江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2017年7月31日)

2017-07-30 16:37:32 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第七)  2017.7.30

   「愛が訳ありの私を変えた」 ヨハネ4:27~30.39~42

 

 Ⅰ導入部

 お早うございます。7月の第五日曜日を迎えました。 今日は賛美礼拝として礼拝を守っております。第一礼拝は、中高生の皆さんと合同礼拝です。いつものことながら、壮年会の特別賛美は力強いですね。感謝です。

本格的な夏を迎え、毎日暑い日が続いておりますが、皆さんお元気でしょうか。暑さの中にも、神様のお守りがお一人おひとりの上にありますようにお祈りしております。

 昨日は、ユーオディアのコンサートがあり、青葉台教会から保坂兄、田宮姉、柳瀬雄太兄が参加されました。本当に、素晴らしい演奏と素晴らしい賛美でした。

 さて、今日はヨハネによる福音書4章28節から30節、39節から42節を中心に4章を通して、「愛が訳ありの私を変えた」という題でお話し致します。この愛とは、神の愛、イエス・キリスト様の愛です。

 

 Ⅱ本論部 

 一、あなたの所にも来て下さる主イエス様

 ヨハネによる福音書4章28節、29節には、「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかも知れません。」」とあります。4章7節には、「サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。」とあります。サマリアの女性とイエス様との出会いの場面です。

 サマリアの女性は、井戸に水をくみに来たのです。当時の女性は、水をくむという役目がありましたから、女性ならば誰もが水を汲むという働きをしていたのですが、この女性はちょっと訳ありでありました。ですから、当時は、涼しい時に水をくみに来るはずですが、この女性は、正午ごろに水をくみに来たのです。それは、暑い時間ですから、他の女性は誰も汲みに来ない時間帯でした。彼女は、他の女性たちが、汲みに来ない時間帯に、あえて水をくみに来たという訳ありだったのです。

 イエス様は、旅の疲れで井戸のそばに座っておられたので、本来ならば、誰も水を汲みに来ない時間帯に、彼女が水を汲みに来たので、「水を飲ませてください」とイエス様の方から声をかけられたのです。

 けれども、当時は、男性から女性に声をかけるということはありませんでした。しかも、ユダヤ人がサマリア人に声をかける、交わる、かかわるということはなかったのです。ですから、9節で、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしにどうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。」と問うています。驚いているというのが現実です。

 サマリアの女性がイエス様に声をかけられ、びっくりしたというのが初対面でした。サマリアの女性が、「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかも知れません。」と言ったということは、彼女に大きな変化があったということを示しています。

 人生には、いろいろあります。人に言えない出来事もあります。絶対に知られたくない

内容もあるでしょう。辛く、苦しい、悲しい現実の中でも生きていかなければならない人生があります。生きていくためには、サマリアの女性のように、水を汲むという現実があり、他の女性と顔を合わせたくないので、暑い時間に、水を汲まなければならない現実の中にある彼女にイエス様は出会って下さり、人目を避けていた人生、人前には二度と出られない人生が、自ら人々の前に出て行くという人生に変えられたのです。

 私たちにも暗い現実、訳ありがあるでしょう。しかし、イエス様は、「サマリアを通らねばならなかった。」(4節)と聖書が語っているように、悲しみ苦しんでいるサマリアの女性を救うために、イエス様はサマリアに来られたのです。そして、あなたを救うために、あなたの所にも来て下さるのです。

 

 二、イエス様こそ解決の道

 いろいろな事情を抱え、人前に出ることができなかったサマリアの女性が、人々の前に出て行き、イエス様を伝えたという背後には何があったのでしょうか。

 イエス様が、サマリアの女性に「水を飲ませてください」とイエス様の方から声をかけられ、彼女は驚きました。その時イエス様は、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、「水を飲ませてください」と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」(10節)と言われました。 「生きた水を与えたことであろう。」と言われて、サマリアの女性は、汲む物を持っていないし、井戸は深いのに、どこから生きた水を手に入れるのか。ヤコブよりも偉いのですか、と質問しました。するとイエス様は彼女に言われたのです。「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」」(13-14節) 驚くべき言葉でした。イエス様が与える水は、決して渇かない。イエス様の与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。すごい言葉でした。勿論、イエス様は肉体的な事柄、一度その水を飲めば、のどが渇かない、という意味で言われたのではありません。しかし、サマリアの女性は、のどが渇かない水のことだと勘違いして言いました。 「女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」」(15節)

 毎日、暑い日が続き、水分をこまめにとるようにと天気予報でもよく聞きます。実際、夏の暑さの中で、私たちは水分補給をします。外での仕事は、水分を取らなければ熱中症になってしまいます。自動販売機の水やお茶は、すぐになくなってしまいます。何度も何度も、水分を取らなくてはなりませんから、この水を一度飲めば、のどが渇かなくなる水なるものがあれば、それは助かります。そんな水があればほしいと誰もが言うでしょう。

 サマリアの女性は、渇かなくなる水がほしかったのです。訳ありだったのです。毎日、毎日、水を汲みに来なければなりません。訳ありですから、人前には出たくはない。人に自分の存在を知られたくない。見られたくない。そう思っていた彼女は、涼しい時間帯には当然、多くの女性が水を汲みに来るのですから、その時間帯を避けて、できるだけ水を汲みに来ない時間帯、暑い時にしか、水を汲みに来なかった。その事を考えると、いやでいやで、たまらない。苦しくて仕方がない。だから、もう水を汲みに来なくていいような、のどが渇かないようになる水があるならば、何としてでも欲しい、喉から手が出るぐらいに、その水が欲しかったのです。

 自分の思い通りになるもの、自分の隠したい部分をかくせるもの、今現実に苦しんでいる事柄からの解放のために、解決できるものなら、それがほしい、それが私たちだと思うのです。私たちが経験する苦しみや悲しみ、痛み、どうしようもなく辛い事、そのような事を全てイエス様は知って下さり、私たちに寄り添って下さるのです。そして、イエス様だけが、解決の道を持っておられるのです。

 

 三、イエス様はあなたの全てを知り、あなたを救われる

 サマリアの女性は、「その水をください。」と望みました。求めました。道を求めたのです。するとイエス様は変な事を言われました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」 渇かない水がほしい、ことと彼女の夫とどう関係があるのでしょうか。

 聖書では、夫と妻の関係をキリスト教会との関係を説明するときに話されることがあります。(エフェソ5;22-33) 夫と妻との関係が正しい関係、良い関係にある時には、全てのものを共有し、二人でありつつ一人であり、一人でありつつ二人であるという関係にあると思います。二にして一とか、一にして二というような関係というものは、ある意味では人間の限界を超えた世界に属し、人間を超えた力、神様によってはじめて可能になり、現実の体となるのではないでしょうか。言い換えれば、夫婦とは、神様によって結ばれ、神様に共通にかかわり、二人が共に神様に応答していくという生活を、夫と妻がお互いに実践するときに、初めて夫と妻の関係が真実になるのだと思うのです。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」とイエス様が言われた時、サマリアの女性の夫と妻という関係が問われたのだと思うのです。

 彼女は答えました。「わたしには夫はいません。」(17節) イエス様は彼女の過去の経験をご存知であり、「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」(18節)と言われました。彼女は、嘘をつくこともできました。知らんぷりもできたでしょう。けれども、正直に答えたのでした。ある意味では、真実の告白だったのです。この告白の中に、夫と妻という真実な交わりを失い、結婚と離婚を繰り返すという孤独の中に投げ出されたみじめな人間、訳ありの彼女の姿を見ることができます。いろいろな訳は違いますが、多かれ少なかれ、私たちもそれぞれに課題や問題を抱えているのではないでしょうか。その問題を、神様の前に、イエス様の前に正直に告白したいと思うのです。

 サマリアの女性は、現実的に見たら、ふしだらで、夫と妻としての真実の交わりを失い、肉体的な欲は満たされても、人としては孤独な人生を送って来たのです。そのありのままの、その悲しさ、切なさ、痛みをイエス様は知っていて下さるのです。

 この後、礼拝の事、礼拝の場所のことが語られますが、イエス様は彼女に言います。「婦人よ、わたしを信じなさい。」(21節)と。イエス様との会話の中で、サマリアの女性は、キリストと呼ばれるメシアが来られる時、すべてのことを知らせて下さると言うと、イエス様は、「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」(26節)と言われたのです。

 「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかも知れません。」」とイエス様をメシアかも知れないと思い、信じつつ、町に出て行き、イエス様のことを多くの人々に話したのです。ここに、彼女の大きな変化があったのです。

 私たちもイエス様に出会い、イエス様によって変えられた者の一人です。イエス様は、私たちの罪を赦すために、十字架にかかり、尊い血を流し、命をささげて下さったのです。イエス様が私たちの罪の身代わりに、神様に裁かれ、私たちの身代わりに死ぬことによって、訳ありの私が、ありのままの私が、そのままで赦されるという驚くべき恵みをいただいたのです。そして、イエス様が「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」言われたように、イエス様が死んで葬られ、三日目によみがえることにより、私たちに永遠の命を与えて下さったのです。十字架と復活を通しして、神様の愛によって私たちは、変えられたのです。そのことを感謝したいと思うのです。

 

 Ⅲ結論部

 悲しい人生を送っていたサマリアの女性、人前を避け、孤独の人生を送っていた彼女をイエス様「は見捨てませんでした。彼女一人を癒し、救うために、「サマリアを通らねばならなかった。」とイエス様の強い意志、愛の心を見ることができます。であるならば、同じように、クリスチャンとして、神様を信じて生きていく中において、困難や苦しみ、痛みや悲しみを経験しているあなたのそばをイエス様は通りすぎることはなさらないのです。イエス様が自分の事を考えて下さらないかのような現実の厳しさ、現実があるかもしれません。でもそれは、イエス様があなたを見離しているのではありません。そこには、イエス様のみ心、お考え、ご計画が確かにあるということです。現実がどのように厳しくても、困難でも、復活のイエス様は、いつもあなたとあなたの教会と共におられ、サマリアの女性の所に来られたように、いつもあなたのそばにおられ、あなたを支え、あなたを守り、解決の道を与えて下さるのです。恐れることはありません。イエス様はサマリアの女性に言われたように、あなたにも語られるのです。「わたしを信じなさい。」と。

この週も、「わたしを信じなさい。」と言われるイエス様と共に歩んでまいりましょう。そして、イエス様の恵みに満たされて、イエス様の愛に押し出されて、私たちもイエス様のことを誰かに紹介したいと思うのです。イエス様の愛は、訳ありの私を変えたのです

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