江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2019年4月7日)

2019-04-07 13:39:17 | Weblog

日曜礼拝(受難節第五)     2019.4.7

 

     「後悔などあろうはずがない」 ヨハネ12:1~8

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。4月の第1曜日を迎えました。2019年度の最初の礼拝です。

私は、青葉台教会に来て18年が終わり、19年目に入ります。今年も皆さんと共に、礼拝を通して、神様のみ言葉に養われ、神様の恵みを多く経験したいと思います。

今日は、受難節の中ですので、ヨハネによる福音書12章1節から8節を通して、ナルドの香油を注いだマリアの姿を通して、「後悔などあろうはずがない」という題でお話し致します。「後悔などあろうはずがない」という言葉は、あれっ、どこかで聞いたような、ということですが、それです。

 

Ⅱ本論部

一、私は私の仕方でイエス様に仕える

ヨハネによる福音書11章には、ラザロの死とよみがえりについての記事があります。ラザロの姉妹マルタ、マリアはラザロの死を通して、深い悲しみを経験し、イエス様がそこに居合わせなかったことを心から悔いて、残念に思っていましたが、イエス様がラザロをよみがえらせて下さって、大きな慰めを与えられました。

今日の記事は、ベタニアでの話です。2節には、イエス様のために夕食が用意されたとあります。そして、マルタが給仕をし、ラザロも食事の席にいたというので、この家はマルタ、マリア、ラザロの家ではなかったと考えられているようす。ラザロをよみがえらせて下さったイエス様に対して、マルタは自分のできることで、イエス様のためにごちそうを作ることで、イエス様におもてなしをしようとしたのではないでしょうか。ルカによる福音書10章では、マルタは忙しさのあまり、また、マリアが手伝わないでいることに腹を立て、怒りを爆発したことがありましたが、今回は忙しさに追われて自分を見失うことなく、自分のできることでイエス様に精一杯仕えていたのです。

ラザロはラザロで別に話すこともなく、何もしていない。その食事の席に座っていただけでしたが、今日の箇所ではありませんが、9節には、「イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。」とあるように、ラザロは死んでよみがえったという証人というだけで、存在そのものが大きな力、影響があったわけです。ラザロもイエス様に死からよみがえらされたということにおいての証人という彼でなければできない仕方で、方法でイエス様を証ししていたのです。

マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来てイエス様の足に塗りました。マリアは、自分の家にある最も高価なものをイエス様にささげたのです。これは、マリア一人のものではなく、ラザロ、マルタとの共有の財産ともいうべきものだったのかも知れません。3人で考えて、イエス様がラザロにして下さった大きな恵みに対して自分たちの精一杯の気持ちを現したのではないでしょうか。

私たちは、日々神様の恵みによって生かされています。イエス様の十字架と復活を通して、魂に救いが与えられ、罪が赦され、永遠の命の約束が与えられました。その大きな恵みに私たちも、人を見るのではなく、人のまねをするのでもなく、自分にできる自分なりの精一杯の仕え方でイエス様に仕えていきたいと思うのです。この1年、私たちも喜んで、自分のできることで、精一杯イエス様に仕えて生きる者でありたいと思うのです。

 

二、誰がなんと言っても喜んでささげる

マリアは高価な香油をイエス様にささげました。世界で最も高価な香水というものがあります。世界第5位は、フランスのキャロン・ボイビアというもので、10万円。4位は、イギリスのクライブ・クリスチャンの22万円。3位は、シャネルのグランドエクストレイトで44万円。2位は、ロンドン・ハロッズのフランキンセンスと、ミルラのブレンドで71万円。1位は、クライブ・クリスチャン、皇帝陛下の香水で1300万円、しかし、これは5カラットのダイヤモンドと18カラットの純金が入ったものだというので、香水自体ではないようです。すると、世界一高価な香油、香水はマリアがイエス様にささげたナルドの香油300デナリオン、約1年間の給料分300万円ということでしょうか。それほどに、高価なナルドの香油をマリアはイエス様にささげたのです。

なかなかできることではありません。高価であれば高価な香油こそ、少しずつ使うものです。しかし、マリアはイエス様に全てをささげたのです。聖書は、「家は香油の香りでいっぱいになった。」(3)と記しています。

マリアのあまりにも太っ腹の、大胆なささげものに文句を言う者がいました。それは、イエス様の弟子の一人のイスカリオテのユダでした。弟子たちの多くは、ガリラヤの田舎出身でした。しかし、ユダは、カリオテの出身で都会、シティーボーイでした。彼はイエス様から会計を預かっていました。12弟子の中には、徴税人マタイがいましたので会計に関しては専門家でしょう。それにもかかわらず、ユダはイエス様から会計を預かるほど、大きな信頼があったということと、会計に関しては徴税人のマタイ以上にその働きに関して有能だったのだと思うのです。

ユダは言います。5節です。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 リビングバイブルには、「全くもったいない話だ」とあります。

一瞬のうちに注がれて、もったいないことなのです。300円だったら、ユダも見向きをしなかったでしょう。そんなにむきになることもなかった。しかし、1年分の給料となると黙ってはおけなかった。言わずにおれなかったのです。どうしてユダが、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」と言ったか、という理由を説明しています。6節です。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」 そんなに無駄にするなら、高価な香油を金に換えて、貧しい人々に施せばいいという事は、おそらく誰もが認める正当な考えでしょう。しかし、その言葉とは裏腹に、ユダは貧しい人々の事を考えて言ったのではなく、彼自身が盗人であり、金入れを預かりながら、中身をごまかしていた。つまり、自分のために使っていたということでしょう。そういう思いがあるから、マリアの純粋なイエス様に対する感謝の思いを、心を理解することができなかったのです。理解どころか腹を立てたのです。

 私たちクリスチャンに対して、神様を信じない人々は、日曜日の礼拝を毎週行かなくてもとか、そんなに献金しなくてもとか。そんなに時間をささげて奉仕しなくてもと言うかも知れません。でも、私たちは、いやいや礼拝に出席したり、献金したり、奉仕をしているのではありません。イエス様の大きな恵みに対して、感謝して、喜んで時間も財も、私たち自身も神様におささげするのです。喜びなのです。感謝いっぱいなのです。

 

三、イエス様が喜ばれたささげものになる

マリアの行為に対して批判するユダにイエス様は語られました。7節を共に読みましょう。「イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」 マタイやマルコでは、他の弟子たちも同じように批判していますから、イエス様は弟子たちに言われたのでしょう。マリアのするままにしてあげなさい、と言われました。マリアの行為を受け入れられたのです。しかも、「わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」と言われました。

イエス様は、ご自分が祭司長や律法学者に捕らえられ、苦しめられ、十字架につけられて殺される、ということを弟子たちに何度か話されたことがあります。けれども、弟子たちは、その話を真剣に聞こうとしませんでした。ペトロはイエス様の十字架を否定して、イエス様から「サタン、引き下がれ」とおしかりを受けました。弟子たちは、イエス様の死とか十字架とか考えたくなかったのです。力ある奇跡を起こし、権威ある言葉を語るイエス様について行けば、自分たちもこの世的に権威や力を持つことができると期待していたのです。本当ならば、弟子たちがまず、イエス様の死を真剣に受け止め、イエス様の死のための備えをすべきでした。けれども、彼らには到底できなかったのです。

マリアは、この高価な香油を愛する兄弟ラザロが死んだ時使ってもよかったのです。また、他の何かでこのナルドの香油を使ってもよかったのです。しかし、マリアはイエス様の葬りのために取って置いた、とイエス様は言われたのです。

イエス様が、カナでの最初の奇跡、水をぶどう酒に変えられた時、世話役は、「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」と言って花婿を称賛しました。今度は、マリアがイエス様の死の葬りのために、良き香油をイエス様の葬りのために取って置いた、とイエス様ご自身が称賛したのです。

マリアは、イエス様の頭ではなく、イエス様の足に香油を塗りました。油注がれた者とあり、王や祭司、預言者は、頭に油を注がれて任命されました。しかし、マリアはイエス様の足に塗ったのです。頭以外に香油を注ぐということは、死者に対しての行為でした。死体に香油を塗るというのは足に塗るのでしょう。マリアはイエス様の死を意識していたからこそ、頭ではなく足に香油を塗ったのです。おそらく、マリアはイエス様がご自分の十字架の預言を語られた言葉を聞いたことがあるのではないでしょうか。すぐ後にイエス様が十字架にかかるということはわからなかったとしても、イエス様の死を意識していたのだと思うのです。だからこそ、イエス様は、「わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」と言われたのです。

8節でイエス様は、貧しい人々のことを軽視したのではなく、マリアが今タイムリーにささげた香油がイエス様の死の備えとなったことを示されたのでした。貧しい人々へのささげものも大切にするべきだけれども、救い主であるお方が全人類の罪のために死ぬという神様の救いのご計画、その大切な時、マリアの精一杯の、心のこもった、イエス様の死を意識した最高のささげものをイエス様は喜んで受け入れられたのです。そして、その最高のさげものに対して自分の自己中心的な考えで、否定し、責めるユダ、弟子たちを戒め、マリアの行為がいかにイエス様ご自身にとって、大きな慰めであり、力であることかを示されたのでした。

イエス様は、私の罪のために、あなたの罪のために十字架にかかって死んで下さいました。罪のないお方、十字架で裁かれるはずのない、裁かれてはいけないイエス様が、私たちの罪を赦すために、私たちに代わって十字架で私たちの罪の罰を受け、尊い血を流し、ご自分の命を犠牲とされ、私たちのために命をささげて、命を落として、私たちを救って下さったのです。死んで終わりではなく、よみがえって私たちにも死んでも生きる永遠の命、天国の望みを与えて下さったのです。このような大きな恵みを私たちは与えられているのです。この大きな恵みに私たちもマリアのように大きな事はできないかも知れません。自分のできる精一杯のささげものをイエス様に喜んでおささげしたいと思うのです。

 

Ⅲ結論部

今日の説教題は、「後悔などあろうはずがない」という題です。これは、野球人生にピリオドを打った、イチロー選手が、引退の会見で言った言葉です。あの観衆、あの人々の自分に対する歓迎、声援を見たら、「後悔などあろうはずがない」と言い切ったのです。本当に努力を重ね、いろいろな記録を打ち立ててきた人です。すごい人です。けれども、努力の足りなさを感じるかもしれない。もっとああしたかった、こうしたかったという後悔はないわけではない。しかし、そんな自分に惜しみなく拍手をお送り、たたえる観衆の姿に、その声援を見たら、「後悔などあろうはずがない」真実な言葉だと思います。

マリアは、ユダや弟子たちに、「もったいない」となじられました。自分の精一杯のささげものにケチをつけられました。精一杯の、心からの、喜んでささげたことに対するいやみは聞こえたけれども、イエス様にささげることのできる喜びに「後悔などあろうはずがない」ということだと思うのです。また、イエス様も私たちのために十字架にかかって死んで下さったことを「後悔などあろうはずがない」、イエス様の愛の行為であったのです。

2019年度が、始まりました。昨年、私たちは青葉台教会の創立50周年を迎え、多くの恵みを体験しました。今年は、どのような事が起こるのかわかりません。前の岩淵兄弟の説教題のように、「何が何だかわからない」というような事も起こるでしょう。辛い経験や悲しい経験もするでしょう。失敗があるかも知れません。しかし、大丈夫です。私たちのために命をささげて愛して下さったイエス様がいつもあなたと共におられ、あなたを守り、支え、導いて下さいますから、どのようなマイナスを経験しようとも、私たちは言えるのです。「後悔などあろうはずがない」と。イエス様がそう言わせて下さるのです。私たちは、このイエス様に愛されています。この週も、私たちはイエス様と共に置かれた場所で、喜んで感謝を持ってイエス様にお仕えしていきたいと思うのです。

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