宝満山研究会(山岳宗教遺跡の保全と研究)

大宰府の北東に聳える宝満山の歴史的価値を掘り起こし、山の保全を考える会です。

古代の大宰府条坊と宝満山

2009-01-12 | Weblog
依頼がありましたので、昨年12月6日に九博でおこなわれたシンポジウムの
宝満山に関するデータを掲載しておきます。

降雪した大宰府政庁跡と宝満山

 大宰府条坊跡での発掘調査は開始された1974年から35年の歳月を経て、280に及ぶ地点での発掘調査がおこなわれています。発掘当初は古代の都市計画である条坊道路の区画の存在について、いい調査事例に恵まれず一時期は懐疑的な時期もありました。現在では約90mごとに設置された街路が認知され、その街区の中で頻繁な建物の建て替えがおこなわれた都市のありようが捉えられています。条坊の街路に関する近年の調査では、条坊道路の嚆矢は8世紀前半におかれること。政庁の南に延びる朱雀大路が奈良時代には35mの路面幅を保持していたこと、大半の条坊路の路面幅が奈良時代では3m前後であること、奈良時代の裏面の一部に車両の轍と牛の歩行痕跡を残す場所があること、条坊南端の条路幅が9mあり、西側で古代官道の西門ルートに接続する可能性があること、などの新しい知見が得られています。また、西鉄二日市北側にある操車場跡地で継続されている調査地点では条坊左郭1坊14条路の交差点そのものが検出され、奈良・平安時代の道路の維持管理された様子が克明に明らかにされています。
 平安中期頃までは朱雀大路周辺の条坊の中心地域は繁栄していますが、11世紀後半以降には条坊道路の使用が止み、条坊区画を無視した建物を主体とした生活遺構が現れるようになり、この時代に堆積した土壌から採取された花粉の分析では急にイネ科植物の花粉の割が激増するデータもあるなど、都市としての空間が急激に変化していたことが知られます。これに呼応するように、条坊の北東側から条坊外の現在の太宰府天満宮までの間に、北に対して8度ほど東に傾く街路が相次いで発見され、条坊の原理に拠らない新た都市域が展開していたことが明らかになってきました。ちょうどその頃は末法思想を背景とした経塚が、大宰府を取り囲む山稜に次々と造営され、四王寺山や宝満山では山中を切り開いて広大な面積の山岳寺院が建設されています。
 宝満山は大宰府の宗教センターとしての機能を持ち続けた霊山で、近年の調査では比叡山を開いた最澄が全国に企画した六所宝塔のうちの安西塔に想定される礎石建物が発見され、山全体について俄に研究者の中で再評価の機運が高まっています。

筑前竈門山六所宝塔跡

2009-01-10 | Weblog

承平七年(937)「大宰府牒」
府牒 筥崎宮 應令造立神宮寺多宝塔壱基事
牒、得千部時僧兼祐申状僞、謹案天台伝教大師去弘仁八年遺記云、
為六道衆生直至仏道発願、於日本国書写六千部法華経、建立六箇基宝塔、
一一塔上層安置千部経王、下壇令修法花三昧、其安置建立之処、叡山東西塔、
上野下野国、筑前竈門山、豊前宇佐宮弥勒寺者、而大師在世及滅後僅所成五処塔成、
就中竈門山分塔、沙弥證覚在俗之日、以去承平三年建立成。・・・

1月8日のTNCの報道でまた、宝満山の遺跡が取り上げられたようです。
昨年調査された本谷礎石群の保全に関する内容だったようですが、
人々の関心が山の保全に向かって盛り上がるきっかけにしたいものです。
(遺跡の詳細については本ブログ20071210記事を参照してください。)