江戸観光案内

古地図を片手に江戸の痕跡を見つけてみませんか?

柳橋

2012-03-17 | まち歩き

柳橋は神田川の最も下流、隅田川と神田川が合流するところに架かる橋です。架橋は元禄十一年(1698年)で、その当時は川口出口之橋(かわぐちでぐちのはし)と呼ばれていました。それが柳橋と呼ばれるようになった由来は明確になっていませんが、有力な説としては、①矢の倉橋が矢之城(やのき)橋となり、更に柳橋になる、②柳原堤(柳原土手)の末にあったことに由来する、③橋のたもとに柳の木があったことに由来する、の三つがあるそうです。


ここでちょっと古地図[1]を開いて、柳橋よりやや南側に在る薬研堀に目を転じて見ると、「元柳橋(元ヤナギハシ)」という橋があることに気付きます。薬研掘に架かるこの橋は、元が付く以前には柳橋と呼ばれていました。この地には元禄の頃に矢之倉というお堀に囲われた幕府の倉が在りましたが、薬研掘は矢之倉が無くなった後に、そのお堀の一部が残ったものです。


これらのことより想像を働かせると、柳橋の由来は上記①~③のいずれか一つが正解というよりも、二つの柳橋と関連していずれもが正解なのでは無いかと考えられます。即ち、(a)矢之倉の掘に在った橋が矢之倉橋と呼ばれるようになり、それが後年、柳橋になった、(b)神田川の橋は、柳原土手の柳などから、通称として人々から柳橋と呼ばれるようになった、(c)矢之倉の堀が薬研堀となり、柳橋の名前は神田川の橋に譲られて、こちらが正式な「柳橋」となり、元々の柳橋は「元柳橋」と呼ばれるようになった、とは考えられないでしょうか。飽くまでも古地図を眺めての大胆な仮説に過ぎませんがいかがでしょうか。


現在の柳橋は、関東大震災(1923年)でそれ以前の橋が落ちたため、復興事業として昭和4年(1929年)に架橋されたものです。橋のたもとには少々風化が進んでいますが震災復興の記念碑が在ります。都内にはこの柳橋のほか、隅田川に架かる清洲橋や永代橋等、未だ震災復興事業で架けられた橋が多く残っています。

東日本大震災から1年が経っても未だ復興の息吹を感じられません。しかしこの橋が架かったのは関東大震災から6年後であることを考えれば、直ぐに復興の結果を出すことはやはり難しかろうかと思われます。たとえ今の一歩一歩は小さくても確実に復興の日へと近づいているはずです。柳橋たもとの復興記念碑と同じような復興記念碑を東北の地に建てられる日が一日も早く訪れることを祈念しています。


時代小説の中では、柳橋は橋そのものよりも、むしろ橋の北側にある花街の地名として度々登場します。柳橋そのものが登場する回数はそれに比べればかなり少ないのですが、宮部みゆき著「ぼんくら(下)」(長い影の章、新潮社)では、主人公の定町廻り同心、井筒平四郎が柳橋のたもとから船に乗る場面があります。また、藤沢周平著「海鳴り(下)」(野の光景の章、文藝春秋)では、主人公の小野屋新兵衛が駕籠に乗って柳橋を渡る場面があります。


柳橋が登場するその他の作品

  • 池波正太郎著「雪の果て」(鬼平犯科帳(十九)に収録、文藝春秋)

[1] 御江戸大絵図、天保十四年(1843年) ※人文社から復刻地図が出版されています。


柳橋北詰 東京都台東区柳橋1-2-15
JR・都営浅草線 浅草橋駅から約400m 徒歩約5分


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柳橋のたもとにある関東大震災の復興記念碑


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