かつては大伽藍を誇ったという飛鳥寺も現在では本堂(中金堂)と観音堂と鐘楼だけの敷地も狭い「安居院」という
名のお寺になっています。真言宗豊山派のお寺です。山門前には江戸中期の寛政4年(1792)に造られた
「飛鳥大佛」の道標が創建当初の礎石の上に乗って置いてあります。


本堂(中金堂)の本尊は釈迦如来でこの像は日本で最初に造られた仏像です。僕が始めてこの本尊を拝観したのは
もう6年前ほどになりますが、衝撃をうけました。その痛々しいお姿に。

体もお顔も疵というか修復の跡がはっきりわかります。聞くと建久7年(1196)の火災で像の大部分が
破損して元からあった部分は目のまわり・左耳・右手の第2・3・4指のみだということです。
飛鳥大仏・・・『日本書紀』によれば推古天皇14年(606)で止利仏師によって造られました。日本国内で
造られた仏像としては最古になります。最古の仏像ですが、その像の大部分が後世による修補なので
国宝ではなく重文指定に留まっています。しかし、それは仏像を文化財としてみた評価であって、仏尊としての
尊格の評価ではありません。
6年前に初めて拝観した時に、その痛々しいお姿に最初は驚きはしましたが、次第に心安らぐ思いに変わりました。
表情は止利仏師による飛鳥仏特有のアルカイックスマイルで右手は上げて手のひらを見せる施無畏印、これが
まるで「よう来たのう、まあゆっくりしていってや!」って語りかけられているように感じました。
建久7年の火災によって体の大部分は失われ、また像を安置するお堂もなく江戸後期の再建までの約600年間
ほどは、ほとんで吹きさらしの状態でぽつんと置かれていたそうです。しかし造立から1400年、その座する地は
変わっていなくて同じ場所にずっとおられたということです。あの杏仁形の大きな眼で同じ場所から
1400年の歴史をずっと見てこられたのです。そう思うと鳥肌たつほどの感動を覚えました。
この釈迦如来像は写真撮影ができます。堂内の本尊の写真撮影が許可されているというのはかなり珍しいです。
勤行した後に遠慮なく上掲の写真を撮らせていただきました。
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名のお寺になっています。真言宗豊山派のお寺です。山門前には江戸中期の寛政4年(1792)に造られた
「飛鳥大佛」の道標が創建当初の礎石の上に乗って置いてあります。


本堂(中金堂)の本尊は釈迦如来でこの像は日本で最初に造られた仏像です。僕が始めてこの本尊を拝観したのは
もう6年前ほどになりますが、衝撃をうけました。その痛々しいお姿に。

体もお顔も疵というか修復の跡がはっきりわかります。聞くと建久7年(1196)の火災で像の大部分が
破損して元からあった部分は目のまわり・左耳・右手の第2・3・4指のみだということです。
飛鳥大仏・・・『日本書紀』によれば推古天皇14年(606)で止利仏師によって造られました。日本国内で
造られた仏像としては最古になります。最古の仏像ですが、その像の大部分が後世による修補なので
国宝ではなく重文指定に留まっています。しかし、それは仏像を文化財としてみた評価であって、仏尊としての
尊格の評価ではありません。
6年前に初めて拝観した時に、その痛々しいお姿に最初は驚きはしましたが、次第に心安らぐ思いに変わりました。
表情は止利仏師による飛鳥仏特有のアルカイックスマイルで右手は上げて手のひらを見せる施無畏印、これが
まるで「よう来たのう、まあゆっくりしていってや!」って語りかけられているように感じました。
建久7年の火災によって体の大部分は失われ、また像を安置するお堂もなく江戸後期の再建までの約600年間
ほどは、ほとんで吹きさらしの状態でぽつんと置かれていたそうです。しかし造立から1400年、その座する地は
変わっていなくて同じ場所にずっとおられたということです。あの杏仁形の大きな眼で同じ場所から
1400年の歴史をずっと見てこられたのです。そう思うと鳥肌たつほどの感動を覚えました。
この釈迦如来像は写真撮影ができます。堂内の本尊の写真撮影が許可されているというのはかなり珍しいです。
勤行した後に遠慮なく上掲の写真を撮らせていただきました。


岡寺から出て飛鳥寺へ。途中に飛鳥板葺宮跡なども通り、田んぼのあぜ道の先に飛鳥寺はあります。

飛鳥寺・・・法興寺・元興寺・本元興寺・安居院・・・と飛鳥寺は時代とともに寺名も変わっていきました。
飛鳥寺は日本に仏教が伝来してから、初めての伽藍(大門・回廊・塔・金堂・講堂)を持つ本格寺院です。
日本書紀によれば推古天皇4年(596)に創建したとあります。
現在は江戸後期に再建された堂宇が残るのみですが、創建当時は塔を3つの金堂が囲み回廊を廻らし、大講堂を
配置した大伽藍でした。(復元図、wikiより転載)

それまでは藁葺きや茅葺の建物しかない飛鳥の宮都に瓦葺で彩色の壮麗な建物が出現したわけですから、
当時の人達の驚きと感嘆も大きかったと思います。これ以降、斑鳩には斑鳩寺(法隆寺)、難波には四天王寺と
聖徳太子によって大きな寺院が造られていきます。
創建当時は法興寺と称し、やがて平城京遷都とともに元興寺と名を改めて平城京に移ることになります。
(元興寺は奈良市内に現存する)しかし、法興寺の本尊である釈迦如来(飛鳥大仏)はそのまま残り、本元興寺
とも呼ばれ、飛鳥の地名から飛鳥寺とも言われるようになったといいます。
奈良時代・平安時代を経てもなお大きな伽藍を残した大寺院であったようですが、火災が相次ぎ、鎌倉初期の
建久7年(1196)の火災により飛鳥以来の建物はすべて消失したそうです。
現在の本堂は江戸末期の再建ですが、その堂前にかつての金堂の礎石が残っています。


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飛鳥寺・・・法興寺・元興寺・本元興寺・安居院・・・と飛鳥寺は時代とともに寺名も変わっていきました。
飛鳥寺は日本に仏教が伝来してから、初めての伽藍(大門・回廊・塔・金堂・講堂)を持つ本格寺院です。
日本書紀によれば推古天皇4年(596)に創建したとあります。
現在は江戸後期に再建された堂宇が残るのみですが、創建当時は塔を3つの金堂が囲み回廊を廻らし、大講堂を
配置した大伽藍でした。(復元図、wikiより転載)

それまでは藁葺きや茅葺の建物しかない飛鳥の宮都に瓦葺で彩色の壮麗な建物が出現したわけですから、
当時の人達の驚きと感嘆も大きかったと思います。これ以降、斑鳩には斑鳩寺(法隆寺)、難波には四天王寺と
聖徳太子によって大きな寺院が造られていきます。
創建当時は法興寺と称し、やがて平城京遷都とともに元興寺と名を改めて平城京に移ることになります。
(元興寺は奈良市内に現存する)しかし、法興寺の本尊である釈迦如来(飛鳥大仏)はそのまま残り、本元興寺
とも呼ばれ、飛鳥の地名から飛鳥寺とも言われるようになったといいます。
奈良時代・平安時代を経てもなお大きな伽藍を残した大寺院であったようですが、火災が相次ぎ、鎌倉初期の
建久7年(1196)の火災により飛鳥以来の建物はすべて消失したそうです。
現在の本堂は江戸末期の再建ですが、その堂前にかつての金堂の礎石が残っています。




昨日は節分でいろんな寺社で節分行事がありましたが、私は夜に法隆寺西円堂の追儺会を見に行きました。
実は今回2回目で前回は4年前に見てます。前回は午後5時ごろからの修ニ会の法要からすべて見ましたけど
今回は明日香村から直行ということで、鬼が出てくる7時40分頃の直前に行きました。それでも充分
楽しめます。
法隆寺の追儺会は奈良時代より1300年続くという行事で、3人の鬼(黒・青・赤)が斧を研いだりする
所作のあとに松明を人々に向かって投げつける・・・っていう勇壮なものです。その火の粉を浴びると
その1年は無病息災で過ごせると言われてます。現在は金網フェンスが設置されて、そのフェンスに
ぶつけるって感じですが、以前はフェンスはなくて直接投げつけたそうです。でも前回見たときは
たまにフェンスを越えて直接人々のとこに飛んだりしてましたけどね・・・。20分ほどで何回か投げるの
ですが、そのうちうまい具合に撮影できたのが1回だけあったのでようつべにUPしました。ご覧ください。
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今回は明日香村から直行ということで、鬼が出てくる7時40分頃の直前に行きました。それでも充分
楽しめます。
法隆寺の追儺会は奈良時代より1300年続くという行事で、3人の鬼(黒・青・赤)が斧を研いだりする
所作のあとに松明を人々に向かって投げつける・・・っていう勇壮なものです。その火の粉を浴びると
その1年は無病息災で過ごせると言われてます。現在は金網フェンスが設置されて、そのフェンスに
ぶつけるって感じですが、以前はフェンスはなくて直接投げつけたそうです。でも前回見たときは
たまにフェンスを越えて直接人々のとこに飛んだりしてましたけどね・・・。20分ほどで何回か投げるの
ですが、そのうちうまい具合に撮影できたのが1回だけあったのでようつべにUPしました。ご覧ください。

