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英語脳をつくる!~日本人はいかに効率良く英語を学べるか~

英語学習に関する事いろいろです。日本人がいかにすれば実用英語を身に付けられるか、その最短距離を考察!

英語コラム(30)

2006年09月09日 | コラム
今回、何も考えないで構文の丸暗記などしていると、思考停止に陥ってしまうという典型的なケースです。

(1)George asked Ann [ whether the earth is round ] . (〇)
  (ジョージはアンに [ 地球は丸いのか ] 尋ねた。)

(2)George asked Ann [ that the earth is round ] . (×) (訳同上)
  
(1)で使われている構文は、‘ask A whether ~’「A に ~ かどうか尋ねる」というものです。特に‘whether’を使った節は、「~ かどうか」という「問い」を表す節を導くもので、意味的にも、‘ask’に直接に対応させやすく簡単なので、‘ask A whether ~’のカタチでそのまま暗記してしまうのが、1つの方法だと思われます。

また、この丸暗記型の考え方を支持するのは、(2)のように、‘ask A that ~’となった場合、アウトになってしまうということです。つまり、‘whether’節や、‘that’節といったように、いくつかの種類をもつ節は、予め述語によって、どういった節を取るのかが決まっていて、1つの構文の中にそのままセットとして組み込まれているという考え方です。

(3)I know [ that the earth is round ] . (私は [ 地球が丸いことを ] 知っている。)
(4)I know [ whether the earth is round ] . (私は [ 地球が丸いかどうか ] 知っている。)

しかし、(3)のように、‘know’「知っている」という動詞は、通常、‘that’節を取りますが、一方、(4)のように、‘whether’節を取ってもよいことになっています。ということは、‘know’の場合は、とりあえず、‘that’節と‘whether’節、どちらでも常にOKと暗記してしまうべきなのかということになりますが、ここで問題が発生します。

(5)I do not know [ that the earth is round ] . (×)
  (私は [ 地球が丸いことを ] 知らない。)

(6)I do not know [ whether the earth is round ] . (〇)
  (私は [ 地球が丸いかどうか ] 知らない。)

(5)のように、(3)を否定文にしたものは、一般的にアウトになり、一方、(6)のように、(4)を否定文にしたものはOKです。つまり、‘know’を使った否定文の場合、それが取り得る節の種類が‘whether’節に制限されてしまうという条件があるということになります。

(7)I did not know [ that the earth is round ] . (〇)
  (私は [ 地球が丸いことを ] 知らなかった。)

(7)でも、‘know’が‘that’節を取っていますが、しかし、(5)と同じく否定文であるにもかかわらず、何とOKになっています。(5)では‘know’が、現在形の否定文ですが、一方、(7)では、‘know’が過去形の否定文になっています。つまり、‘know’は現在形であり、かつ、否定文の場合、‘that’節が許されない、という条件に修正することになります。

(8)George does not know [ that the earth is round ] . (〇)
  (ジョージは [ 地球が丸いことを ] 知らない。)

今度は(8)ですが、この場合も、‘know’が‘that’節を取っていてOKです。(8)で注意すべきは、‘know’が現在形の否定文ですが、何と、それでもOKなのです。(8)の場合、(5)の主語である‘I’「私」が、‘George’「ジョージ」に変わっただけです。

つまり、‘know’は、現在形の否定文では‘that’節を取ることができないが、それは主語にもよる、などという非常にややこしい条件を付けなければならないことになっているわけです。しかし、こんな構文の覚え方なんて一体どんな意味があるんでしょうか?

そこで、もう一度、(3)~(8)をよく観察してみて、‘know’「知っている」の意味を考えてみればわかると思いますが、まず、「知っている」という表現は、否定文では、もちろん、「知らない」となるわけです。ヒトは知らないことを正しく述べることはできません。

(9)私は、3日後に地球が滅亡することを知らない。
(10)私は、3日後に地球が滅亡するかどうかは知らない。

(9)のような発言は矛盾しており、現実的にはあり得ないものです。ただし、(9)がOKになるような状況は一応あって、それは、地球の滅亡が確定されていて、かつ、そのことを、(9)の話者である「私」が知っているような場合です。しかし、そのような状況は、SFやドラマの世界で、「私」が「私」から分離してナレーションをするなどの第三者的な立場になるような場合のみです。

ですので、現実世界で、「私」が地球の滅亡を知らなければ、(10)のように発言するのが正しく、これは自然なことだと思われます。これを言いかえれば、逆に、「私」が地球滅亡を知っていて、それを伝える表現にするならば、あえて、「~ かどうか」などといった表現を使うことはないわけです。要するに、(9)の奇妙さは、知らないのに知っていることを前提としたような発言が矛盾しているということからくるものです。

(11)私は、3日後に地球が滅亡することを知らなかった。

(11)のように発言するのは、現実世界では可能です。過去に起こった出来事ならば、その時に知らなかったとしても、発話している時点で知っていれば (かつ、「私」が生き残っていれば (笑)) よいわけですから、事実上、(11)の「私」は、地球滅亡を知っている上での発言として何ら矛盾はありません。

(12)ジョージは、3日後に地球が滅亡することを知らない。

(12)は、もちろん、ジョージが知らないだけであって、話者である「私」が地球滅亡が確実であることを知っていて発言している場合は、何ら矛盾にはなりません。つまり、こういったことをトータルで考えると、結局のところ、発話している人物本人が、発話している時点で知らないことを、知っているかのような前提で、「知らない」と言っていることが、(5)をおかしくしている原因ということになります。

(13)I would like to know [ whether he will come ] . (〇)
  (彼が来るかどうか知りたいのですが。)

(14)I would like to know [ that he will come ] . (×)
  (彼が来るのが知りたいのですが。)

話者が知らないようなことかどうかが、‘know’の‘that’節の可否に関する決め手になるので、(13)がOKで、一方、(14)がアウトなのは、もちろん、話者である「私」が尋ねたい内容 (知らない内容) が‘know’以下に続いているからです。

(15)Do you know whether he will come ? (〇) (彼が来るか知ってますか?)
(16)Do you know that he will come ? (〇) (彼が来るのを知ってますか?)

(15)と(16)は共にOKですが、(15)の場合は、‘know’以下が話者が知りたいと思っている内容か、または、話者自身は知っているが、尋ねている相手に正しい情報を答えさせようという意図がある場合のどちらかです。一方、(16)は、‘know’以下の情報を話者自身は知っていて、相手に、こんな情報があるが知っているか、と尋ねている場合になります。

ですので、‘that’節か‘whether’節か、といった問題は、‘ask’のように単純な場合はともかく、煎じ詰めて考えると、暗記構文として処理すべき問題ではなく、結局は、しっかりと文全体の意味を考えて判断した上で自然なものを選ぶ、というようなことにつきると言えますね。

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英語コラム(29)

2006年09月03日 | コラム
今さら聞けない英語の疑問なんて、どんなものがあるかな?とも思いますが、こんなのどうでしょう?

(1)All the angles of a triangle are less than 180゜.
  (三角形の内角は、どれも180度より小さい。)

(1)で述べているようなことは、もちろん、三角形の3つの角は常に全部足し合わせて180度ジャストという誰でも知っている三角形の法則があるわけですから、当たり前のことなんですが、しかし、これが、なかなか面白い問題提起につながっていきます。

(2)All the angles of a triangle are 180゜.
  (三角形の内角は、全て足し合わせると180度だ。)

(1)から‘less than ~’「~ より下」を取り除くと、(2)のような英語になりますが、それでも正しい英語です。しかし、その意味が、単純に‘less than’を取り除いただけの解釈になっているわけではなく、根本的に意味が変わってしまっていることに注意して下さい。

(1)も(2)も、主語の‘all the angles of a triangle’「三角形の全ての角」は同じ表現です。しかし、(1)では、「全ての三角形の内角1つ1つが」という解釈になる一方で、(2)では、「1つの三角形における内角の総和が」という解釈になっているわけですから、この2つの異なる解釈が発生する原因はどのようなところにあるのか、ということになります。

(3)All the batters hit a home run in the game last night.
  (昨夜、その試合では、バッター全員がホームランを打った。)

そこで、(3)のような英語ですが、別に難しくも何ともなさそうな平易な英語に見えますが、これをとっさに会話などで言おうとすると、意外に、ん?ちょっと待てよ、と考えてしまうことがあります。それは、英語では名詞表現に、逐一、「単数・複数」の区別がともなうからです。

真面目なヒトなら、必ず、バッターが全員ホームランを打ったということは、バッターの数だけホームランの数があるはずだ。だから、(3)の目的語は、単数形の‘a home run’ではおかしく、‘home runs’と複数形にするのが正しいのではないか?などと考えてしまうわけです。

しかし、結論から言うと、別に、(3)はおかしいということはなく正しい英語であり、全く問題はありません。これは‘all’「全て」や、それに類する語句、‘every’などの表現が共通にもっている性質に着目し、その性質を予め理解しておけば、割とスッキリと解決してしまうようなことなのです。

(4)Every student in this school hates a teacher.
(5) a. この学校では、全ての学生に嫌いな先生が1人はいる。
   b. この学校では、全ての学生がある1人の先生を嫌っている。

まず、(4)のような英語は、一般的に、(5a)と(5b)のような2通りの解釈があります。(5a)は、学生それぞれに1人ずつ嫌いな教師がいる、と言っているわけですから、学生の数だけ嫌いな教師の数がある、というようなことを言っているわけです。

一方、(5b)は、学校の中に、ある嫌われ者の教師が1人いて、しかも、学生全員がその教師を嫌っているような状況を言っているわけです。つまり、潜在的に、「全て」というような意味をもった表現は、①・「全ての中で、それぞれ」というような解釈もあれば、一方、②・「全てが1つにまとまって」というような解釈も許してしまうので、もともとの性質として、その解釈があいまいなのです。

ですので、(4)のような英語は、たまたま、「全て」という表現のもつ2通りの解釈の可能性のうち、どちらも許しているようなケースになる、というだけのことなのです。ここで、(1)と(2)に戻って考えてみると、まず、私たちは、「不変の真理」として、1つの三角形がもっている3つ内角の総和は180度ジャストである、という知識がその前提としてアタマの中にあります。

すると、(1)は、‘less than 180゜’「180度より下」の表現から、180度ジャストではないと判断されるので、‘all the angles of a triangle’の‘all’は、①と②の解釈のうち、②・「全てが1つにまとまって」という解釈にはなり得ないと常識的に判断するわけですね。

一方、(2)は、もちろんこの逆で、‘~ are 180゜’「~ は180度だ。」の表現から、180度ジャストが確定するわけですから、三角形の内角の1つが180度になってしまったら、残り2つの内角はなくなってしまうじゃないか、と判断するので、①と②の解釈のうち、①・「全ての中で、それぞれ」という解釈にはなり得ないとなるわけですね。

つまり、(1)と(2)の解釈が1つに決まってしまい、かつ、お互いに異なる解釈になるのは、「全て」という表現が、もともともっている2通りの解釈というあいまい性があり、それに加えて、私たちが不変の真理としている三角形に対する知識があると、一方が他方を排除し合うような選択しかなくなってしまう、ということなのです。

そこで、(3)ですが、これは、①と②の解釈のうち、①の解釈を利用した英語表現であることは、もうおわかりになると思います。もし仮に、②の解釈になってしまったら、それは、バッター全員で力を合わせて1本のホームランを打ったというような、野球のルールを全く無視したような解釈になってしまいますから。

(6)All the batters hit home runs in the game last night. (訳同(3))

(6)は、(3)の目的語を複数形‘home runs’に変えたものです。今回の考え方からすると、(6)はどんな解釈になるのかというと、全てのバッターが、1人2本以上のホームランを打ったという解釈になりますが、一方、全てのバッターがホームランを打ったことは確かだが、1本だけの者や、2本以上打った者が混じり合っている、という解釈にもなります。

と言うよりも、「複数×複数」のような掛け算が文の中にあると、もう数が入り乱れてゴチャゴチャした感じになってきますので、実際、(6)は、あまりにも繁雑すぎて、情報伝達上、不親切な表現の仕方になり、好ましくないとされています。

(7)Each of the batters hit home runs in the game last night. 
  (各々のバッターが複数のホームランを打った。)

そこで、あえて、1人につき2本以上のホームラン、と言いたければ、(7)のようにするのが自然です。もちろん、言うまでもなく、いろいろ工夫すれば、他にも、(7)の日本語訳を意図するような英語表現はたくさんありますが。う~ん、何ともややこしいですね。

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英語コラム(28)

2006年08月04日 | コラム
今回、代名詞のお話なんですが、代名詞というのは、もちろん、‘he’「彼」とか、‘she’「彼女」とか、‘it’「それ」のことです。これらは、何かを受けて指しているとよく解説されますが、代名詞は、当然のこと、話しかける相手が、予め何を指すのかわかっていないと使っても意味がないものです。「彼が ・・・」、「彼を ・・・」、「彼と ・・・」、などと一方的に言っているだけでは、結局、その「彼」って誰のことよ?となってしまいますから。

つまり、代名詞の性質は、基本的に、何か指す対象に常に依存しているわけです。典型的には、ある会話の中で、何らかの初登場となるような名詞が出てきて、それから後に代名詞が登場する、というのが最もわかりやすい解説になると思います。

(1)Eric likes books. He is always reading some book. (‘Eric’=‘he’)
  (エリックは本が好きで、彼は、いつも何か読んでるんだよ。)

代名詞には、このいわゆる、「後追い型・他者依存型」の性質があるため、少し詳しい解説本などになると、「古い情報」を担っている、と解説されることがよくあります。(1)で言えば、‘Eric’「エリック」は、会話の中に、先に登場している名詞であり、「新しい情報」ということになります。

その‘Eric’に依存して後追い的に、今度は、代名詞‘he’「彼」が、結局は、2回目に出てきた‘Eric’としての解釈を受けて、続く文の中で使われているわけですから、この点、代名詞は「古い情報」、という考えは正しいと思われます。

そして、発音に関しては、(1)での‘he’は、通常、ストレスを置くようなイントネーションにはならず、‘Eric’の方にストレスが置かれるのが普通です。これは、新しい情報は注目度が高いが、一方、古い情報は注目度が低いと見なされやすいため、話者の発音の力点が自然とそのようになるのだと思われます。

(2)Eric was in the office last night. I think not George but he stole our secret file.
  (昨夜は、エリックがオフィスにいた。ジョージではなく彼が我々の機密ファイルを
   盗んだんだと思う。)

そこで、(2)ですが、通常のイントネーションで発音される際は、‘not George but he’「ジョージではなく、彼が」のうち、‘he’の方にストレスを置くような発音になります。と言うのも、ジョージに疑いがかかっているところに、(2)の話者は、エリックが犯人ではないか、というような、他人とは違う新しい意見を持ち出しているからです。

(2)の中の‘Eric’も‘George’も、共に代名詞ではありませんから、「新しい情報」と見なされているはずです。そして‘Eric’を指し示す代名詞‘he’は、古い情報でなければならないはずなのに、話者がストレスを置いて発音するということは、もちろん、(2)の‘he’が、‘George’よりも新しい情報を担っていることを示唆しています。

つまり、(1)に反して、(2)では、代名詞に発音の力点が置かれるわけですから、代名詞が「古い情報」である、というような考えに疑問を投げかける反例となっているわけです。

ここで、大事なのが、「新しい情報・古い情報」のとらえ方です。よく考えてみれば簡単なんですが、「新しい・古い」といった概念は、絶対的なものではなく、主観的・相対的なものです。例えば、10年前に買ったクルマは、5年前に買った別のクルマと比べれば、もちろん、古いと言えますが、一方、15年前に買った、また別のクルマと比べれば、新しいということになります。

このように、「新しい・古い」とは主観的・相対的な概念なので、見方によっては、古いと思っているものが新しいと思われているということもあり、一方、新しいと思われているものが古いと思われているということにもなり得るわけです。

そこで、「代名詞は古い情報を担う」、という、誤解されやすい断定的な解説についてですが、こういった解説は、あくまでも、代名詞自体は、何を指しているのかを、自分で指し示す能力がない、という点で、「後追い型・他者依存型」であり、この点においてのみ、必然的に「古い情報」であると理解すべきなのです。

これを言いかえると、名詞‘Eric’は依存するものを必要としないが、一方、代名詞‘he’は依存するものが必要なので、イコール (=) 関係が成り立つ‘Eric’と‘he’のような2つの表現の間でのみ、「新しい・古い」といった関係が、常に付きまとう結果になる、ということなのです。

(2)での代名詞がストレスを置かれる発音になる要因は、こういった理解とは、もちろん、次元が違います。つまり、代名詞という単語そのものが、もともともっている、言わば、「他者依存型」という語彙的な性質とは全く関係ないものです。

ただ単純に、「異なる人物」である2人、‘George’と‘he’(=‘Eric’) という点から、そのコントラストにおける情報の新しさ・古さの比較になっているわけですから、もはや、代名詞は指し示す相手が必要だから、どうのこうの、ということとは全く関係ない別次元の問題だということがわかると思います。

というわけで、結構、誤解されやすい、「代名詞は古い情報を担う」、という解説は、そのままストレートに文字通りの解釈をしてはならず、「指し示す相手が前提となる性質上、その指し示す相手と比較した場合、常に古い情報を担う立場にある」、と補足して理解するべきものなのです。

コトバの問題に常につきまとう、「新しい情報・古い情報」の概念は、何かとの比較において相対的に決定されるべきものなので、単語そのものに、最初から、「新しい情報・古い情報」を指定することは、本来的には不可能なのです。

つまり、(2)のような代名詞の使い方があるのは、コトバの在り方としては、むしろ、自然なことであり、一方、(1)のような例から、代名詞の本質を語ろうとするのは、巨視的に観た場合、特殊なことなのです。「一般・特殊」の関係を常に念頭に置いてモノゴトを観察するようにしておかないと、事態を見誤ってしまいますね。

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英語コラム(27)

2006年01月26日 | コラム
EC26の続きです。EC26では、日本語を例に取って、コトバの可否を判断する上で、文法性の他に、知覚的にどう感じられるか、という、観点も必要であると述べました。今回は、英語を例に取って、以下、見ましょう。

(1)This is the dog that chased the cat that killed the rat that ate the malt
   that lay in the house that Jack built.

いきなり、(1)ですが、はぁ?何ディスカ、これは?となってなってしまいますね(笑)。(1)は、ちょっと不親切な出し方だったかも知しれませんね。では、(1)を、順を追って解釈してみたいと思います。

(2)This is the dog [ that chased the cat ]. 
  (これが、[ そのネコを追いかけていた ] イヌだ。)

(3)This is the dog [ that chased the cat [ that killed the rat ] ].
  (これが、[ [ そのネズミを殺した ] ネコを追いかけていた ] イヌだ。)

(4)This is the dog [ that chased the cat [ that killed the rat [ that ate
   the malt ] ] ].
  (これが、[ [ [ その麦芽を食べた ] ネズミを殺した ]
   ネコを追いかけていた ] イヌだ。)

(5)This is the dog [ that chased the cat [ that killed the rat [ that ate
   the malt [ that lay in the house ] ] ] ].
  (これが、[ [ [ [ その家に積んである ] 麦芽を食べた ]
   ネズミを殺した ] ネコを追いかけていた ] イヌだ。)

(6)This is the dog [ that chased the cat [ that killed the rat [ that ate
   the malt [ that lay in the house [ that Jack built ] ] ] ] ].
  (これが、[ [ [ [ [ ジャックが建てた ] 家に積んである ] 麦芽を食べた ]
   ネズミを殺した ] ネコを追いかけていた ] イヌだ。)

まず、(2)から出発します。カギカッコは関係節です。(EG24、EG26参照)その関係節が、‘the dog’「イヌ」にかかっています。次の(3)では、(2)の関係節内にある目的語、‘the cat’「ネコ」に、新しく、関係節が付加されています。つまり、関係節の中に、もう1つの関係節が、組み込まれるカタチになっていますね。このとき、新しく、内側に組み込まれた関係節内は、‘the rat’「ネズミ」が目的語で、かつ、最後にきている単語であることに、注意して下さい。

次に、(4)でも、同じく、新しい関係節が、‘the rat’に付加されています。ですので、(4)では、また、さらに、関係節の内側に、新しい関係節が追加されている、という状態です。このとき、最後の単語は、目的語の‘the malt’「麦芽」です。次に、(5)でも、同じことを、繰り返しますので、最後の目的語‘tha malt’「麦芽」に、関係節が付加されて、最も内側の関係節が、もう1つ増えています。最後に、(6)でも、最後の目的語‘the house’に、関係節を付加して、同じことを繰り返す。つまり、また、最も内側に関係節が、もう1つ増えています。そうすると、最終的に、(1)のようになる、というわけです。

結局、(1)の成り立ちは、(2)~(5)まで、順を追って、最後の名詞に、それぞれ、新しい関係節をくっつけていくことで、次第に、文がふくれ上がっていった、というだけのことで、生成過程そのものは、単純で簡単なことを繰り返したにすぎません。

ところで、(1)の文は、英語として文法的かどうか、という話になります。順を追って、確認しながらやったので、想像はつくと思いますが、(2)から(6)に到るまでの生成プロセスで、何ら英文法のルールに違反することはやっていません。順序正しく、かつ、規則正しく、関係節を付け足していきましたので、もちろん、自信を持って文法的であると言えるでしょう。

しかし、ここで問題となるのは、実際に、(1)のような文を発話する話者がいるのか、と問われたら、答えは、まず、いないでしょう、と言うしかありません。何かのコトバ遊びで、ゲーム感覚として、意図的に発話されることはあるでしょうが、あまりに長すぎて、通常の会話文としては、あり得ないでしょう。

じゃ、通常の会話文として、あり得ないから、という理由は、コトバではない、という主張に転換可能かというと、そうでもなく、ごく稀に、とは言えども、コトバ遊びで使われることが可能であるのなら、それは、立派なコトバとして成立するんですね。そこで、(1)のような文に、あえて文句を言うなら、「悪文」という言われ方をするのでしょう、きっと。

ところで、興味深いのは、英語を母語とする話者が、(1)のような文を聞いて、どう感じるかというと、長い文だなぁ、とは言うけど、解釈の方はどうかというと、ちゃんとマジメにキッチリと最後まで聞いてさえいれば、さして無理なく、解釈できてしまう、ということなのです。実を言うと、これは、コトバの問題というよりも、「記憶力」の問題であって、(1)のような文が、何語であろうとも、コトバを使う能力とは異質な能力において、エネルギーを必要としますので、コトバからは独立した、ヒト共通の別個の問題なのです。次に行きましょう。

(7)The rat the cat the dog chased ate died.
(8)The rat、the cat、and the dog chased、ate、and died.

まず、(7)の文を見てください。(7)の文は、(1)と比べるとはるかに短いですね。しかし、解釈の方は大丈夫でしょうか。実は、(7)のような文を、英語のネイティヴに見せて、解釈させてみると、ほとんどの話者は、以下のように解釈してしまいます。

(9) そのネズミとネコとイヌは、追いかけ、食べ、死んだ。

確かに、一見したところ、(7)は、(9)の解釈であるかのように感じますが、しかし、(9)の解釈は本来、(8)の文に対する解釈であって、(7)に対する、正しい解釈ではありません。かなり、わかりづらいとは思いますが、実は、(7)の文は、(1)と同じく、関係節による文なのです。以下は、カギカッコによる、(7)の成り立ちと、その正しい解釈になります。

(10)The rat [ (which) the cat [ (which) the dog chased _ ] ate _ ] died.
   ([ [ そのイヌが追っていた ] ネコが食べた ] ネズミは死んだ。)

英語のネイティヴでも、(7)を読む際、結構、注意深く読んでも、なかなか(10)のような解釈に気付かないようです。もちろん、(7)は、(10)が示す通り、文法的な文であり、かつ、(1)よりも短い文であるにも関わらず、解釈としては、(7)の方が、(1)よりも、はるかに間違う確率が高いということなのです。ここで、(7)の解釈が、なかなかうまくいかない原因として、EC26で述べた、「知覚困難」があげられます。

どちらも関係節を使っているとは言え、(1)と(7)の決定的な違いが、(6)と(10)から明らかです。(1)に関しては、(2)~(6)の生成プロセスにあるように、「最後の単語」に、関係節を順に付加していくようなつくりになっています。これは、文が終わってから、次の文、また終わってから、次の文、というようになっています。つまり、解釈のユニットがそれぞれ、まとまっているため、切れ目の良さがあり、故に、文が長いために記憶力のエネルギーが多少必要とされる、という点を除けば、解釈ユニットとしてのまとまり自体は、読みやすさに貢献しています。

しかし、一方で、(7)に関してはどうでしょうか。まず、(8)と比べてみると、姿カタチが、とてもよく似ている、と言えます。目的語の関係代名詞‘which’の省略があるため、最初の出だしからして、あたかも、「名詞(the rat)+名詞(the cat)+名詞(the dog)」というカタチで、それが「ネズミとネコとイヌ」のように解釈することを、要求している感じがしてしまいます。ここから、(10)のような関係節の成り立ちが予測できない話者は、手っ取り早い、単純な解釈にしようとして、本来の(7)対する解釈の意識が、どうしても(8)と被ってしまうのです。

さらに、解釈ユニットという点からも、(10)は、主語‘the rat’「ネズミ」に対する、述語‘died’「死んだ」にたどり着くまでの障害要因が多く、関係節内の主語‘the cat’「ネコ」が、その述語‘ate’「~ を食べた」にたどり着くまでに、一度、‘(which) the dog chased’という関係節を、またがなければなりません。つまり、主語‘the rat’「ネズミ」に対する、述語‘died’「死んだ」に向かうまでに、ジッとガマンしている最中に、その中の関係節内にある、主語‘the cat’「ネコ」の述語‘ate’「~ を食べた」が現れるのを、さらに待つという、ガマンが追い討ちをかけ、トータルで関係節2回分の、「二重ガマン」を強いられる状態になりますので、解釈上の精神的ストレスがここから発生します。

以上の観察から、コトバの「知覚困難」は、文の長さとは関係なく起こる、ということがわかったと思います。そして、さらに重要なのは、こういったことは、そのコトバが、「文法的」であるか否かとは、全くもって無関係である、ということです。

「文法の問題」と「知覚の問題」は、全く、別個に独立していて、ヒトが、コトバを、文法という観点からしか使用しない生き物であれば、ことは単純なのですが、そうはいかず、たとえ文法的ではあっても、その文法の使い方によっては、解釈上の「知覚困難」が発生して、結果的に「容認度」が低下することがある、ということです。この「容認度」低下の原因を、あたかも、非文法的であるからだ、として安易に結論付けるようなことはせずに、コトバを使用する上での処理の仕方の問題である、と捉えることが、外国語を学ぶ上での上達の早道なのは、言うに及ばないと思います。

●関連: EG24EG26EC26

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英語コラム(26)

2006年01月26日 | コラム
コトバの、「正しい・間違い」についてです。あまり、一般的には、それほど議論されることがない観点がありますので、あえて、そこにスポットを当てて、取り上げてみたいと思います。日本語を例に取って、以下、見ましょう。

(1)入場料が半額だ。
(2)あの映画館が入場料が半額だ。

(1)と(2)の日本語は、特に問題なく、普通にOKにできると思います。ここでのポイントは、(1)では、「~ が」が1つ、(2)では、「~ が」が2つ使われている、という点です。この点を踏まえて、さらに以下の日本語を見てみましょう。

(3)あの映画館が水曜日が入場料が半額だ。
(4)あの映画館が水曜日が女性が入場料が半額だ。

(3)は、「~ が」が3つです。さすがに、「~ が」が3つでは、ちょっと、う~ん、と唸ってしまいますし、さらに、(4)では、「~ が」が4つです。こりゃダメだわ、となってしまう人が、かなりいると思います。そこで、ちょっと、(3)と(4)に、変更を加えてみたいと思います。

(5)あの映画館は水曜日の入場料が半額だ。
(6)あの映画館は水曜日は女性の入場料が半額だ。

(5)と(6)は、「~ が」を、部分的に、適当に他の助詞に変えてみましたが、(3)や(4)に比べると、かなりよくなっていると思います。ところで、(3)や(4)は、文法的には、どのような扱いを受けるんでしょうか。非文法的である、との判断を受けるんでしょうか。そこで、もし非文法的というなら、何を基準にして、非文法的とされるのか、ということを考えてみたいと思います。

もし、日本語の「名詞+助詞」は、同じ助詞を使った場合、複数ならんではいけない、と仮定するなら、OKとされる(2)も、非文法的でなければなりませんから、この仮定は、おそらく、ダメでしょう。では、同じ助詞を用いて、「名詞+助詞」が、3つ以上ならんだら、非文法的とするのはどうでしょうか。

(7)あの映画館は水曜日は入場料は半額だ。
(8)あの映画館は水曜日は女性は入場料は半額だ。

(7)では、「~ は」が、3つ使われていますし、(8)では、「~ は」が、4つ使われています。でも、(3)よりも(7)、(4)よりも(8)の方が、比較的、ましな感じはします。助詞によっては、同じものを連続して使っても、それほど悪くも感じないものがある、という事実は、助詞の数うんぬんという観点だけからは、語れないものがあります。今、「比較的」、と言いましたが、文法の世界では、このように、「比較的」、というよりも、ハッキリと、「〇・×」をつけなければならない、という印象があります。

でも、コトバって、そんなに、ハッキリと、「〇・×」で判断できるものなのでしょうか。今回、見た日本語の例は、そういった文法うんぬんの問題とは、ちょっと異質な問題である、という気がします。では、以下の会話を見てみましょう。

(9)A:「ねえ、一体、どこの映画館が、女性が、入場料が
     安いと思いますか?」
  B:「そうですね~、新宿の映画館が水曜日が、女性が
    入場料が安いと思いますよ。」

(9)の会話は、(3)、(4)の日本語と類似した文を使っていますが、かなり、違和感が低減されているように感じますね。というのは、文の発音に抑揚をつけたり、話題の流れから、相手の発話にそって似たような文を使ったり、ということをしていると、さほど、おかしく感じないんです。

ここで、何を言いたいのかと申しますと、(3)や(4)の日本語は、いきなり急に、脈絡なしに、ポンと与えられると、変に感じてしまうけど、適切な状況(文脈)で用いると、意外に悪く感じない、ということなんです。これが、「〇・×」式にコトバを扱うことに抵抗を感じる原因なんですよね。これは、どう扱かったらいいんでしょうか。

ここで結論を言うと、ヒトのコトバに対する感じ方は、「文法的」かどうかに反映される、ということも、もちろんあるんですが、それだけではなく、「知覚的」にどう感じられるか、ということにもある、ということなんです。ですので、今回の(3)と(4)のような例は、「非文法的」である、というよりも、むしろ、「知覚困難」である、とした方がよい例なのです。

(3)と(4)の場合、その意味を考えてみると、意味的には、何ら破綻してはいません。ちょっと、「~ が」が、しつこく連続するので、うっとうしい感じがするだけです。しかし、そのうっとうしさも、会話の中で、上手にコントロールしながら処理してやれば、(9)のように、そんなに違和感なく受け入れることができるのです。(もちろん知覚には個人差がありますので、(9)でもダメだという人もいますが。)

ここから、英語の場合でも、同じことが言えると思います。知覚上の、「容認度」というものが発生して、容認不可とされた場合、該当する英語が、本来、文法的であり、かつ、適切な文脈と適切なイントネーションで発話されれば、OKになることがあるにもかかわらず、「非文法的」と判断されてしまったりするケースがあるのです。この問題は、ことのほか、慎重になった方がよいと思います。

よく、こんな英語は使わない、というような評論をしている記事を、本やインターネットで見かけますが、その「〇・×」の判断の仕方に、筆者のコトバに対する姿勢(および、センス)が、よく反映されています。丁寧に調査した結果を、真摯に報告しているものもあれば、その一方で、一体、この「〇・×」の判断は、どういう調査をした結果なんだ、というような、ちょっと信用してもいいのか疑わしい根拠薄弱なものもあります。

今回の日本語に関する観察は、日本語の勉強をしている外国人に対して、(3)と(4)のような例を、特に何も考えずに、即座に、「非文法的」として伝えてしまう日本人がいる状況を、英語を学んでいる日本人と、英語のネイティヴという立場に逆転させて考えてみればよいと思います。

ネイティヴがそう言ったから、正しい、間違い、の問題は、どうのような調査がなされたのか、にかかっていると思います。英語のネイティヴに英語の可否を尋ねる場合、いきなり尋ねたい英語を、そのまま出すのではなく、類似する例文を列挙して、比較させてみたり、適切と思われる文脈においてみて、その上でどう感じるかを尋ねてみたりするのが、よりよい答えを得る方法の1つだと思います。

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英語コラム(25)

2006年01月26日 | コラム
自分の知り合いで英語の勉強している人たちには、発音記号が読めない人ってたくさんいます。そう言えば、自分も学校の授業で系統立てて習った記憶がないんですよ。ちょこちょこ人に質問して覚えていったような気がします。

最近はCDなどの音声教材って多いですもんね。電子辞書にもスイッチをピコって押せば発音が音で出てくるものがありますし。ま、趣味で英語やってるだけなら発音記号なんて、別に知ってなくたっていいんじゃないって思いもします。自分の旦那さんがネイティヴだとか、いつも職場にネイティヴいるとかいうならそれでいいですし。けど連中だって忙しいですもんね。いちいち何度も捕まえて尋ねられたりしたらイヤになるんじゃないかな、って思うんですが(←余計なお世話じゃイ!)。

例えば、CDや電子辞書からも知ることができない単語の発音で、どうしても使いたい単語がある時にはどうするんでしょうか。やっぱローマ字読みですか?というわけで、知り合いの1人に何で発音記号覚えないのって尋ねてみたところ、やっぱメンドくさいからって言うんです。

うぐぅ。ここはひとつ妥協して、カタカナ&平仮名を上手く使った発音の記し方でも必要かも知れませんね。っても英語の発音は平仮名やカタカナにした時点で、死んでしまうんじゃイ!と仰られる大御所もおられますしね。じゃこんなのはどうでしょう?平仮名&カタカナはスラッシュ(/)に挟まれているときだけ、英語の音として発音するというルールにするとか。いいでしょ?

/あー/は/a:/とか、/オゥ/は/ou/とか、要は何でもいいんですけど、文部科学省公認の対応表を作って学校で流布するとかすれば、少しは覚えやすくなるんじゃないかな。最初に、‘bridge’の最後の音は、/ぢ/と発音するので、/じ/じゃないよ、とかネイティヴの発音で聞かせながら教えておいて、カナ式発音記号と英語の音のイメージをしっかり結びつけて教えておけば、後は楽チンなんじゃないかな。っても、英語はビミョーに異なる「あ」のような音がたくさんあるからなぁ。そんときゃ、小ちゃく「ぁ」にするとか、「あ」を横に倒したり、逆さにしたり工夫するとかしてバラエティを持たせて頑張る。うむ。

ま、要するに、結局は、ちゃんと発音できりゃいいわけなんだし、そんな見栄張ってカッコ良い西洋文字使って、発音を記すなんてしなくてもいいじゃございませんか。みんなそれで逃げちゃったら元も子もないんだからさぁ。少しでも発音記号嫌いを減らす努力の一環として前向きに検討する価値はあると思いませんか?それで、「お、ジャップもなかなかやるじゃん、発音うまいじゃん。」って言われる国民が増えれば良いことじゃございませんか。

って今回はただのタワ言じゃないの。英語脳はどうなっとんキャー、こりゃ~!ま、たまにはいいじゃないっスか、こういうのも(笑)。

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英語コラム(24)

2006年01月26日 | コラム
英語って色んな文を覚えてそれがスラスラと使えるのがベストなんだけど、人間の記憶力ってやっぱり限界がありますもんね。何とかして上手くつないで会話できんもんかな~とつい思ってしまいます。

ある日、英会話学校に通っている知り合いが、夕飯の事を話題にして、「今夜食べられるだけの食料」って何て言ったらいいんだろうって訊いてきました。そんなに難しく考えなくても簡単で (ってホントか?)、‘enough foods to eat tonight’と言えば良いんだけど、言われて気付いても、その場で言えなきゃ会話にならないわけで、ここら辺りの発想の欠如が流暢なコミュニケーションの障害になっているのは確かなようです。

1つの方法として、会話用の暗唱例文を丸々暗記して覚えるよりも、もっと小さな単体の句を上手くつないで文を作る練習をした方がはるかに実践的だとは言えると思います。実は、中学校で習うような文法でも上手く使えば、かなりのコミュニケーションをこなす事が可能なんです。

「今夜食べられるだけの食料」は、‘as much food as we can eat tonight’と言っても良いし、場合によってはちょっと工夫して、‘I bought what we eat tonight. We will be full tonight’(今夜の食べ物買ってきた。これでお腹イッパイ。)でも十分OKだと思うし。

日本での英文法教育はよく批判にさらされるけど、使える部分だって随分とあるんですよ。ただ宣伝の仕方が上手くないんですね。というより全然しない。ま、学問なんで当然と言えば当然なんですが。この構文、試験に出るから覚えましょうね、とは教えるけど、この構文知ってたら、外人さんと話す時に、こ~んなにお得なんですよ~、役に立つんですよ~っと宣伝をしないんです。

ま、CMはなくとも、要は、伝えたい情報を最小限の手段や労力でどうやってクリアしたら良いのだろうと考えて練習する度に、大体習った事があるような構文にたどり着きます。日本では、英文法の教育に関してはかなりの事を教わるので、実際、潜在的に利用できそうな材料はあらかたそろっているんです。せっかく習ったんだから、使わない手はないと思うんだけどな~。

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英語コラム(23)

2006年01月26日 | コラム
EC22では、初心者にとって会話中に過去形をパッと使いきるのが難しいと話しました。けど逆に未来の事を言おうとする時に使う‘will’はどうなのって訊かれると、これが案外よく使ってる人が多いから面白いですよね。過去と未来は、ただ単に時間軸を反転させただけの表現なのに。これはまあ単純に‘will’の使い方は簡単だから、使いやすいからって事なんですけど、じゃ何で簡単なんだって話になるわけです。

結論から言うと、単語の変形を伴わないからです。‘drink’は過去の事に言及しようとすると、‘drank’に変形させなければならないんですけど、‘will’は動詞の原形の左側にくっ付けるだけでよく、これが過去形における単語の変形と比べると簡単に処理できちゃうという事なんですね。

1つの単語が担う仕事量が少ない程、言語処理においては使いやすいという事です。例えば、‘I will drink coffee.’では、‘will’で「未来」、‘drink’で「飲む」という風に、2つの事を言い表すのに、それぞれの単語が仕事を担っているので表現法として楽だという事になります。逆に‘drank’だと「過去」と「飲む」が1つの単語の中に集約されてしまい1つの単語が2つの仕事を担うので、結果的に扱いにくいという事になります。

ここから発展的に、例えば「~ できる」の助動詞‘can’の過去形‘could’の会話中の使用について考えてみると、‘I can drink coffee.’はよく使えているのに比べて、‘I could drink coffee.’は、やはりなかなか使えていないという事実がよくわかると思います。これも、「過去」と「~ できる」の2つの意味が‘could‘1つに集約されるからです。

「飲んだ」や「~ できた」は文字としてみると覚えるのは簡単ですが、意味内容が意外に「濃い (=複合的)」ので、会話中の処理においては、ここらあたりに難しさが潜んでいるわけで、この事に気付けるかどうかが上達のカギを握っています。

●関連: EC22

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英語コラム(22)

2006年01月26日 | コラム
文法的な理解は簡単でも実際会話で使ってみると、案外難しい表現があります。初心者にとって過去形はその筆頭に上がる表現かも知れませんね。例えば、‘give’や‘drink’の過去形は‘gave’や‘drank’なんて普通は知ってますもんね。けど会話中に使ってない人をよく見かけます。‘I drink much milk yesterday.(×)’なんてやってたりして、なかなか‘I drank much milk yesterday.(〇)’が出てきません。

日本語で言う時は過去の事を言おうとするときに文が過去形になっていないと、かなりの違和感を覚えるはずです。「昨日は野球をするよ。(×)」とか「2年前に結婚するんだ。(×)」とか、かなり変です。同様に英語の場合もネイティヴの方々は違和感を感じるようです。

過去形がなかなか出てこない原因としては、やはり会話のリズム(スピード)が当人の英語処理能力からするとまだまだ速いからで、単語の並べ方に気を使ったり、適切な単語をひねり出す事でアタマがいっぱいだからです。そんな人にとっては会話中に過去形まで気を使う余裕なんて到底ありません。つまり英語は短時間に処理しなければならない事が想像以上に多いのです。

改善策は単純に治すべき箇所を1つずつ治していくよりありません。どんな事でもそうなんですが、これは意識の持ち方の問題で、普段から治そうと思って意識的に話していれば、ほぼ完璧に治ります。人間は1つの事ができるようになると、他の事を考えていても無意識のうちにその事をしっかり処理できるようになるものなのです。どんなにボケっとしていても、いつも通勤や通学で歩き慣れた道を間違うなんて事はないのと同じです。

とにかく一生懸命話そうとしている時には、なかなかアタマが回らない事が多いと思いますが、意識した分だけ確実に治りますので、そこは安心して、とにかく練習を「継続する」のが肝要ですね。

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英語コラム(21)

2006年01月26日 | コラム
「英語で考えよ。」、というコトバを、何度か聞いたことがあります。っても難しいんですよ、これが。

大半の人は、コトバを、他人とのコミュニケーション・ツールだと思っているわけで、それは、間違いじゃないと思うんですけど、それが唯一の在り方でもないんですね。自分の中で、漠然と思っていること、考えていることを、ハッキリと明示的に理解するために、心の中で整理整頓をつける、という意味でも、コトバは有効な手段だと思うんですよ。

つまり、一般的には、物事を理解する過程で、心の中で、一度、コトバにしてみて、自分内コミュニケーションを取って、うん、わかった、と理解を重ねていくようなことを、やっている、というわけですね。ですので、この場合、物事のわかり方自体が、コトバそのものに依存しているというわけです。

また、自分たちの母語でも、特に、抽象的なことを理解するために、母語内の、違った語彙を組み合わせるなどして、その概念を定義して、理解する、ということは、よくやってることですからね。

そこで、英語で考える、というのは、もちろん、母語という基盤を、一度、破壊してから、新しいわかり方の基盤を、心の中に構築する、ということなんですが、これは、容易なことではありません。英語で考えることの奨め、の背景にある、スピリットは、「日本語 → 英語」式の、あるコトバから、別のコトバを理解する、という学習方法は、邪道でしかない、という結論が、まず、始めにあるからなんですね。

でも、自分が未知の事柄に対して、理解を得るために使用しているツールが、絶対的に、母語であるわけだから、それを使わなければ、新しい基盤を構築する手段も奪われてしまう、ということになり、結局、袋小路にハマることになります。

元も子もない発想ですが、本来は、テレパシーで、コミュニケーションを取るのが、最も正確な (バイアス‘bias’のない) 意思伝達なのです。日本語を通して観た英語には、何らかのバイアスがかかっているだろうし、逆に、英語を通して観た日本語にも、当然、何らかのバイアスがかかっているでしょうから。

つまり、外国語を学ぶということは、もともと、常に、無意識のうちに、偏見をもって学んでいる可能性が、大きいわけだから、そのことには、細心の注意を払い、無理やり、日本語の側に固有の発想を、何とかして、いじくりまわして、他のコトバに転換する方法論を試みるより、他からの視点 (他の表現の在り方) を、発見していくつもりで、学ぶ姿勢の方が、肝要ということですかね。いくら理想の学習方法がある、なんて言われても、何事も、やはり、「程度」、ってものが、ありますからね。

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英語コラム(20)

2006年01月26日 | コラム
英語の学び方には、大きく分けると、2通りあるようです。①・とにかく、無差別的に、たくさんの英語に触れることで、次第に慣れていく方法。そして、②・文法学習を基礎に置く、要するに、多くの日本人が、学校で経験する様なやり方によって、学習する方法、というものです。

この、2つの立場からの論争も、メディアを通して、よく見かけます。でも、どちらの学習法にしても、一長一短があって、今後の見通しとしては、解決の糸口など、おそらく、見えてはこないでしょう。まあ、簡単に言ってしまえば、これは、どちらか一方の方法に、こだわっているのが悪いんだと思うんですけどね。

両方やればいいのに、と思ってるんですけど、でも、こんなの、言うだけなら、簡単なことで、実際に、実行するのは、難しいんじゃないでしょうか。と言うのも、いろんなヒトを見てる限り、個人レベルで、嗜好が、結構、キレイに分かれる傾向があるからです。

教師タイプの多くには、まず、②を、好むヒトが多いみたいです。一方で、漠然と、英語に興味を示し、何か別のカタチで、英語力を社会に役立てたい、と思うようなヒトは、①を、好む傾向があるようです。①と②の、どちらも半々くらいやらねば、と考えて、それを、しっかり実行に移せるヒトは、本当に、少ないと思います。

医学や法学のように、人権に関わる問題が、ほとんどない語学の世界では、簡単に、目的は手段を正当化してしまいます。つまり、目標設定によって、やり方が、どうとでも、変わるんですね。そこで、マークシート式の文法問題を解くためのやり方に向いているのは、①か、②か、そして、外国人と仲のよいお付き合いをするためには、①か、②か、と迷って、どちらかに決めてしまうのは、もったいない話だと思うんですけどね。

文法問題をやっていても、それを会話に利用してみたり、逆に聞き取った発話から、構文の中核となるような文法を、検証する、というのも、互いの能力を、伸張させる上では、相乗効果として、想像以上に、大きいものがあるんですけどね。おそらく、日本には、実体験として、そういうことが、分かる先生が少ないから、なかなか、教えられないんだ、とは思いますが。

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英語コラム(19)

2006年01月26日 | コラム
結構、大事なことなんですが、学校で習う英語としては、多分、なかなか、教えてもらえないようなことがあります。英語の解説本なんかでも、見かけることは皆無と言ってもいいようなことです。

1つの文中に、‘who’や、‘what’などの、いわゆる「疑問詞」が2つある場合です。例えば、日本語では、「そこで、誰が、何をやってたんだ?」、なんてよく言いますけど、これを、英語で言うには、どうしたらいいんだろうか?などと悩んだことのあるヒトはいるんじゃないんでしょうか。

答えから先に言うと、‘Who was doing what there ?’と表現するそうです。これは、一見、簡単そうなんだけど、逆の場合、つまり、‘What was who doing there ?’は不可能なんだそうです。

こういった疑問文を考えた場合、日本語の、「誰」や「何」と言った疑問詞は、文の先頭に移動しなければならない義務はありませんので、別に迷うことはないんですけど、しかし一方、英語では、疑問詞が文の先頭に移動する、ということが、ルールとして決まっています。

そこで、疑問詞が、2つある場合はどうするのって考えちゃうんですね。マジメに考えれば、2つとも、文の先頭に移動させるんだろうか、と想像してしまいます。でも、‘Who what was doing there ?’、などとやっても、やっぱりおかしいですもんね。だから、1つだけ移動させて、残りはもとの位置のままにしておきます。

しかし、ここで注意しなければならないのは、疑問詞の移動には、主に、「主語」に移動の優先権が存在するらしく、「目的語」は主語よりも立場が弱いんだそうです。ですので、「そこで、誰が、何をやってたんだ?」は、‘Who was doing what there ?’、とするわけですね。

‘who’や‘what’そのもの、つまり、「ヒト」か「モノ」といったこととは、関係なく、あくまでも、「主語」と「目的語」の関係で決まることなので、例えば、「何が、誰に落ちてきたんだ?」は、‘What fell on who ?’と表現します。

でも、上の例じゃ、主語が移動しているようには見えないんですけど、というヒトもいるかも知れませんので、もっとハッキリした例を出すと、例えば、‘Who do you think _ was doing what ? ’や、‘What do you think _ fell on who ? ’になります。(下線部が、文の先頭に移動した疑問詞の、もとの位置になります。)

ですので、‘What do you think who was doing _ ?’や、‘Who do you think what fell on _ ? ’は、もちろんアウトです。知っておいても損はないルールだと思いますよ。

ところで、学校で教える英文法って、どのくらい変わってきているんでしょうか。今回、例に出した、同一文の中で2つの疑問詞がある場合どうするかなんて、教わった記憶がないので、教科書には載っていそうもないんですけど、こういう表現は、日常的によくありがちなものだと思います。

EC04や、EC05で、とても使う機会なんてなさそうな構文のお話をしたんですが、逆に、今回のようなことは、何で教えないんだろうと思っているんですけど、そんなこと考えているのは自分だけなんでしょうか。「教養英文法」と、「実用英文法」の境目って、一体、どこら辺にあるんでしょうね。

● 関連 : EC04EC05

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英語コラム(18)

2006年01月26日 | コラム
今時のコトバを、英語で何と表現するんだろう、などと考えたことは誰でもあると思います。「て、ゆうか~、・・・」は、「と言うよりも、むしろ・・・」、だから、‘Rather、・・・.’くらいなんでしょうか?「テンパる」 (そんな若いうちから、麻雀やってるのか?)は、「躊躇する」だろうから、‘hesitate’ってな感じでしょうかね?

「コクる」は、「告白する」だから、‘confess’かな?でも、もうちょっとストレートに表現しても良さそうなので、“say ‘I love you’”ということで。「~ みたいな」は、‘something like ~’あたりなんですかね?でも、こんなの英語にしてもしょうがないんですけど、やっぱり、ごくたまに、つらつらと考えてしまうことがあります。

日本語を直接的に対応するような表現を探し出して英語にしようとすることは、学習過程において、心理的にも自然なバイアス (‘bias’「偏見」) なわけで、誰でも経験することだと思います。

外国人相手に夏の風物を話題にしているとき、知り合いの人が、とっさに「花火」を、‘flower fire’(本当は、‘firework(s)’) と言ってしまったことがあって、なるほど、そう言われてみればそういう発想もありますかいな、とは思ったんですけど、他の話題では、「貴族」を‘purple people’(本当は、‘aristocrat’) と表現した人もいました。

さすがにこのときばかりは、何でそんな表現になるんだ、とサッパリわからず、「????」、だったんですけど、紫色には何か高貴なイメージが漂うのか、あとでそれを辞書で調べてみたら、確かに何となく似たような意味もありました。

新造語というのは、ベースになっている表現を理解していることが前提になるから、そういった意味では、今時のコトバというものは、決して基となる表現の標準的な意味が理解されないままで勝手気ままに生み出されている、というわけではないんですね。

話している当人たちからすれば、‘flower fire’や、‘purple people’だって、日本語をベースにすればこそ、生み出された表現なわけで、ただそれが外国語となると、他の文化圏における土着の発想がベースとなることなど、もちろん考慮の対象にされないというだけのことです。

こんなことは、別に気付けばどうということはありません。こういう経験を通して、踏ん張って、土着民の発想を捨てていくというプロセスが、自然な英語を身に付けていく上で、次の段階に進むという1つの指針になるんでしょうね。

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英語コラム(17)

2006年01月26日 | コラム
あまりよくわからないことなのですが、記憶のメカニズムってどうなってるんでしょうね?

いくら集中的に覚えようと意識的に勉強していても、さっぱりアタマの中に入ってこないものもあれば、意識的に覚えようとしたつもりはなかったのに、何故か、ス~っとアタマに浮かんでくるものもあります。

恐らくは何度もどこかで耳にしているんでしょうけど、経験上、時間の感覚を空けてリズミカルに覚えたものの方が記憶しやすいようです。

テレビのCMも心理的な効果を計算して製作されているから、一見、しょうもないダジャレを使っているCM等でも、記憶という点からは刷り込み効果は大きく、毎日のように流れていれば、無意識のうちに脳内に浸透していきます。

語彙やフレーズも、自然な状況で発話されれば鮮明に記憶しやすく、だから目と耳が同時にはたらいている時の方が効率良く吸収できるんでしょうね。

でも、同じ回数を聞くのなら感覚を空けた方が良く、例えば、合計で10回聞くのなら、1日に10回聞くよりも、1日1回ずつ10日間かけて聞いた方が良いと思います。それは、ヒトの脳は休み休み記憶という作業が行われているからということなんでしょうね。

短期間で覚えた事はなかなかアタマに残らないんですけど、長期間にわたって記憶した事はそう簡単には忘れませんから。

短期間で英語をマスターできる教材というのが、ネットや通販で売られているみたいですけど、本当なら夢の教材ですよね。どなたか効果テキメンだったという人がいたら教えてくれませんか?

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英語コラム(16)

2006年01月26日 | コラム
文法の解説って、同じことを説明するのでも、言い方がいろいろあります。よく見かける初心者向けの説明に出てくる例としては、以下のようなものがあります。

(1)Who kicked Tom? (誰がトムを蹴っとばしたの?)
(2)Who do you think kicked Tom ? (誰がトムを蹴っとばしたと思う?)

(1)に対して、「~ だと思う?」のような表現を加えたい場合は、(2)のようになりますけど、(1)と(2)を比較すると、ちょうど‘who’と、‘kicked Tom?’の部分に切れ目をつくって、そこに‘do you think’を割り込ませたような感じになっていますね。ここから、(1)を(2)にするための説明方法の1つとして、以下のようなものがあります。

(3)Who (do you think) kicked Tom? (訳同(2))

(3)は、(2)の‘do you think’を、カッコで括っただけなんですけど、このカッコ内の表現‘do you think’が、(1)に、いわゆる「挿入」されたもの、と言って説明するとわかりやすいと思います。そして、こういった説明は、本当によく見かけるものです。

ただ、ここまでの説明で終わってしまうと、あたかも「挿入」が全てである、というような誤解が氾濫する原因となってしまうので、ここら辺は、もっと慎重に考えて説明して欲しいところです。

(4)Who did Mary kick? (〇) (メアリーは、誰を蹴っとばしたの?)
(5)Who (do you think) did Mary kick ? (×) (メアリーは、誰を蹴っとばしたと思う?)

今度は、(4)に、‘do you think’を「挿入」して、(5)をつくってみたんですけど、何とアウトになってしまいました。そこで、どうしてアウト話になるのかという以前に、もちろん、ただ「挿入」とだけ説明していることに誤りがあるだけのことですから、ここで、考えを改めないと仕方ありません。

(6)Who (do you think) Mary kicked? (〇) (訳同(5))

そこで、(6)のようにすると、OKになりますが、(5)の‘did Mary kick’が、(6)では‘Mary kicked’になっているわけですね。そこで、この場合、必要な知識としては、まず、‘did’と‘kick’が合体すると、過去形‘kicked’になる、ということです。そして、この逆を言えば、過去形‘kicked’は、‘did’と‘kick’に、分離可能ということなんですね。

そこで、「主語」以外の要素が、疑問詞になっているような‘do you think’の「挿入」は、‘did’と‘kick’が、合体したままである過去形、‘kicked’にしておかないといけない、ということなんです。ですので、よくある、「挿入」でOK式の説明は、(4)のように、‘kicked’の目的語が、疑問詞‘who’になる場合、つまり、「主語」以外の要素が疑問詞になる文に対しては全く無力で、そのことを補足説明しておかないと、わかりやすい説明どころか誤っている説明になりかねないわけです。

とりあえず、疑問詞 (who、what、when、where、how、など) を用いた疑問文では、‘do you think’を挿入したら、後続する表現は肯定文の姿のままにしておく、くらいの説明はあった方がよいということになります。

あまり難解な文法用語などを使ってゴチャゴチャと説明するのはよくないものですが、逆に、その場限りしか通用しないような過度の簡素化による説明も同罪ということになります。押さえておくべきポイントからは逃げないようにしておかないと、巨視的に見たとき、結局、英語が不得意な人が増える結果になりますから。

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