キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

ヨハネ文書における「信じる」

2010-10-10 17:57:34 | 聖書原典研究(ヨハネ文書)
以前の投稿記事で、パウロにとって、

イエス・キリストの十字架の前で自分自身を吟味する(δοκιμαζω:ドキマゾー)ことが、

如何に重要なことかを語った。

すなわち、キリストの恵みによって救われた者であるからこそ、

キリストに照らして自分自身の行いを吟味する必要があるのである。
(自分が恵みにあるからといって、全くの無反省に居直るのは、少なくともパウロの主張した福音ではない)

同様のことが、ヨハネ文書や共観福音書においてもいえる。


パウロ書簡における「吟味する(δοκιμαζω)」に該当する語は、

ヨハネ文書における「~を信じる(πιστευω εισ)」であろう。

ヨハネ文書における「信じる」とは、パウロにおける「吟味する」ことも含まれている。

それは、以下の聖句において、最もよく表現されている。


彼を受け入れた者、すなわち、彼御自身を信じる者はみな、
神の子(τεκνα)となる力(εξουσιαν)を与えた。(ヨハネ伝1-12/私訳)

※ヨハネはパウロにひどく影響されている。しかしヨハネは、
パウロが普通「神の子」というときの子(υιοσ:ヒュイオス)を、
大人への成長が期待されている表現であるテクナ(τεκνα)に変えている。
すなわち、通常「権威(εξουσιαν:エクスーシア)」と訳されている語も、
成長が期待される「力」と訳すべきであると思う。


ヨハネ文書における「信じる」を読むとき、

パウロにおける「吟味する」意も含まれていることをよく理解せねばならない。

さらに、ヨハネ文書における命令法も、内なるキリストがキリスト者に述べる、

吟味する課程における聖霊の呼び声として解釈せねばならぬと思う。


もしわたしを愛するなら、わたしの戒めを実行するだろう。
(ヨハネ伝14-15/私訳)


ヨハネ文書において、なぜ、信仰と行為が同一のものとして考えられているか?

それは、パウロにおける「吟味する」意が

ヨハネにおける「信じる」に含まれているからである。


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