ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。
牧者は羊を養わねばならないのではないか。
あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、
肥えた羊をほふるが、羊を養わない。
弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、
傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、
失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。
彼らは牧者がいないので、散らされ、
あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。
わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、
わたしの羊は地の全面に散らされた、尋ねる者もなく、捜す者もない。
(エゼキエル書34-2~6)
「イエスは群衆を見て、深く憐れまれた」(マタイ伝9-36)
群衆とは、自分の要求を満たしてもらいたいと叫ぶ、
人々の群れである。
彼らはみな、「俺が」「俺が」と言って、押し合いへし合い迫り、
土煙をあげながら殺到する人々である。
他人がどう思おうが、他人がどう傷つこうが、そんなことはどうでもよく、
とにかく自分の心配・憂慮・欲求こそ、誰かに満たしてもらいたい人々である。
自分こそ特別な存在であり、自分こそ特別な何かを持っていて、
そのように思いたいし、見せたい人々の群れである。
そういう群衆を、イエスは深く憐れまれた。
「イエスは群衆を見て、深く憐れまれた」(マタイ伝9-36)
彼らは「俺が」「俺が」と叫ぶことによって、誰かを傷つける。
そういう人々の集合が群集であれば、群衆はいつの時代も、
誰かに指導してもらいたいのである。
誰かに、自分の自由を売りたいのである。
(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」)
誰かに、ボスになってもらいたいのである。
そのような群衆の願望を察知してか、いつの時代も、多くの牧者が現われる。
ある者は思想家として、ある者は政治家として、ある者は宗教家として、
群衆の中から浮かび上がる。しかし、すぐさま沈む。
なぜなら、そういう牧者こそ、
群衆のことを考えずに、自分自身のことのみを考えるからである。
偽りの牧者は、いつの時代にもいる。
なぜなら、あまりにも群衆の「自由安売り願望」が強すぎて、
かかる群集を利用して、自分の名誉心を満たし、
あるいは儲けようとする輩がいるからである。
そういう群衆を、イエスは深く憐れまれた。
「イエスは群衆を見て、深く憐れまれた」(マタイ伝9-36)
イエスのみは、深く深く群衆に同情した。
群衆の悲哀を御自身の悲哀とされた。
だから主は、彼らを呼び寄せ、彼らの欠乏を補い給うた。(マルコ伝7-14)
だから主は、一言も彼らを叱責なされなかった。
だから主は、彼らのためにゴルゴダへ上られた。
しかし群衆は、そういうイエスを信じなかった。
むしろ祭司長に煽動されて、「十字架につけろ」と要求した。(マルコ伝15-11)
群衆とは、真の牧者を十字架につけるような、何とも不甲斐ない群れである。
しかし主は、そういう群衆を深く憐れみ給うた。
「イエスは群衆を見て、深く憐れまれた」(マタイ伝9-36)
その群衆の一人が、私である。
私も、「俺が」「俺が」と言って、押し合いへし合いイエスに迫り、
彼に深く同情されながら、十字架刑に加担するような群衆の一人である。
しかしイエスは、そういう群衆を見て、深く深く憐れまれた。
偽りの牧者は、様々の手段や能力によって、我らの個性を潰しながら支配し、
最後には捨てるような所業を為すだろう。
しかし真の牧者である主のみは、我ら一人一人に呼びかけ給い、
我ら各自に話しかけ給い、我ら一人一人を導き給う。
賛美すべきかな、わが主よ!
まことに、神である主はこう仰せられる。
見よ、わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。
牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、
その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、
雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。
(エゼキエル書34-11・12)
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牧者は羊を養わねばならないのではないか。
あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、
肥えた羊をほふるが、羊を養わない。
弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、
傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、
失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。
彼らは牧者がいないので、散らされ、
あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。
わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、
わたしの羊は地の全面に散らされた、尋ねる者もなく、捜す者もない。
(エゼキエル書34-2~6)
「イエスは群衆を見て、深く憐れまれた」(マタイ伝9-36)
群衆とは、自分の要求を満たしてもらいたいと叫ぶ、
人々の群れである。
彼らはみな、「俺が」「俺が」と言って、押し合いへし合い迫り、
土煙をあげながら殺到する人々である。
他人がどう思おうが、他人がどう傷つこうが、そんなことはどうでもよく、
とにかく自分の心配・憂慮・欲求こそ、誰かに満たしてもらいたい人々である。
自分こそ特別な存在であり、自分こそ特別な何かを持っていて、
そのように思いたいし、見せたい人々の群れである。
そういう群衆を、イエスは深く憐れまれた。
「イエスは群衆を見て、深く憐れまれた」(マタイ伝9-36)
彼らは「俺が」「俺が」と叫ぶことによって、誰かを傷つける。
そういう人々の集合が群集であれば、群衆はいつの時代も、
誰かに指導してもらいたいのである。
誰かに、自分の自由を売りたいのである。
(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」)
誰かに、ボスになってもらいたいのである。
そのような群衆の願望を察知してか、いつの時代も、多くの牧者が現われる。
ある者は思想家として、ある者は政治家として、ある者は宗教家として、
群衆の中から浮かび上がる。しかし、すぐさま沈む。
なぜなら、そういう牧者こそ、
群衆のことを考えずに、自分自身のことのみを考えるからである。
偽りの牧者は、いつの時代にもいる。
なぜなら、あまりにも群衆の「自由安売り願望」が強すぎて、
かかる群集を利用して、自分の名誉心を満たし、
あるいは儲けようとする輩がいるからである。
そういう群衆を、イエスは深く憐れまれた。
「イエスは群衆を見て、深く憐れまれた」(マタイ伝9-36)
イエスのみは、深く深く群衆に同情した。
群衆の悲哀を御自身の悲哀とされた。
だから主は、彼らを呼び寄せ、彼らの欠乏を補い給うた。(マルコ伝7-14)
だから主は、一言も彼らを叱責なされなかった。
だから主は、彼らのためにゴルゴダへ上られた。
しかし群衆は、そういうイエスを信じなかった。
むしろ祭司長に煽動されて、「十字架につけろ」と要求した。(マルコ伝15-11)
群衆とは、真の牧者を十字架につけるような、何とも不甲斐ない群れである。
しかし主は、そういう群衆を深く憐れみ給うた。
「イエスは群衆を見て、深く憐れまれた」(マタイ伝9-36)
その群衆の一人が、私である。
私も、「俺が」「俺が」と言って、押し合いへし合いイエスに迫り、
彼に深く同情されながら、十字架刑に加担するような群衆の一人である。
しかしイエスは、そういう群衆を見て、深く深く憐れまれた。
偽りの牧者は、様々の手段や能力によって、我らの個性を潰しながら支配し、
最後には捨てるような所業を為すだろう。
しかし真の牧者である主のみは、我ら一人一人に呼びかけ給い、
我ら各自に話しかけ給い、我ら一人一人を導き給う。
賛美すべきかな、わが主よ!
まことに、神である主はこう仰せられる。
見よ、わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。
牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、
その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、
雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。
(エゼキエル書34-11・12)
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