キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

雑感

2011-06-20 02:43:31 | 人生の慰め
人の死に直面する時,残された人は,

亡くしたその人の喪失感に陥ったり,周囲の人々の悲しみに同情したりして,

悲しむものだ。

だが今回は,正直,うらやましいとも思った。

なぜなら,これからの日本を見なくていいのだ。

死にゆく日本,下り坂を物凄い勢いで落ちる日本,

そういう日本を見なくていいのだ。


開国期の日本人は,昨日よりは今日,今日よりは明日と,

生きる希望に満ちて歩んだという。

しかしこれからの日本人は,昨日よりは今日,今日よりは明日と,

死にゆく現実に直面しつつ,「国家の滅亡」という最後の瞬間に向かうことになる。

「妊娠している女と乳飲み子を持つ女が嘆く」という旧約聖書の言葉が,

古代イスラエルと同じく,文字通り日本に成就してしまうのだ。

今死ねるのが,ある意味で幸いだ。


さて,私は再び,「主の言葉」の研究にむかおう。

私にはそれ以外為すべきことがないし,それしか欲することができない。

新約聖書の研究も終わりに近づきつつあるが,

今の私には,国家の滅亡に生きたエレミヤ・エゼキエルが心に強く押し迫り,

旧約研究の押さえ難い欲求が,沸々と湧き出ている。

人は,イエスに救いがあるからとか,イエスに社会改革の力があるだとか,

もしくは,あらゆる矛盾の解決はイエスという名にあるからとか,

色々な理由をつけて,聖書を読むものだ。

だが,私は,イエスに救いがあるかどうかは知らない。

私はただ,イエスに縋ることしか生きることも死ぬこともできないから,

目の前の聖書を読むのである。



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