ここではないどこかへ -Anywhere But Here-

音楽・本・映画・サッカーなど興味の趣くままに書いていきます。

ヒトラー~最期の12日間~

2007-11-04 10:32:01 | 映画
実家に帰っているときに、どうにも夜が暇でたまたまNHK-BSでやっていたこの映画を観た。
観たいと思って能動的に観たわけではないので映画に関する予備知識がほとんどなかった。
数年前にこの映画が封切られていたことは知っていたが、ヒトラーに対する興味があまり湧かなかったので観ていない。

この映画は、「最期の12日間」というサブタイトルにあるように、ヒトラーの最期を描いた作品であり、
ナチの栄光もホロコーストの残虐さもなく、ひたすら淡々とヒトラーの狂気ぶりと、ナチスドイツの崩壊が誇張なく描かれている。
それもドイツ人の手によって。

ヒトラーの秘書であった、ユンゲ女史の証言に基づいて制作されており、史実に近いものであるのだろう。
生々しいエピソードが取り上げられている。
とりわけ、ゲッベルス夫人が幼い6人のわが子を毒殺するシーンには胸を揺さぶられる。

戦争というのは、それだけで狂気なのだ。そしてもっと恐ろしいのは、人間はその狂気にすら慣れていくということだ。
淡々と流れていく展開が、むしろ人間のもつむき出しの邪悪さを剥ぎ取っていくようで、全身が粟立つようだった。

ヒトラーを演じるブルーノ・ガンツの迫力の演技がすばらしい。


フラガール

2007-10-14 16:29:23 | 映画
相変わらず映画をゆっくりと観る時間がない。いや、重い腰を持ち上げて映画館に行けば済む話なのだけど・・・。

この作品は知人から借りたDVDで見た。なぜ借りたのかというと、最近スパリゾートハワイアンズに行ったからだ。
ハワイアンズ。昔の常磐ハワイアンセンター。斜陽化する東北の炭鉱町を常夏のハワイにしようという、夢のようなプロジェクト。
閉鎖される炭鉱の雇用の受け皿として、従業員だけではなくフラダンサーまでも地元の娘たちを採用して、というのは事実らしい。

ダンスを教えてくれる先生は東京から一流の先生を呼んで、というはずがどうも訳ありの呑んだくれダンサー崩れがやってくる。
その、実力を持ちながらも借金から身を崩した元SKDのダンサー、平山まどか先生を演じているのは松雪泰子。
冒頭の彼女のダンスシーンがすばらしい。
もともと実力はあるのに、というよりもあるからなおさら自分がこんな田舎の炭鉱町に来る羽目になったことに納得のいかないまどか。
一方、ダンサーとして集められた炭鉱の娘たちはフラなんて踊ったこともないド素人。
まどかはしぶしぶ指導を引き受けるが、生徒たちのあまりのひどさにまったくやる気がおきない。
それでも斜陽の町を復活させるのは自分たちしかいない、という自負と情熱を持った娘たちに次第に引き込まれながら、
厳しい特訓を続けていく。
やがて本番の舞台に立つまでに成長していく娘たちと次第に心を通わせていく。

まどかはもともとは一本気で正義感の強いキャラクターとして描かれている。
だから、炭鉱を解雇された鬱憤を娘にぶつけた父親が許せないし、プロ意識に欠ける生徒たちが腹立たしかったりするのだ。
実は一本気で情にもろいのだ。
そんなまどかに強い憧れを持ちながらも反発を繰り返していた紀美子も、やがてまどかと深く感応し合うようになる。

そして紀美子の母、千代である。千代は炭鉱事故で夫を亡くしながらも二人の子を育て上げた炭鉱の女である。
裸に近い格好でダンスを踊って金を儲けるなど、軽薄この上ないと紀美子やまどかと対立する。
しかしその千代も、紀美子らのダンスにかける深い情熱に接するうちに、新しい時代の新しい女の生き方を見出す。

この映画は、まぎれもなくまどかというひとりの女性の成長の物語である。
しかし同時に紀美子の、そして千代の、ひとりのダンサーとしての、ひとりの母親としての物語でもある。

ラストのダンスシーンが圧巻である。フラというものがこれほどまでに崇高で熱いものを持ったダンスなのかと改めて気がつかされる。
それは踊っている彼女たちから、演技を超える何かを感じるからだ。
このダンスシーンだけでも見るに値する作品だ。

硫黄島からの手紙

2007-01-28 16:50:16 | 映画
かなり遅くなってしまったが、先日ようやく「硫黄島からの手紙」を見に行った。
年末のラジオ番組で沢木耕太郎氏が「クリント・イーストウッドが現役としてしっかり映画を作っていることに勇気付けられる」
という趣旨の発言をしていたが、イーストウッドはこの映画をイノセントに作り上げたと思う。

アメリカ人として、あの戦争を題材にした映画を、しかも日本側からの視点に立って制作することにはさまざまな苦労があったはずである。
だから、一段高い視線を持って取り組んだイーストウッドの、この映画に対する意欲を感じさせる。
イーストウッドのような映画人のいるアメリカ映画界の懐の深さを感じさせられる作品だ。

思わず息を呑む凄惨な自決シーンや戦闘シーンも、淡々と描かれているだけにむしろ戦争の悲惨さを際立たせている。
この映画の影響もあってちょっとした硫黄島ブームが起きていて、書店には関連書籍がたくさん並んでいるが
日米の間にこういう歴史があったことを、現代に生きる私たちはきちんと理解できていない。
無知は罪だということを痛切に感じる。

抽象的な言葉だけではどうにもならないものを誠実な映像として突きつける。
それが、9.11を経たアメリカの映画に通底しているような気がする。
平和というのはただそこにあるものではない。
私たちはまずそのことを皮膚感覚として知らなければいけないのだと思う。

永遠のマリア・カラス

2007-01-13 14:04:18 | 映画
これも以前にHDDに溜めていてそのままになっていた映画。
ようやく観る時間ができた。

この作品において通底しているテーマは「無常」ではないか。
常に移ろい行く世界の中では人は無力な存在に過ぎない。
誰しもが歳を取りやがて死んでいく。
マリア・カラスのような芸術家であれ、世界のトップまで上り詰めたスポーツ選手であれ、衰退は免れ得ない。
私たちはできるだけ長く頂点にとどまりたい、降りるならできるだけ緩やかに降りていきたいと思う。
高い山に登った人ならなおのこと、その高みを去るのは辛いに違いない。
そして、マリア・カラスもそうした頂点を知るもののみに与えられた「衰退」の試練を経験することになる。

ショービジネスの世界は残酷だ。商品価値があると分かればフェイクを用いてでももてはやすが、
もう使えないと思うと、変わり身早く去ってゆく。

この作品が切ないのは、友人の演出家ラリー・ケリーによって、
全盛期に録音された歌声を使って再び表舞台へと戻ってきたカラスが、愛くるしいまでに刹那、輝きを取り戻すことだ。
その息を呑むような美しさがマリア・カラスの最後の輝きのように思えることで、私たちは苦しくなる。

監督のフランコ・ゼフィレッリは生前のマリア・カラスと親交があり、彼女との交流を通じてこの物語を作り上げた。
この作品はカラスがもし、カムバックを果たしたならこういう形で自分自身に折り合いをつけたであろうという、
監督の夢でもあったのだろう。

切なくて儚くて愛くるしい映画だ。


今年見た映画

2006-12-31 18:13:30 | 映画
THE 有頂天ホテル
スリング・ブレイド
ゴッド・ファーザー
あげまん
ネットワーク
GOAL!
遥かなる山の呼び声
カポーティ
博士の愛した数式
ルードヴィッヒ

映画も観れなかった一年だった。
劇場に足を運んだのは4回。
あとは、テレビ放送やDVDなどで見た旧作が殆ど。
映画こそきちんと時間を確保して気合を入れないとなかなか見れない。
数少ない劇場鑑賞で印象に残っているのが「カポーティ」。
作家という職業の業の深さを垣間見るようだった。

来年は月に一度くらいは劇場に通えるといいなと思う。

ルードヴィッヒ

2006-12-06 22:56:38 | 映画
ドイツ、ロマンティック街道の終点フュッセンにある、ノイシュヴァンシュタイン城。
別名白鳥城とも言われ、旅行パンフレットの表紙やジグソーパズルなどでもたびたび見かける、白亜の美しい城である。
この城の美しさの特筆すべきところは、それが美しいドイツの森の中にあるということだ。
森というか山の中腹に聳え立っていて、美しい自然と白亜の人工美がえもいわれぬコントラストを描いている。
フュッセンはノイシュヴァンシュタイン城と近くのホーエンシュヴァンガウ城という観光資源があるだけの小さな町だが、
この小さな美しい町を私は二度訪れたことがある。
最初は学生時代の卒業旅行で。二度目は新婚旅行で。

ノイシュヴァンシュタイン城もホーエンシュヴァンガウ城もバイエルンの若き王、ルードヴィッヒ二世が建造した絢爛豪華な城である。
初めて訪れたときには、閉館時間が迫っていて城の中には入れず、
麓の小さなホテルからライトアップされた幽玄な城を飽かずと眺めていた。
二度目は中に入ることもできてそのあまりの豪華さ派手さに度肝を抜かれた。
ルードヴィッヒが中世趣味だったこともあって、
城自体は近世に建てられた比較的新しいものであるにもかかわらず内装や調度品は
大時代な中世様式の絢爛たるもので、城の中にわざわざ人工の洞窟まで作ってあったりする。

この城を作ったルードヴィッヒ二世のことを描いたルキノ・ヴィスコンティの最高傑作ともいえる、
「ルードヴィッヒ」の未公開部分を加えた4時間を越える完全版が、先日NHK-BSでオンエアされたので、
寝ないよいうにかなり気合を入れて見た。
オリジナル版は最初にフュッセンを訪れた頃に見たので十数年ぶりである。

狂気の王と言われたルードヴィッヒ二世は若くしてバイエルンの王位に就く。芸術をこよなく愛した彼は、
ワーグナーのパトロンとして、贅の限りをつくしてワーグナーの音楽、とりわけ「ローエングリン」を聴くための城を作る。
彼の贅沢により王室財政は危機に瀕し、プロイセンとオーストリアとの戦争の渦中で政治的にも翻弄された彼は、
やがてノイシュヴァンシュタイン城の築城と芸術へと逃げ込み次第に精神を病んでいく。
側近たちにパラノイアであると断罪されて幽閉されたルードヴィッヒはやがて破滅的な終焉へと向かい始める・・・。

写実的なヴィスコンティの演出が重厚で、セリフの一つひとつが胸に迫ってくる。
ただ、史実を知ってこの映画を見ていると居たたまれなくなってくる。
ましてあの豪華な城のことを思い出しながら見るこの映画はかなりつらいなあ、と思う。
そう思わせるヴィスコンティはやはりドラマの達人だな、と感心しながら。

博士の愛した数式

2006-10-31 22:13:27 | 映画
もともと劇場で観ようと思っていたのだが、そのときに別の映画を観たので観そびれていた。
日曜日、前の晩からお腹の具合がよくなくて家でごろごろしていたのだが
CATVのオンデマンド・プログラムで見つけて観始めた。

小泉堯史監督の作品はほとんど見ているが、作品からはこの監督の視線の柔らかさが感じられる。
小泉監督は一貫して市井の日本人の奥ゆかしいやさしさを描いている。

数学者である博士は交通事故の後遺症で記憶が80分しか持たない。
だからまともな社会生活を送ることができずに義姉が用意してくれた別荘地の離れに家政婦を雇って暮らしているが、
記憶障害のせいで家政婦が長続きしない。
そこに家政婦であることに誇りを持っているシングルマザー杏子がやってくる。
離れのことは離れで解決するようにと義姉から申し渡された彼女は孤軍奮闘を開始する。
博士は初対面の相手にまず身近な数字でコミュニケーションを計ろうとする。
だから、毎朝杏子は靴のサイズを聞かれることになる。
身近な数字を通して我々は、「階乗」、「素数」、「完全数」、「友愛数」に触れていく。
そして自然科学の真理は見えない世界にこそ内包されているのだということを博士にゆっくりと諭されていく。

大事なことを忘れないように背広にメモを貼り付けた博士はどこか滑稽で、このとぼけた感じを寺尾聡が実に飄々と演じている。
寺尾聡は「ルビーの指輪」で陰のある2枚目になるずっと以前の若いころ、
「おくさまは18歳」とか「美人はいかが?」などのテレビドラマでコミカルな役を演じていたし、
何と言っても父君はあの宇野重吉なのだ。(最近本当によく似てきました)

そんなほのぼのとした博士の人間的な温かみにいつしか杏子も息子のルートも包み込まれていく。
「子どものただいまの声ほどいいものはない」、「子どもは大きくなるのが仕事だ」
といった子どもへのまなざしには穏やかな春の暖かさを感じる。

数学が私は大変に苦手だった。無味乾燥な数式が出てくるともうそれだけで脂汗が出てきた。
しかし数字に込められた真理は静かに何かを語っている。その数字の語るところに想像力が働いたなら、と思う。
博士のようなルートのような先生がいたならば私もまたもう少し数学との接し方が変わっていたかもしれない。

記憶などなくても本来の人間のやさしさが損なわれることはない。
人生の喜びも悲しみも苦悩もしずかに剥ぎ取った博士は孤高の素数そのものではないか。


カポーティ

2006-10-29 11:25:48 | 映画
晴れ。

意地悪な映画館のおかげで見られなかったのはこの「カポーティ」。
「冷血」をよりよく読むためにこの映画を見ようと思っていたが結果的には「冷血」読み終えたあとで映画を見た。

原作はジェラルド・クラークの「カポーティ」で、新潮文庫から出ているジョージ・プリンプトンの「トルーマン・カポーティ」とは別物。
監督はベネット・ミラー。

私はカポーティの肉声は聴いたことがないのだが、とにかくフィリップ・シーモア・ホフマンの気迫の役作りがすばらしい。
容姿だけでなくしゃべり方やクセまでも丹念に研究した後が伺える。

「ティファニーで朝食を」で成功を収めたカポーティは華やかな社交界の一員となっていたが、ある日新聞の小さな記事に目が留まる。
カンザス州で起きた農夫一家の惨殺事件。
幼馴染で後に「アラバマ物語」で有名になるネル・ハーパー・リーを助手に従えて現地へと向かい取材を開始するカポーティ。

やがて二人組の犯人が捕まり、その一人ペリーに取材を重ねていく中で
カポーティは自分と似た境遇をたどってきたペリーにある種の共感を覚えていく。
カポーティは自らホモセクシャルであることを公言してはばからなかったそうだが
彼がペリーに対して密かに好意を抱いていたのではないかというような描き方がなされている。
摂食拒否を続けるペリーを介抱するシーンにみられるエロティシズムなどは象徴的なシーンだろう。

殺人の核心部分を聞き出せないまま時間が過ぎていく。
やがて犯人たちは絞首刑に処せられる。それまでには話を聞き終えて執筆しなければならない。
カポーティはこの作品が傑作になりうる可能性を見出していた。
ペリーがしゃべってくれた上で処刑されない限り作品が完結しないことに焦りを感じつつ、一方でペリーにはどこかで生きていてほしいと願う。

残酷なまでのリアリストと甘美な世界とを行きつ戻りつするカポーティの内面をしっかりと捉えた演技は静かな迫力がある。
フィリップ・シーモア・ホフマンはこの作品でアカデミー賞の主演男優賞を獲得している。

この作品のもうひとつのコントラストは華やかな社交界での快活なカポーティの振る舞いと、刑務所での悲壮感漂う死刑囚との交流ではないか。
およそ縁のない正反対の舞台を行き来するカポーティを描くことで、カポーティ自身の心の振幅を象徴的に描いているような気がしないでもない。

最低の映画館(立川CINEMA CITY)

2006-10-26 12:32:56 | 映画
晴れ。

久しぶりに休みを取ったので映画を見ようと映画館に行った。
近くの映画館ではやっていない作品だったので立川まで向かう。
ところが途中渋滞にはまってしまい、上映時間を10分ほど過ぎてしまった。
まだ予告編の時間帯だし何とか間に合ったなと思って窓口でお金を差し出したら入場を断られてしまった。
わざわざ1時間もかけて来たのに次の回に入れと言う。窓口の女性が顔色ひとつ変えずにである。
取り付く島もない。やってきた客を門前払いして追い返すというのはサービス業としていかがなものか。
あえて名前を出しておこう。

立川の「CINEMA CITY」である。(あ、タイトルで出しちゃったか)

最近のシネコンは完全入れ替え制で全席指定というところが多い。
したがって途中入場しても続きを見ることができない。
指定席の便利さとのトレードオフの関係でもある。
それでもたいていの映画館ではそれを承知の上での途中入場はとりあえず認めている。
しかも私の場合は10分の遅刻でしかない。たいていはまだ予告編の時間帯であり仮に本編が始まっていたとしても数分だろう。

上映後の入退場が他のお客さんの迷惑になることはよく分かる。
だから遅刻を認めないというのは時間を守って入ったお客さんに対するサービスであることも分かる。
いかなる事情があるにせよひとつ例外を認めたら際限がなくなるということも一般論としてはよく分かる。
しかし、途中入場が他のお客に迷惑だというのであればトイレにも行けないのであろうか。
つまらない映画だからといって席を立つことも許されないのであろうか。

そう考えるとわずか10分の遅刻をも認めないというのはサービス業の本質として何か違和感を感じる。
この映画館は顧客本位のサービスというのをどう考えているのだろうか。
ことは娯楽である。娯楽に金を落とすというのは飲み食いにかけるお金とは本質的に違うものである。
快適さや喜びを求めてやってきた客を10分の遅刻さえ認めない厳格さで追い返すというのを文化に携わる者がやってはいけない、と私は思う。

わたしはあえて押し問答することなく帰った。
ごり押しして不愉快なおもいをしてまで映画を見る気にはなれなかったからである。

もうこの映画館には二度と行くまい。
映画を見るということは銀行の窓口で預金を引き出すのとは訳が違う。
映画と映画を見る人をこのようにしか扱えないこんな映画館が日本の映画文化をだめにする。

遥かなる山の呼び声

2006-08-01 23:18:47 | 映画
NHK-BSが山田洋次特集をやっていて、見るともなく見ていたら最後まで見てしまったという・・・。

殺人を犯した男(高倉健)が、女手ひとつで息子を育てながら牧場を切り盛りする女(倍賞千恵子)のもとに転がり込んでくる。
過去を明かさず無口な男は最初こそ警戒されたが、やがて誠実な寡黙さに母も子も惹かれていく。
ところがある日、警察に追われていることを知った男は出て行こうとする。そして思いがけず女の愛を知ってしまう。

映画の主題は「幸せの黄色いハンカチ」と同じで待つことと耐えることの切なさが描かれている。
山田作品における男女の愛というのは比較的乾いた描かれ方をされていることが多いが、
この作品では倍賞千恵子が徐々に妖艶になっていく。
この作品は一方で女を取り戻していくストーリーでもあるのだ。

出て行くことを告げた男が夜中遅く扉をたたく。
去る前に自分を求めに来たと思った女は、そうではなく牧場の牛の急病を告げに来たことを知り、泣きながら着替える。
この半泣きの倍賞千恵子の表情がエロティックなのだ。
この時点でこの映画を観るものは深く納得するのではないか。

脇を支えるハナ肇は「なつかしい風来坊」そのもので、渥美清の牛の人工授精士役もちょい役ながら笑える。
山田洋次の笑いの世界も取り入れてあるあたりが面白い。