De cela

あれからいろいろ、昔のアルバムから新しい発見まで

余命いかに生きるべきか、自叙伝?

2017-10-14 17:31:15 | 自分史エピソード
余命、いかに生きるべきか

ヒトの寿命は延び続けている。
そんなら、動ける間は自分の生きがいを感じながら何か社会の役に立ち続けようと誰しも思う。
そして、体が言うことをきかなくなったら、最後は自分の考えていることを書いて残す。
私もそう努力したい。
しかし、体が効かなくなると同時に頭も気力も効かなくなる恐れがある。
私の平均余命は10.5年ほど(厚生省簡易生命表)。
認知識別年齢はあと6年ぐらいか。
じゃあ、体力で形を残すとともに、「記録」でも形を残しておく必要がある。
典型的な必須記録はエンディングレポート。私が死んだり呆けありした時のために家族に残す。
あとは面白半分に小説の形にでもして自己主張。私の自叙伝など何の価値もないが、あるヒト(他人)の自叙伝なら役に立つ場合もあるかも。ヒトと入力すると他人と変換されることだし。思い出すのも嫌な恥ずかしい私の過去も、他人事にすれば書ける。ごく普通の人がごく普通の人生を歩んで、過去の栄誉も、反対に大きな失敗もだれも気に留めずに一人で死んでいく。

自叙伝はなかなか書かないだろうがくだらなーい空想物語は書ける。そういうテーマをいくつか温めてきたけどどこかに残すか残さないか。
こういう空想物語は睡眠障害を持った人間がベッドに入ってから巡らせるには良い方法だ。いきなり起き上がってパソコンで事実関係を検索したりする。

とりあえず、その空想物語の主題をいくつかならべてみる。
その1)預言者;私がいきなり60年前にタイムスリップする。
その2)4万光年先の文明を持った惑星から40万年かけて地球にやってくる宇宙人の話。
その3)日本創生;2000年前、朝鮮半島から次々と王国の集団が移住してくる。日本の本当の歴史。
その4)一人王国;重力を自由に操れる物質を授かった男の野望。


戦中の家族写真

2015-08-11 14:03:17 | 自分史エピソード
昭和18年、19年の写真と思われる。
一番ちびが私で、それぞれ3歳、4歳の時であろう。
一番上の姉は21年3月に厚木高等女学校を卒業している。
姉も勤労動員で最終年度は厚木飛行場に行かされたがこの写真のころはどうだったのだろう。
戦局の悪化の現実もさほど詳しく伝わってこなかったのか、撮影の緊張もあるが穏やかな表情である。
カメラは厚木の写真館の出張撮影である。この写真館は戦前戦後、学校の撮影も担当していて我が家にも定期的に訪ねてきて必ず家族写真を撮ってくれた。
父親の着ているものは剣道の胴着である。このころ、荻窪の国民学校や橋本の相原農蚕学校、厚木中学校(旧制)の剣道講師をしていた。
昭和19年とすると54歳である。いまなら定年前の働き盛りの年齢。早くも年寄りの風情である。
親は、昭和9年ごろ東京中野に住んで警視庁に勤務していたが引っ越してきた。和田家の家督相続人として早く田舎に戻らなければと焦っていたことが日記などで覗われる。
兄弟の多い家族で、本家建物には兄弟家族がひしめいていたことは私が抹消戸籍謄本を取り寄せ調査したことでわかっている。農地の登記上のことで、弟にその手続きを任せて、実印を渡してあったことからとんでもない事件に発展していた。気は焦るが公務員の恩給支給資格が得られるまではどうしてもやめられなかった。そして百姓のことは何にも知らないまま、農業を始めることになる。
写真のころは、自分で耕作する以外にわずかながら安定した小作米が届けられた。それでなんとか生活はできたのだが、戦後は凶作から始まって農地改革などにより貧困を味わうことになる。終戦前後、小作米も入らなくなっていた。




スマートライフコミュニティ

2015-07-25 22:14:58 | 自分史エピソード
facebookのスマートライフコミュニティというグループで自分史を公開している。これはその第四弾。
肺浸潤で生死をさまよう

終戦後、国民学校から小学校に名前を変更して最初の1年生になった。友達というものをほとんど初めて知った。その友達が「半僧坊のお祭り」のことを話題とする。昼間は参道に屋台が出るし、夜は村芝居がある。その村芝居の話題に仲間入りしたくて、半僧坊のお祭りには兄弟で連れていってもらうことに決めていた。しかしその前日には熱を出して学校を休んだ。当日も熱があり、とても半僧坊のお祭りどころではなかったはずだが、一番上の姉に負ぶわれて芝居見物に行った。その時のことは断片的に覚えている。その景色が思い浮かぶ。しかし、熱に浮かされてちっとも楽しくもなかった。芝居も全く理解もしていない。
そして翌日から重体に陥る。

病院などあるわけのない田舎で最初にどういう治療を受けたか記憶にないが、医者の往診を受けていたような気がする。その時肺炎という診断を受けたのではないかと思う。栄養のあるものを食べて安静にしていることというのが医者の指示。栄養のあるものなど近くで買えるわけがない、みんな自給自足だから卵ぐらいは手に入る。母親が父親にすぐに卵を手に入れるように言った。父親は一人ぐらいいいだろうと答えた。いまでいうDVで、母親は父親にいつも苛め抜かれていたが、この時はさすが逆だったらしく、慌てて父親はたまご探しに出ていった。

私の病気の経験から、我家でも自給自足のため鶏を飼い、ウサギを育てて蛋白源を確保する努力を始めた。

時を同じくして隣の空き医院に東大の先生といわれる医者が開業した。私が一命をとりとめたのはこの医者のおかげと家族は信じている。
母親や、姉に負ぶわれて隣の医院に通い始める。ここで肺浸潤と病名を言われる。この医者が使った薬は後から考えるとストレプトマイシンではなかったか。そんな高価な、当時国内にはほとんどないはずの薬がそこにあるわけはないし使えるわけがない。しかし、何か特別のルートを持っている偉大な先生だったのか。健康保険体制もできていないのにまともな治療代を親が払えるわけもない。しかし、それが本当にストマイだったからこそ私はそんなに早く回復したのではないだろうか。
ともかく夏休みが終わるころは病気そのものは治っていた。しかし、ことさらに栄養価と安静が指示されたらしく、家族はずいぶん気を使い、私自身も外に出て遊んではいけないものと悟っていた。これは理に適っていて、抗生物質の投与で免疫力がなくなったうえ、戦後の不衛生環境で感染症にかかることを医師は注意したものだろう。学校も、たしか9月の終わりころ行き始めた。
そのころ、隣の医院は閉鎖された。私の命を助けるために現れた救世主のように。そして私の手元には宝物の薬箱や薬包紙の束が残った。その先生は、私が行くたびにきれいな薬箱をくださった。私に注射するアンプルの入った灰色のしっかりした薬箱の封を切ると中身を全部取り出して、その空き箱を私に渡した。この箱や薬包紙はその後私の理科の興味に大変役に立つことになる。

私の戦中戦後記憶整理

2015-07-23 17:47:19 | 自分史エピソード
facebookのシニアライフコミュというグループに、メンバーで終戦の記憶のある数少ない一人(年齢的に)ということで書いたものをここにも残しておく。

私の戦中戦後記憶整理

戦中戦後期、直接戦災や進駐軍の影響を受けることもない平和な寒村に生まれた私に、語り継ぐべき戦中戦後の記憶はありません。
でも毎年終戦記念日のころになるとSNS上に思い出を書き込んでいました。facebookの昨年8月15日前後を見ると、いくつも出てきます。

親たちが防空壕を掘っている様子、隣近所の防空壕巡りをしたこと、他人の壕に比べて我が家のは小さくてみすぼらしかった。見せてもらった壕は立って歩けたし、電気も引き込んであった。この差は働き手の差だった。我が家は男手として役に立つのはおやじだけ。近所に住む、おやじの弟子のようなお兄さんがいつもぴったり寄り添って手伝っていた。


壕についていえば、最初に作ったものは結構利用した。空襲警報が鳴ると家族で飛び込んだ。入口から空を見るとはるか遠くに飛行機の影が見える。親たちは、見るな、かがめと怒鳴る。壕の広さはせめて2畳分ぐらいだが、家族7人(両親と女学校の姉を筆頭に5人の子供。私は末っ子)が何とか入れた。
そのうち気丈な長姉は壕に入らずラジオの空襲警報の放送を大声で復唱して伝えてくれた。壕には電気が引いてなかった。

壕は、どういうわけか2つ目を掘り出した。竹の根が張ってさっぱり掘り進まないがこの時は私も動員されたので覚えている。この2番目の壕は完成しなかった。
終戦直近になると3番目の壕を掘り出した。それは初めての横穴式だった。斜面の竹林に横穴を掘るという、後でおやじの日記で知ることになるが全部役場からの通達の軍命令。川に沿った斜面なので、本土決戦の準備のつもりだったのだろう。これも人ひとり入れる状態になる前に終戦。しかし、親の日記によれば、終戦数日後また掘り出すことになる。厚木の基地の動きが怪しい、と。

タイムスリップ

2011-06-02 20:49:05 | 自分史エピソード
JIN仁のテレビドラマが人気。どうもタイムスリップものが気になってつい見てしまう。
しかし、過去に舞い戻るタイムスリップものは、作者は歴史改造になることを警戒するという習性がある。
過去に持ち込んだ写真が薄れていくなど、無理な設定がもの壊しになっている。
いいじゃあないですか。主人公が滑り込んだ『過去』はそこから新しい歴史が生まれているのであって、また元の時空に戻ることができてもそれは主人公が干渉した過去の続きではない。



次元を一つ落として考えるとわかりやすい。4次元空間に浮かんでいる3次元宇宙を、3次元空間から見ている2次元宇宙と考える。2次元宇宙は時間軸上に拡大している。平面だから簡単に曲げられる。折り曲げれば現在を過去とくっつけることもできる。その接点から過去の時間に滑り込めばよい。

時空が自由に曲げられれば接点で『どこでも(いつでも)ドア』が開くかもしれない。

スバル450

2009-09-03 18:21:40 | 自分史エピソード
初めて買った車

古い写真が出てきた。昭和39年に初めて車を買った。当然中古車だがこれはスバル450という大変珍しい車。当時、軽自動車の排気量は360ccまで。それ以上は普通車。これはれっきとした普通乗用車。軽自動車は速度制限など多くの規制があったが、横浜バイパスを60kmで走っていると白バイが近づいてきて、怪訝な顔をして離れていく。

ナンバープレートも懐かしい。もっともこの車は横浜の大学教官から買い受けたもので名義変更するときに神ナンバーから多ナンバーに変わった。4桁ナンバーの二桁目に一本線が入ったのが新車のような感じがしてうれしかったものです。

続・剣道教師(父の日記帳から)

2009-09-01 16:37:34 | 自分史エピソード
続剣道教師
都内と県内でいくつかの学校での非常勤講師をもっていた。終戦年内に次々辞表を出させられる。昭和21年2月14日の日記を転載してみる。

 厚木中学から来てくれと云うので朝6時過ぎに中津バス停で一番に乗る。着くと学校はまだ始まっていなかった。生徒に挨拶してくれと校長が云う。全校生徒を一カ所に集めて校長が長たらしい話をした後私が壇に上った。一通りのあいさつで引き上げようとしたが生徒のいたずら顔が目に付いたので、ちょっと話を加えた。
 マッカーサーは流石に偉いと言ってしまった。
アメリカをやっつけろという気になって剣道を正課にしたのは間違いであった。いやいやだがちょっとやってみようくらいの気持ちで剣道をはじめて剣道の精神がわかるものではない。生兵法大けがのもと。宮本武蔵でも塚原朴伝でも戦わずして勝つことを旨としていた。武と云う字は戈を止めると書く。戦わずして勝つこれ善の善と云っている。荒木大将なぞは私と一緒に修行していたのだが結局は生兵法しか身についていなかったのだ。取り返しのつかない大けがをしてしまった。剣道は日本人には自然に備わっている。捨てておいても滅びるものではない。私ははじめて分かった。日本の剣道は平和を愛好する民族を作るものだ。そういう剣道を学校から除き去るということはマッカーサーが真の剣道の精神を知らぬからだ。考えてみると今までの学校剣道は生兵法者を大勢作り上げただけだ。真の剣道の達人は捨てておいても出てくる。(禁止しても)日本の剣道は滅びない。
そう言ってしばらく生徒達の目を見ると私と生徒たちはしっかりと結ばれていることを感じた。一言話しておいてよかった。



かすかな記憶で、終戦前、朝暗いうちから近所の青年たちが庭にやってきて親父から打ち込みの訓練を受けていた。それに私も加わっていた。
しかし、戦後親父が竹刀や木刀を振る姿は見ていないし、私にもぴたりと教えることをやめた。剣道しか仕事がなかったおやじであるが意外と冷静にこれを見ていたのだ。俳句の世界に入っていったこともそういう気持ちにさせた理由の一つかもしれないが、仮に剣道復活に動いていたら戦後の立場も変わっていたかもしれない。名声をすべて捨てて慣れない百姓に身をやつしたのもなんとなく理解できて来た。


進駐軍による日本刀の没収(父の日記帳)

2009-08-28 12:07:52 | 自分史エピソード
日本刀没収
 連合軍が来た時に刀が見つかると没収されたり罰せられたりするのではないかと云う心配が住民の間に出てくるのか、隣近所から刀を預かってくれと来る。その身勝手さに父もあきれるのだが、まだ日本刀を武器とみなして没収せよという指令は来ていない段階である。
 父も当然引き渡し要求があると覚悟している。

 その後、日本刀を出せという命令が来る。我が家でも1本を役場に持っていくが、その後も駐在がまだあるだろうと訪ねてくる。私も意外とこのころのことは記憶によみがえってくる。父の日記帳では、日本刀1本をもっているがこの管理も意外と大変だ、この機会に出せというなら出す・・・と書いている。しかし私の記憶では、親父の部屋の押し入れに数本の刀が入っているのを記憶している。父が日記でウソを書くはずがない。
 この日本刀没収の史実は、その後美術的価値のあるものについてはそっと持ち主に戻されている。我が家でも、そのようにして戻されている。さらに、我が家の経済力で戦後日本刀を買い取ったりするはずもない。長短2本の刀がしばらくの間床の間に飾られていた。白鞘に納められた長刀長船は昭和42年ごろ収集家に売り渡している。脇差濃州住兼元はいまだに私が保管している。さらには2007年1月には私自ら最近「発見」した短刀(長船)も県の教育委員会に登録している。日本刀に関する事実は今後の日記で確認していく。

 剣道家の親父が日本刀に対して意外と淡白であったことを日記で初めて知った。どうやって手に入れたものか、先祖伝来のものかもまだわからない。私が子供のころこれをいじって柱に傷をつけたこともあるが、あの怖い親父にさほどしかられた記憶もない。

終戦 剣道の行方 (父の日記帳から)

2009-08-26 23:54:02 | 自分史エピソード
剣道講師
 県内では、旧県立厚木中学(現在の厚木高校)や相原農産(現在の相原高校)で剣道の講師をしているが9月から授業が始まり、時々出勤する。厚木行きのバスは中津までしか来ない。そこまで歩いて行っても、今日は運休等と云う状況。その時は厚木まで歩くことになる。

 厚木中学での剣道の授業。剣道も禁止されて道具や竹刀も取り上げられるかもしれないがそんなものは無くとも立派に剣道の精神は鍛えられるという話をしている。ラジオや新聞で刀剣は武器とみなすと言っている。剣道はこれから棒きれでやるという。

 現実に父は、剣道の時間に「打ち込み」はやっていない。教室に生徒を集めて俳句の話ばかりをしている。職業は剣道家だが俳句はその鍛錬の上に身に付いたものと自負している。剣道と俳句を結び付けようと腐心している様子がわかる。
その後、学校での剣道の授業は禁止される。それに伴って父の学校講師の仕事はなくなる。厚木中学の剣道の道具はすべて我が家に預けられる。進駐軍が来て没収されるのを防いだものだろう。その大量の胴や面、道着が私が厚木高校に入学するころ(昭和30年)まで我が家においてあった。返却の要請が来なかった。実は剣道が解禁になったころは学校は真新しい道具をそろえたり、個人がもつようになったために回収する要が無くなったのだろう。無理に引き取らせたような感じだった。

写真はこのころの厚木中学のものと思われる。この景色は私が通い始めたころの厚木高校の通用門の近くの景色そのものであるから。


  

交通事情と加藤大尉(父の日記帳から)

2009-08-23 14:22:10 | 自分史エピソード
連合軍が進駐してくるということからか、電車の切符は移動証明書がないと買えないなど、戦後の交通には大きな障害が出てきたようである。八王子から我が家まで20km近い道のりをリュックを背負って歩いてきた人がいる。
父はこんな事情の中、加藤大尉との再会を果たすことができる。加藤氏から乗車証明書が届いて、小田急、東海道を乗り継いで湯河原に行く。実はこれは、米軍に供出せよという命令で牛を厚木まで歩いて引いていかねばならない事情が出て、その足で厚木から小田急に乗っているのである。当時高峰村から厚木駅までは15kmの道のり。それを母と牛を曳いて6時間かけて歩いている。
せっかく加藤大尉と再会しても、疲れ切った体でかえって気を使わせている始末であったようだ。俳句の集まりもあまり集中できていなかった風だ。それまでの疲れた体を、療養できると温泉につかっていたらますます体がなまってしまった。
湯河原に出発する前は、飛行機の解体に駆り出されて、なぜ今解体する必要があるのかともっともな疑問を日記にぶっつけている。まだ進駐軍の指示ではなく日本軍の命令である。飛行機のガソリンをドラム缶で近くのに配り、地中に埋めさせるなど、相当混乱していた様子がわかる。

写真は終戦の近い頃の写真と思われる。父の教え子か何かの人が厚木で写真館を開き、1年に一遍は必ず我が家にきて記念撮影をしていった。家族全員で写っている写真はこれ一枚しか見当たらない。