わたしは、あなたがたの力の誇りであり、
あなたがたが愛し、心に慕っているわたしの聖所を、汚す。
(エゼキエル書24-21)
私の最も恐れたものが、私を襲い、
私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。
私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもない。
心はかき乱されている。
(ヨブ記3-25・26)
人には、誰にでも悩みがある。
口に出る悩みがある、口に出ない悩みがある。
口に出る悩みは、口に出る余裕があるだけ、軽い。
しかし言葉にならぬ悩みは、その余裕がないだけ、
彼の心を深く深く蝕む。
私にも、悩みがある。
25歳で回心を経験(罪の解決)して以来、6年間、
ずっと悩み続けてきた悩みがある。
口に出せない、出したら自分の聖所を壊されるような、
自分の存在に関わる悩みだ。
「キリスト者の生とは何であるか?」
それが悩みだ。
イエス・キリストを知ることができた喜び、
彼の贖いを信ずることができた恩恵に、
今でも神に感謝する。
しかし、なぜだろう?
なぜキリスト者は、彼を信じることによって、
より不幸になるのだろうか?
18歳の時から13年間一緒にいる妻は、
こう言ったことがある。
「25歳より前は、多くの友人もいたし、器用に世の中を立ち回り、
生き生きとしていて、エネルギーに満ち溢れていた。
しかし25歳より後は、友人もいなくなり、馬鹿らしいほど不器用で、
無用な軋轢ばかり起こしている」と。
本当にそうだ。
キリストを信じて以来、私はつまらない人間になった。
今まで何をやっても面白く、友人も部下も周りにいて、
人生とは楽しみだと思っていた。
しかし今では、何をやってもつまらない。
というよりも、キリスト者とは何であるかわからない。
私は宗教にも教会にも所属していないし、したこともない。
宗教を蔑視するという意味で、私は筋金入りの無宗教人間である。
そんな私がキリストによって回心したから、
キリストは宗教ではないと信じている。
一度罪の煩悶に襲われてより、それを解決するために、
多くのものを試した。
仏典も哲学も儒学もコーランも、豪遊も仕事狂も成功哲学も、
それを解決することができなかった。
罪の苦しみに自殺さえ考えたその瞬間、
私に、キリストの贖いの死と救いが、わかったのである。
であるから私は、キリストを信じるということは、
決して宗教でも何でもないと考えている。
無宗教主義とは、そういう意味で、自然に出てきた私の信仰形態であった。
しかしそれは同時に、特定の場所や時間に集まったり祈ったりしない以上、
生活そのものが礼拝となることだった。
万人聖職主義とでもいうのかわからないが、
私の今いる職業を、神からの聖召だと信じ、
キリストの精神をもって、それを誠実に果たすことが、
私にとって礼拝であった。
しかし、なぜだろう?
キリストを信じて仕事をすればするほど、
上手くいかないのである。
むしろ、彼を信じていなかった時の方が、
何でも上手くいったし、誰とでも上手くやれた。
「苦難は信仰の証である」という言葉を信じても、
どうしても納得できないのである。
これが教会の悩みであれば、教会をやめればよい。
これが宗教団体への悩みであれば、好きな団体へ行けばよい。
これが単純な仕事の悩みであれば、仕事が終わって自己逃避すればよい。
これが夫婦の悩みであれば、外でうさを晴らせばよい。
しかし私にとって、信仰とは生活そのものであるから、
どこにも逃げ場がないのである。
学習塾の講師として、一通りの授業をすることはできる。
しかしキリストの精神をもって指導すると欲した時、
仕事をすればするほど、満たされない責任の念に苛まれるのである。
仕事から帰っても、私が夜一人ですることは、
聖書を研究したり、いろいろな宗教書や歴史書を読んで、
キリストを発見することである。
しかし読めば読むほど、わからなくなる。
「キリスト者はキリストの証人である」という聖句に従い、
ブログを公開して日々率直に記事を書いても、
書いた記事が、より鋭い牙をもって私に向かい、
私の良心を切り刻むのである・・・。
現実がつらい時、一番幸福な瞬間は、眠る時だ。
しかし今は、眠るのさえつらい。
イエスを信じている自分と、仕事をしている自分と、
そういった幾多の自分が、分裂するような感覚だ。
ある時はこう思うのである。
「俺が信じているのは、イエス・キリスト本人ではなく、
キリストという自分の幻影である。俺はより生き易くするために、
自分勝手にキリストを作り、それを拝んで、
そのことによって存在意義を確認し、
なおまた悩みを抱いているのである。
であるから、悩みの原因であるキリストを捨てろ」と。
ある時はこう思うのである。
「私が悩むのは、私にこだわるからである。
キリストに頼れ、彼の愛の中に身を投げよ。
己の矛盾も、世の中の不条理も、何もかも、
キリストに投げ入れよ」と。
イエス・キリストに、私の悩みの解決があることはわかっている。
しかし今の私には、納得ができない。
聖書を読んでも、祈っても、ルターもアウグスチヌスもカルヴァンも内村鑑三も、
誰それの聖書解釈も、周囲の慰めも、何を聞いてもわからない。
まず第一に、正義と愛の矛盾がわからない。
キリスト者はキリストを信じ、彼に愛され愛する者である。
私はキリストに愛された分、人を愛したいし、愛さねばならない。
しかし、正義はどうするか?
世の堕落や社会の不正義に対し、愛を連呼して無感覚となることはできない。
愛することと、責めること、仕事においても、何においても、
この二つが衝突するのである。
愛があればよいなどといって、
己のへその緒ばかり見るキリスト教徒にはなりたくない。
第二に、この世の悪である。
キリストのみが善ならば、彼を受け入れることが善である。
ならば、キリストを受け入れたならば、社会は善となると思う。
しかし人間というものは、曲がるものである。
キリストを受け入れては、はたまた宗教化して堕落し、
同じことを繰り返すのではないか?
ならばこの世の悪は、いかにして解決されるのか?
(頭ではキリスト再臨だと理解している)
第三に、日本の将来である。
日本の堕落は、止められないかもしれない。
しかし止められなかったとしても、日本の将来のあるべき姿とは、
一体なんぞや?
この国の明確なビジョンとは何か?
キリストの国となるために、日本に何が要請されているのか?
それがまだわからない。
これらはみな、解決する糸口は、キリスト御自身にあると想像する。
そして無宗教主義とその結論たる万人聖職主義という信仰形態、
今はまだ苦しみでわからないが、その奥にある何かにあるのだと思う。
しかしそれは、私自身に解決ができていない以上、
やはりわからない。
無宗教主義というものは、実は不可能なものなのかもしれない。
しかし聖書は、不可能なことを教えないと思う。
もう少し苦しんで、私の信仰が脱皮し、
新しき聖所が造られることを願っている。
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あなたがたが愛し、心に慕っているわたしの聖所を、汚す。
(エゼキエル書24-21)
私の最も恐れたものが、私を襲い、
私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。
私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもない。
心はかき乱されている。
(ヨブ記3-25・26)
人には、誰にでも悩みがある。
口に出る悩みがある、口に出ない悩みがある。
口に出る悩みは、口に出る余裕があるだけ、軽い。
しかし言葉にならぬ悩みは、その余裕がないだけ、
彼の心を深く深く蝕む。
私にも、悩みがある。
25歳で回心を経験(罪の解決)して以来、6年間、
ずっと悩み続けてきた悩みがある。
口に出せない、出したら自分の聖所を壊されるような、
自分の存在に関わる悩みだ。
「キリスト者の生とは何であるか?」
それが悩みだ。
イエス・キリストを知ることができた喜び、
彼の贖いを信ずることができた恩恵に、
今でも神に感謝する。
しかし、なぜだろう?
なぜキリスト者は、彼を信じることによって、
より不幸になるのだろうか?
18歳の時から13年間一緒にいる妻は、
こう言ったことがある。
「25歳より前は、多くの友人もいたし、器用に世の中を立ち回り、
生き生きとしていて、エネルギーに満ち溢れていた。
しかし25歳より後は、友人もいなくなり、馬鹿らしいほど不器用で、
無用な軋轢ばかり起こしている」と。
本当にそうだ。
キリストを信じて以来、私はつまらない人間になった。
今まで何をやっても面白く、友人も部下も周りにいて、
人生とは楽しみだと思っていた。
しかし今では、何をやってもつまらない。
というよりも、キリスト者とは何であるかわからない。
私は宗教にも教会にも所属していないし、したこともない。
宗教を蔑視するという意味で、私は筋金入りの無宗教人間である。
そんな私がキリストによって回心したから、
キリストは宗教ではないと信じている。
一度罪の煩悶に襲われてより、それを解決するために、
多くのものを試した。
仏典も哲学も儒学もコーランも、豪遊も仕事狂も成功哲学も、
それを解決することができなかった。
罪の苦しみに自殺さえ考えたその瞬間、
私に、キリストの贖いの死と救いが、わかったのである。
であるから私は、キリストを信じるということは、
決して宗教でも何でもないと考えている。
無宗教主義とは、そういう意味で、自然に出てきた私の信仰形態であった。
しかしそれは同時に、特定の場所や時間に集まったり祈ったりしない以上、
生活そのものが礼拝となることだった。
万人聖職主義とでもいうのかわからないが、
私の今いる職業を、神からの聖召だと信じ、
キリストの精神をもって、それを誠実に果たすことが、
私にとって礼拝であった。
しかし、なぜだろう?
キリストを信じて仕事をすればするほど、
上手くいかないのである。
むしろ、彼を信じていなかった時の方が、
何でも上手くいったし、誰とでも上手くやれた。
「苦難は信仰の証である」という言葉を信じても、
どうしても納得できないのである。
これが教会の悩みであれば、教会をやめればよい。
これが宗教団体への悩みであれば、好きな団体へ行けばよい。
これが単純な仕事の悩みであれば、仕事が終わって自己逃避すればよい。
これが夫婦の悩みであれば、外でうさを晴らせばよい。
しかし私にとって、信仰とは生活そのものであるから、
どこにも逃げ場がないのである。
学習塾の講師として、一通りの授業をすることはできる。
しかしキリストの精神をもって指導すると欲した時、
仕事をすればするほど、満たされない責任の念に苛まれるのである。
仕事から帰っても、私が夜一人ですることは、
聖書を研究したり、いろいろな宗教書や歴史書を読んで、
キリストを発見することである。
しかし読めば読むほど、わからなくなる。
「キリスト者はキリストの証人である」という聖句に従い、
ブログを公開して日々率直に記事を書いても、
書いた記事が、より鋭い牙をもって私に向かい、
私の良心を切り刻むのである・・・。
現実がつらい時、一番幸福な瞬間は、眠る時だ。
しかし今は、眠るのさえつらい。
イエスを信じている自分と、仕事をしている自分と、
そういった幾多の自分が、分裂するような感覚だ。
ある時はこう思うのである。
「俺が信じているのは、イエス・キリスト本人ではなく、
キリストという自分の幻影である。俺はより生き易くするために、
自分勝手にキリストを作り、それを拝んで、
そのことによって存在意義を確認し、
なおまた悩みを抱いているのである。
であるから、悩みの原因であるキリストを捨てろ」と。
ある時はこう思うのである。
「私が悩むのは、私にこだわるからである。
キリストに頼れ、彼の愛の中に身を投げよ。
己の矛盾も、世の中の不条理も、何もかも、
キリストに投げ入れよ」と。
イエス・キリストに、私の悩みの解決があることはわかっている。
しかし今の私には、納得ができない。
聖書を読んでも、祈っても、ルターもアウグスチヌスもカルヴァンも内村鑑三も、
誰それの聖書解釈も、周囲の慰めも、何を聞いてもわからない。
まず第一に、正義と愛の矛盾がわからない。
キリスト者はキリストを信じ、彼に愛され愛する者である。
私はキリストに愛された分、人を愛したいし、愛さねばならない。
しかし、正義はどうするか?
世の堕落や社会の不正義に対し、愛を連呼して無感覚となることはできない。
愛することと、責めること、仕事においても、何においても、
この二つが衝突するのである。
愛があればよいなどといって、
己のへその緒ばかり見るキリスト教徒にはなりたくない。
第二に、この世の悪である。
キリストのみが善ならば、彼を受け入れることが善である。
ならば、キリストを受け入れたならば、社会は善となると思う。
しかし人間というものは、曲がるものである。
キリストを受け入れては、はたまた宗教化して堕落し、
同じことを繰り返すのではないか?
ならばこの世の悪は、いかにして解決されるのか?
(頭ではキリスト再臨だと理解している)
第三に、日本の将来である。
日本の堕落は、止められないかもしれない。
しかし止められなかったとしても、日本の将来のあるべき姿とは、
一体なんぞや?
この国の明確なビジョンとは何か?
キリストの国となるために、日本に何が要請されているのか?
それがまだわからない。
これらはみな、解決する糸口は、キリスト御自身にあると想像する。
そして無宗教主義とその結論たる万人聖職主義という信仰形態、
今はまだ苦しみでわからないが、その奥にある何かにあるのだと思う。
しかしそれは、私自身に解決ができていない以上、
やはりわからない。
無宗教主義というものは、実は不可能なものなのかもしれない。
しかし聖書は、不可能なことを教えないと思う。
もう少し苦しんで、私の信仰が脱皮し、
新しき聖所が造られることを願っている。
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全体的に頷くところ、鋭いところが多く、頷きながら読ませていただきました。分けても、上のうめき、これは確かにその通りだと痛感します。
脱皮できますよ。
ご返答は、お気遣いなく。
今日は主日ですね。
どこか教会へ行って御言葉を聞かなくては
と思いつつ。大学のレポートやら
なんやらでそれもかないそうにない。
私も昔、ひどく悩んだことがある。
全部の宗教を研究し尽くしたワケではない
ですが、神田のニコライ堂へ通い、正教の
神父さんから教えを乞うたこともあるし、
代々木上原のモスクへ行ったこともあります。もちろん、イスラムの祈りをやったこともあります。
お坊様と交流があったことも。
でも、やはりキリスト教が私に合っている。
キリスト教に私の命があるんだと思っています。どんな宗教の開祖でもイエス様のように
ご自分を犠牲にされてまで私たちに愛を
示してくださる方は他にないからです。
神は愛なり。神さまの愛に応えて
隣人を愛すべきだと解っているなら、
それを実行すればいいのです。
人を愛すると言うのは、もちろん、
自分に対して罪を犯した人を快く
許してあげることも愛。
確かに、世の中には不条理なこと、
どう判断したらいいのか解らないことも
たくさんあるけれど、それは神さまにおまかせするのです。それが信仰だと思います。
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです(ヘブル・11:1)。私も共に、悩み、苦しみたいと
思います。良い“脱皮”ができると
私も思っています。
長くなり、すみませんでした。
皆様、教会へ行っても行かなくても。
神さまの恵み多き主日でありますように。
このブログでは、私の懐疑をいちいち記録し、自分でも確認しながら、信仰を深めていきたいと考えております。よろしくお願いします。