艦長日誌 補足(仮) 

タイトルは仮。そのときに思ったことを飲みながら書いたブログです。

お父さん

2013年11月22日 00時02分32秒 | 個人日誌
その日、いつも通りに仕事をしていました。
朝起きたときに、天気が良さそうであれば布団か毛布を、朝のシャワーや食事の時間の間だけ、外に干しておく。着替えを済ませてタバコを吸って。起きたらまずは歯を磨くのが習慣で、会社に行く前にはもう一度磨くのも習慣。
出社の直前、母さんから電話がきた。「パパが昨日血を吐いたの。救急車で運ばれて」「帰ろうか?」「だいじょうぶだから、仕事に行ってきなさい」

みなさんに悲しい知らせをお伝えしなければなりません。
11月10日日曜日、父が亡くなりました。享年66歳。

会社に着いて、いつものように働いて、お弁当も注文して昼休みは遅めにとりました。今度の休みの予定を同僚の女性に話しながら。
妹からメールがきて「パパが亡くなったの」。すぐに上司に「いまから帰ります」と報告する。
考えてみれば、会社を出てすぐに電車に飛び乗っても良かったのだけど、一度部屋に戻って、幾日か分の着替えと、飛行機の中で読める本を持って帰りました。

実家に到着したのは22時頃。母方の親戚が集まっていて(父のほうの親戚は翌日の通夜とそのあとの告別式の打ち合わせを済ませてくれたあとでした)、「ドッピオちゃん、お父さんをみてあげて」。
その声をかけられたとき、ぼくは冷蔵庫を覗いていました。いつも夏休みと年末の、年に二回実家に帰ってきたときと同じように、まずは「お腹空いた~」みたく。
親戚が帰り、ぼくはすぐに寝ましたが、母と妹二人はだいぶ遅くまで父の側で話をしていたようです。

黒のスーツで帰りましたが、きちんとした黒ではないし、靴もないので、翌日の午前中に喪服を買いに行きました。父のスーツを下取りしてもらいながら。下取りしてもらうスーツからハンカチが出てきて「これも形見になるんだなー」と考えた。

映画の「おくりびと」はみたことがないのですが、おそらくそのおくりびとのような人がやってきて、家を出る父のからだを拭いて、白装束に着替えさせました。ここ一年でものすごく痩せた父。爪がものすごく白かったです。母や妹たちと、その作業をみているのはホントにつらかったです。

通夜のあと夜も遅くなり、父の兄弟が「夜通し火を絶やさない」と飲み始めたとき、さて、施主としてとるべき行動は?

1.「飲み明かしましょう」( ̄Д ̄)ノ当然寝ずの番をする。
2.「明日は告別式だし、もう寝ます」(ー ー;)備える。
3.「一人になりたい」(´Д` )黙って外へ出る。

答えは全部。
飲みたい気分ではなかったので(それでも晩御飯の席では勧められるままに飲む)、静かになったところで父の棺の前で座っていました。
ずーっと覚悟はしてきたけど、本当に死んだんだ、とこのとき実感しました。わかってたけど、死に目には会えないだろうって。遅くなったけど帰ってまいりました。
父はいつも言っていました。「好きに生きてもいいけど、お母さんにだけは心配かけるなよ」
棺の前でも、そう言われているような気がした。わかってる。わかってるってば。

「ドッピオくんからみて、お父さんはどんなひとだった?」とグラスにビールを注がれ、ぼくは自分が小さかった頃に、父が休みの日にキリギリスを捕りに連れて行ってくれたことなんかを話ながらビールを飲み…いかん、このままだと酔っ払うと思い、外へ出る。
そしたら、まぁ、ものすごい雪。わさわさ積もってる。葬儀場の横がコンビニだったので、そこでポカリみたいな飲み物を買って戻ると自動ドアが開かない(; ̄O ̄)そういえばここの葬儀場のスタッフたちはみんな「また明日きます」と言い残して帰ったんだった。
ちょいとコンビニ行ってきます~なんて誰にも話していないし、雪は降り続くし。
なんとか無事に中に入れましたが、いつ寝たかは憶えていません。
目が覚めるとみんなが朝食の膳を運んでいる傍で喪服のまま、ネクタイも締めたまま畳の上で横たわっていました。
まんまと風邪をひき、二日酔いのからだだったので、告別式もお腹は痛いし、頭もガンガンするしで、座りながらも前傾姿勢。

覚悟していた、ということは幸せだったんじゃあないだろうか?と思いました。世の中には不慮の事故である日突然に大事なひとを失うひとも大勢いる。
いつかいなくなる。ということを頭で考えることもできずに肉親を失うのはとてもつらいことだろう。
母も、妹二人も、もしかしたらうちの猫も「ああ、パパは死ぬのかもしれない」とこの一年、ふとしたときに考えた。

出棺したあとの火葬場ではもう会えないということでしたので、葬儀場で最後に父の顔を見ました。
父が働いていた会社のひとたちが、兄弟が、姉妹が、棺に花を手向ける。
母が父の頬を触りながら「じゃあね、パパ」と別れを告げたとき、ぼくはもう膝をついて声をあげて泣きたかったです。泣きません、長男だから。

初七日を終え、神奈川に戻りました。
父は自分の趣味だった釣りの道具や、山の道具は、生前全て処分しており、残した服もぼくにはサイズが合いません。それでもベルトやネクタイ、カバンをいただきました。
最期まで使っていたベッドは、父のお姉さん(本家)へ運び、靴などは兄弟へ形見分けしました。

夏休みに実家に帰ったときに、父が「墓参りに行きたい」と言うので、母方の墓(国際大学のあたり)と父方の墓(平和にある)に行き、ラーメンを食べました。
別の日にはニセコに行きたいと言うので、中山峠を通って、道の駅で野菜をたくさん買い、積丹あたりで「サンマの刺身食べたいな」と探しましたが、まだ時期ではないのか売ってませんでした。蕎麦を食べて帰り、翌日ぼくはいつものように「また年末に帰ってくるから」と玄関先で父に別れを告げ、それが生きている父をみた最期です。

平和の墓から家に帰る途中の道に、鶏の半身揚げが売っている店があり、母がそこへ買いに行っている間に父が助手席で「だれかいいひといないのか?いつでも連れてこい」と話しかけてきました。「ああ」とか「うん」しか答えなかった気がする。

12年前に札幌を離れるというぼくに「ばかなこと言うな!」と怒った父。神奈川へ行く前日に新しい髭剃りをくれました。父の遺品にも同じものがありました。だから、いまこの部屋には父とぼくの同じ髭剃りがふたつあります。

病院の食事はおいしくない、と退院して家に戻ってからは食べたいものを母に作ってもらったりして過ごしたようです。くじらの肉食べたいとか、春巻き食べたいとかわがまま言って。
去年の手術直前まで働いていた父でしたので、病気のせいとはいえ時間もできて、もっとのんびりしたり旅行もしたかったのだろうと思います。きっちり定年まで勤め上げ、子供たちもようやく手がかからなくなって、これから夫婦の時間をやっと持てるというときに。

もう会えないんだなーと、仕事中でも歩いているときにも、ふとしたときに考えてしまいます。
長期の休みをいただける夏休みや年末には必ず札幌に帰っていたので、許される限りの時間で会えたのは良かったことでした。

「また大晦日に家族みんなで年越し蕎麦食べたいな~」、いや「きっと食べられる」もんだと。食べられないなんて考えてはいけないと。

話すと尽きないのでこのへんにしておきます。こんな息子で心配ばかりかけました。お父さん、安らかに眠ってください。

3 コメント

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Unknown (show)
2013-11-22 16:46:06
「生ある我々が、亡くなった人に対して出来る事は『決して忘れない』と誓うことだけだ」って誰かが言ってた。

とりあえず諸々、おつかれさん。時間空いたら飲もうや。
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Unknown (クメ)
2013-11-23 22:09:34
うん。お疲れ様でした。
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Unknown (ドッピオ)
2013-11-23 23:36:59
>showさん
コメントもらった三時間後には我々飲んでましたね。

忘れないと思います。生きている限りずーっと。


>クメ
ありがとう。
それにしてもクメの会社の情報伝達すごく早いね。びっくりしました。
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