彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。
彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、
私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまされ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
(イザヤ書53-2・3)
イエスはマリアから生まれ、年とともに心身成長し、
少年時代は神学者を論破し、神の僕としての使命を自覚し、
時の預言者ヨハネから洗礼を受け、弟子を御許に集め、
ガリラヤやエルサレムに伝道し、多くの人々を癒した。
民衆に真理を説き、不治の病を癒し、死人を甦らせ、
弱き者に過剰なほど同情し、弟子をこよなく愛した。
それでも、彼は人々に尊ばれなかった・・・。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かっては道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
(イザヤ書53-4~6)
パリサイ人に敵視され、為政者にもてあそばれ、
民衆に肉欲的欲求を要求され、同郷の人々には誤解され、
ペテロに否認され、トマスに疑われ、
パウロに迫害され、ユダに売られ、
現代において、無神論者からは無視され、宗教信者からは誤解され、
どちらにせよ、今の今まで痛めつけられた・・・。
彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。
ほふり場に引かれて行く小羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。
彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。
彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。
彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかった。
(イザヤ書53-7~9)
彼はすべての人々から攻撃され、最後には重罪人の刑罰を受けた。
すべての人であって、一部の人ではない。
彼の周囲の者は、強盗バラバを許せても、神の子イエスは許せなかったのである。
許せないどころか、罵詈し、唾し、平手で打ち、揶揄し、嘲笑し、
「神なら自分で自分を救え」と言って、神の恩恵を逆手に取ったのである。
しかし彼は、黙って十字架に上られた・・・。
しかし、彼を砕いて、痛めることは、主の御心であった。
もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、
彼は末長く、子孫を見ることができ、主の御心は彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
わたしの正しい僕は、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
(イザヤ書53-10・11)
驚くべきことだが、この黙って十字架に上った人の生涯こそ、神の御心であった。
一つも罪を犯さなかったが人々の罪をにない、
刑罰を受けるべきでない者が人々の刑罰を受け、
彼を無視し罵詈し陥れ唾し揶揄し殺す者のために、
彼は粛々と十字架に上られた。
ペテロの罪を赦し、パウロの罪を赦し、トマスの罪を赦し、
ピラトの罪も、ユダの罪も、無神論者の罪も、宗教信者の罪も、
そして、私の罪も、あなたの罪も赦すために・・・。
それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、
彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人とともに数えられたからである。
彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
(イザヤ書53-12)
彼は死んだ、もうこの世にはおられない。
しかし主は、今なお我らのために、神にとりなしておられる。
彼の無残な生涯は、不幸だったというよりは、むしろ神の御心であった。
彼がすべての人のために犠牲となった故に、神は彼にすべてを明け渡し給う。
彼は、最後には、万人万象万物すべての上に立ち給い、
その御業を完成されるに違いない。
然るべき時に、彼は勝利者として、凱旋なされる。
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彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、
私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまされ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
(イザヤ書53-2・3)
イエスはマリアから生まれ、年とともに心身成長し、
少年時代は神学者を論破し、神の僕としての使命を自覚し、
時の預言者ヨハネから洗礼を受け、弟子を御許に集め、
ガリラヤやエルサレムに伝道し、多くの人々を癒した。
民衆に真理を説き、不治の病を癒し、死人を甦らせ、
弱き者に過剰なほど同情し、弟子をこよなく愛した。
それでも、彼は人々に尊ばれなかった・・・。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かっては道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
(イザヤ書53-4~6)
パリサイ人に敵視され、為政者にもてあそばれ、
民衆に肉欲的欲求を要求され、同郷の人々には誤解され、
ペテロに否認され、トマスに疑われ、
パウロに迫害され、ユダに売られ、
現代において、無神論者からは無視され、宗教信者からは誤解され、
どちらにせよ、今の今まで痛めつけられた・・・。
彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。
ほふり場に引かれて行く小羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。
彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。
彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。
彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかった。
(イザヤ書53-7~9)
彼はすべての人々から攻撃され、最後には重罪人の刑罰を受けた。
すべての人であって、一部の人ではない。
彼の周囲の者は、強盗バラバを許せても、神の子イエスは許せなかったのである。
許せないどころか、罵詈し、唾し、平手で打ち、揶揄し、嘲笑し、
「神なら自分で自分を救え」と言って、神の恩恵を逆手に取ったのである。
しかし彼は、黙って十字架に上られた・・・。
しかし、彼を砕いて、痛めることは、主の御心であった。
もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、
彼は末長く、子孫を見ることができ、主の御心は彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
わたしの正しい僕は、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
(イザヤ書53-10・11)
驚くべきことだが、この黙って十字架に上った人の生涯こそ、神の御心であった。
一つも罪を犯さなかったが人々の罪をにない、
刑罰を受けるべきでない者が人々の刑罰を受け、
彼を無視し罵詈し陥れ唾し揶揄し殺す者のために、
彼は粛々と十字架に上られた。
ペテロの罪を赦し、パウロの罪を赦し、トマスの罪を赦し、
ピラトの罪も、ユダの罪も、無神論者の罪も、宗教信者の罪も、
そして、私の罪も、あなたの罪も赦すために・・・。
それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、
彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。
彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人とともに数えられたからである。
彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
(イザヤ書53-12)
彼は死んだ、もうこの世にはおられない。
しかし主は、今なお我らのために、神にとりなしておられる。
彼の無残な生涯は、不幸だったというよりは、むしろ神の御心であった。
彼がすべての人のために犠牲となった故に、神は彼にすべてを明け渡し給う。
彼は、最後には、万人万象万物すべての上に立ち給い、
その御業を完成されるに違いない。
然るべき時に、彼は勝利者として、凱旋なされる。
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