江戸観光案内

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両国広小路

2014-07-26 | まち歩き

両国広小路は、両国橋の西詰にかつて存在した火除地(ひよけち)です。火除地というのは、火災を食い止めるために設けられた広場のこと。江戸の頃は、この広場に仮設の茶屋や見世物小屋が建ち、大いに賑わったと言います。現在は靖国通が走り、当時の面影はありません。


両国の地名は、現在の行政区割りでは、両国橋の東側の地域のみを指します。大相撲のイメージとも相俟って、両国国技館周辺を頭に思い浮かべる人も多いことでしょう。しかし、かつては両国橋の西側の地域こそ、本家の両国でした。


両国橋は、架橋された当時は、単に「大橋」と呼ばれていましたが、当時は隅田川が武蔵国(大雑把に言えば現在の東京)と下総(千葉)を分ける国境であったことから、後に「両国橋」と呼ばれるようになりました。そのため、両国橋のどちらの橋詰にも「両国」の地名が在り、西側が「両国」、東側が「東両国」と呼ばれていました。しかし、昭和40年代に、西側の「両国」が「東日本橋」へと改められたことで、本家「両国」の名が消え、東側が「東両国」から「両国」となります。長い歴史からすれば、ごく最近まで両国橋の西側は「両国」と呼ばれていたと言えますが、とは言え、既に40年もの歳月が過ぎていますから、西側こそ「両国」だったと聞いても、ピンとくる人は多くは無いでしょう。浅草橋の近くに在る「両国郵便局」の名は、西側が「両国」と呼ばれた当時の名残りです。


両国広小路の火除地は、葉室麟著「いのちなりけり」(文藝春秋)の終盤に登場しています。主人公・雨宮蔵人は、罠だと知りつつ、敵からの呼び出しに応じて両国橋へと向かいます。作品の中では、両国広小路の名は出てこず、単に「両方の橋詰は火災が起きた時のために火除地となっていた。」とのみ記されています。従って、この一文からだけでは、蔵人が両国橋の西側と東側のどちらから両国橋を目指したのかは分かりません。しかし、蔵人がこの呼び出しに応じる直前、神田の飛脚屋・亀屋に泊まっていたことを考えれば、両国広小路側から両国橋を目指したと考えるのが自然と言えるでしょう。


両国広小路の石碑 東京都中央区東日本橋2-24

都営浅草線東日本橋駅から約400m 徒歩約5分


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