橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

音読みの漢語も外来語。コンプライアンスを大和言葉で

2012-10-08 22:57:12 | Weblog

このところ、テレビ番組のナレーションを書く仕事を本格的にやりだして

あらためて感じていることがある。

音読みの漢字の熟語は音で聞くと伝わりにくいということだ。

当然といえば当然なのだが、あらためてナレーションという

音だけで伝える(もちろんテロップを入れることも可能だが)文章書きを

報酬を得る専門職としてやってみると、実感する。


例えば、「貴族の時代、庭は遊興のためのものでした。」の「遊興」という言葉。

こうして字で見れば、当然よく分かるのだが、

ナレーションとして音で聞いた時、まあ前後の文脈から遊びのための庭だと分かるが、

やはり0コンマ1秒くらい引っかかる。


もちろん、漢字の熟語はもはや現代日本語に浸透していて、

ほとんどのものは音だけで聞いても理解できるものが多い。

政治、政府、社会、環境、防衛などなど・・・。

 ニュースなどで登場する上記のコトバはかなり一般化しているし、

状況や状態を表す名詞は音で聞いただけで比較的意味を理解できるものが多い。

これらが分かりやすいのは明治以降、西洋の概念に漢字を当てた

和製の漢語だからなのかもしれない。


 しかし、さっきの「遊興」のような、動作や行動を表す

音読みの漢語などは、音だけで聞くと、

一瞬(ほんとに一瞬)「?」が点灯したり、

どうもこなれていない感じになることが多い気がする。


なんというのか、

漢字という箱の中に入った言葉の意味を

まだ取り出して紐解けていないというか、

自分が、その文章で表現しようとしていることを

ちゃんと理解しきっていない感じがするのだ。


「遊興(ゆうきょう)」と言うよりも、

「遊び、興じる」と言った方が、音で聞いても分かりやすいし、

意味も明確になりますよね。


漢語で表現された意味の塊を、ちゃんと大和言葉で表せて初めて、

言いたいことが自分でも理解できている状態といえるのではないか。

外国語を外国語として理解しようとする外国語の習得と違って、

外来語の理解ってそういうもんではないだろうか。


そんなこんなで、

ナレーションを書きながら、いかにこれまでの普段の会話の中で、

意味の曖昧なまま、安易に音読みの漢語を使ってきたかを実感している。

それは近代に生まれた和製漢語とて同じこと。

例えば「概念」って、「おおよその意味」って感じの理解でいいんだっけ?

辞書を開かず説明しろと言われると心もとない。


さすがに、もはや日本語となった漢字の熟語を使って、

「意味分かってんのか!」と突っ込まれはしないだろうが、

よくよく考えれば、その漢語さえ、私たちはいまだ使いこなせていないのだ。

 

その上、自分の言いたいことがいまひとつ曖昧な時に、

 ものごとをそれらしく見せるために漢語を使っているような気さえする。


漢字が日本に入ってきて2000年。とはいえ、もともと外来語なのだ。

いまだ、音で聞いただけでは、一瞬ピンとこない漢語が多いのも当然かもしれない。

それがゆえ、使い方がちょっとくらい曖昧であっても

突っ込まれないと踏んで、私たちは漢語を使って来たのかもしれない。


そんで結局、何が言いたいかというと、

これって、「コンプライアンス」とか「リテラシー」とか

横文字の外来語を使う時も一緒なんだろうなあ・・・ということ。


2000年の付き合いのある漢字の熟語でさえこれなのに、

毎度、横文字連発している政治家や評論家の方などは

もっと付き合いの歴史の浅い外来語の意味をどれほど深く理解して

使っておいでなのだろうと思う。


一度、すべて日本語で説明して欲しい。

テレビ出演の折など、音で聞くことしかできないときは

なんなら、音読みの漢語も使わないで

大和言葉で説明していただけるとありがたい。


そのときに、彼らが日常主張している内容が

どのように違って聞こえるのか、それとも違いなどしないのか

それをとても知りたいと思う今日この頃なのである。