リタイヤするときの思いや、リタイヤ生活開始の状況を書こうと思いながら、市民活動の思いに偏り過ぎた。書き始めてしまったので、今日で区切りをつける。
市民活動サポートセンターが開設されたころ、どの自治体でも公益活動という基準を満たすかどうかの判断はしなかった。
当然それは無理なことで、NPO活動に慣れていない日本社会で高いハードルを設けてしまえば本来の市民活動も根付かない。
自己完結型であっても、趣味の集まりであっても、まずは登録を受け入れ、公益活動のなんたるかを理解してもらい、その団体が公益活動に目覚め、少しずつでも組織力マネジメント力を向上させ、公益市民活動を根付かせる必要があった。
しかし、10年近くたった今、はたしてどうか。
市民活動あり方研究会とかいう行政諮問組織ができ、その中間発表を聞く限り、本来の目的・使命はずれて、薄められてきていると感ずる。
行政ではずっと以前から公民館活動、生きがい事業、生涯学習、等などいくつもの市民サービス事業は行われている。
市民活動とはそういう受け身のサービスではなく、市民は本来行政がやるべきかもしれない対市民サービスを買って出る役割である。
あり方を見直すならその原点に戻らなければならない。
度々聞かされた言葉、会社論理を持ち込むな、楽しくなければ市民活動でない。
いまさら会社みたいに縛られる必要はない。
いずれもその通りだが、21世紀地方自治拡大が叫ばれ、市民もできることは自分でやり、自助共助の精神を拡大し、あわよくば行政が提供するより高品質な市民サービスを提供し、その団体が何らかの収益を確保して自立し永続することが求められ、それが市民活動という名前で普及していくことが求められている。
これが原点である。
また、そうであるからこそ組織力は万全でなければいけないし、組織人が生かされるマネジメントが行われ、常にPDCA(プラン・ドウ・チェック・アクション)を回転させ、品質を向上させる組織を作る。
仲間はまさに善意と奉仕でそれを続けなければいかないので、十分な給料と地位が与えられる会社運営よりははるかに困難で英知が求められる。
すべてがそうとは言わないが、私はそういう進んだ団体が雇用と納税で社会的地位を築いていくことが究極だと考える。
前に述べたように、元企業戦士が育て、次の世代に引き継いでいくのが理想である。