ここではないどこかへ -Anywhere But Here-

音楽・本・映画・サッカーなど興味の趣くままに書いていきます。

J1第30節 FC東京対川崎フロンターレ(調布・味の素スタジアム)0-7

2007-10-31 22:11:30 | サッカー
今年はいろいろとあって、途中からサッカーのレビューを書く余裕がなくなってしまい、
今までに見た試合もほとんど総括できずにJリーグも終盤に差し掛かってきた。
試合を見ていないわけではない。去年よりは観戦数が少ないながらも、FC東京の試合を中心に観てはいるのだ。
ただ、書くきっかけというものがつかめなかった。書けなかった試合についてはそのうちにサマリーしたい。

さて、川崎フロンターレとの一戦。両クラブは今シーズンからこの一戦を「多摩川クラシコ」と名づけて盛り上げようとしている。
"クラシコ"=伝統の一戦。サッカー文化の歴史が浅い日本では盛り上げるためには
10回あまりしか対戦していなくても、
「伝統」と名乗らざるを得ないところがなんとも苦しいところだが、その性急さもある意味で逆説的で、個人的には楽しい。
無理やりにでも気分を盛り上げて、それで熱く戦えるのならそれはそれで悪くない。
こじつけでも何でも根付いてしまえばそれが伝統なのだ。
川崎サポーターは多摩川を舟をこいでやってくるとか、東京が南武線を広告でジャックしてしまうとか、そういう盛り上がり方も悪くない話だ。

それなのに「クラシコ」を名乗るには今年の東京はあまりにも情けなかった。
前回の対戦は5-2、そして今回は7-0と歴史的な大敗を喫してしまった。
これは決して偶然の産物ではないような気がする。

思えばJリーグでは東京と川崎は対照的な道筋を辿ってきている。
J1に昇格したのはどちらも2000年のシーズン。以降東京がJ1に定着しているのに対し、川崎はわずか一年でJ2に降格の苦渋を味わっている。
補強策の失敗などでフロントスタッフをはじめ、選手の多くがチームを去った。
2000年をボトムに、地道な改革に着手した川崎は、2005年に5年ぶりのJ1復帰。
着実に力をつけてその年は8位と健闘。続く昨年は2位と躍進し、今年のACL出場を勝ち取った。
今年はナビスコのファイナルに進出しており初タイトルの可能性もある。

それに対して東京は、J1昇格後着実に好位置をキープし、2004年にはナビスコカップで悲願の初タイトルを獲得した。
しかしそこをピークにここ3年あまりチームは踊り場に差し掛かっている。
一旦は契約を満了した原監督を再び招聘した今年は、満を持して選手補強を行ったものの機能せず下位に甘んじている。

思えば、両クラブのチーム事情は2000年以降見事にスパイラルしているようである。
J2で身をかがめて力を蓄えてきた川崎はかがんでいた分だけ大きくジャンプしている。
一方の東京は、J1に安住してしまってまるで貯金を食いつぶしてしまっているかのようである。
思えば今期の原さんの復帰は完全に時計の針を逆に廻したもので、
それならば、まったく違うスタイルのサッカーを志向した去年のガーロは何だったのかということになる。
原さんの是非はともかく、今年のシーズン初めはこの体制に多くのファンが釈然としなかったのではないか。
むろんフロントから我々ファンに対して、納得のいく説明などあるはずもなく、何となくうやむやのうちに今シーズンが始まってしまった。
ワンチョペや福西といった大型補強に期待が高まっていたが、そのことによってむしろ本質的な問題を遠ざけたままでシーズンに入ったのだ。
結局そのうやむやにしてきたことが、この一戦に象徴的に現れたに過ぎないと思う。

思えば東京のサイド攻撃はセンターラインがしっかり機能して初めて効果を発揮する。
それなのに、センターバックやボランチに故障者が一人、二人出るだけでもろくも崩れてもうどうにもならなくなる。
原さんでもう一度スペイン流の攻撃サッカーに回帰するのであれば、そのことを踏まえた選手補強があってしかるべきだったのに、
何となく場当たり的に大物を採ってきたという気がしてならない。
そんなフロントと現場のちぐはぐさが、ここに来て一気に噴出してしまったということに過ぎないと思う。
だから負け惜しみではなく、歴史的な大敗ではあるが屈辱的大敗というほど悲観的なるほどのこともないのではないか。
7点はやられすぎだが、4,5点の大差で完封されるというのは、想像の範囲ではあったのだ。

高い授業料を払ってしまったが、このまま問題をうやむやにしたままシーズンを終わるよりはずっとよかったと思う。
どのクラブにも苦しいときはある。この試練をどうやって乗り越えていくか、考えようによってはこんなに楽しみなシチュエーションもないのだ。

ローマ人の物語Ⅳ-ユリウス・カエサル ルビコン以前-/塩野七生

2007-10-27 09:42:09 | 
この一連の作品の中でおそらくひとつのクライマックスになるだろうと思われるのが、ユリウス・カエサルが登場してくるこの巻だと思う。
ユリウス・カエサル。英語で言うところのジュリアス・シーザー。シェイクスピアの戯曲名でもあるこの英語名の方が有名か。
稀代の戦略家。人間的魅力にあふれるリーダー。その人間的なスケールの大きさが描かれている。
物語はおおよそ3つの構成になっている。
一つめは幼少から青年期を経てローマの政界に登場してくるまで。
二つめはポンペイウス、クラッススとの三頭政治を背景に、ガリアの制圧を果たすまで。
三つめはクラッススの死去後、ポンペイウスとの対立が顕在化し、元老院最終勧告により
ガリアの属州総督の任を解かれたカエサルが、ついにローマを目指してルビコン川を渡るまで。
共和制ローマの大きな転換点に立ったカエサルは、情勢の変化とその先を見通す卓越した識見の持ち主だったと言える。

カエサルの魅力はそうした才能に留まらず、人間的な器の大きさを感じさせる人物像にもある。
有名な三頭政治の一員であり経済力のあるクラッススをパトロンにして、莫大な借金をしてもまったく意に介さない。
借金は私財に費やすわけではなく、その金で私兵を雇ったりするのだ。
借金は少額のうちは貸したほうが強いが額が大きくなると貸したほうは不安になる。
そうした心理を見抜いて、クラッススを一蓮托生の経済的後見人にしてしまうのだ。

もうひとつは、カエサルの色男ぶりである。「英雄色を好む」を地でいった人である。
同時に何人もの愛人がいたそうであるから、なんともうらやましい(笑)限りである。
極めつけは、同じく三頭政治で政治的な同盟を結んでいた、ポンペイウスの妻までを寝取っていたという事実である。
今とはおそらく倫理感覚も違っていただろうとは思うが、なんとも豪傑である。
人間的な度量がなければできないことである。
そのポンペイウスが後に元老院派に寝返ってしまい、カエサルにルビコン川を渡らせることになるのは、
このときの妻を寝取られた怨念なのか、歴史の面白さでもある。

また、カエサルは文筆家としても才能のある人だったようだ。
ガリア戦役について書き残した「ガリア戦記」や「内乱記」など今に残るラテン文学の傑作が多い。

著者の思い入れもある程度は含まれているにせよ、読んでいてわくわくさせられるようなカエサルの器の大きさ。
部下の人身掌握術、情報収集と分析能力、冷静緻密で大胆な戦略。
このようなリーダーの下にいられたら、と思う。
混迷した現代世界を、草葉の陰からカエサルはどう見ているだろうか。



怪我の具合

2007-10-24 22:38:37 | ジョギング
左膝の半月板を怪我してから2週間が経った。
まだびっこをひきながら歩いているが、それでも痛みは少しずつではあるが和らいできている。
無論重症であることには変わりはない。アイシングと包帯は欠かせない。
腫れも水も徐々に引いてきてはいるが、患部はまだ熱を持っている。
きちんと治して、何とか来年1月1日に復帰できないものかと考えている。
体重を増やすことなく上半身の筋力強化には努めていきたい。

酔いどれの誇り/ジェイムズ・クラムリー

2007-10-23 22:32:53 | 
先に読んだ沢木耕太郎の「246」は日記の中で書評や映画評も数多く紹介されていた。
この作品も「246」の中で紹介されていた。ハードボイルドものというのもしばらく読んでいなかったので、早速読んでみた。
こういう形で広がっていく読書は楽しい。

なかなかすとんと落ちてこなかった。
ハードボイルドものやスパイものというのは、やはり時代に寄り添うことで保たれる鮮度というものがあるのだろうか。

主人公のミロは没落した名家の末裔として、夫婦の離婚問題などを扱いながら細々と生活している、酒びたりの私立探偵である。
ある日そこに、憂いを秘めた美しい女性が、ドラッグのやりすぎで亡くなってしまった弟の調査を依頼してくる。

事件そのものやストーリ展開は決して滑らかではなく、ざらっとしたものが残る。
アメリカのモンタナ州にあるという、架空の小都市で起こる事件や酒場の人間関係は、
心象風景として私たちには分かりにくい状況設定ではある。

それでも小さな街で、酒浸りの毎日の中で、哀しみを懐に彷徨う主人公ミロの個性は際立っている。
沢木氏が言うように、そこにはどうしても感情移入したくなる主人公像というものがある。
酔いどれてみっともなく這いつくばいながら、底辺で見出す珠玉の人生。
格好よくもロマンティックでもないハードボイルド。
クラムリーは人生というものをことさら大仰に、ドラマチックに描かなかった。
そこに私たちは感情移入してしまうのだろうか。




ブラジル/土岐英史とサンバ・フレンズ

2007-10-15 22:29:09 | 音楽
1981年というのはフュージョンやAORのようなミドル・オブ・ザ・ロードな音楽がブームだった。
このアルバムもそうした一枚だったが、発売された当時は聴いていない。
というか、この時期に土岐英史がリーダー・アルバムを発表していたこともよく知らなかった。
タイトルどおり、このアルバムはサンバ、ボサノヴァにアプローチした作品である。
ブラジル人ミュージシャンらに松岡直也、向井滋春、和田アキラといったゲストを迎えて制作されている。

日本人のジャズミュージシャンがブラジル音楽を演奏したアルバムとしては、
渡辺貞夫のアルバムを中学時代に聴いたことがある。
でも、ナベサダがどうということではなく、ボサノヴァというのは中学生の耳にはまだよく分からない、
ちょっと退屈な作品だったように記憶している。
むしろこういった屈託のない明るいアプローチのアルバムの方が初めて聞くには良かったかもしれない。

土岐英史は日本を代表するサックス・プレイヤーとして活躍中だが、
まだ30代そこそこで録音されたこの作品からは、はつらつとしたプレイが堪能できる。
演奏をすっかり楽しんでしまっているかのようでこちらまで楽しくなってくる。
若さゆえに勢いで押し切った感じがしなくもないが、
ブラジル音楽をきちんと消化しきったが故のサウダージがほんのりと伝わってくる。






フラガール

2007-10-14 16:29:23 | 映画
相変わらず映画をゆっくりと観る時間がない。いや、重い腰を持ち上げて映画館に行けば済む話なのだけど・・・。

この作品は知人から借りたDVDで見た。なぜ借りたのかというと、最近スパリゾートハワイアンズに行ったからだ。
ハワイアンズ。昔の常磐ハワイアンセンター。斜陽化する東北の炭鉱町を常夏のハワイにしようという、夢のようなプロジェクト。
閉鎖される炭鉱の雇用の受け皿として、従業員だけではなくフラダンサーまでも地元の娘たちを採用して、というのは事実らしい。

ダンスを教えてくれる先生は東京から一流の先生を呼んで、というはずがどうも訳ありの呑んだくれダンサー崩れがやってくる。
その、実力を持ちながらも借金から身を崩した元SKDのダンサー、平山まどか先生を演じているのは松雪泰子。
冒頭の彼女のダンスシーンがすばらしい。
もともと実力はあるのに、というよりもあるからなおさら自分がこんな田舎の炭鉱町に来る羽目になったことに納得のいかないまどか。
一方、ダンサーとして集められた炭鉱の娘たちはフラなんて踊ったこともないド素人。
まどかはしぶしぶ指導を引き受けるが、生徒たちのあまりのひどさにまったくやる気がおきない。
それでも斜陽の町を復活させるのは自分たちしかいない、という自負と情熱を持った娘たちに次第に引き込まれながら、
厳しい特訓を続けていく。
やがて本番の舞台に立つまでに成長していく娘たちと次第に心を通わせていく。

まどかはもともとは一本気で正義感の強いキャラクターとして描かれている。
だから、炭鉱を解雇された鬱憤を娘にぶつけた父親が許せないし、プロ意識に欠ける生徒たちが腹立たしかったりするのだ。
実は一本気で情にもろいのだ。
そんなまどかに強い憧れを持ちながらも反発を繰り返していた紀美子も、やがてまどかと深く感応し合うようになる。

そして紀美子の母、千代である。千代は炭鉱事故で夫を亡くしながらも二人の子を育て上げた炭鉱の女である。
裸に近い格好でダンスを踊って金を儲けるなど、軽薄この上ないと紀美子やまどかと対立する。
しかしその千代も、紀美子らのダンスにかける深い情熱に接するうちに、新しい時代の新しい女の生き方を見出す。

この映画は、まぎれもなくまどかというひとりの女性の成長の物語である。
しかし同時に紀美子の、そして千代の、ひとりのダンサーとしての、ひとりの母親としての物語でもある。

ラストのダンスシーンが圧巻である。フラというものがこれほどまでに崇高で熱いものを持ったダンスなのかと改めて気がつかされる。
それは踊っている彼女たちから、演技を超える何かを感じるからだ。
このダンスシーンだけでも見るに値する作品だ。

亀田家の代償

2007-10-12 22:04:27 | スポーツ
内藤と亀田の一戦は一夜明けて、予想されたとおり亀田バッシングの嵐となった。
マスコミの報道もブログなども総じて亀田陣営の口汚いビッグマウスとお行儀の悪さ、
そしてダーティーな反則の数々にエキセントリックな反応一色だった。

スポーツの世界においては相手をリスペクトすることなしには成立しないものがある。
フェアプレイとかスポーツマンシップというものは相手を尊重するところからしか生まれない。
相手をゴキブリ呼ばわりして罵倒するような人たちが、あのような汚い反則を繰り返したというのは、ある意味で納得できなくもない。
あの程度の精神性の人たちにフェアプレイの意味が理解できなかったとしても、さもありなんと思えるからである。

今日になって、ようやく敗者のコメントが発表されたが、反則を都合よく正当化するという、これも予想された展開となった。
ビッグマウスはいい。しかし、大口をたたいた分だけその結果には潔く決着をつける必要があるのではないか。
あれだけのことを言っておいてこそこそと逃げ帰り、あとから詭弁を弄して正当化するというのではまるで子どもである。

あれだけのことを言うのだから、負けたときはさぞや潔良いのかと思っていた。少しは期待もしていた。
でもルール無視の何でもありの喧嘩作戦に、負けてなお居直る態度。
もうあの一家にスポーツの持つ純粋さを求めるべくもない。
私のようにあの一家から離れていくファンも多かろう。
裏づけのない強がりはあまりにも大きな代償だったと言える。

10/12のランニング

2007-10-12 13:32:49 | ジョギング
今年のホノルルマラソン出場への夢が潰えてしまった。
右股関節の痛みは徐々に良くなりつつあり、少しずつではあるが距離も伸ばしつつあった。
10キロ程度なら何とか痛みを感じることなく走れるようになり、ペースも徐々にではあるが上がり始めていたのだ。
一方で、左の膝に違和感を感じ始めてもいた。違和感はやがて徐々に痛みへと変化していたが、
右足の回復に気を取られ、右足をかばっているための一時的なものだろう、と安易に捉えていた。
しかし、左膝の状態は右股関節の回復と引き換えに徐々に悪化していたのだった。
くしくも朝のジョギングで6分を切る快調な走りができた10日の夜に、ついに左膝が悲鳴を上げた。
11日の朝からは歩くこともままならないほどぎしぎしと痛み、夕方には水が溜まって膝はパンパンに膨らんでしまった。
半月板損傷で全治1ヶ月。膝は包帯でぐるぐる巻きにされた。
走り始められるのは恐らく11月末頃だろうという診断。これでは事実上ホノルルには間に合わない。

今年こそは、の思いで練習を続けてきただけに本当に悔しい。
しかしそれでもまだ何かが足りないのだ。フルマラソンを完走させてくれるための努力がまだ足りないのだ。
そのことを謙虚に受け止めたい。そして捲土重来を来年に期したい。
まずは、しっかりと治すこと。自分の体ながら、右足に気を取られきちんとケアしてこなかった左足に申し訳ない思いすらする。
きちんと治して、何が足りなかったのかきちんと総括して、来年に向けて再スタートしよう思う。
楽しみが一年延びたと思えば決して落胆するばかりでもない。

10/10のランニング

2007-10-10 14:35:27 | ジョギング
昨日は移動日で休み。東京に戻ってきて早朝のいつもの多摩川コースを走る。
ホームグラウンドはやっぱり落ち着く。
今日も頑張って30分を走る。
今まで感じていた右股関節の違和感が今日は出ない。
いつも、1キロぐらいから出てくる痛みに、今日は変化がない。
怪我して以来始めての出来事だ。
朝にもかかわらず、ペースも上がって5分40秒を切るペースでも
しっかりと走りきることができた。
油断は禁物だが、回復を実感できて嬉しい。
一方で左膝の内側に痛みが出てきている。
ハイペースで調整してきたことで痛みが出ているのかもしれない。

今日の距離:5キロ

10/8のランニング

2007-10-08 20:25:15 | ジョギング
一昨日の夜から宮崎入りしている。昨日は休んで今日は1時間15分まで
時間を伸ばしてみることにする。
距離が伸びても痛みに変化がないので、徐々に回復してきていると思う。
このあたりが正念場だと思う。自重しながら少しずつ距離を伸ばしていくしかない。
あせらず、怠らずだ。
今日の宮崎は気温が30度を軽く超えており、殆ど真夏だ。
家を起点にして水分補給しながら走ったが汗だくになってしまった。
時間を延ばしてもあまり股関節に影響が出ていない。
一方で、久しぶりの距離に膝が悲鳴を上げている。難しいところだ。

今日の距離:12キロ