江戸観光案内

古地図を片手に江戸の痕跡を見つけてみませんか?

天王寺

2012-07-14 | まち歩き

天王寺は谷中に在る天台宗の寺院です。古地図[1]には、徳川家の菩提寺である上野・寛永寺の西隣に、寛永寺ほどでは無いものの、相当に大きなお寺として描かれています。現在の天王寺の目前に広がる都立谷中霊園の多くの部分は、かつて天王寺が所有した土地でした。


天王寺の創建は、一般には室町時代と言われており、現存する寺院の中で、江戸時代以前に創始の寺院が多くはない都内においては有数の古刹の一つです。創建の頃は感應寺という日蓮宗のお寺でしたが、元禄十二年(1699年)に江戸幕府の命令により強制的に天台宗に改宗させられました。天王寺と名称を改めたのは天保四年(1833年)のことで、それ以前に発行された別の古地図[2]には、確かにこの地には感應寺と記されています。
江戸時代には、江戸幕府公認の富くじ(現在の宝くじ)が興行され、目黒不動、湯島天神と共に「江戸の三富」として大いに賑わったそうです。


現在の天王寺の門を潜ると、本堂に向かって左側に座高8尺(約2.4m)の大仏様が鎮座されておられます。あまりに綺麗にお姿なので、近代に造られたもののように思えますが、制作されたのは元禄三年(1690年)と300年以上昔のことです。寛永寺にかつて存在した上野大仏は、現在ではお顔だけのお姿になっていますが、ここ天王寺の大仏様は今も昔と変わらぬお姿のままで在られます。


天王寺は、池波正太郎著「谷中・いろは茶屋」(鬼平犯科帳(二)に収録、文藝春秋)の中で、“ここは「いろは茶屋」とよばれる岡場所であって、貞享の時代から谷中・天王寺門前にひらかれた遊所だ。”との記述で登場しています。しかし、長谷川平蔵が活躍した時代には、先に記した通り、天王寺では無く、感應寺と呼ばれていました。池波先生がその事実を知らなかったはずは無いので、あえて天王寺とお書きになられたのは、その方が読者が想像を働かせやすいとの配慮からではなかったかと想像されます。


[1] 御江戸大絵図、天保十四年(1843年) ※人文社から復刻地図が出版されています。
[2] 明和江戸図、明和八年(1771年)/古地図史料出版(株)復刻地図


天王寺 東京都台東区谷中7-14-8

JR山手線日暮里駅より約240m 徒歩約3分


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天王寺の大仏様


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