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葵の御紋の・・・

2009年09月10日 | Weblog
お仕事のお仲間と
結婚が決まったメンバーのお祝いに
長いお付き合いしていただいてる方も居て
いつも紹介して下さる
先日彼と来た彼女もいたよ^^
結婚が決まった彼女ははにかみ屋さん
そして
気づかいの人
記念日の写真撮る時も
ご自身が一番辛いポーズで
周りの人のこと先ず考えてのことですね
素敵です
きっとご主人様を大切にし
温かな家庭を気付いてゆかれることと思います
おめでとうございます♪
お幸せに
お帰り前からは畑談義に花が咲き
随分お引止めしちゃいました
ごめんなさい
情報交換はすごく役立ちます
ありがとうございます

こちらは男性とは十数年の付き合い
彼女が出来
結婚もして
年々たくましさが増してる感じです
彼女はお花屋さん
シェフの誕生日に少し遅れちゃったけどって言いながら
素敵な花束をプレゼントしてくれました
ありがとうございます
隣の女性
彼女のお友達かと思ったら
彼のお友達だって
え~
いいの~
なんて私
カナダに留学した時の命の恩人だそうです
今では
女性同士がすっかり友達になって
いい関係^^
楽しく
そして愛しむかのように
お料理 野菜を召し上がってくださいました
嬉しいです^^
遠くからわざわざありがとうございます
感謝です
これからも
ずっと もっと きっと
長くお付き合いいただけることを願っています
ありがとうございました



85歳の父
先日なにやら不思議なものが届いた
と心配して見せてくれたもの
葵の御紋が入った万年筆とインク瓶
すごい重厚感です

あ~!!!
って私には直ぐに分ったんだけど・・・
父にとっては怪しく見えたらしい

この間書類出したじゃない
戦争の時外地へ赴いた人に記念品を下さるって
何がいいか考えて悩んで
万年筆にしたじゃない

あ~・・・・・・?

まだ疑問

戦争の時外地へ行ったでしょう?

行ったよ
チュウシへ(中国の町らしいかつての呼び方)
そして
戦争中の話が次々に出てくる

そうそう
その後苦労してくれた人に
記念品だって


あ~!!
分ったわかった

やっと分った感じです

その時にたくさんの質問事項がありました
いつ出生したかに始まり
召集されたのはいつか?
どんな経路でどの国に行き
どこで戦いをして
終戦後はどうしていたか
父は終戦直前の招集で中国にわたり
そこで日本が負けたことを知る
そして一年ほど捕虜としてその地で働いてきた
幸いその土地の皆さんが良くしてくれたので
無事帰ってこられた
少しは中国語を話す
娘が中国語習っていた時は
なにやらそれらしい中国語で娘と笑いあっていた
厳しかった事もたくさん
自分のほほを銃弾が掠めていった事
戦友が目の前で母を呼びながら死んでいった事
かなり衝撃的な出来事に遭遇してきた
数年前
“大和”という映画
孫と一緒に見に行くと
帰り道はずっと戦争の話をしてきたと言っていた
あんなにしゃべったおじいちゃんは初めてと
娘も驚いて居た
そして
もっとおじいちゃんの話し聞いておかなくちゃと言っていた

そう言った人たちの礎で
今の自分達がいて
大きく復興してきた今の日本がある
戦争の傷跡は今もあちこちで聞かれるが
それを見てきた
真の証人達は年々居なく成ってゆく


母は6人兄姉妹で
末っ子
兄が戦争に行った日の事は今でもはっきり覚えているって
皆が万歳万歳と祝ってくれる
名誉な事と送り出される若き青年
陰で泣いていた母親
皆同じだった事だろう
上の姉達が嫁に行き
自分もやがてと思っていたら
兄が戦死したという知らせが
それは終戦してからのことだった
皆がきっと帰ってくると希望を持って待ちわびていたところへの
戦死の知らせ
立派な最後でした
と言われても・・・・・・
悲しみにくれて過ごす家族
でもそれを見せる事は出来ない
家に残っていたのは母だけ
それで
母が養子を迎えて家を守る事に
そして
父とご縁あってであった
そして
私と妹が居る
兄が居たらしいが
難産でその命は産声を上げることが出来なかった
小さな頃
父が
あの子が居たらと言っていた言葉
ある年齢までは意味が分らなかったが
男の子だったので
父にとっては居て欲しかった存在だったのだろう
厳しい時代
養子で見知らぬ田舎暮らしは
父にとっては相当な厳しさがあったことだろう
何年か前
パパが父に
僕がこの家に入って後を見ましょうか?
と言った事があったそうです
その時
きっぱりと父は言った
来なくていい
今の仕事ではとてもここで皆と同じ事は出来ない
別な方がいいと
私も知らなかったことだが
後で聞き感動した
それは父にであり パパにもである


母と二人きりで暮らしながらも
私達も妹家族も
近くに住んでいるので
都合のつく限り二人のところへ出かける
こと
私達は毎朝顔を見ることが出来る
それがどんな居ありがたいことかを
父も母も最近になってすごく感謝しながら
ありがたがってくれている
二人は高齢で色んな事が出来なくなってきているが
自分の事は自分でと頑張ってくれている
病院へ行く事が多くなった
書類の手続きはもう出来ない
全てにかかわり
大変さと 淋しさを感じている私でもある
まだまだ
長く長く
そうやって二人で寄り添って過ごして欲しい
と思っている

ここにも
二人ならでは 
二人だからこその物語が綴られてい
行く

ありがたいありがたい
と桐の箱に入った万年筆をお仏壇に供えている

父は今介護認定を受けている
その日
介護士さんとの面談があり
立ち会った
耳が遠くなって
相当近くで大きな声で話さないと聞こえない
聞こえなかった時は
全く関係ない話をすることも有るが
たいていは
うんうんとうなずきながら
ありがとうありがとう
と言うのだ
素敵なことだと思う
みんな笑顔
色んなインタビューに答える父
結構しっかりとしている
でも体は年々弱ってきて
助けが必要だ
なのに・・・・・
私は大丈夫
全部自分で出来ますよ^^
なんて言っちゃって
いつもはお布団が友達なのに
その日はしっかり着替えて
なにやら仕事してみたりして
そうじゃないだろ~
って母と苦笑い
まあ認定に来た方も大体の事はわかってくれる
そして
突然
私の母親がいつも言っていた
母親のことを褒めるわけじゃ無いけれど
母親は人を助ける事をいつもしていた
だから多くの人が母親の事を仏さまのような人だと呼んでくれた
いつも子供達に行っていた
真面目に正直に
人を大事にしなさい
一生懸命働きなさい
死ぬ直前にも同じようなことを集まったものに言って目を閉じた

そんな話をしたのだ
確かに私の記憶にあるおばあちゃんは
優しくいつも笑顔で
温かな人だった
その土地が温暖な感じなのもあってか
穏やかな人たちが多い
素敵だと思った
反面私が生まれ育った土地は
寒さも厳しく
皆堅実節約型の人が多い
今でこそなんでも手に入るようになったけれど
かつては蓄えていないと心配と言った土地柄でした
その堅実さが私は好きなんだけど
そんな二人が出会い
きっと衝突することも沢山あったり
我慢する事もあったでしょうけれど
すごくいいものが融合していたような気がしている
最近では
目の前に居る時はぶつぶつ言いながらも
入院した時は
ばあさんが心配だからもう帰るぞ
ばあさんも化粧すればなかなか美人だぞ
自分の世話をみんなやってくれてありがたいよ
なんて
とてもとても
素敵でいいおじいちゃん
優しいおじいちゃんとして
周りは見ている
母に伝わっているか否かは・・・・
少々疑問だけれど
そんな言葉を
聞いた私達や周りの人が
母に伝えたとき
きっと母は幸せな気持ちになることだろう
良かったね


葵の御紋の万年筆囲んで
昔話して
久々父と母の想いを聞くことが出来た
この万年筆は
次は私達が大事にして
我が家の宝物のひとつになり
いつも物語を語ってくれるものになることだろう


姫は
今朝は新聞チェックから
そして
あ~
嘆かわしい・・・

目を伏せた

よく晴れた秋の日に

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