キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

求めるべき唯一のもの

2010-12-05 16:27:55 | 聖書原典研究(共観福音書)
あなたは地上に富を積んではならない。
そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、
また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
富は、天に積みなさい。
そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、
また盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。
あなたの富のあるところに、あなたの心もある。
(マタイ伝6-19~21/新共同訳)



ここで福音書記者マタイが主張していることは、

経済問題の処理云々ではない。

「富」という言葉があるから、人は普通、

経済問題・生活問題に意識が行ってしまいがちだが、

マタイが言っている本質的なことは、富を積むことではない。

ここでマタイは、読者に、二者択一を迫っている。

神に従うか(εν ουρανω)、神以外のものに従うか(επι τησ γησ)、である。


その根拠は、6章全体の主張が、我々が宗教的生活・経済的生活をしようとも、

「すべての報いは神から来る」ことを主張していること。
(και ο πατηρ σου ο βλεπων εν τω κρυφαιω αποδωσει/6-4、6-15、6-18、6-34)

また、この文の直後に、神のみを求める単一さ(απλουσ)を主張していること。

山上の垂訓全体(5~7章)が、イエスにならって神のみに従うことの推奨であること、である。

故に、以下の聖句も、正しく解釈し直さねばならないと思う。


あなたがたは、神と富とに仕えることはできない(マタイ伝7-24/新共同訳)。


この箇所での強調点は、神(θεοσ)でも富(μαμωνα)でもない。

その間にある「と(και)」である。

人間は、神と同時に、神以外のものに頼ることはできない。

神を信じていると言いながら、あるいは生活に、あるいは宗教に、あるいは他人に、

あるいは自分に、生活の安全、家族の保全、仕事の遂行という、

一見もっともらしい名目をもって、神以外のものに従うことなどできないのだ。

人間は、神に全面的に従うか、神に全面的に敵対するか、どちらかしかないのだ!

そうマタイは主張しているのである。


自分の全生活を、それが他者にどう評価されようとも、

神の呼び声とその応答という形でしか生きられない者、

かかる人物を称して、マタイはキリストの弟子(μαθηται)と呼ぶ。

そういう人物を求めているマタイの呼び声なのである。

間違っても、経済問題の心理的解決策として解釈されるべきものではない。



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