黒駒 寺社参拝記

畿内を中心とした寺社参拝記です。主に西国三十三所や聖徳太子霊場を巡礼中です。

【本朝最古】 石上神宮参詣

2011-10-03 09:17:49 | 奈良の寺社
正午に長谷寺・法起院への参詣を終えて、当初はこれで帰路につく予定にしていましたが、来る道すがら、
「石上神宮」への標識が目に入り、時間的余裕があれば参詣しようと決めました。

桜井市の長谷寺から天理市の石上神宮までは距離にしてほぼ15km。その道の途中には、
遠くからでも目立つ三輪明神の大鳥居が見え、崇神天皇御陵などの大型古墳があり、近代の街の中に
古代の息吹があちこちに残っている感じのする地域である。

やがて道は天理市に入り、天理大学や天理教教会本部の前に出る。ここに天理教のおやさとやかた(宿泊所)が
あって、小学生の夏休みに2度ほど来た(天理教では帰ってきたと言う)思い出がよみがえった!

石上神宮はその天理教教会本部の近くにある。無料の駐車場から参道へは田んぼのあぜ道を通り、
森林の囲む境内へ。




石上神宮は古事記と日本書紀にも記された神宮で、その創建は伊勢の神宮並みに日本最古とされる。
主祭神は「布都御霊大神(ふつのみたまのおおかみ)」といい、人神ではなく神剣に宿る神霊である。
その由緒から古代には大和朝廷の武器庫となり、軍事を司った物部氏の氏神となった。
中世には興福寺との勢力争いや織田軍の侵略(ここでも織田・・・)で衰微したが、明治初年に
改めて神宮号が勅許され現在に至るとされる。

境内の建物はさほど多くない。鳥居をすぎて社務所の前をすぎるとやがて楼門が見えてくる。
楼門は鎌倉後期の文保二年(1318)の建立で、重要文化財。


桧皮葺きが美しい拝殿は鎌倉時代の建立で国宝に指定されている。


楼門を出て石段をのぼったところに摂社である「出雲建雄神社」があり、国宝建造物であるが、
今回はいい写真がないので掲載はなし・・・。



社務所前の休憩ベンチに多数の鶏がいた! 神の使い→神鶏とされてるそうだけど、もともとは
誰かが捨てていったものが増えていったそうな・・・。人が近づいても全然逃げん。
そういえば伊勢の神宮の内宮にも鶏が放し飼いになってて、神鶏とされていたなあ。


石上神宮に着くまではけっこう雨がはげしく降っていたけど、到着と同時にしばし止み、神宮を
あとにしたらしばらくして再び降雨・・・。今回は天候に感謝!


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【女人高野】 室生寺 五重塔・奥の院

2011-10-01 12:57:06 | 奈良の寺社
さて、室生寺の名前がニュースなどで全国的に有名になったのは、平成10年の台風で国宝の五重塔が
損害をうけた衝撃的な姿でした↓↓


杉の大木が倒れて屋根を直撃してこのような痛々しい姿になったのですが、翌年から修復が進み、
お色直しもされて現在は以前にも増して美しい姿に!。五重塔は本堂横の石段を昇った上にあります。
下から見た視覚的な美しさを考えて一層から五層までの屋根の大きさはさほど変わらないらしい。
ずんぐりではなくてすらっと建っている印象があるのはそのため。


 

平安初期の建立で、屋外木造五重塔としては法隆寺五重塔に次いで2番目に古く、また国宝・重文級では
最小サイズだそうだ。


相輪の最上部には宝瓶(壺)が載せてある。室生の竜神を封じ込めているとの伝説があり、他には
このような相輪の作例はないという珍しいもの。


以上で室生寺境内の一般的なコースですが、五重塔をさらに奥に上がると奥の院があります。
距離的にはさほど遠くありませんが、けっこう急な石段を昇らなくてはならないのと、雰囲気が一変する
ある種の不気味さでお参りする人はさほどいないみたいです。


根が巨石を覆いつくしている、すごい存在感↓        奥の院参道のいたるところに↓
 

奥の院は舞台造りの位牌堂(画像左)と御影堂(画像右)があり、御影堂は鎌倉時代の建立で重文。


奥の院を下がると、足がガクガクしておりました(笑)
境内には他にもこんなものが↓ 南朝の忠臣、(伝)北畠親房の墓所


室生寺は境内全体が森林の中にあるお寺で、寺の前を流れる室生川のせせらぎの音が絶え間なく
聞こえ、鳥の声、風にざわめく木立の葉音など自然と一体と化したお寺でした。

ご朱印は多種類ありましたが、今回は十一面観音で。


今回の金堂公開でもらった記念品↓ 散華ともうひとつ??十二神将のクリアファイル?なんだけど、
A4サイズの3分の1ぐらい・・・。チケット入れなのかなあ??


さて、室生寺をあとにして長谷寺へと向かいました。


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【女人高野】 室生寺 金堂・弥勒堂・本堂(灌頂堂)

2011-09-30 20:11:13 | 奈良の寺社
連休中の今日、奈良の桜井へ寺社巡りに行きました。室生寺・長谷寺・石上神宮です。
長谷寺は西国三十三所なのでもう5回目ですが、室生寺と石上神宮は初めてです。

自宅の京都府舞鶴市を午前4時前に出て京都~奈良へと国道24号線を南下して予想予定より早く
午前7時半前には室生村に入り、しばらく休憩の後、午前8時の開門を待って入山しました。
室生寺までは室生川に沿って人家のない道を走りますが、門前は土産物屋や旅館などもあって
山村にしては賑わっています。室生寺のためにあるような村落ですねー。

太鼓橋という朱塗りの橋を渡れば室生寺の境内です。正面は本坊の表門。


昔は女人禁制だった高野山に代わり、女人の参拝を受け入れた真言道場として「女人高野」と
呼ばれてきたそうで、門柱にも誇らしげにしっかりと「女人高野」と刻まれている。


参拝は表門前を右に折れて進む。               ちっさいヘビがいた。15cmぐらい。
 

拝観受付をすぎると仁王門。これは近代の造営。       金堂へ続く鎧坂。ちらりと見えて期待感が高まる。 
 

国宝の金堂。平安初期の造営で柿(コケラ)葺きの屋根。


この金堂の中にご本尊の釈迦如来を始め、薬師如来・地蔵菩薩・文殊菩薩・十一面観音が
ずらーっと横一列に安置されていて、その手前に十二神将が立っていて、その全部が国宝・重文で
よくもまあこれだけのものがあの山村に1200年伝えられたものだと感心。特に釈迦如来の光背の美しさには
目を奪われますね。画像はこちら→室生寺サイト

えっと、実は堂内に入って拝観できるのは期間限定らしくて、通常は堂外からの拝観になるそうで・・・。
今回は幸運にも堂内に入れて間近で拝観&お参りができました。

さてその金堂の横に、少々小ぶりなお堂があり、それが重文の弥勒堂で鎌倉時代の造営。


こちらのご本尊は弥勒菩薩(重文)ですが、その向かって右側に釈迦如来。金堂の釈迦如来は立像ですが、
こちらは坐像で、客仏として安置されているらしく、こちらも国宝。写真でちょっとだけ見えてますけど。

金堂脇の石段を上がると、室生寺の本堂とされている灌頂堂が見えてきます。


本堂は創建年が明らかになっていて延慶元年(1308)造営。やはり国宝・・・。
ご本尊は平安初期の作とされる如意輪観音です。


以上、今日はここまで。次回は五重塔・奥の院をUPします。


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山村御殿 円照寺門跡

2010-04-11 12:42:02 | 奈良の寺社
レンタサイクルで奈良市内を走ってた日、せっかく自転車なので奈良市山町にある尼門跡(比丘尼御所)の
円照寺まで行きました。経路としては東大寺大仏殿からまっすぐ道を南下して、円照寺バス停前に
参道入り口があり、さらにそこを進むと山門が見えてきます。大仏殿からは距離にすると5km近くは
ありますかね。参道はうっそうとした森林の中にあって俗界とは完全に遮断された空間に境内があります。




円照寺門跡寺史
開基は後水尾院(天皇)第一皇女の梅宮、法名は文智大通大師。寛永18年(1641)修学院に草庵を
結んでこれが円照寺の始まりであるが、後水尾院の修学院山荘造営の時に奈良の八嶋村に移転する。
さらに寛文9年(1669)に八嶋村から近くの山村に移転して現在にまで至る。代々皇女をもって
住持とした。寺領300石。臨済宗妙心寺派、本尊は如意輪観音菩薩。

幸薄い皇女梅宮
開基の梅宮は後水尾院の第一皇女として生まれましたが、生母がおよつ御寮人(将軍息女の東福門院入内
の前にいた後水尾院の愛妾でその存在が幕府の忌諱に触れていた)であったために内親王宣下もなく
日陰的な存在でした。摂家の鷹司家に降嫁しましたが、やがて離縁となり出戻りになります。
そして生母のおよつ御寮人が没した後に剃髪して仏門に入りました。そのときはまだ22才の若さです。
父帝である後水尾院とは仏道を通じて父娘の情愛を深め、継母にあたる東福門院や異腹の妹たちとも
交流があったようです。最初に草庵を結んだ修学院も山里ですが、さらに京洛から離れた草深き地を求めて
大和の八嶋村、さらには山村に移居して80歳近い天寿を全うしました。

境内には内裏の旧殿を移築した宸殿の他に書院や奥御殿などがあるそうですが非公開です。写真は書院の玄関で
右側に少し見える茅葺屋根の建物が本堂(円通殿)です。結界があるので境内も深くは入れません。




修学院にある林丘寺と同じく外とはあまり交わらないガードの固い尼門跡のようです。しかし境内は
整然としていて江戸時代からの建物も外見では特に痛んでいる様子もなかったですが、檀家もなく観光収入も
なくて寺観を保持しているのは不思議です。他の拝観謝絶尼門跡寺院も同様ですが・・・。
円照寺は山村御流という華道の家元だそうです。入門したら御殿に昇殿できるのでしょうかね。

これで京洛・南都に残る尼門跡13ヶ寺はすべて訪れました。そのうち拝観ができたのは中宮寺宝鏡寺曇華院
霊鑑寺法華寺の5ヶ寺で、拝観はできなかったもののご朱印がいただけたのは大聖寺光照院の2ヶ寺、
その他の拝観謝絶でご朱印もないのが三時知恩寺慈受院宝慈院本光院林丘寺・円照寺の6ヶ寺。

尼門跡寺院は幕末には15ヶ寺あり、慈受院と併合した総持院を除いて14ヶ寺が現在まで法灯を継いでいます。
皇子親王の門跡とは異なって皇女や摂家子女の隠棲御所としての側面をも持つためか、江戸時代の寺領も
数十石~数百石と少なくて現在もこじんまりとした境内が印象的ですが、定規筋の入った塀に
菊の御紋の瓦を頂く門や宸殿などの御殿、庭の造作などに格式高い独特な雰囲気を感じました。
御所人形が多く残るのも尼門跡特有と言えますか。

拝観を行なわない寺院はそれなりの理由があると思いますが、期間限定でもなにかの機会で拝観できる日が
来ることを希望して待ちます。尼門跡(比丘尼御所)は残り1ヶ寺、近江八幡に瑞龍寺門跡があります。
こちらは少し遠いのでまたの機会に訪れたいと思います。

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氷室御所 法華寺門跡 春の国宝十一面観音開帳

2010-04-10 11:07:50 | 奈良の寺社
大和三尼門跡のうちのひとつ、法華寺の本尊十一面観音が開帳されているので初めてお参りに行きました。
法華寺は奈良市内中心部からは少し離れていまして、近鉄新大宮から北西方向に平城宮跡の並びに
あります。JR奈良駅からはバスも運行されていますが、よく晴れた春の日なのでレンタサイクルで
行きました。JR奈良駅からは自転車で約15分ほどで到着します。途中の佐保川周辺も桜満開です。


4月初旬は「ひな会式」という法要が毎日午前中に本堂であるので、その時間帯は本堂には入れません。
あわせて献茶・献花などの催しものもあるので人が多いです。

法華寺赤門(通用門)                       法華寺南門(切妻造本瓦葺の四脚門・重文)
  

法華寺門跡寺史
奈良朝の天平13年(741)光明皇后が藤原不比等の邸宅跡に創建した。東大寺が聖武天皇発願の
総国分寺であるのに対して法華寺は皇后発願の総国分尼寺である。「法華滅罪之寺」とも称する。
平安遷都後は衰微して荒廃するが、鎌倉中期の寛元3年(1245)に奈良西大寺の叡尊によって
諸堂が復興されて西大寺末寺となる。室町期には興福寺末寺。戦国期に三好松永の兵火で伽藍を
焼失するが、豊臣秀頼によって再興されて本堂・南門・鐘楼などが現在に残る。江戸時代には
寺領220石。真言律宗を経て現在は光明宗。

ご本尊を拝しました。厨子の中で蓮華座に立っておられる十一面観音ですが、目鼻立ちがはっきりと
した男顔の観音像だと思いましたが、後に調べると光明皇后の御顔を写した天平の女人顔ということで
大変失礼しました(笑) 口にかすかに紅色が残るのがわかります。本尊を守護する四天王像が
厨子の四方に立ち、聖武天皇と光明皇后の御尊牌が安置されていました。法華寺本堂は重文です。


境内は桜をはじめ花盛りです。鐘楼(写真左)も秀頼寄進で重要文化財。


 

  

奈良の古寺院では珍しく本堂脇手・裏手に江戸初期に作庭された庭園があります。国指定名勝。
池のまわりを景色を楽しみながらまわります。建物は客殿の書院。



  

ご朱印
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