キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

選ばれた頑なな民-列王記Ⅱ11~17-

2008-11-29 02:09:12 | 聖書読解
主はそのすべての預言者、すべての先見者を通して、
イスラエルにもユダにもこう警告されていた。
「あなたたちは悪の道を離れて立ち帰らなければならない。
わたしがあなたたちの先祖に授け、またわたしの僕である預言者を通して
あなたたちに伝えてきたすべての律法に従って、
わたしの戒めと掟を守らなければならない」
しかし彼らは聞き従うことなく、自分たちの神、
主を信じようとしなかった先祖たちと同じように、頑なであった。
(列王記Ⅱ17-13・14)



イスラエルは選ばれた民だという。実にそうだ。

六千年の文明史において、かくまで多くの偉人を輩出した国民はない。

多くの哲学者や政治家を産み出した古代ギリシャもすごいが、

イスラエル・ユダはその比ではない。

猫の額ほどの国土に、ソクラテス以上に義に峻烈な人士が、

次から次へと登場し、神の言葉を伝えていった。

聖書を知らなくても、人物の多寡をみれば誰だってその凄さがわかるはずだ。

そういう意味において、イスラエル人は神に選ばれた民である。


ならば、この選ばれた民の倫理観は高尚だったかというと、

決してそうではなかった。

イエスの時代、イザヤの時代、モーゼの時代、

いやもっと遡って父祖の時代においても、

イスラエル人は頑なな民だった。

彼らが選ばれた民として凄いのは、彼らが偉いのではなく、

選んだ神が凄かったのであって、決してその国民ではなかった。

イスラエル史を読んで感じるのは、イスラエル人の救われ難さの発見である。

そして、かくまで頑ななイスラエル人に対して、

救いの手を差し伸べようとする神の恩恵の発見である。


イスラエル人だけではない、キリスト者もそうである。

日々の生活において発見するのは、我々の救われ難さの発見である。

自分の内にあるのは、どんなに高尚ぶった考えを抱こうとも、

所詮、「肉」であることの発見である。

自分の感情も理性も意志も、すべてが「肉」に奉仕することの発見である。

しかし、光は暗闇の中で輝いている(ヨハネ伝1章)。

自分の内に暗黒しか見出せないときに、同時に、逆対応的に、

イエス・キリストは救う価値のない私を救う者として顕われる。

信仰は、自分の内に救われる可能性が全くないことを知る絶望と、

いつも隣り合わせに存在している。

さもなくば、信念の一種でしかないと思う。



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