ここではないどこかへ -Anywhere But Here-

音楽・本・映画・サッカーなど興味の趣くままに書いていきます。

レイモンド・カーヴァー傑作選/レイモンド・カーヴァー

2008-04-30 23:29:15 | 
傑作選というタイトルだが詩を含めた12編の作品集は「Carver's Dozen」と名づけられている。
図書館でお目当ての本が貸し出し中で手に取った。こういうときには短編集に限る。
12編を選び翻訳しているのは村上春樹。
「村上春樹の手になるレイモンド・カーヴァー集」という趣が随所に現れている。
選ばれた作品もどこか村上春樹の好きそうな展開のものが多いような気がする。
もちろん、文句なく傑作と呼べるものもあるわけで、初めてカーヴァー作品を読む読者への配慮も行き届いている。

村上春樹はミステリアスと評しているが、ファンタスティックで男としては誰しもが夢想する展開だと言えそうな「あなたがお医者さま?」。
妻の知り合いの盲人を客人として迎えることになった主人の憂鬱と、盲人との交流を描いた「大聖堂」。
そしてなんと言っても心揺さぶられる「ささやかだけれど、役にたつこと」。
短編というフォーマット上の制約を考えると、ここまで読者を惹きつける手腕は見事というほかはない。
声高に主張することはなくても、伝えようとすることがそこはかとなく伝わってくる感覚がいい。

いつも手元において常に読み返したいと思うのがカーヴァーの短編集だ。
そういう意味で珠玉の作品集といっていいだろう。


お家さん/玉岡かおる

2008-04-09 19:54:29 | 
明治以降の日本は欧米列強に追いつけ追い越せと急速に近代化を進めてきた。
富国強兵の名のもとに持ち前の勤勉さで瞬く間に欧米と伍するまでに成長を遂げてきたアジアの小国。
もちろん、これらは歴史の教科書に書いてあることで、現代を生きる我々にとっては歴史の一コマに過ぎない。
マクロな現象は教科書の一文にあるのみで、そこにあった生身の人間たちの営みを容易に窺い知ることは今となっては容易ではない。
しかし、当時確かに今日の我々へとつながる繁栄の礎を築いた先達たちがいた。

鈴木商店。総合商社の走りだったこの会社は近代日本を疾風のごとく駆け抜けていった。しかしそのことも今となっては、あまり語られることもなくなった。
明治の初期に樟脳と砂糖の小さな個人商店から出発した鈴木商店は瞬く間に神戸を、関西を、そして日本を代表する企業へとのし上がっていく。
現在、関西を発祥とする名門企業の多くが鈴木商店の出資によって設立されたことは意外に知られていないかもしれない。
神戸製鋼、双日のルーツである日商、帝人、日本製粉、大正海上火災保険(現、三井住友海上火災保険)など、枚挙に暇がない。

もともと辰巳屋の番頭だった鈴木岩治郎が、明治の始め暖簾わけをして開業したのが始まりだった。
金子直吉、柳田富士松という優秀な番頭が店を支え、順調に商売を伸ばしていくが岩治郎が急逝してしまう。
主がいなくなってしまいこれで店はたたまざるを得なくなったと誰もが思っていたが、岩治郎の妻よねは実際の経営を金子と柳田に任せる形で商売を継続するのである。
よねは経営には一切口出しをせず、従業員たちが世界中を飛び廻って縦横無尽に商売が出来るよう、奥を取り仕切り、妻や子達に気を配る。
鈴木商店は「お家さん」と呼ばれるよねを頂点とした大家族として世界を股に駆けた総合商社のさきがけとなっていく。
店は神戸港に入る船の殆どが鈴木の荷を扱うほどまでに急成長するのだ。

物語は、鈴木商店の躍進の物語というよりも、それを奥で支えた女たちの物語と言っていい。
とりわけ、よねの身の回りの世話をしていた珠喜の物語は、男を支えるが故の女の哀しみと、数奇な運命に翻弄されていくうねりのようなダイナミズムを感じる。
かつて、このような女たちの物語があったことに驚嘆するばかりである。
おっとりとした上品な関西弁で語るよねの語り口をはじめ、女たちへの眼差しが著者のリスペクトに溢れている。
それは著者も同じく播磨に産まれそこで生活をしている女性だからであろう。

気骨溢れる明治人たちに接していると平成の私たちのなんと矮小なことかと思うのだ。

一瞬でいい/唯川恵

2008-03-16 13:26:00 | 
新聞連載だったからか時間軸の長い小説である。
1973年の18歳のときの事故をきっかけとして、その後の長い人生をさまざまに翻弄されていく男女たち。
それぞれのその時々の軌跡を29歳、37歳、49歳と描いていく。
3人の男女たちは決して会うことはないと思っていたはずなのに、人生のエポックで不思議とシンクロしていく。
そのあたりに状況設定としてかなり無理があるのだが、
そういう形で登場人物が絡んでいかないと物語として成立しないという構成上の苦しさがないわけではない。

人生には時計の針を戻してその一瞬だけをどうしてもリセットしたいという痛恨の瞬間があるものだ。
あの一瞬さえなければ、自分の人生は今とは違ったものになっていたはずなのにという思い。
この小説はそうした、生きられなかったもうひとつの人生について思いを馳せながら読み進めることになる。
それは、意識的に封印されていたものを呼び起こす作業でもあり、それだけにちょっと切なくもある。

この物語に出てくる男女は、それぞれが人生においていくつもの岐路に立たされるのだが、
ひとつの悲劇的な出来事のために選びとる道に必ず枷をはめようとしてしまう。
制約された選択のなかで懸命に幸福を求め、愛情のありかを探していくのだ。その同じベクトルが抗し難く彼らを結びつけ導いていく。

自ら十字架を背負って生きようとする生き方にさえ、一条の光が差すことはあるものなのだ。
この物語の救いは、破滅的な生き方を選んだとしても必ずしもそのような方向に向かっていくとは限らないということではないか。
人生とは本来きれいごとばかりではすまないものだ。
歳を経るにしたがってそのままならなさを悉ることで、人はまた赦されていくのだ。

理由/宮部みゆき

2008-03-04 22:10:59 | 
大ベストセラー作家にして読んだことがなかった宮部みゆき作品。
「火車」が思っていたよりもいまひとつという印象だったので続けて直木賞受賞作の本作を読んでみる。

この作品は水面に広がる波紋を逆に辿っていくような感じである。
事件の核心に向けて一番遠いところから少しずつアプローチしていく、その構成自体に大きな魅力のある作品といっていいかもしれない。
事件はすでに解決し、しばらく経って取材者の視点で事件を振り返るという手法で展開されている。

精緻に丹念に事件の全容を織り込んでいくといった趣が読者をひきつけていく。
多くの登場人物、さまざまな挿話が重層的に絡み合い事件が複雑な人間関係のなかで起こったことを伺わせる。

なるほどこれが宮部みゆきの醍醐味なのだろうと思わせる力強い作品だと思う。
直木賞もうなずけるエンターテインメントだ。
松本清張以来の社会派ミステリーの系譜がしっかりと引き継がれていることを感じさせる作品だと思う。


火車/宮部みゆき

2008-02-18 06:06:43 | 
長時間の移動用にはなるべく分厚くて読み疲れないミステリーがいい。
東野圭吾に続いて宮部みゆきの「火車」を読む。
実はこれだけのベストセラー作家なのに今まで読んだことがなかった。
あまりの売れ筋には手を出さないというへそ曲がりなだけで、あまり他意はないのだ。

この前に読んだ東野圭吾が情緒的だっただけに、この作品は非常に硬いなあ、と思った。
非常にまじめというか、正統派ミステリーという感じだ。
宮部みゆきという人はこういう作家だったのか、と。
それは題材としてクレジット破産という社会問題を扱っているからだと思われる。
非常に真摯な取材に基づいて執筆されており、気骨な書き振りである。

ただ、全体的に少し淡白な感じがした。
休職中の刑事を失踪女性の幼馴染の若者が手伝うという、状況設定にも少し無理があるような気がする。
何かそこにはストーリの完璧さを求めて人物設定が難しくなった感じがしなくもない。
本間刑事と息子との関係もユーモラスに描こうとしているが、中途半端さが残る。
本間刑事の人物像もいまひとつあいまいさが残っていて、キャラクターが浮き立ってこない。

当代のベストセラー作家だけにちょっと肩透かしな感じがしたので他の作品も読んでみようと思う。

片想い/東野圭吾

2008-02-02 06:58:09 | 
ここのところ、長い移動が多いのでそういうときには肩の凝らないミステリーを持って行く。
かさばらないように文庫でできるだけ長編がいい。今回は東野圭吾の一番長そうな作品を手に取った。

今までの人生で性別ということを意識したことはなかった。
自分は男であるということに疑いを持ったことはなかったし、
申込書やアンケートの類で過去に数え切れないほど男女の別を記入するときだってなんのためらいもなく男にチェックを付けてきた。
しかし、世の中には私にとっては意識すらしないそのようなことに常に疑問を抱く人たちがいるのだ。

もちろん世の中には、いわゆるトランスジェンダー(性同一性障害)と称する人たちがいることも知っているし、
そうした人たちが少しずつではあるが社会に認知されつつあることも一般的な知識としては知っている。
ただ、私は同性愛者も含めて自分の属する性について、少なからず常にある種の拘りをもって生きている人たちを身近に知らない(たぶん)。

私はジェンダーというものに対して深く意識することなしにこれまで過ごしてきた。
それは世の中がそのような性のあり方を語ることについてやはりどこかでタブー視してきたということと無縁ではないだろう。
タブーになれば無用な偏見も生んでいく。だからあえてそこにタッチしないことで無難にやり過ごそうとしてきたのではないか。

本作はトランスジェンダーという主題に正面からトライしている。
血液型の四種類のカテゴリーで性格を判断することに違和感があるように、男女の別を二種類に分けて論ずることにもどこかに無理がある。
人間の心は百パーセント男性的な部分や女性的な部分で占められているわけではない。
生物学的に男女の別が分かれていても自分の中の内なる女や男を感じる瞬間があるはずだ。
「メビウスの帯」のように表だったものがいつの間にか裏になるように、男女というものは対極にあるものではなくて、地続きなものなのかもしれない。
そう言われてみて私も初めて自分の中の内なる「女性」というものについて考えてみた。
考えてみれば女性的なところだっていくつもあるのだ。

物語は十数年を経て大学のアメフト部の仲間たちの前に現れた、美月という女子マネージャーが実はトランスジェンダーで、
しかも殺人を犯したと告白をするところから始まる。
青春が少しずつ幻影になろうとしていく三十代後半の微妙な人間関係を絡めながら、事件は複雑な様相を呈しながら深く展開していく。

ミステリーとしては奇をてらった意外性はないが、極めて現代的な問題を主題に据えたことで、
松本清張から続く社会派ミステリーの系譜に連なると言ってもいいだろう。
トランスジェンダーや性について深く考察したことのない私にとっては、新鮮で興味深い作品だったと思う。
何かを考えてみるきっかけになるというのは、なんにせよ悪いことではない。 

鬼平犯科帳(24)特別長編 誘拐/池波正太郎

2008-01-31 06:19:15 | 
大学4年のときに初めてニューヨークへ行った。
当時、雑誌「ニューヨーカー」に掲載されるような洒脱でエスプリの利いた短編を読んでいたので、
ろくに読めもしないのに街角のニューススタンドで「ニューヨーカー」を買い求めたりした。
茶色く変色したそのときの「ニューヨーカー」を見ると当時のことが懐かしく思い出される。

「ニューヨーカー」の作家の中でもとりわけアーウィン・ショウの短編が好きだったが、
ショウの多くの作品を翻訳していたのは「遠いアメリカ」で直木賞を受賞した常盤新平氏だった。
そしてこの常盤さんが、何かのエッセイで「若い人にもこの面白さをぜひ知って欲しい」と紹介していたのが「鬼平犯科帳」だった。
私と「鬼平」との出会いである。以来、細々と「鬼平」を読んできた。

空港の本屋で「今日は機内で読む本がないなあ」というようなときには決まって「鬼平」を買って入った。
季節の折々(冬が多かったような気がする)にふっと思い出したように読むのが「鬼平」だった。
そうやって10年以上の時間をかけて細々と「鬼平」読んできて、ようやく最終巻までたどり着いた。

私は熱心な池波正太郎ファンとは言えない。「鬼平」を除く他の池波作品は数えるほどしか読んでいないからだ。
ただただ、長谷川平蔵という主人公に敬服しその人物像に憧れて読み続けてきた。
熱心な池波ファンからは笑われるようなレベルでしかないが、それでも常盤さんの言った「面白さ」というのはよく分かったような気がする。
確か常盤さんは、あまり読書をしないような最近の若い人が読書の楽しさを発見する意味で「鬼平」は最適だ、
というような意味のことを仰っていたと記憶しているが、私もそう思う。
私にとってはアメリカ現代文学の紹介者と言ってよい常盤氏が時代小説を推奨するという、
ある種のギャップに興味を引かれて「鬼平」を読み始めたのだが
読書は苦手というような若い人にこそこういう本を読んで欲しいと思う。

最終巻は「女密偵女賊」、「ふたり五郎蔵」という二編のあと長編の「誘拐」が収められている。
私は前作を読んだときにお夏のその後がどうなるのかが描かれていないことに不満が残っていた。
魅力的なキャラクターを登場させておきながらこのまま終わるのはもったいないと思っていたが、
やはり池波正太郎はそのままでは終わらせなかった。
「女密偵女賊」でもお夏に触れて巧妙に伏線を張りながら、「誘拐」でこの妖艶なお夏をもう一度登場させた。

そして、さあここからどうなるのかとまさに興が乗ってきたその瞬間、忽然と絶筆してしまうのである。
妖しさをたたえたお夏は文字通り永遠にミステリアスな存在のまま残ってしまった。
しかし、長かった「鬼平」がこのような形で未完となったことは決して不満足ではない。
どこか、物語の続きを夢想させてくれるようなこの終わり方も「鬼平」らしくてよかったのかもしれない。

また、そのうちに忘れた頃にひょっと取り出して読むことがあるだろう。
「鬼平犯科帳」という作品に出会えたことは幸せな体験だったと思う。





父さんが言いたかったこと/ロナルド・アンソニー

2008-01-23 06:11:46 | 
多くの場合親子が時として分かり合えないのはジェネレーションが違うからだと思うが、とりわけ歳を取ってからの子というのは、難しいのだろう。
しかも上の子との歳の差があればなおのこと、親も末っ子との関わり方は難しいものがあると思う。

83歳になるミッキーは妻に先立たれ一人暮らしを続けている。ところがある日目を離したキッチンからボヤを起こしてしまう。
4人の子どもはそれぞれに独立しているが、兄弟はこのボヤ騒ぎをきっかけに年老いた父をこのままにしておく訳には行かないと集まる。
そしてミッキーをケア付き住宅に入れたらどうかと、兄姉たちの意見がまとまりそうになったとき、
歳の離れた末弟のジェシーが突然ミッキーと一緒に暮らしたいと言い始める。

こうして歳の離れた父と子の同居生活が始まる。
食事に始まりコーヒーの好み、果てはテレビの音量に至るまで二人はさまざまな生活スタイルの違いに戸惑いながら一つ屋根の下で生活していく。
年寄り扱いをして欲しくない父と、若さゆえ父と歩み寄れないことを苦々しく思う息子。
そんな二人の関係に変化をもたらしたのがジェシーの恋人マリーナだった。

マリーナはとてもすばらしい女性で、ジェシーはこのまま二人の関係が続いていけばいいと思っている。
一方でジェシーは過去の体験から恋愛はいつか変質していきいずれは終わりが来るものだと思っている。
だから結婚という見える形でのゴールを目指してはいない。恋愛に明確な形を与えることには臆病でもある。
マリーナを息子のパートナーとしてかけがえのない存在だと看破したミッキーは、そんなジェシーの考え方が気に入らない。
そんなジェシーにミッキーは一計を案じ、自らの古い過去をぽつりぽつりと語り始める・・・。

物語は淡々とシンプルに進んでいく。ジェフとミッキーの親子のありようも、ジェフとマリーナの日常の会話もごくありふれた日常の風景だ。
しかし、ミッキーの昔語りは静かな湖面に小石を投げ入れたときのようにそれぞれの心のありように静かに作用していく。
年老いた父が若い息子に残そうとしたもの・・・・。

物語が静かに流れていくように感じるのは、それが私たちにも通じる普遍的な問題だからだ。
親子の問題、男女の関係、仕事やお金の問題・・・。
縦糸に親子を、横糸に恋愛を絡ませたストーリーはだからことさらロマンティックに流されずに描かれている。
終盤は恋愛小説の体をなしていささか劇的なラストを迎えるが、それは物語の構成上予想される範囲のもので大きな破綻はない。

人は何かに折り合いを付けたり、自らを納得させようとする場合でも総じて少しずつ淡々と収まるべきところに収まっていくような気がする。
つまりのところ「父さんが言いたかったこと」もそんなことなのではないか。

ローマ人の物語Ⅴ-ユリウス・カエサル ルビコン以後-/塩野七生

2008-01-11 05:51:00 | 
ガリアを制圧しローマの覇権下に収めたカエサルは、いよいよ共和制を打ち破るべくルビコン川を渡る。
旧体制の権化である元老院派のトップはポンペイウスその人。
カエサルはギリシアの地においてポンペイウスと相まみえ、これに勝利するとついにローマの最高権力者となる。
ポンペイウスは敗走したアレクサンドリアでローマ兵に殺され、これを追ってアレクサンドリアに上陸したカエサルはクレオパトラと運命の出会いを果たす。
このあたりの歴史の大きなうねりは興奮なしには読み進められない。

カエサルは新秩序を樹立するべく政治改革に着手する。
事実上元老院が牛耳る寡頭制の共和制はローマに内政の混迷をきたしていた。
カエサルは事実上機能不全を起こしていた共和制の改革を断行するのである。
つまり帝政への移行である。
カエサルは「寛容(クレメンティア)」の精神を旗印に他民族や思想信条の異なる人たちであってもローマに取り込んでいく。
そして複合的な他民族国家の統治はひとりの為政者が行うほうがよいと考えたのだった。
独裁というのは現代においてはネガティブなイメージでしかないが、カエサルの独裁は自らを利する権力を手中に収めることが目的ではない。
後世の独裁者と大きく違うのはその部分ではないかと思う。

終身独裁官として最高権力者になったカエサルにキケロをはじめとする元老院派の知識人たちは不快感を感じるようになる。
歴史的にローマの人たちは王制に強いアレルギーがある。
カエサルが王になろうとしているのではないかという疑念である。その怨念がカエサル暗殺という負のパワーを生み出していく。

カエサルが暗殺されたとき政治改革はほぼその形をなし、ローマは再び強固な国として地中海世界を治めていくはずだった。
そのグランド・デザインはほぼ描けていたはずなのに歴史は皮肉な作用を及ぼしてしまう。
カエサル暗殺を契機にローマは再び混迷していくのだ。
カエサルが後継者に指名していたオクタヴィアヌス(カエサルの妹の孫)はこのときまだ18才の若者に過ぎなかった。

オクタヴィアヌスとカエサルの片腕だったアントニウスはカエサル暗殺の首謀者であるカシウスやマルクス・ブルータスらを打ち破る。
反カエサル派を一掃した若いオクタヴィアヌスはアントニウスと今度は権力の座を巡って鋭く対立していくのだ。

ローマが再び内戦の混乱へと向かう中でカエサルの愛人としてカエサルの子どもまでもうけていたクレオパトラは
アントニウスに巧みに接近して愛人となり、アントニウスとともにオクタヴィアヌスと剣を交えることになる。
オクタヴィアヌスはアグリッパとマエケナスという同年代のブレーンとともにアントニウスを退け、クレオパトラを自死に追い込んだ。
そしてここにようやくカエサルの描いた帝政ローマが始まることになっていく。

イタリアの高校の教科書には「指導者に求められる資質は、次の五つである。知性。説得力。肉体上の耐久力。自己制御の能力。持続する意志。
カエサルだけが、この全てを持っていた。」
と書かれているそうだが、類まれなるリーダーシップと卓越した先見性をもって今につながるヨーロッパ世界の礎を築いた彼の功績は大きい。
現代においても使われているカレンダーの基本形であるユリウス暦をはじめ、
ガリア征服の過程で生まれたヨーロッパの諸都市などはカエサルなしにはありえなかった。

今から2000年も前にここまで成熟した考え方を持つ為政者がいたということに感嘆する現代の私たちは、
逆に感嘆するほど精神性においてさほどの進歩がないということを物語ってはいないか。
歴史から多くのことを学びながら、しかも文明や科学が比べようもないぐらい発達した現代においてなお
人間心理に懊悩するとは、人間とはかくもままならない存在なのだと。

今年読んだ本(2007)

2007-12-31 17:54:14 | 
ローマ人の物語Ⅰ-ローマは一日にして成らず-/塩野七生
ゆっくり歩け、空を見ろ/そのまんま東
笑い犬/西村健
真夏の島に咲く花は/垣根涼介
浮世でランチ/山崎ナオコーラ
送り火/重松清
八月の路上に捨てる/伊藤たかみ
35年目のリクエスト あの日の手紙とどけます/亀渕昭信
卒業/重松清
きみの友達/重松清
10ドルだって大金だ/ジャック・リッチー
イングランド・イングランド/ジュリアン・バーンズ
アメリカの終わり/フランシス・フクヤマ
ローマ人の物語Ⅱ-ハンニバル戦記-/塩野七生
風に舞い上がるビニールシート/森絵都
まほろ駅前多田便利軒/三浦しおん
敗因と/金子達仁・戸塚啓・木崎伸也
その日のまえに/重松清
ローマ人の物語Ⅲ-勝者の混迷-/塩野七生
「愛」という言葉を口にできなかった二人のために/沢木耕太郎
風が強く吹いている/三浦しをん
246/沢木耕太郎
酔いどれの誇り/ジェイムズ・クラムリー
ローマ人の物語Ⅳ-ユリウス・カエサル ルビコン以前-/塩野七生
さらば愛しき女よ/レイモンド・チャンドラー
鬼平犯科帳(23)特別長編 炎の色/池波正太郎
鴨川ホルモー/万城目学
守護天使/上村佑
走ることについて語るときに僕の語ること/村上春樹

29冊。読書もあまりできなかったなあ。
今年はとにかく塩野七生さんの「ローマ人の物語」に取り組んだ。
ゆっくりと読み進めたのでなかなか読めなかった。とりわけユリウス・カエサルの後半が越年してしまったのが後悔。
今年は読書に限って言えば年の初めに読んだ本は随分昔のような気がする。
前半は重松清をよく読んだ。重松氏には随分救われた。
来年も「ローマ人の物語」を続けながら、新しい作家の本もどんどん読んでいきたい。
電車の中を書斎にして・・・。