江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(23年1月28日)

2024-01-28 13:20:39 | Weblog

日曜礼拝(公現後第四)      2024.1.28

         「期待外れであっても」 列王記下5:1~15

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。1月の第四日曜日を迎えました。早いもので、今年もあと337日を残すこととなりました。私たちは、日々人を信じて歩んでいると言えます。インターネットで物の売り買いが行われます。買う側もその商品が必ず送られてくると信じ、相手側も商品到着してからの支払いなら、必ず支払ってくれると信じて売るのです。毎日天気予報士の「今日は雨が降ります。」という言葉を信じて傘を持って出かけるのでしょう。「今日は寒い日だ」と言われれば、厚着をしてでかけるのでしょう。「津波が来るので非難して下さい。」という言葉を信じて、すぐに高台に避難するのです。

人の言葉は信じるのに、神様は信じない。神様の言葉は信じないという人は多いのです。人間の言葉よりも、偉大で真実なお方、神様に目を留めること、神様の言葉を大切にしたいのです。けれども、神様の言葉を信じるということは、時には難しく感じることがあるのかも知れません。今日は、旧約聖書列王記下5章1節から15節を通して、「期待外れであっても」という題でお話いたします。

 

 Ⅱ本論部

 一、外見では見えない内側の悩み

 1節には、「アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。」とあります。アラムは現在のシリアにあたります。イスラエルとアラムは、たびたび戦争をしていました。ナアマンは、アラムの王の軍司令官で主君に重んじられた勇士であり、気に入られていた存在でした。イスラエルの戦いにおいて、イスラエルの神様ご自身が、ナアマンを用いてアラムに勝利を与えたのです。異邦人のナアマンが神様に用いられたのです。ナアマンは、アラムの王から信頼も厚く、富める者であり、社会的な地位や名誉、富を手にしていた人でした。ナアマンの成功は、神様のおかげでした。けれども、聖書は、「重い皮膚病を患っていた。」と記しています。泣く子も黙るナアマンです。軍服を着ているナアマンの姿は勇ましいものですが、軍服を脱げば、治らない重い皮膚病という弱さがあったのです。世間的には、何不自由ない満たされていると思っている人であっても、実は深刻な悩みを抱えているということが案外あるのです。

私たちは、誰にでもひとつやふたつは悩みというものがあります。ナアマンにとっては、重い皮膚病を患っていることは、大きな悩みの種でした。この病気は、回復するどころか、悪化するという特徴があったようです。ですから、どんな大きな犠牲を払っても治りたいと願った。ナアマンは、権力も財力もありますから、あらゆる手を尽くして、重い皮膚病を治療したことでしょう。けれども、この病気を治すことはできませんでした。この病気を治すことはできないという悲しい現実に直面したのです。ですから、生きていても将来も希望もない日々でした。しかしこのことが、まことの神様を知るきっかけとなるのです。自分の力では、人間の何かでは解決できない問題に直面する時、私たち人間は、神様に心を向ける可能性が高くなるのだと思うのです。順調な時は、神様に目を向けなくても十分やっていけると思ってしまいます。けれども、私たちの力や考えでは、解決できない、どうしようもない時は、神様を知る機会となることがあるのです。私たちも、不幸や災い、苦しみや痛みを通さなければ、神様に出会わなかったという方々もおられるのだと思うのです。どうすることもできない状況で、神様は恵みを用意しておられるのです。

 2節、3節には、「アラム人がかつて部隊を編成して出動したとき、彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て、ナアマンの妻の召し使いにしていた。少女は女主人に言った。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」」とあります。戦争によりアラムに負けたイスラエルから捕虜として少女が連れてこられ、ナアマンの妻に仕えていたのです。敵国の軍司令官、もしかしたら、家族はみんな殺されたのかも知れません。憎んでも憎んでも憎み切れない存在のナアマンの妻に仕えていた。そのことも少女にとっては屈辱的なことであったのかも知れません。けれども、この少女は、イスラエルの神、まことの神様を信じていました。

自由を奪われ、祖国からも、家族からも引き離された何の力もない奴隷の少女でしたが、彼女から信仰を奪うことはできなかったのです。この少女は、環境がどうであれ、立場がどうであれ、神様を信じ、信仰を持ち続けていたのでしょう。ナアマンの病気のことも知り、癒しのために祈り、ナアマン夫妻のために祈っていたのでしょう。でなければ、「「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」とは言えないはずです。この言葉は、少女の信仰告白でもあります。、彼女は、イスラエルの預言者エリシャ、神の人の存在を知り、そのエリシャを用いてみ業をなさる神様を知っていた。信じていたのです。そして、この少女の信仰告白の言葉が、ナアマンにひとつの希望を与えることになるのです。この少女は、とっておきのグッドニュースを知っていたので、黙ってはおれなかったのです。そのことを告白する自由があったのです。私たちは、幸いにも、グッドニュース、良き知らせ、福音を持っているので伝えたいのです。

 福音の種は、小さな者によって蒔かれるのです。地位や権力、財力や名声を持つ者、つまりこの世で重要だと考えられている人々は、誰もナアマンの病気を治す方法を知りませんでした。イスラエルの捕虜、奴隷の少女はナアマンの病気を治す手がかりを知っていたのです。私たち人間の世界には、解決できないことがたくさんあります。どんなに偉い政治家でも、医者でも、権威ある者、財力のある者にも解決できないのです。しかし、聖書の神様、私たちの信じる神様、イエス様には解決があることを私たちは伝えたいのです。

 

 二、オレを誰だと思ってる?

 「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」という奴隷の少女の言葉に、ナアマン夫妻は希望を見出し、アラムの王に、そのことを伝え、アラムの王は、イスラエルの王に手紙を送ると言います。5節の後半には、「こうしてナアマンは銀十キカル、金六千シェケル、着替えの服十着を携えて出かけた。」とあります。リビングバイブルには、「そこでナアマンは、贈り物として、金六千シェケル(六十八・四キログラム)と銀十タラント(三百四十キログラム)、それに着物十着を持って、イスラエルへ出発しました。」とあります。少女の言葉に期待を持ち、自分の病気が治ることを夢見て、そのお礼に莫大な量の金や銀、晴れ着を準備したのです。安くみつくろっても3億円はするようです。ナアマンの意気込み、期待がうかがえます。

 アラムの王は、ナアマンの重い皮膚病を治して下さいとイスラエルの王に手紙に書きました。重い皮膚病は治らない病気です。それを治せとは、戦争を仕掛ける理由を作っているとイスラエルの王は恐れます。そして、嘆きのポーズ、衣を裂いたのです。そのことを、預言者エリシャは知ったのでしょう。8節です。「神の人エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして言った。「なぜあなたは衣を裂いたりしたのですか。その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」」アラムで囚われの身となっている少女の信仰とアラムの王の手紙に恐れているイスラエル王の違いがわかります。9節には、「ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。」とあります。今でいえば、黒塗りのベンツの車で、高級なスーツでエリシャの家の入口に立ったということでしょう。時間をかけての旅、大人数の随員、多くの贈り物を持参しての到着でした。ナアマンは、今まで苦労し、辛い思いをしてきた重い皮膚病が癒されることを待ち望んだことでしょう。アラムの軍司令官という地位のゆえに、それなりの対応を期待したはずです。「これはこれは、遠いところをよくおいでくださいました。ナアマン様ですね。イスラエル王からの聞いております。お疲れになったでしょう。ここでお休みください。お茶をお飲みください。」のような対応を期待したのだと思うのです。けれども、現実は全く違いました。10節です。「エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」」イスラエルの国から見れば、アラムは大国です。その国の軍司令官、最高司令官です。その相手に対して、エリシャは顔を出さなかった。歓迎の挨拶もしない。ただ、使いの者、おそらくゲハジでしょう。彼に、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」という言葉だけを伝えたのでした。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」という妻に仕える少女が言った言葉に、光を見出し、期待し、その預言者エリシャに対する思いも、良いものばかりだったでしょう。きっといい人で、自分を歓迎し、手厚い治療をしてくれて、病気を治してくれる。そんな思いでいたのに、期待外れだったのです。思い込み見過ぎがあったのです。

 11節、12節には、「ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。」とあります。ナアマンは怒りました。エリシャの家から立ち去りました。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。」というのは、ナアマンの勝手な思い込みです。アラムという異教の国に住むナアマンは、呪術的なものに慣れていたのでしょう。「彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。」とあるように、今までにナアマンの病気を治療するのに、そのようなことをしたに違いありません。長旅をして苦労してここまで来たのに、川で身を洗えというのなら、アラムの国には、「ダマスコの川アバナやパルパル」の方が綺麗だと憤慨しました。

 私たちも、神様の私たちの祈りに対する答えが、自分の願った、思ったことと違った場合、全く予想もしない結果を見た時、つぶやき、憤慨し、投げ出してしまうというようなことがないでしょうか。期待外れの神様の導きを経験することが私たちにもあるのです。

 

 三、単純であれ

 ナアマンは、「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」という言葉を聞いて、期待して、重い皮膚病を治してもらうために来たのに、自分の期待通りでなかったという理由で、エリシャの態度が失礼だという、病気の癒しとは全く関係ない所につまずいてしまいました。案外私たちも、本筋と違うところに、枝葉の事に惑わされて、見るべきところ、考えなければならないところを見過ごして見落として、その目的を達せないということがあるように思うのです。ナアマンも希望を見出しながら、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」とそこに答えがありながらも、その癒しを失いそうになるのです。

 けれども、神様はここでもナアマンの癒しのために、神様の備えた人がいるのです。 

13節です。「しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」」

 エリシャが語ったこと、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」ということは、難しい事でも、無理なことでもありませんでした。あまりにも、簡単で、単純で、誰にでもできる命令でした。けれども、ナアマンにとっては、馬鹿げた、ありえない方法だったのです。ヨルダン川は汚くアラムの川の方がきれいだという理由はあっても、癒しの方法よりも、エリシャのナアマンに対する態度、癒しの方法、無礼な態度に怒りを感じたのです。家来たちは、誇るべきものがないという祝福があったので良きアドバイスをすることができたのです。

 簡単なことができないで、難しいことをやろうとするというのは、私たち人間の姿をよく表しているように思います。イエス様の十字架と復活を信じるだけで救われると聖書は語ります。簡単なことです。そんなことで救われるのですかと思う人もいる。滝に数時間打たれるとか、裸足でお百度参りするとか、自分の努力で頑張ると救われるような気になるのです。もっと聖書を読んでから、勉強してから、礼拝の生活が続けられたら、祈れるようになったら、あるいは、タバコや酒をやめられるようになったらと自分で自分の救いを難しくしてしまっているのです。そこにも、人間のプライドがあるのでしょう。簡単な事で、単純な事ならば、自分を誇ることはできないのです。しかし、難しければ、自分の努力や頑張りで成し遂げたなら、自分を誇ることができるのです。私たちは、簡単な聖書の言葉に従順になるという方法ではなく、自分の行いによる救いを求めてしまうものなのです。

聖書は、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(エフェソ2:8-9)と語るのです。

 ナアマンは、家来たちの「あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。」という言葉に、素直に従うのです。ヨルダン川に行って、身を一度洗いました。何の変化もない。2度、3度、何の変化もない。少し良い兆しがあるとか、変化があるとかわかれば、4度、5度と実行できます。しかし、何の変化もないままに、4度、5度、6度と家来たちの励ましもあり身を浸しました。何の変化も良い兆しもありませんでした。しかしナアマンは、エリシャの言葉の通りに7度身を洗ったのです。すると、14節には、「ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。」とあります。リビングバイブルには、「彼の皮膚は幼子のようにつやつやしてきて、すっかり治ったのです。」とあります。「下って行って」という言葉は、「身を低くする。へりくだる。」という意味があるようです。「俺を誰だと思っているんだ。」という傲慢な思いから、素直にエリシャの言葉に神様の言葉に、降参した。従ったのです。このこと以外にナアマンの重い皮膚病は癒されなかったのです。

 

 Ⅲ結論部

 15節には、「彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。今この僕からの贈り物をお受け取りください。」とあります。ナアマンは、神様の言葉を信じて、従って重い皮膚病が完全に癒されました。体の癒しだけではなく、「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。」とまことの神様を知り、信じ、救われたのです。ナアマンは、エリシャの言葉、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」という言葉を理解したから救われたのではないでしょう。私たちは、聖書を通して、神であるお方、イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかり、尊い血を流し、命をささげられ、死んで下さり、墓に葬られ、三日目によみがえられて、罪と死に勝利されたことを信じています。それは、十字架と復活、福音を完全に理解したから救われたというのではないでしょう。救いは、恵みであり神様の賜物、プレゼントなのです。

 私たちは、期待外れの事が多くあるのかもしれません。しかし、自分の思い通りに行くことが幸せなのではなく、期待外れだからこそ自分を見つめ直し、神様に目を留めるのです。捕虜とされた少女は、期待外れの人生だったでしょう。しかし、彼女は最悪の環境の中で神様に目を留め、ナアマンの癒しのために用いられました。ナアマンの家来も、位も力もありませんが、ナアマンを愛し、ナアマンの癒しを願っていたからこそ、必要なアドバイスをすることができたのです。弱くてもいいのです。小さくてもいいのです。環境は関係ありません。神様は小さい者、弱い者を神様のみ業のために用いるのです。私たちは、ナアマンのように、奴隷の少女の言葉、家来の言葉に聞き、従ったように、私たちのそばに置かれている方々の意見や言葉を大切にして従いたいのです。神様のなさることは、派手なことではないのです。神様の業を妨げるのは、人の期待とプライドなのです。

今年も、自分の願ったことや祈ったことではなく、期待外れの事が多くあるのかもしれません。しかし、私の期待外れだからこそ、その背後に神様の確実な備えと祝福があるとこと信じて、期待して、この週も神様の言葉、聖書の言葉に触れて、信頼して歩んでまいりましょう。 

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日曜礼拝(24年1月21日) | トップ | 日曜礼拝(24年2月4日) »

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事