Dr. Mori Without Borders / Mori-san Sans Frontieres

森 一仁が医学・国際政治経済金融・人文教養教育など関心問題を国際的・学際的に考える。

「日本人の英語」を確立したい

2008-06-03 19:34:34 | 人間発達論:言語・外国語・高等教育
外国語には予てから興味があったが、第一外国語である「英語」に関しては本邦では様々の希望と挫折、憧憬と怨念や執念が取り巻いており、冷静に外国語の一つとして位置づける事が難しいようである。英語が出来ても出来なくても、本邦の人は幸せにはなれない構図がある。これがドイツ語やらフランス語やらイタリア語であれば全く違っているだろうにと思う次第である。

英語を使う人間は世界じゅうにごまんといるのであるが、基本的な英文法など無視して会話を続ける人間は本当に多い。若い米国人はもとより(?)英国人でも文法などお構いなしで会話を続けるのである。文書等の書き言葉ですら文法無視と言う手合いがいるが、これは無教養極まりないので必ずしも英米の社会で受容されている訳では無いようである。ここでは「英文法の英語」ではなく「英会話の英語」に焦点を当てて考えてみたい。

英会話の英語と書いたが、オーストラリア・カナダ・インド・シンガポール・フィリピン・南アフリカ等の英語圏ですらそうであるように、非英語圏の人間の話す英語は実に自由である。ドイツ人の英語、フランス人の英語、フィンランド人の英語、ロシア人の英語、ノルウェー人の英語・・・等と言うように、各国の国民の独自性を豊かに反映した「英語」が出来上がっている。翻って本邦では「日本人の英語」と言うものが確立していないので未だに「ネイティブ信仰」がある。ネイティブ並みに英語を解し、ネイティブ並みに英語を話す・・・これが一種の理想として考えられており、また人々もこれを疑わないのである。これがどこから来たのかについて考えてみた。

元来から本邦では何事にも一挙一動に心を込めて、完璧を目指すきらいがある。伝統芸能でも武道でもまず「型」を習い、自らを型に合わせていく事で技が完成されていくのである。自由本邦のブロークンではならず者とされる。「成ってない」のである。恐らくこれゆえに外国語でさえ一定の水準に達したと見做される人間は「達人」と称されるのであろう。これでは普及しない訳である。言葉は達人だけの為のものではないからである。

自動車は欧州から来たがいまや日本製が世界の市場を席捲している。カメラも携帯電話も基礎技術は欧米由来であるが、日本製の技術水準は驚くものがある。化学工業や環境化学技術等も本邦の水準は極めて高いが、既に独自の分野を開拓したりして、あらゆる分野で「MADE IN JAPAN」は最早粗悪品を意味しない時代となった。

英語もそろそろこんな時代が来たと言わねばならない。私がルー大柴氏の「ルー語」を評価するのはこの点に尽きる。日本人が英語を話そうとすると「基盤となる言語構造=文法」は日本語のままで「語彙」だけが英語となる。つまり「ルー語」になってしまうのである。世界の中の日本のMANGAが受ける時代に、この「ルー語的英語」について、赤塚不二夫先生の人気キャラに託して今こそいおう、「これでいいのだ!」

なに?バカもホリデー・ホリデー言えって?確かにホトケのフェイスもスリータイムスだからな。お後がよろしいようで。

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