身文である(12)は、‘them’が、特定グループの解釈(13a)しか許さない、ということです。では、なぜ、人数も漠然とした、誰ともハッキリしないメンバーから成る「人」の解釈になる(13b)が、アウトなんでしょうか。

ここで、能動文の主語と、受身文の‘by ~’の文法上の特性について考えてみると、英語の主語は、よく言われているように、日本語の主語とは違って、ある一定の例外を除いて、省略が不可能である、ということです。しかし、一方で、受身文の‘by ~’は、表す必要がない、と思われる場合は、なくても構わないものです。そこで、以下を見ましょう。

(14)French is spoken in this country. (訳同(13b))

(14)は、(12)から、‘by them’を取り除いた文ですが、このカタチでは、(13b)の解釈がOKになります。ここから言えそうなのは、英語の場合、一般人称の‘we’、‘you’、‘they’は、文法的に消去が可能ならば、消去しなければならない、というルールがあるのではないか、ということです。

(15)It is said by them [ that she is a famous actress ] .
(16) a. [ 彼女は有名な女優だと ] 彼らに言われている。 (〇)
    b. [ 彼女は有名な女優だと ] 言われている。 (×)

(17)It is said [ that she is a famous actress ] . (訳同(16b))

能動文(6)からつくられた、受身文(15)では、やはり、‘them’が、特定グループの解釈(16a)しか許さず、人数も漠然とした、誰ともハッキリしないメンバーから成る「人」の解釈になる(16b)が、アウトになります。しかし、(15)の‘by them’は、文法的に消去可能なので、(17)で、‘by them’を消去してみると、(16b)の解釈がOKになります。

(18)It is impossible for us to drink up the whiskey at one gulp.
(19)a. オレたちには、そのウイスキーを一気飲みなんて無理だ。 (〇)
   b. そのウイスキーを一気飲みなんて無理だ。 (×)

(20)It is impossible to drink up the whiskey at one gulp. (訳同(19b))

(20)の、「for A to 不定詞」のカタチでは、その不定詞の主語に、‘us’(=A)が使われていますが、(19a)のように、特定グループの解釈をOKにすることができます。しかし、一方で、数も漠然とした、誰ともハッキリしないメンバーから成る「人」の解釈になる(19b)はアウトです。この場合も、(20)のように、‘for us’を消去してやれば、(19b)の解釈がOKになります。 (EG43参照)

以上、受身文の‘by ~’や、「for A to 不定詞」のカタチでは英語の場合、一般人称の‘we’、‘you’、‘they’は、文法的に消去が可能ならば、消去しなければならない、というルールがあるのではないか、ということを支持する証拠を上げたわけですが、しかし、以下の例は、ちょっとした反例になるようです。

(21) Saving limited resources is very important for us.
(22)a. 限りある資源を節約することは、私たちにとって大事なことです。 (〇)
   b. 限りある資源を節約することは、大事なことです。 (〇)

(21)の‘for us’は、(22a)のように、特定グループの解釈がOKであり、そして、(22b)のように、数も漠然とした、誰ともハッキリしないメンバーから成る「人」の解釈もOKです。そこで、少し考え直して、受身文である、(12)や(15)の‘by them’は、もともとは、能動文の主語であったことに着目してみたいと思います。すると、(20)で消去されている、‘for us to drink ~’のカタチの‘for us’も、その不定詞の主語である、という共通点があります。そこで、以下のようなルールにするのがよい、ということになります。

(23)主語である一般人称は、その主語位置が、文法的に消去可能ならば、
   消去しなければならない。(変形によって派生された一般人称が、
   もとの文では主語である場合を含む)

今回のポイントは、一般人称と呼ばれる、‘we’、‘you’、‘they’ですが、一般に、あまり詳しく扱われることがない点を見てみました。そして、英語の一般人称は、日本語の一般人称と比べて、種類が多いので、解釈の仕方で、ちょっとカン違いしやすい場合がある、ということです。

一般人称が、受身文の‘by ~’には使えない、といったことは、断片的には、学校の英文法などでも教わるのですが、ハッキリとしたルールに基づいて教わる、ということはないようなので、この機会に、(23)のルールをマスターしておいて下さい。

● 関連: EG43

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英語学習法(76)

2005年04月18日 | 分詞
EG75の続きです。分詞構文です。以下、見ましょう。

(1)<Shocked at the news>、Lucy passed out.
  (<その知らせにショックを受けて>、ルーシーは気絶してしまった。)

(1)は、‘shocked at ~’の表現が、「~ にショックを受けて」、という意味になって、‘Lucy passed out’「ルーシーは気絶してしまった」、にかかっています。この‘shocked’は、過去形、過去分詞のどちらか、ということになるんですけど、結論から言うと、過去分詞です。

(2)Lucy was shocked at the news. (ルーシーは、その知らせにショックを受けた。)

(2)にあるように、「ショックを受ける」という表現は、‘A is shocked’というカタチで表して、「A はショックを受ける」という意味になります。本来、‘shock’という動詞は、‘shock A’で、「A にショックを与える」という意味になる他動詞なので、‘A is shocked’という、受身文のカタチにして、「A はショックを与えられる」、としてから、その平たい日本語の言いかえとして、「Aはショックを受ける」となるわけですね。

そこで、(1)の‘shocked at the news’の部分と、(2)の文を見比べてみると、‘Lucy was ~’の表現を除けば、同じ表現であることがわかると思います。ですので、受身文から、「主語+‘be’動詞」を取り除いて、いきなり‘-ed’から始まるカタチにしてやると、(1)のような使い方ができるんですね。(1)の‘shocked’が、過去分詞であると言ったのは、そういった経緯によるものです。類似した文として、以下の例を見ると、それがハッキリとわかると思います。

(3)<Beaten by a bank robber>、Lucy passed out.
  (<銀行強盗に打ちのめされて>ルーシーは気絶した。)

(3)では、‘beat-beat-beaten’「~ を打ちのめす」という活用をする動詞の過去分詞‘beaten’を用いていますが、構文的には、‘Beaten by a bank robber’の部分は、(1)の‘shocked at the news’と全く同じものです。ところで、(1)では、‘shocked at the news’が、‘Lucy passed out’にかかっている、と言いましたが、ということは、‘shocked at the news’は文の骨格にはならない表現である、ということになりますね。つまり、(1)の過去分詞は、副詞的な過去分詞であると言ってもよいでしょう。(3)の‘beaten’も、もちろん同様です。

そこで、EG75では、副詞的な‘-ing’のカタチである、分詞構文を扱いましたが、実は、この副詞的な過去分詞も、分詞構文の仲間なのです。つまり、分詞構文とは、基本的には、現在分詞‘-ing’や、過去分詞‘-ed’といった分詞を、副詞として使用する表現方法なのです。

さらに、EG75では、‘-ing’の分詞構文には、カタチとなって現れている主語がないので、それがかかる他の文の主語にその主語を求める、といった決まりごとがあるのを見ました。過去分詞の分詞構文もそれと同じルールに従います。

まず、(1)の文では、ショックを受けたのはルーシーですが、気絶したのもルーシーですね。つまり、(1)の‘shocked’は、(2)にあるように、本来、‘Lucy’を主語としている文がもとになっている、と考えてもよいと思います。(3)の文でも、銀行強盗に打ちのめされたのはルーシーですが、気絶したのもルーシーです。ですので、そこから、(3)の‘beaten’も、カタチとしては目に見えないけど、本来は、‘Lucy’を主語に取っていると解釈されるわけですね。

コトバは、述語があれば、必ず、その主語がある、と考えるのが普通ですので、まさに、分詞構文の特徴は、その本来あるはずの主語が、カタチとなって現れていないところにある、と言ってもよいでしょう。そこで、分詞構文の場合は、その目には見えない、カタチとなって現れてはいない主語を、どこか別の場所に求める、ということになっているのです。ですので、ここから、‘-ing’の場合と、過去分詞の場合とで、その主語として、どのようなものが可能であるかを、練習して慣れることが、英語脳的には重要となってきます。

(4)<この港から見ると>、あの船は小さな城にみえるね。
(5) a. <Seen from this harbor>、that ship looks like a small castle. (〇)
   b. <Seeing from this harbor>、that ship looks like a small castle. (×)

(4)の日本語を分詞構文で表現するとします。そこで、英語としては、(5a)が正しく、(5b)が間違い、ということになります。この手の分詞構文は、よく、ペーパー試験の問題としても見かけることがありますが、英語の主語・述語の関係に、あまり慣れていない日本人の心理を巧妙に突いた問題と言えます。

まず、(4)の日本語から、「~ 見ると」となれば、日本語としては能動文ですから、あたかも、(5b)の‘seeing’の方が適格ではないのか、という印象があり、まさか、受身文をベースにした(5a)の過去分詞‘seen’が正しいなどとは考えないわけですね。

これは、日本語は、< >の表現がかかる相手となる文に対して、厳密に主語は主語として対応させるということに、特にこだわらないコトバだからであり、そして、(4)の場合、「この港から見られると」、というような受身文の日本語にしてしまうと、英語の受身文とは違って、「迷惑・被害」という余分な意味が出てしまい、「この港から見ると」という表現と比べて、不適切に感じられてしまうからです。

(6) a. That ship is seen from this harbor. (あの船はこの港から見られる。)
   b. We see that ship from this harbor. (私たちは、あの船をこの港から見る。)

(6a)は、受身文であり、‘that ship’「あの船」が主語になっています。一方、(6b)は能動文であり、‘that ship’が目的語になっています。ここから、(5a)の‘that ship looks like a small castle.’の主語が、‘that ship’であることを考えると、同じく、‘that ship’を主語に取っている(6a)が、分詞構文のベースとしては適格であることがわかります。一方、(6b)の主語は、‘we’「私たち」であり、もちろん、(5b)の主語‘that ship’と同じではないので、そこから、(5b)のような分詞構文をつくることはできず、不適格となります。以下も、類似した表現ですね。

(7)メアリーと比べると、ジョンはそれほど慎重ではないね。
(8) a. <Compared with Mary>、John is not so careful. (〇)
   b. <Comparing with Mary>、John is not so careful. (×)

(8a)は、過去分詞‘compared’を使っていて、正しい英語ですが、一方、(8b)は、‘-ing’のカタチ‘comparing’を使っていて、間違いになります。これを正しく判断するのを妨げているのは、やはり、(7)の日本語で、「メアリーと比べると」の部分が能動文になっているからです。

(9) a. John is compared with Mary. (ジョンはメアリーと比較される。)
   b. We compare John with Mary. (私たちは、ジョンをメアリーと比較する。)

(9a)は、受身文‘A is compared with B’「AはBと比較される」からつくられた文ですが、‘John’(=A)が主語になっていて、(8a)の、‘John is not so careful’の部分と主語が一致しますね。ですので、‘compared with Mary’の表現を使った(8a)は、適格なのです。一方、能動文‘X compare A with B’「Xは、AをBと比較する」からつくられた(8b)は、‘we’(=X)が主語なので、‘John is not so careful’の部分と主語が一致しませんから、不適格ということになります。

ここで、(9a)の日本語訳を見てほしいのですが、受身文として表現された日本語は、「ジョンは ~ される」となっていて、どこか、ジョンにとって、「迷惑・被害」の含意があるのが感じられます。ところが、(9a)の英語の受身文の場合、そのような含意はなく、ただジョンとの比較の対象が、メアリーであることが示されているにすぎません。

ですので、(9a)の日本語訳のような、余計な意味をもつ表現は、避けられるものなら避けたいので、(8a)の英語に対して、(7)のような日本語にした方が、「メアリーと比較されると」よりも、座りがよい表現になるわけです。(5a)の英語に対する、(4)の日本語も、やはり、同じことが言えます。

こういった日本語と英語のカタチの上での表現方法が、同じ解釈の中でブツかり合って、能動文(日本語)に対して、受動文(英語)というように、お互いに対応するカタチが取れない場合、英語はとても難しく感じられます。しかし、考え方として、一定の法則に従っていることが理解できさえすれば、それほど扱いは難しいものではありません。

今回のポイントは、過去分詞のカタチを取る分詞構文ですが、やはり、‘-ing’の分詞構文と同じく、副詞的なはたらきをもっている、ということと、依存する(かかる)他の文の主語に、その主語を求めるということです。この点は、お互いの共通点となります。

そして、過去分詞の分詞構文は、その成り立ちが、受身文からくるものなので、その点、性質が異なる日本語の受身文とは、対応する訳が、能動文・受身文で正反対になる傾向がある、ということです。おそらく、日本人にとっては、この点が、最大の注意点となるでしょうから、練習あるのみです。これで分詞構文の基本的な理解は終わったわけですが、他の派生的な分詞構文に関しては、また別の機会にでも。

■注1 :それほどあまり見かけることはないのですが、過去分詞のカタチをとる分詞構文は、受身文の性質をもっているので、そこから、「‘be’動詞+過去分詞」の分詞構文、‘being+過去分詞’となることもあります。つまり、単純に、過去分詞のアタマに‘being’が付加されている、とだけ理解しておけばよいものです。

■注2 :日本語の受身文、「~ れる、~ られる」は、ある程度、それ自体が、「迷惑・被害」を含意する傾向がありますが、英語の受身文は、それ自体で、「迷惑・被害」を表現するというようなことはなく、一般的な常識や、受身文の主語がどのような立場のものであるか、といった構文自体の性質とは違った観点から、「迷惑・被害」が表現されます。これに関しては、EG68を参照して下さい。


●関連: EG68EG75

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英語学習法(75)

2005年04月15日 | 分詞
分詞構文と呼ばれている‘-ing’のカタチの基本を扱います。以下、見ましょう。

(1)Tom reads a book. (トムは本を読む。)
(2)Tom listens to music. (トムは音楽を聴く。)

(1)と(2)をつないで、1つの文にしてみたいと思います。その方法はいろいろありますが、1つの方法として、動詞の‘-ing’のカタチを使ったものがあります。

(3)Tom reads a book <listening to music>. (<音楽を聴きながら>、トムは本を読む。)

(3)の‘listening’は、もちろん、(2)の動詞‘listen’「聞く」が、‘-ing’を末尾に付けることによって、カタチを変化させたものです。この‘-ing’のカタチに対する日本語訳は、「~ ながら」となっています。つまり、あることをしながら、一方で、別のことをしていることを表すときに、便利な表現ですね。

(4)John sings <walking on the street>. (<通りを歩きながら>、ジョンは歌う。)

(5)They ran away <crying>. (<泣きながら>、ヤツらは逃げていった。)

(6)Mary watchs TV <eating breakfast>.
  (<朝食を食べながら>、メアリーはテレビをみる。)

(4)~(6)において、やはり、「~ ながら」という表現は‘-ing’のカタチを付け足してやることで、表現できることがわかると思います。ですので、「~ ながら」を英語で表現してやるのは、とても簡単なんですね。ここで注意点ですが、こういった、‘-ing’の付け足しでは、意味として、「~ ながら」だけが表現されるわけではありません。

(7)<Seeing the snake> I was very scared.
   (<そのヘビを見ると>とても怖かった。)

(8)<Turning to the left> you can find a red house.
   (<左に曲がると>赤い家が見つかりますよ。)

(9)<Drinking too much> John fell asleep on the street.
   (<飲みすぎて>ジョンは路上で寝てしまった。)

(10)<Accepting what you insist> I want you to accept mine too.
   (<君の主張は受け入れるけど>ボクのも受け入れて欲しい。)

(7)~(10)を見てもわかるように、付け足しの‘-ing’には、いろんな意味があります。「~すると」、「~して」、「~ので」、「~けど」、などありますね。そこで、一体、何種類くらいの日本語訳を覚えたらいいんだ、と考え込んでしまいますが、別に、ふさわしい日本語訳を暗記して、カチっと対応させる、などということは、考えなくてもよいと思います。

こういった‘-ing’の解釈は、文全体の意味や、その他の文脈から判断して、最も自然な意味になるようにもっていきさえすればよいだけで、特に、どういった意味に取らなければならない、というような決まりごとはありません。明らかに変だな、と思われる意味にならないように注意して、最も自然な意味になっていれば、大丈夫です。

それよりも、少々厄介なのは、(3)にあるように、(2)の動詞‘listen’を、‘-ing’のカタチに変えたときに、主語の‘Tom’がなくなっていることです。このように、基本的には、分詞構文の‘-ing’は、動詞でありながら、主語をもっていない、ということから、その主語は、どのようにして判別したらよいのか、ということが問題になります。そこで、(3)の文では、音楽を聴いているのは誰か、と考えると、もちろん、トムですね。トム以外の人物ではないということです。つまり、トムは、‘read’の主語でもあり、同時に、‘listening’の主語でもある、ということです。

今度は、(4)~(6)を考えてみます。(4)で、ジョンは、もちろん、‘sing’の主語であるわけですが、同時に、‘walking’の主語でもあるわけです。(5)では、‘they’「ヤツら」が、‘run away’の主語ですが、同時に、‘crying’の主語でもあります。(6)では、メアリーが、‘watch’の主語ですが、同時に、‘eating’の主語でもあります。

こんなふうに、付け足しの‘-ing’は、目に見えるカタチでの主語をもっていないので、他の文の主語を、解釈上の主語として借りてくることになっているのがわかります。これが、付け足しの‘-ing’、つまり、分詞構文の基本的なルールということになります。それと、この、‘-ing’の付け足し、という文のつくり方において、そういった‘-ing’は、文法的には、どのような扱いになるか、ということですが、さすがに、「付け足し」というだけあって、この種の‘-ing’は、副詞として扱うことになっています。 (EG39、EG40、EG44参照)

つまり、分詞構文の正体は、副詞的‘-ing’と言ってもよく、そこから、当然、文の骨格にはなり得ません。ですので、語順に関しては、比較的、自由度が高く、依存する文の前でも、後でも、くっ付くことができます。(3)~(6)では、‘-ing’が、依存する文の後に位置していますが、一方、(7)~(10)では、‘-ing’が、依存する文の前に位置しています。そういったことで、やはり、‘-ing’が置かれる位置が、前の方がよいか、後の方がよいかは、文の意味に応じて選ばれるということになります。

例えば、(8)の文では、左に曲がってから、その後で、赤い家が見つかる、という順番になりますから、‘turning to the left’は、‘you can find a red house’の前にあった方がよい、ということになりますね。これは、(8)と似たような意味を表す以下のような文(11a)とは、ちょっと使い勝手が違ってきます。

(11)a. You can find a red house <if you turn to the left>. (訳同(8))

   b. <If you turn to the left> you can find a red house. (訳同(8))

(11a)では、< >の副詞節である表現が、文の末尾に位置していますが、そのような語順は、別に逆であってもよく、(11b)のように、< >の表現が文の先頭にあっても構いません。これは、前後の文において、それぞれが担う意味の役割が、もとからハッキリしていて、語順変更しても、意味の解釈に支障が出ないからです。

‘if ~’「~ ならば」が、アタマにくっ付いている文は、<if+主語+動詞 ~>というように、1つのまとまりを成して、副詞節となります。もちろん意味も、副詞的‘-ing’とは違って、それ自体を見てわかるので、その点、さして語順は重要ではないわけですね。

しかし、付け足しの‘-ing’の場合は、それ自体を見た段階で、意味が決まっているのではなく、その他、文全体を考慮したり、文脈を考慮したりしてから、適切な意味に取るという作業が必要になってきますので、極力自然な語順を選ばなければなりません。

そこで、一般的な傾向としては、(3)~(6)のような、「~ ながら」の意味になる、付け足しの‘-ing’は、文の先頭にも末尾にも現れますが、(7)~(10)のような意味の‘-ing’は、文の先頭に置かれます。しかし、どちらのケースでも、文の中に割って入るときもあります。文の中に割って入る場合は、一般的には、‘-ing’の主語と解釈される表現の直後である位置が普通です。

(12)Tom、<listening to music>、reads a book. (訳同(3))
(13)John、<drinking too much>、fell asleep on the street. (訳同(9))

今回のポイントは、分詞構文と呼ばれる、‘-ing’のカタチをした、付け足しの副詞表現です。こういった‘-ing’は、(11a)や(11b)にあるような、< >の副詞節のように、それ自体で意味がハッキリしているわけではないので、意味によっては語順に注意しなければなりません。

そして、‘-ing’自体に、ハッキリと目に見えるカタチで主語が付いているわけでもないので、‘-ing’が依存する(かかる)他の文の主語に、その主語を求めなければならない、という点で、思いのまま勝手自由に付け足す、ということを許すものでもありません。あと、分詞構文には、その仲間として、他のカタチもありますが、その紹介は、別の機会になります。

■注 :‘Mary worked hard、<finishing the job in two days>.’「メアリーは、がんばってはたらいて、2日でその仕事を終わらせた。」、のように、「結果」を表す分詞構文の、‘-ing’もあります。もちろん、語順は、意味の流れに従って、文の末尾に置かれます。

●関連: EG39EG40EG44

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英語学習法(74)

2005年04月12日 | there構文
EG31の続きです。‘there is/are ~’の構文です。以下、見ましょう。

(1)There is a book on the desk. (机の上に本があるよ。)
(2)The book is on the desk. (その本は机の上にあるよ。)

EG31では、(1)のような、‘there is/are ~’の構文は、「不定」の解釈を受けるような名詞が後に続く、ということを確認しました。一方、(2)のような、‘there’のないカタチの文の主語位置には、「定」の解釈を受けるような名詞がくることも確認しました。そこで、ちょっと以下のような文を見てみましょう。

(3)A book is on the desk. (×) (訳同(1))

(3)の文は、(2)の‘the’を、‘a’に変えてみたんですが、〇か、×かどちらか、と問われると、どうも、しっくりこない意味になる感じで、良い文とは言えないようなので、とりあえず、×です。というのは、主語の位置で、‘a book’とやって、不定の解釈を受けるような名詞がくると、どうも後に続く、‘on the desk’とのバランスが、どこか不自然だと感じられるからのようです。では、このバランスの不自然さとは、一体、どういったことからくるものなんでしょうか。

そこで、当たり前のことなんですが、普通、主語の位置というのは、文の先頭です。この文の先頭の位置というのは、あまり新鮮な情報をもった表現がくるのが好まれないようなのです。新鮮な情報とは、聞き手にとって、目下の話題の中に、既に登場しているとは思われないものや、逐一、コトバにして言わなければ、了解済みである、とは思われないであろうと予想されることです。 (EG73参照)

ですので、逆に、新鮮な情報ではないものとは、聞き手にとって、目下の話題の中に、既に登場していると思われるものや、逐一、コトバにして言わなくても、もう既に、了解済みである、と思われるようなことになりますね。そこで、以下の文を見ましょう。

(4)A man is running in the park. (公園で男の人が走ってるよ。)

(4)は、不定の解釈を受ける名詞、‘a man’が主語になっていますが、別に、おかしな文ではありません。これは、不定解釈を受ける‘a book’が主語になっている(3)が、しっくりこない文であることとは矛盾しています。そこで、(3)の文は、(4)のような文とは違って、どこが特殊なんだろうか、と考えてみると、その中で使われている‘is’が、「~ がある」という、「存在」の意味をもった‘be’動詞である、ということです。 (EG70参照)

「存在する」という意味は、(4)にあるような、「走っている」という表現と比べて、意味内容が「薄い」と考えられます。というのは、誰かが「走っている」という表現は、その誰かが存在することなど、もとから前提にしている表現であって、存在しないものが走っている、というのは意味不明ですね。ですので、「存在する」という表現よりも、「走っている」は、意味内容が「濃い」と考えられます。

つまり、(3)の文が、容認度が低い、と判断されるのは、比較的、情報の新鮮度が高いと思われるような、不定解釈の名詞が主語にくると、意味内容の薄いと考えられる「存在する」のような表現が述語では、主語と述語のバランスが不自然で、しっくりしないと感じられる、ということらしいんですね。これが、(4)のように、述語の方に意味内容の「濃い」表現がきていると、不定解釈の名詞が主語であってもバランスが不自然とは感じられないのでOKになる、ということなのです。

そこで、「主語・述語」における、バランスの自然さとは、どのような関係で捉えたらよいのか、ということになります。ここで、「焦点」という概念が登場します。つまり、文の中で、言いたいことを言うときに、まず、テーマのようなことを決めてから、そのテーマについて述べるというのが、文の自然な意味の流れということなんです。「焦点」とは、普通、提示されたテーマついて、こう言いたい、ああ言いたい、といった、まさに言いたい部分のことを指している場合が多いんですね。

これを簡単に言い換えると、「テーマの出現 → そのテーマの中の焦点」というのが、「主語 → 述語」の基本的な流れで、それは、「~ は ・・・ だ」というようなカタチになってコトバになる、と言ってもよいでしょう。そこで、(4)を例に取って考えると、ある男の人がテーマとなって取り上げられ、その男の人はどうか、と言うと、「走る」という行動をとっていることに、目下の焦点が当てられている、と言えるわけですね。

そこで、コトバでは、大抵の場合、述語の方に当てられるべき焦点の役割を担わせるのですが、英語の場合、ただ単に「存在」を表しているだけ、というような意味内容の薄い表現に対しては、あまり強い「焦点」を担わせにくい、と感じられるようなのです。

そういった述語の主語として、情報的に新鮮度の高い「不定」解釈の名詞がきたりすると、情報的価値のバランスといった点で、あたかも、「焦点」が主語の方にもあるように思われ、述語に当てられる焦点が弱くなった時点で、主語・述語の「焦点」が、ちょうど等しく当てられているようなレベルになり、どちらに焦点があるのかハッキリしなくなるので、直感的にしっくりこない、と感じられるようなのです。

だから、「存在する」のような意味内容の薄い表現が述語にくる場合は、主語に、情報的な新鮮度があまりない表現が好まれるようです。ですので、(2)のように定冠詞の付いた‘the book’のような、初登場とは思われないような表現が主語になると、焦点が述語の方にのみ当てやすくなるということですね。

ここから、英語には、「存在」の意味を表す特別な構文として、‘there is/are ~’の構文がある理由がわかると思います。つまり、(3)のような文が好ましくないのなら、主語の位置を、カタチだけ持たせておいて意味など何もないような表現にしておけばよい、という発想なんですね。そのため、(1)のような文では、‘there’は何も意味をもっておらず、ただ、主語位置を埋める役割だけを担っています。最初から意味をもたない表現が主語になれば、焦点など主語に当てようがない、ということですね。

ここで、(1)の文の‘there’は、意味をもたないカタチだけの主語である、と言ったわけですが、普通、‘there’は、「そこに」という意味をもった副詞ではないのか、という疑問をもつ人がいると思います。というのは、以下のような文(5a)があるからですね。

(5) a. There is the book. (〇) (ほら、そこにその本はあるよ。)
   b. The book is there. (〇) (そこにその本はあるよ。)

(6) On the desk is the book. (〇) (ほら、机の上にその本はあるよ。)

結論から言うと、(5a)の文における‘there’は、「そこに」という意味の副詞です。しかし、この‘there’は、(5b)の文から、「そこに」の意味を強調させるために、語順変更して倒置させた文であると考えるのが妥当であり、事実、発音の上では、(5a)の‘there’と、(5b)‘there’は、両方とも、ストレスを置いたイントネーションになり、同じ発音になる一方で、(1)の、何ら意味をもたない‘there’は、ストレスを置かない、弱いイントネーションで発音されます。

そして、カタチの上では、(5a)のような‘there’は、「そこに」という意味をもっているわけですから、(6)にあるような、‘on the desk’「机の上に」という、場所を表す表現との置きかえが可能です。ここから、もちろん、同様に、(5b)の‘there’は、(2)のように、‘on the desk’といった場所を表す表現との置きかえが可能です。しかし、一方で、今度は(1)を見ると、‘there’と‘on the desk’が同時に出現しているのがわかりますね。そこで以下の文を見ましょう。

(7)There is a book there. (そこに本があるよ。)

(7)では、‘there’が同時に2つ現れています。ここから、もう、おわかりの通り、(5a)の‘there’と、(6)の‘on the desk’が置きかえられるのと同様に、(1)の‘on the desk’も、「場所」の意味をもつ‘there’「そこに」と置きかえが可能なのです。

(7)では、文の先頭にあるのが、意味をもたいない主語の‘there’であり、弱いイントネーションで発音されます。一方、文の末尾にあるのが、「場所」の副詞である‘there’であり、ストレスを置いたイントネーションで発音されます。ですので、結論として言えるのは、(7)が決定的な証拠となって、実は、2タイプの‘there’が存在する、ということなのです。ダメ押しとして、前者の‘there’が明らかに、主語のステイタスをもっているという証拠も上げておきます。(EG43参照)

(8)It is unpleasant for there to be many flies in the kitchen.
  (台所にハエがいっぱいいるなんて不愉快だな。)

今回のポイントは、場所の‘there’「そこに」とは、明らかに異なる、もう1つの‘there’が存在するということです。この‘there’は、「存在」の‘there’と言ってもよく、(3)のような、主語・述語の間での意味的バランスが不自然な文を回避するために、特別に、こしらえられたものなのです。(5a)の文などの類推から、(1)の文は、倒置である、などと誤解されているフシもありますが、(7)が証拠となって、それは完全に否定されます。この、もう1つの‘there’の認識があまり一般的ではないため、今回、特別に扱ってみましたが、これでもう理解は大丈夫だと思います。

■注 :(3)がアウトになるのは、文法性の問題というよりも、むしろ、「主語・述語」の間で、どちらが焦点になるのかがハッキリしないので、不自然な感じになるわけですが、これを回避する方法は、‘there’構文を使う以外に、語順変更という手段もあります。(3)を、‘On the desk is a book.’としても、OKになります。これは、やはり、「テーマ (on the desk) → 焦点 (is a book)」のカタチとなることで、情報の新鮮度が低い‘on the desk’がテーマとなる一方で、不定解釈の‘a book’が、本来、焦点を担いやすい位置にまわり、完全に‘a book’の方のみが焦点を担うからです。

●関連: EG31EG43EG70EG73

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チョット気になる英語(か?)・2005年04月10日(日)

2005年04月09日 | その他

【チョット気になる英語(か?)(^^;】 2005年04月10日(日)
「マナー」は、‘manners’(複数形)で、「作法、行儀」の意味でOKですが、形容詞としては、意外と使いやすく、‘well-mannered’「行儀が良い」と、‘ill-mannered’「行儀が悪い」というように単純な使い方ができます。

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英語学習法(73)

2005年04月09日 | 冠詞
不定冠詞‘a’、‘an’と、定冠詞‘the’のお話です。以下、見ましょう。

(1)I saw a dog. The dog was barking. (1匹のイヌを見た。そのイヌはワンワン吠えていた。)

(1)の‘a dog’「1匹のイヌ」は、初登場の「イヌ」です。しかし、一度、話題に上がったイヌならば、次に続く文では、‘the dog’「そのイヌ」というように、‘the’を付けて表現されます。これは、当たり前のことなんですが、では、初登場とは、どういうことを言うんでしょうか。

(2)This tastes thin. Pass me the salt. (これ、味薄いや。塩取ってよ。)

(2)は、よく使われる食事中の会話表現ですね。食べているものは、ラーメンでも何でもいいんですけど、とにかくハッキリしていることは、食べているものの味が薄い、と言っているだけで、最初から、「塩」のことなんて、話題にしてはいないから、「塩」は、初登場のはずなんですが、(2)にあるように、‘the salt’が使われるんですね。これはなぜなんでしょうか?

(3) a. I forgot to bring my pen. Give me a pen. (〇) 
    (ペン持ってくるの忘れちゃった。ペン貸してよ。)

   b. I forgot to bring my pen. Give me the pen. (〇)
    (ペン持ってくるの忘れちゃった。そのペン貸してよ。)

(3a)の‘a pen’と、(3b)の‘the pen’は両方ともOKです。ただし、発話される状況は、同じではありません。(3a)の場合、話者にとって、貸して欲しいペンが、どこにあるのかは、わかりません。ただ単に、相手に対して、ペンを持っていたら貸して欲しい、と言っているだけです。しかし、一方、(3b)では、話者の目の前に、ペンがあって、それを指して、「そのペン」を貸して、というように、指定しているんですね。

ですので、初登場の場合は、不定冠詞‘a’が付いて、そうでない場合は、定冠詞‘the’が付く、という説明は、あまりよく考えないで、さっと聞き流すと、ちょっとした誤解の原因となるようです。ここで、問題は、何をもって初登場とするのか、ですが、‘the’が付く対象となる名詞は、予め、文になって登場している必要などない、ということなんです。ただ、登場していることが、話題の中で、前提とされているような状況ならば、いきなり、‘the’を付けても、OKなんです。

(4)This is a dog [ which I was looking for _ ]. (これ、[ 私が探していた ] イヌなんです。)
(5)This is the dog [ which I was looking for _ ]. (これが [ 探していた ] イヌなんです。)

(4)と(5)も、違いは、‘a dog’か、‘the dog’か、でしかないんですが、それぞれ、違う状況で発話されるなら、両方ともOKです。日本語も微妙に訳し分けてあるんですが、ニュアンスの違いがわかるでしょうか。まず、(4)の状況を説明すると、あるとき、イヌがいきなり現れて、何だ、このイヌは?と相手が言った(思った)とします。そこで、話者が(4)のように言うのは、自然なんです。

一方、(5)は、「私」が聞き手に、飼いイヌが行方不明になってしまった、ということを、最初から伝えてあるような場合で、聞き手が、予め、「私」がイヌを探していることを知っていた場合ですね。そういった状況で、1匹のイヌがいきなり現れた場合に、(5)のように言うのは、自然なんですね。

というわけで、初登場の概念とは、聞き手に対して、対象とされているものの存在が、最初から前提とされているか否かが、ポイントになるんですね。(4)では、聞き手に対して、「探しているイヌ」のことは、全くの初登場となりますので、‘a dog’と表現するのが自然です。一方、(5)は、聞き手にとって、「探しているイヌ」のことは、既に知っていて、初登場ではないから、‘the dog’と表現するのが自然なんですね。

ここから、(4)と(5)では、それぞれ、全く同じ関係節が使われていることに注意して下さい。関係節は、かかる名詞に対して、意味的な「限定」を加えるはたらきがあるんですけど、あくまでも、それは、「限定」をしているに過ぎず、「特定」をしているわけではないんです。これを、もう少し詳しく言うと、関係節そのものには、「特定」をするはたらきはない、ということなんです。(EG72参照)

(6)This is a pen [ which was used in a conference ].
  (これは [ ある会議で使われた ] ペンです。)
   
(7)This is the pen [ which was used in a conference ].
(8) a. これは [ 会議で使われた ] 唯一のペンです。 (×)
   b. (以前にも、話しましたが) これが、[ ある会議で使われた ] ペンです。 (〇)

(6)は、‘a pen’を使っていますが、極めて自然な文で、聞き手に、いきなり、あるペンを差し出して言うような状況です。このとき、差し出された「ペン」のことは、聞き手にとって、全くの初登場となります。

しかし、一方で、‘the pen’を使った(7)は、ちょっと不自然で、無理に解釈すると、(8a)のように、会議で使われた、唯一のペンと言っている解釈がありますが、そんなことは常識的にあり得ません。会議でペンを使うことなど、どこででもあるようなことですからね。ですので、そのような状況が自然になるような世界での発話でない限り、アウトになる解釈です。また、(8b)のような解釈もありますが、この解釈ならば、(8a)よりも、使われる確率は、はるかに高いと言えますが、(6)の自然さには及びません。

(9)This is a pen [ which was used in yesterday's conference ].
(10)a. これは [ 昨日の会議で使われた ] ペン (の中の1本)です。 (〇)
   b. これは [ 昨日会議があったんですが、そこで使われた ] ペンです。 (×)

(11)This is the pen [ which was used in yesterday's conference ]. 
   (これが [ 昨日の会議で使われた ] ペンなのです。)

(9)と(11)は、関係節内の表現を、「ある会議」ではなく、「昨日の会議」としてみましたが、そうすると、今度は、‘the pen’とした(11)の方が、‘a pen ’とした(9)よりも、はるかに自然になります。このとき、注意しなければならないのは、関係節内に、‘yesterday's conference ’「昨日の会議」というような表現があると、話者と聞き手の間に、昨日、会議があった、ということが、既に了解済みであることを、強制するような解釈になる、ということです。

そこで、(9)のように、‘a pen’とすると、(10a)のような、昨日の会議で使われたペンが他にもある、ということを強調しているか、もしくは、昨日、会議があったということ自体、聞き手は知らされていない、という(10b)のような、極めて変な (通常は、あり得ない) 解釈になります。というより、何よりも、例え、(10a)の解釈がOKであったところで、(9)のような文自体が、かろうじてOKにできる、という程度のもので、普通、以下のようにするのが自然です。

(12)This is one of the pens [ which were used in yesterday's conference ]. (訳同(10a))

というわけで、(6)と(11)が、関係節の普通の使い方ということになるんですが、まず、ハッキリと言えるのは、関係節は、意味的に、「限定」をする機能はもっているんですが、「特定」をする機能まではもっていなくて、関係節がかかっている名詞が、意味的に「特定」されるか否かは、(6)と(11)のように、関係節内が表す意味によって、どうとでも変わる、ということですね。

それは、関係節の表す意味自体が、文脈をつくる、と言ってもよく、その関係節がつくった文脈に照らし合わせて、関係節がかかっている名詞も、初登場と解釈されるか否かが決まる、ということです。

さらに、(4)と(5)のような例からは、関係節は、全く文脈をつくらず、かかっている名詞が初登場か否かの決定に関与していない、ということもあるわけです。この場合は、それ以前の状況にたよる、ということになりますので、広い視野で考えると、初登場の可否は、構文的な文法の問題とは一線を画す問題であることがわかると思います。

そして、この延長線上の問題として、(2)のような例があり、なぜ、‘the salt’というように、定冠詞‘the’が使われるのか、という問題があります。もちろん、もう既に、お分かりのように、食卓の上には、塩が置いてあることが多いので、塩は聞き手に取って、既に、その存在が了解済み、と見なされているからですよね。ですので、文として見ると、いきなり、‘the’が使われていて、ギョッとしてしまうんですが、状況としては、塩のことは了解済み、ということで、初登場ではない、ということになるんですね。

今回のポイントは、初登場か否かで、よく問題となる、不定冠詞‘a’と、定冠詞‘the’の使い分けです。定冠詞‘the’を、中学校などで初めて習うときに、わかりやすく理解させるために、どうしても、(1)のような例を使った説明から入っていくので、そこが同時に、誤解を与える原因でもある、という、危うい側面をもっています。

日本語を母語としている人からすれば、こいうった誤解は、ある意味、仕方がない、とも言えるものですが、これは、本質的には、英文法そのものの問題ではない、ということを予め了解していれば、何とか、最低限の理解には達することができますので、ここは、アタマを一度リセットするつもりで、1回も前の文に出てきていないからどう、とか、関係節がどう、とかいった問題からは、スッパリ切り離して、考え直してみることを、是非とも、お薦めします。

●関連: EG72

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英語学習法(72)

2005年04月06日 | 冠詞
今回は、英語そのもの、というより、少し概念的なことを扱います。「特定」と呼ばれる概念と、「限定」と呼ばれている概念の違いについてです。以下、見ましょう。

(1)クルマって良いよね。
(2)小さいクルマって良いよね。

(1)の「クルマ」ですが、クルマってたくさんありますね。(1)は、自転車やバイクのことではなく、クルマが良い、と言っているわけですね。そこで、今度は、どんなクルマかを、ちょっと詳しく言おうとすると、(2)のように、「小さいクルマ」となり、良いクルマの対象から、「大きなクルマ」や、「普通サイズのクルマ」は外されてしまいます。

このように、クルマの中から、違う特徴をもったものを除外して、ある特徴に焦点が当てられたものだけを対象とすることを、「限定する」と言います。「限定」は、サイズという特徴だけでなく、色でも、値段でも、速さ、でも構いません。赤いクルマは良い、でも、安いクルマは良い、でも、速いクルマは良い、でも、それらは、「限定」されたクルマ、ということになります。

(3)クルマは赤い。 (×)
(4)このクルマは赤い。 (〇)

(3)は、いきなりアウトですが、一方、(4)は、すんなりOKにできますね。(3)と(4)の違いは、「クルマ」に、「この ~」が付いているか否かの差でしかありません。そこで、「この ~」が、(3)と(4)の命運を分けるカギになっていることは確かなのですが、そこで、(2)の文にあるような、「限定」の概念から、こういった違いは説明できるんでしょうか。

(5)小さいクルマは赤い。 (×)
(6)安いクルマは赤い。 (×)
(7)速いクルマは赤い。 (×)

(4)はOKなのに、(5)~(7)は全てアウトです。この差から、「小さい」、「安い」、「速い」といった表現と、「この ~」は、明らかに、何かが違うということなりますね。じゃ何が違うんだ、ということになるんですが、もうちょっと他の例も観察してみましょう。

(8)[ アメリカ人が乗っている ] クルマは赤い。 (×)
(9)[ ジョンが乗っている ] クルマは赤い。 (〇)

(8)と(9)の文も差が出てしまいました。この場合、「アメリカ人」と「ジョン」の違いしかありません。ここから明らかなのは、どうやら、「クルマ」にかかる表現の、長い・短いは、全く関係なく、もはや、「小さい」、「安い」、「速い」、といった表現と、「この ~」の違い、といった、単体の単語レベルの問題ではない、ということなんです。

そこで、すぐにわかることは、「~ は赤い」という表現の、「~」の部分に、意味的にうまく適合するような表現とそうでないものがあるということです。赤い、ということは、クルマであることの必要条件ではありません。さらに、小さいクルマや、安いクルマや、速いクルマの必要条件でもないし、アメリカ人の乗るクルマ、の必要条件でもない、ということまでは、簡単に気付きますよね。そこで、以下、見ましょう。

(10)血液は赤い。 (〇)
(11)この血液は赤い。 (×)

「この ~」が付かない(10)と、「この ~」が付く(11)のペアは、「この ~」が付かない(3)と、「この ~」が付く(4)のペアと比較すると、「〇・×」の判断が、全く逆になってしまいます。まず、血液は、色に関しては、赤い、ということが必要条件となるものです。ですので、(11)のように言うと、別に、青い血液でもあるのか?とでも言いたくなってしまいますね。一方で、(3)のように言うと、そんなことないだろ、だって、オレのポルシェは白いぜ、と言う人だって、当然、出てきます。

そこで、「この ~」という表現は、実は、何か対象を普通ではないような特別化をするはたらきがある、ということがわかると思います。これをもっと詳しく言うと、「種類」を表すような表現を唯一的なステイタスをもつものに変化させるはたらきがある、ということなんです。

クルマは、赤いということが、クルマであることの必要条件ではないので、色は様々ですが、「このクルマ」と言えば、赤い、ということが許されるように特別化されて、唯一的ステイタスを与えられます。しかし、一方で、血液は、もとから、赤いということが必要条件なので、「この血液」などと特別化して、唯一的ステイタスを与えたならば、赤くはない、といった必要条件ではないようなことを述べなければ、意味がなくなってしまいます。

そして、(8)の「アメリカ人」と(9)の「ジョン」の違いも、実は、同様なのです。「アメリカ人」という表現は、生き物の中で、ヒトという限定された種を表す表現があり、さらにその中で、国籍に基づいた種類分けがなされた表現ですが、そこまで範囲を絞っても、なお、アメリカ人は大勢いますから、「この ~」を付けて、「このアメリカ人」とでも言わなければ、特別化して、唯一的ステイタスを与えられません。

しかし、一方、(9)の「ジョン」は、もとから、唯一的ステイタスを表す表現であり、ヒトという種の中から、即座に唯一的に1人を指すことができます。もちろん、この場合は、「ジョン」という名前の人物が世の中に大勢いる、ということから、即座に、「ジョン」という表現が、種類を表しているということにはなりません。

この場合の「ジョン」は、「くも」という表現が、空に浮かんでいる「雲」や、昆虫の「蜘蛛」を表せるのと同様に、ただ単に、同音異義語として使われているだけなのです。ですので、「ジョン」という名前の人物が大勢いるということを、道路を走っている、「クルマ」という名前の固体が世の中にたくさんあるから、「クルマ」という表現は種類を表す、ということと同列に扱うことはナンセンスであることが、おわかりになると思います。

(12)ジョンは頭が良い。
(13)このジョンは頭が良い。

(12)の「ジョン」は、もちろん、唯一的ステイタスの解釈をもつ「ジョン」ですが、一方、(13)のように、「このジョン」などと言うと、ジョンという名前の人物が複数いることが前提となりますので、「このジョン」の「ジョン」には、唯一的ステイタスをもつ解釈が成り立たなくなります。

これは、「この ~」が付く表現は、もとから、「種類」を表す表現でなければならないので、(13)は、「ジョン」という名前の人物が、例えば、学校のクラスの中で複数いて、その中から唯一的ステイタスを、「この ~」によって与え直す、という解釈でなければアウトになってしまいます。ですので、(13)の「ジョン」は、「人物」ではなく、「名前」という「種類」を表すことになります。

以上から、「この ~」という表現は、「種類」を表す表現を、名前ではなく人物そのものを表す「ジョン」というような表現と同じステイタスにする機能があることがわかったと思います。ここで、「特定」という概念が出てきます。今回は英語の例文が1つも出てきていませんが、まさに、ここまでの理解で、「特定」の基本概念がわかったというレベルに達するのです。

実は、「限定」の概念と、「特定」の概念はつながりがあって、「限定」を推し進めていった最終的なところに「特定」がある、と言っても良く、線引きがなかなか困難な側面があるのですが、「この ~」や「ジョン」といった表現は、それ自体、一発で、「特定」を表せるので、「限定」の概念との比較材料に利用したのです。

(8)と(9)のような文では、カギカッコの表現が、「クルマ」に限定を加えていると言えるのですが、そのカギカッコ内の一部である表現が、「アメリカ人」か「ジョン」かで、カギカッコ全体の表現が、単なる「限定」にとどまるのか、「特定」にまで達するのかが決定されます。つまり、(8)と(9)の場合、カギカッコ内の一部の表現が、カギカッコ全体の意味に影響を与えていると言えます。ということで、「特定」は、本当は、文全体の意味や文脈も考慮しなければならない場合もあるので、その点、事情は厄介です。

今回のポイントは、「特定」の概念をいかにして理解するかです。ある程度わかりやすくするために、「限定」という概念と比較して扱ってみましたが、それは、この種の概念は、誤解が多く、「限定」も「特定」も似たようなものだろうと思っている人が多いからです。

しかし、まず、日本語のレベルでの「特定」の概念がわかっていないと、英語の場合は、もっと表現方法が複雑なので、説明が困難になるのです。例えば、「特定」の概念は、英語の場合、日本語にはない、不定冠詞‘a’や‘an’、定冠詞‘the’の使い方にも関わってきますし、その他の様々な構文にも関わっています。特に、冠詞の使い方は、ここら辺りに理解の難しさが潜んでいますので、まずは、今回、柔軟体操ということで。

■注1 :もちろん、「あの ~」、「その ~」、「これら ~」、「あれら ~」、「それら ~」も、「特定」を表せます。「唯一的」というコトバから、誤解しやすいのですが、「単数・複数」といった概念は唯一性には関係なく、「複数」の概念を排除するものではありません。「これらのクルマは赤い。」の、「これらのクルマ」も、ひとまとめにして、唯一的と考えられます。

■注2 : 「赤い」は、客観的表現ですが、「良い」、「速い」などの主観的表現は、その対象の見方によって判断がどうとでも変わるので、「小さいクルマは速い。」でも、「小さいクルマは遅い。」でも、どちらでもOKになりやすくなります。


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英語学習法(71)

2005年04月03日 | 動詞
EG70の続きです。‘be’動詞です。‘A is B’の構文の内訳はどうなっているのかを考えたいと思います。以下、見ましょう。

(1)John is a teacher. (ジョンは教師です。)

(1)では、主語‘John’「ジョン」は、何かというと、すなわち、‘a teacher’「教師」である、ということで、「ジョン=教師」という関係を文にしたものですね。EG70では、‘be’動詞が固有の意味、「存在する」をもっている場合がある、ということを説明しましたが、一方、(1)の文では、‘be’動詞の‘is’に、そのような意味はなく、ただ、‘A is B’「AはBだ」というように、AとBを、「イコールの関係」で連結するような役割しか果たしていません。

ですので、(1)は、‘be’動詞が、現在形‘is’というカタチをもっているということを考慮しても、時間に関する意味、つまり、「時制」以外は、特に、実質的な意味はもっていないと言ってもよいでしょう。そこで、普通、‘be’動詞と言えば、一般的に文法上の機能、つまり、「前後の連結」というカタチが主な役割ということになります。

(2)John is running. (ジョンは走っている。)
(3)Sue was sued. (スーはスーされた(訴えられた)。)

(2)の進行形、‘be+-ing’や、(3)の受身文、‘be+過去分詞’のような文でも、カタチ全体から、その意味や文法上の機能が決定されるだけで、‘be’動詞そのものが固有の意味をもっているとは言えません。というわけで、こういったことを踏まえた上で、‘A is B’「AはBだ」の構文を考えてみたいと思います。

(4)A teacher is John. (×) (教師はジョンです。)

(4)は、いきなりアウトですが、(1)の主語‘John’(=A)と、‘a teacher’(=B)の前後をひっくり返して、‘B is A’「BはAだ」の文にしたものです。算数などでは、「A=B」は、「B=A」としても、論理的には、不都合はないんですけど、コトバの場合は、ちょっと、そういうわけにはいきません。これは、学校などの英文法でよく教えられるように、単純に、「A=B」と解釈して、ハイ終わり、というものでもなく、コトバの基本である、「主語・述語」の特徴を考えなければならないからです。

(5)The teacher is John. (その教師はジョンです。)

(5)は、もちろん、OKの文ですが、(4)の不定冠詞‘a’が付いた ‘teacher’を、定冠詞‘the’がついたものに変えただけです。ここから、‘A is B’の構文の中では、Aに対して、ある条件が付いているのがわかります。つまり、(4)のように、「不定」の解釈になるようなものは主語にはなれない、ということです。

「不定」というのは、「ジョン」、「日本」、「この人」などのような「唯一的」解釈ができないもので、かわりに、「種類」としての扱いを受けるものの中の1つ(単数)、または、いくつか(複数)のことを指して言います。例えば、世の中には、「教師」という職業の人は、たくさんいますので、その中から、誰とは特定せずに、「ある1人の教師」という場合や、「何人かの教師」という場合は、「不定」になります。しかし、一方で、「その教師」、という言い方からは、どの教師であるかが、わかっている、ということになりますので、「定」ということになります。(EG31も、あわせて参照)

(6)A teacher is a kind of office worker. (〇) (教師だって、会社員みたいなものだ。)

(6)の‘a teacher’は、(4)とは違って、OKなんですが、なぜなんでしょうか?これは、‘a’が付けば、何でも「不定」になる、というわけではないからなんです。(6)の‘a teacher’は、その意味からして、「教師というもの」、「教師という職業の人」、というように、この世の中の「教師」とされる全員を対象にして、その1人1人が誰だって、と言っているわけですね。

このように、ある種類というワクの中の「1つ」とか、「いくつか」の場合は、「不定」になっても、一方で、まるまる、そのワクの中にある全てをひっくるめて、対象者として扱う場合は、「不定」にはなりません。まさに、ある「種類」の中のどれであろうと例外なく、という感じの解釈になりますね。

こういった解釈を受ける、(6)の‘a teacher’のようなものを、よく文法の本などでは、「総称」と呼んでいます。ですので、このような「総称」解釈の‘a teacher’は、もともとの意味が違う、という点で、(4)のような、「不定」解釈の主語がアウトになる文に対する反例にはなりません。ですが、これで、‘A is B’の構文の本質が、スッキリわかったかと言えば、ちょっと厄介な例もありまして、それは、以下のようなものです。

(7)One of them is John. (ヤツらの1人はジョンだよ。)
(8)A friend of mine is John. (私の友達の1人は、ジョンよ。)

(7)の‘one’「1人」は、そのまんま、‘them’「ヤツら」の中の任意の1人を指し、一方、(8)の‘a friend’「1人の友達」も、そんまんま、‘mine’「私の(友達)」の中の任意の1人を指しているわけですから、‘one’も、‘a friend’も、どちらも、「不定」ということになります。これは、さすがに、(4)の「不定」解釈の‘a teacher’がアウトになる文と矛盾しているように見えます。

しかし、この場合、‘one’も、‘a friend’も、ある「特定」を受けた、‘them’や、‘mine’というワク、つまり、「種類」とは異なっていて、むしろ、「特定された数」の中の1人である、という点が、ポイントになります。この「特定」を受けている、‘them’や、‘mine’といった表現の中に、‘one’や、‘a friend’といった、「不定」解釈を受けるものが置かれていても、それは、完全には、「不定」ではないもの、として扱われるのです。これを言いかえれば、‘one of them’や、‘a friend of mine’全体を見て、「弱い特定」と言ってもよいかも知れません。

この、「弱い特定」の概念の有効性を支持する証拠は、まさに、(5)の例で、「その教師」の意味として、指している人物そのものは、主語‘the teacher’の段階では、まだハッキリとは明示されていなくて、‘~ is John’「~ はジョンです」という、述語の部分でハッキリと明示されるわけですね。

つまり、(5)の文は、主語が、特定は特定でも、段階性がある特定ということで、「弱い特定」になるのに対して、それをハッキリさせるために、述語の部分で、「完全な特定」を述べているわけですね。(7)と(8)も、全く同様に、この解釈が成り立ちます。ここから、「弱い特定 → 完全な特定」という解釈が、‘A is B’「AはBだ」の構文の表している意味の1つだと思われます。

ここで、‘A is B’の構文が表している意味の「1つ」、と言ったのは、もちろん、(1)のような文があるのを忘れてはならないからです。(1)のような文は、主語である「ジョン」が、まさしく、「完全な特定」の解釈であり、「弱い特定 → 完全な特定」、という解釈の公式に当てはまりません。そこで、よく考えると、実は、(1)のような文は、以下のような文と類似の構文なのです。

(9) John is very tall.  (ジョンはとても背が高い。)
(10)An elephant is very heavy. (ゾウはとても重い。)

(9)や(10)のような文は、‘A is B’の、Bの部分に形容詞‘tall’「背が高い」や、‘heavy’「重い」がきていて、名詞以外の表現がきていますが、形容詞や副詞や前置詞句などがきても、OKなのです。この構文の解釈上の特徴は、(5)、(7)、(8)のような、必ずBが名詞表現になる、「イコール」の解釈というものではなく、Aの「性質」や「様態」を述べる、というものです。

この点、(2)や、(3)も、カタチの上では、名詞以外のものが、‘be’動詞の後にくるので、(9)や(10)の仲間に入りますが、表現できる意味は、「性質」や「様態」以外に、「行為」や、「出来事」も含まれるので、純粋な意味での、‘A is B’の構文ではありません。

そして、(9)や(10)は、主語(=A)の部分には、(9)の、「定」解釈になるもの‘John’や、(10)の、‘an elephant’「ゾウ(というもの)」のように、「総称」として解釈されるものがきますので、(1)のような‘A is B’の構文の主語(=A)に対する条件と、全く同じです。そこから考えると、(6)の文は、(9)や(10)の文の仲間ということになりますね。その証拠として、以下の文はアウトになります。

(11)A kind of office worker is a teacher. (×) (一種の会社員は教師だ。)

(11)は、(6)の、‘a teacher’(=A)と、‘a kind of office worker’(=B)を、ひっくり返した文ですが、意味不明でアウトになっています。これは、(1)がOKで、(4)がアウトである、という関係と全く同じものですね。‘a kind of office worker’「一種の会社員」という表現は、会社員という職業もいろいろあるわけですから、その中の1つ、つまり、職種の中の1つとして考えられるので、「不定」になりますね。では、確認のために、今度は、「イコール」解釈を受ける、(5)、(7)、(8)の文も、‘A is B’の、AとBをひっくり返して、Bを主語にしてみます。

(12)John is the teacher. (〇) (ジョンが、その教師だよ。)
(13)John is one of them. (〇) (ジョンは、ヤツらのうちの1人なのさ。)
(14)John is a friend of mine. (〇) (ジョンは、私の友達の1人よ。)

やはり、「イコール」解釈の‘A is B’構文は、純粋に、「イコール」の特徴が出ているようで、‘A is B’の、AとBをひっくり返して、Bを主語にしても、意味がおかしくなる、ということはありませんね。つまり、「完全な特定 → 弱い特定」という、逆の流れからの解釈も許す、ということですね。

以上から、今回のポイントとして、EG70の、「存在」の‘be’動詞以外に、連結機能をもった‘be’動詞がある、ということがわかったと思います。そして、この連結タイプの‘be’動詞を大きく分けると、意味の面から、2タイプの解釈がある、ということです。1つは、「イコール」解釈の連結で、AとBの特徴は、「弱い特定(A) → 完全な特定(B)」 か、または、「弱い特定(B) → 完全な特定(A)」 という、どちらの流れでもOKになる、ということです。

そして、もう1つは、AとBをひっくり返すことができないもので、「イコール」関係というよりも、純粋な意味での、「主語・述語」の関係、という解釈ですね。このタイプは、「イコール」関係の解釈である、‘A is B’と同様に、主語が、「不定」であってはならない、という特徴がありますが、「イコール」関係解釈の‘A is B’との、決定的な差異は、主語に、「総称」解釈の表現を許す、ということです。この、「主語・述語」タイプの‘A is B’は、述語に、「性質」や「様態」の意味が表現されているので、名詞以外に、形容詞の他、いろいろな品詞がきてもOKです。

この、‘A is B’の構文を、細かく見ていけば、まだ、ちょっと分類分けできるのですが、最も押さえておくべき特徴は、今回の2タイプです。‘be’動詞って、奥が深いですね。

■注1 :今回、‘A is B’の、AとBを、「ひっくり返す」と表現しているのは、「倒置」する、という意味ではありません。純粋に、Bを主語に立てる、という意味です。

■注2 :もちろん、「ジョン」は、「ジョンという名前」、の意味になる場合は、それ自体で、「特定」されているとは言えなくなります。「ジョンという名前」の意味の場合は、「ジョン (という名前の人) は、たくさんいるからね。」、などとと言えます。

■注3 :今回は、‘the teacher’「その教師」と、‘one of them’「ヤツらの内の1人」などを、「弱い特定」と、ひと括りに扱っていますが、これらの間にも、当然、「特定」の意味に、段階性はあります。‘the teacher’の方が、‘one of them’よりも、「特定」している感じは強いと言えます。


●関連: EG31EG70

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