沢木耕太郎氏の著作はほとんど読んでいるが、日記形式の文章を読むのは初めてだ。
しかも、あまり手を入れたようには見えない素のままの文章を目にするのも初めてである。
本書は80年代後半の1月から9月までというごく短い間に日記の体裁で書かれたものである。
そんな昔のものが今になって日の目を見ることになったことといい、
その文章の習作的な雰囲気といい、まるで著名なミュージシャンの昔のデモテープが発掘されたといった風情の作品である。
執筆の様子、編集者との打ち合わせ、取材、読書、映画鑑賞、酒場、そして幼い愛娘とのひととき。
「作家の生活」とでも言うべき日常が淡々とつづられているが、そこには沢木氏の作品へとつながっていく一本の線みたいなものが垣間見える。
それは生活者沢木耕太郎に一貫して流れるある種の抑制である。
意外だったのは寝る前のひと時、沢木氏が創作したおとぎ話を幼い愛娘に聞かせてあげるシーンだ。
それは、ある意味荒唐無稽なおとぎ話なのだが、その話を聞かせる父とそのお話に幼い好奇心を寄せる娘との語らいが微笑ましい。
ああ、私も娘とこういう時間を過ごすのだったと、思わず後悔してしまいそうなひと時である。
娘と過ごすごくごく私的なひと時がこういう形で世に出されたということが意外だった。
もちろん、これは他人が読むことを意図した日記であるのだが、私的なことをあまり語ってこなかった著者の、柔かな日常が浮立ってくる。
映画や本の話題も出てくる。そのいくつかは実際に読んだり見たりしたいと思わせるに十分な、素直な批評性を持ちえていて面白かった。
比較的寡作な人だけにこういう作品集は興味深い。
しかも、あまり手を入れたようには見えない素のままの文章を目にするのも初めてである。
本書は80年代後半の1月から9月までというごく短い間に日記の体裁で書かれたものである。
そんな昔のものが今になって日の目を見ることになったことといい、
その文章の習作的な雰囲気といい、まるで著名なミュージシャンの昔のデモテープが発掘されたといった風情の作品である。
執筆の様子、編集者との打ち合わせ、取材、読書、映画鑑賞、酒場、そして幼い愛娘とのひととき。
「作家の生活」とでも言うべき日常が淡々とつづられているが、そこには沢木氏の作品へとつながっていく一本の線みたいなものが垣間見える。
それは生活者沢木耕太郎に一貫して流れるある種の抑制である。
意外だったのは寝る前のひと時、沢木氏が創作したおとぎ話を幼い愛娘に聞かせてあげるシーンだ。
それは、ある意味荒唐無稽なおとぎ話なのだが、その話を聞かせる父とそのお話に幼い好奇心を寄せる娘との語らいが微笑ましい。
ああ、私も娘とこういう時間を過ごすのだったと、思わず後悔してしまいそうなひと時である。
娘と過ごすごくごく私的なひと時がこういう形で世に出されたということが意外だった。
もちろん、これは他人が読むことを意図した日記であるのだが、私的なことをあまり語ってこなかった著者の、柔かな日常が浮立ってくる。
映画や本の話題も出てくる。そのいくつかは実際に読んだり見たりしたいと思わせるに十分な、素直な批評性を持ちえていて面白かった。
比較的寡作な人だけにこういう作品集は興味深い。