キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

ヨハネ伝と創世記

2010-11-21 17:23:10 | 聖書原典研究(ヨハネ文書)
ヨハネ伝は第四福音書と呼ばれていて、

共観福音書(マルコ伝・マタイ伝・ルカ伝)との異質性が指摘されている。

私も、原典にてこれらの福音書を読解してきて、

ヨハネ伝の特異性に注目せざるを得ない。


なぜ、ヨハネ伝のイエスの言葉(12章以前)は、意味内容が余りないのか?

たとえば、イエスが「わたしと父は一つだ」(7-2)と言えば、

群衆は、なぜイエスと神が一体なのかの根拠を問うが、

イエスは、「わたしを知らないから父も知らないのだ」(8-19)と答える。

これ、まるで答えになっていない。

12章以前のイエスの言葉は、「イエスと神は一つである」というメッセージの繰り返しである。


なぜ、福音書記者ヨハネは、奇跡(しるし)を重視するのか?

パウロにきわめて影響されていながら、パウロが余り重視しない奇跡を、

ヨハネは非常に重視し、福音書の展開の柱にしているのである。
(2-1~12、4-43~54、5-1~18、6-1~15、6-16~21、9-1~41、11-1~44、20-1~23)


なぜ、この福音書は、イエスを神そのものとして記述するのか?

イエスの全知(1-42、1-48、4-17、5-6、6-5、6-15、6-64、14-29、15-3、18-32)、

イエスの全能(5-8、9-7)を強調するから、

この福音書においては、助けを求める声はない。

イエスがすべてを知り、すべてを直ちに行なうことができるから、

共観福音書のような助けを求める声がないのである。


また、なぜ、この福音書は、男女のたとえが多いのか?

カナの婚礼(2-1~12)、サマリアの女の夫(4-1~42)、ヨハネの証言(3-22~26)と、

男女の結婚を連想させる比喩が多い。

また、水に関するたとえも多い気がする。

この福音書記者は、何を中心的メッセージとして、この福音書を書いているのか?


ヨハネ伝に多く登場する言葉は、

命(ζωη)、世(κοσμοσ)、父(πατροσ)、霊(πνευμα)である。

これらの言葉が多く登場し、しかも上記のような疑問を解決するような記事は、

唯一つ、旧約聖書の創世記である。

福音書記者ヨハネは、創世記1・2章を念頭において、

この福音書の最初から最後までを記述しているのである。
(創造主の位置にイエスを置いて)


1章は、創造主がイエスであることの簡明な主張である。

2章以降は、創造主がイエスであることの証明である。

2章から11章までの奇跡の連続は、神が天地を6日間で創造したように、

イエスが6つの奇跡によって創造主であることを証明する文章である。
(創世記1章の天地創造を参照せよ)

そして13章以降は、神が人類を創造したように、

イエスがキリスト者を創造した経緯の説明である。
(創世記2章のアダムの創造を参照せよ)

そして、この福音書の結論は、1章で予め言われ、2章以降で証明されたように、

「わが神よ」(20-28)である。

ヨハネ伝に散在する多くのたとえ話、比喩、奇跡は、創世記に照らしてみて、

初めてその真実性を顕すのである。


ヨハネ伝を創世記に照らして読むか、そうでないかは、大きな違いを生む。

なぜなら、普通、人は、ヨハネ伝を神秘的な著作であると考え、
(神秘的であると感じるのは、理解できていないということである)

何の行動も人生の変化も引き起こさずに、神の愛を心の内に感じ取れば事たれりとする。

しかし、創世記に照らしてみれば、かかる口を開けて愛を受けるだけの読み取り方は、

まったくもってヨハネ伝著者の意図に反することがわかる。

創世記のアダムは、楽園を耕し管理するために創造された。
(楽園は完全ではなかった。故に神以外の被造物が関与し、それを完全にするように、
共に働く存在として人間を創造したのである。創世記の記述によれば、楽園は不完全であるが故に、神の愛を顕現できる余地があるという意味で、完全だったのである)

同じように、イエスの弟子も、世を耕し救うために、創造された(15-15)のである。

イエスを模範とし(13-15)、人を愛して(13-25)、人々の罪を赦し(20-23)、

人をしてイエスに紹介するために召されたのである(16-24)。

しかしそれは、単純な倫理ではなく、

「イエスに愛された者は、人を愛する筈だ」(15-9・10)という意味で、

「イエスに愛されよ」が最後の言葉となる。


ヨハネ伝は、パウロ書簡の影響、及び、創世記の影響を考慮に入れれば、

神秘的にではなく、きわめて具体的・倫理的に解釈せねばならない書である。

世(κοσμοσ)とは、避けるべき世界ではなく、働くべき楽園である。

命(ζωη)とは、霊魂のような神秘的実在ではなく、生き方のことである。

言葉(λογοσ)とは、理解すべき理法ではなく、服従すべき戒め・裁き・真理である。

我々は、あまりにも、旧約聖書を度外視して、新約聖書を解釈し過ぎなのである。


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