goo blog サービス終了のお知らせ 

かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 206

2022-12-11 09:44:31 | 短歌の鑑賞
  2022年度版 渡辺松男研究2の27(2019年9月実施)
     Ⅳ〈蟬とてのひら〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P133~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆、渡部慧子    司会と記録:鹿取未放


206 わがこころはつかに乱れたる恋をひとしらぬなり赤唐辛子

        (当日意見)
★やっぱり赤なんだなと思った。赤唐辛子だからこそ最後がぴしっと決まっている。
 成っているところがかわいらしいですね。(岡東)
★私はもう少し苦い感じかなと思いました。(鹿取)
★赤唐辛子は辛いですよね。悪いけど蟬の歌と比べると別人かと思うほどです。まあ、
 歌集って一色では駄目だから哲学的な深い歌の後に箸休めに置かれたのかな。でも、
 この歌、俗の極みです。全身全霊でなら赤唐辛子でもわかるけどはつか乱れたくら
 いで赤唐辛子を持ってくるのは違うんじゃない。(A・K)


      (レポート①)
 4句までの内容は比較的わかりやすいが、結句の赤唐辛子が何とも秀逸。言葉にできない感情のにじみのようなもの、ひとしらぬなりという秘められた恋、そんなことも赤唐辛子にたくされて、その上で全体を引き締める。ひらひらした散りやすい花では功を奏さないだろう。短詩型において物に寄せて詠うと言うことをつくづく思う一首。(慧子)


         (レポート②)
 恋に乱れた心は人知れず真っ赤っかなのだよ、と詠う。唐辛子には赤や緑や黄色があるが、「赤唐辛子」なのだという。結句でピシリと決めたことで、身もだえするような恥ずかしさが一層際立つ。この赤唐辛子、ちょっと気の毒で可愛らしくもある。(真帆)


     (レポート③)(紙上参加意見)
 『自分にもわずかに心を乱した恋があったよ。だれもしらないけどね』という、ちょっと軽くてこの作者にしてはわかりやすい歌だが、結句の「赤唐辛子」がとても効いていていい歌。真赤な小さなピリッと辛い、思い出。(菅原)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 205

2022-12-10 09:40:14 | 短歌の鑑賞
  2022年度版 渡辺松男研究2の27(2019年9月実施)
     Ⅳ〈蟬とてのひら〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P133~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆、渡部慧子    司会と記録:鹿取未放


205 われひとり ひとりであれば蟬を食べいいようのなき午後のしずけさ

          (当日意見)
★名歌だと思います。存在の根源的な寂しさを詠ったのだと思います。蟬をほんとうに
 食べたかどうかは追求しなくていいと思います。われはひとりなんですよね。この世
 に一人で存在している、絶対的な孤独です。(A・K)
★もう少し先に枯れ葉や日溜まりを食べる歌があって、確か川野里子さんがどこかでそ
 の歌について書いていらしたのですが、見つけられなくて。たぶんA・Kさんの今の
 意見のようなことだったと思うのですが。(鹿取)
★枯れ葉とか日溜まりは叙情的ですね。でも、ここは蟬でもっと即物的ですから怖い。
 でも人間は意識していなくても他の命を食べて生きている訳ですから。もしかしたら
 魚や鶏だったかもしれないけど、この人は蟬と言った。蟬は弱いですから人間に抵抗
 できない。それにはっと気が付いたとき、自分が世界に存在すること自体の絶対的な
 寂寥のようなものを感じた。善悪を超えたところにある孤独と寂寥だと思います。普
 通われわれは「蟬食べて」とは言えなくて茄子食べてとかなっちゃうけど、蟬がでた
 からこそ深い歌になった。(A・K)
★イナゴなどでなく蟬だからいいですね。イナゴ食べても静かにはならないけど、蟬だ
 から食べられて鳴き声がなくなって静かになった。(岡東)
★しずかさをそう解釈すると歌が浅くなります。私はいかに読者を自分の歌に引き込む
 かが大切と教えられてきました。迎合することとは違いますが。蟬を食べるって読者
 はびっくりしますよね。(A・K)


      (レポート①)
 初句「われひとり」の次の一字空けは何なのだろう。この一字空けから異界へゆくように、妄想をここから広げる。そのような意図だろうか。ちょうど今一人で居て蟬を食べる。食べると蟬声は絶える。結果いいようのない午後のしずけさとなる。ここにものの善し悪しをこえた何か根源性につながるような静けさを感じる。世界にたったひとりでいるような、吞まれてしまうような圧倒的な夏の午後の静けさを詠っていよう。
  (慧子)

        (レポート②)
 今回ネットで検索してみて初めて知ったのだか、蟬は食べられるのだそう。唐揚げにしたり、幼虫は味付けをして燻製にしたりするらしい。作者は一人の時にこっそり蟬を食べてみた(心で食べたのかもしれないが)、そうしたらいいようのないしづけさがあたりを包んだという。「午後のしずけさ」には蟬を食べてしまったという単純な悲しみなどではない、もっと深くて厳かな寂しさがあるように思う。(真帆)


     (レポート③)(紙上参加意見)
  本当に「蝉を食べ」たかどうかはわからない。たぶん、食べてはいないだろう。けれど、確かにシャリシャリと乾いた音がしそうで、その音は午後の静けさを際立たせるだろうし、蝉という殻ばかりで実態のないような軽いものを食べればむなしく孤独感は強まるだろうから、「蝉を食べ」がぴったりなのだ。(菅原)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首 204

2022-12-09 10:29:17 | 短歌の鑑賞
  2022年度版 渡辺松男研究2の27(2019年9月実施)
     Ⅳ〈蟬とてのひら〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P133~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆、渡部慧子    司会と記録:鹿取未放


204 風痩せて引出しにありわれの風かつて神社におみな泣かせき

   (当日意見)
★「風痩せて」と引出にありが上手だなと思います。(岡東)
★対象が慧子さんは女、真帆さんは女の子、菅原さんは女性、それぞれ全く解釈が違い
 ますね。好みとしては少女です、女を泣かせたなんって嫌ですよね、神社で女を泣か
 せたなんて三文小説みたいで。(A・K)
★おみなってもとは「をみな」で古語では若くて美しい女性ですよね。「風」って激情
 とか直情でしょうかね。直情に駆られて少女を泣かせてしまったけれど、今はそうい
 う心の勢いが衰えてしまった。(鹿取)


         (レポート①)
 一首中に風が二度使われている。同じ意味なのか、どうなのか。臆病風が吹くや役人風を吹かせるなどという例があるので第3句のわれの風はまさしく個人的な女への風だろう。しかし、冒頭の風は3句以下のわれの風のなりゆきを暗示はしていよう。しかしそれのみではないだろう。初句は風という大きな自在な動きをしていたものを想像したい。それがなんであろうと「引出にあり」と作者にひきつけていて、秀逸だと思う。「風痩せて引出にあり」という新鮮さをもって序詞のようでもあり、魅力的な一首。(慧子)


          (レポート②)
 こどもの頃を思い出している歌だろう。豊かな風とはいうが、ここではそれを逆手にとって、反対の表現をし「風が痩せている」と言った。子供時代の、思い出すだけでも恥ずかしくなるようなことはきっと誰にでもあるだろう。作者は、思い出の引出しを開けると、ピューっと痩せた風がふいてくるように、神社で女の子を泣かせたことを思い出すのだという。好きな女の子だからつい意地悪してしまったのだろう。「風痩せて」や「われの風」と「風」の抒情詩にしたところが印象的だ。(真帆)


     (レポート③)(紙上参加意見)
 若いころ、神社で女性を泣かせてしまったことがあり、引出を開けたらふわっとその時の事が思い出されたのだろう。私たちは引出にいろいろなものをしまい込む。他人にはどうでもいいような子供っぽい思い出や秘密の品を。だから、引出を開けると忘れかけていたことを思い出したりする。若さゆえの衝動を「風」とたとえたのか、「風痩せて」がきれいで上手。それにしても、優しそうな作者にもこんな若い日があったのですね。(菅原)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 203

2022-12-08 09:33:09 | 短歌の鑑賞
  2022年度版 渡辺松男研究2の27(2019年9月実施)
     Ⅳ〈蟬とてのひら〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P133~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆、渡部慧子    司会と記録:鹿取未放

203 わが内に墓掘るおとこ墓を掘り墓穴ふかく夏日をそそぐ
    
        (当日意見)
★墓を掘っているのは作者自身なんでしょうかね。全く他者なんでしょうかね。それに
 よって解釈が違ってきますよね。自分が掘っている方がわかりやすいでしょうかね。
 でも、生の中に死があるではあまりに当たり前ですよね。それから「夏日がそそぐ」
 ではなく「夏日をそそぐ」で受け身じゃないんですよね。墓を掘るのが自分だと、自
 分は同時にその墓穴に夏日をそそいでいるんですね。夏日をそそぐをどう解釈するか
 ですよね。(A・K)
★私は死に神みたいな時間のようなものがあって、夏日をそそそいでいるのは大いなる
 もののような気がしましたけど。(真帆)
★「夏日がそそぐ」だったらそれでもいいでしょうが「夏日をそそぐ」だから難しいで
 すね。私の中に墓を掘っているのは〈われ〉と解釈しました。その〈われ〉が掘り上
 がった墓穴に夏日を注いでいる。秋風や 凩が吹きすぎるのでもなく、霜や雪を降ら
 せるのでもなく夏日の乾いた感じ。いつかそこに〈われ〉は入るんだけど、今は穴を
 暖めているだけ。(鹿取)
★人間というのは通常は自分の死をどこかで意識しているけど実感としては感じていな
 い。鹿取さんのおっしゃるようなことかな。(A・K)


        (レポート①)
 「墓掘るおとこ墓を掘り」という繰り返しのあるフレーズから墓掘りを当たり前のこととしてひたすら墓を掘っているらしい様子がうかがえる。そして下の句の「墓穴ふかく夏日をそそぐ」の行為の主体が上の句と同じでこれが不思議だ。おそらく「ひたすら墓を掘っているともう没我のような状態になり、対称性を抜けるのだろう。それもこれも自身のうちのこととなる。これが表現上の律にも及び2句3句と4句5句とが主体を同じくする並列表現となって美しい。ところでわがうちに墓掘るおとこがいるというこの設定は、作者にとって生と死とはひとつづき、いや生は死をはらんでいる、そのような死生観のゆえだろう。(慧子)

            (レポート②)
 自分にもいつか死神がやってくる。それは日々着々と進められている。「墓を掘り墓穴ふかく」と文字に読まれると、暗く深い穴に突き落とされるような恐怖を感じる。そこへ作者は「夏日をそそぐ」と締めくくる。「夏日をそそぐ」から喚起されるのは、万緑に燦々とふりそそぐ生命力や、命への賛歌といった肯定的なニュアンスだ。いずれ作者の入るであろう墓穴を掘っている男が、その墓穴へ夏日を注いでいる。陽に満たされた墓穴は、墓穴の土の湿り気も蒸発させるような感触があり、死は逃れられないごく自然の掟なのだとという作者のおおらかな諦観を思う。(真帆)

         (レポート③)(紙上参加意見)
 誰の墓だろう。たぶんその墓は親しい人の墓で、何度もともに楽しい夏を過ごしたのかもしれない。その人の死を、その人の思い出とともに、大切にあたためながら受入れようとしているのだろう。「夏日をそそぐ」がいい。こんな明るくてあたたかな墓穴に葬られる人は幸せだなと思う。(菅原)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渡辺『』『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 202

2022-12-07 11:24:24 | 短歌の鑑賞
  2022年度版 渡辺松男研究2の27(2019年9月実施)
     Ⅳ〈蟬とてのひら〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P133~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆、渡部慧子    司会と記録:鹿取未放


202 いとこ死にまたいとこ死に真夜中の廊下廊下に歯をみがく音

       (当日意見)
★この歌の歯を磨いているのは生者ですか?死者ですか?(鹿取)
★私はごく平凡にお葬式に来た人が磨いているんだと思ったのですが。(岡東)
★私は死者達だと思っていました。廊下廊下だから一つの廊下ではないんですよね。こ
 こはそういう光景を幻視・幻聴している。ほんとうは幻視・幻聴なんていう必要も無
 くてありありと見ている。状況は全く違いますが渡辺白泉の「戦争が廊下の奥に立っ
 てゐた」の象徴性を思いました。この俳句を踏まえるといとこ達が次々と亡くなった
 のは戦死かもしれないですね。だから、今現在の現実をうたっているわけではない。
    (鹿取)
★当然死者ですよね。同時に死ぬってことはまあないので次々にいとこが死んだ。複数
 の死者ですね。そういう死者達が夜中に歯を磨く音がしているようだ。現実ではない
 ですね。一つ一つは普通の言葉なんだけど組み合わされると全く違う複雑な情景が生
 まれていますよね。幻影であるし幻聴であるし、深くて淋しいもの。(A・K)
★歯を磨くということが余りに鮮やかすぎて死者の行為のようには思えなかったんで
 す。話し声とか笑っているとかだったら違うけど、具体的な行為だから。(真帆)
★歯を磨く音がリアルだから幻聴としての説得力があるように思います。(A・K)
★私は入眠時幻覚というのをよく見て、死者だと分かっているいる人がベッドのそばに
 やってきて話しかけたりするんだけど、衣擦れの音とか息づかいとかとってもリアル
 に聞こえるので、死者が歯を磨く音は全く違和感がないのですが。これは歌ですから
 実際の経験を詠う必要は全く無いので、松男さんは自由に創作されていると思います
 が。(鹿取)


       (レポート①)
 たとえば、音楽の豊かさは聴く人のそれぞれのたのしさ、切なさを呼び起こし、過ぎ去った時と今を重ね、今をさらに深くすることにあろう。ここでは映画の一場面のように鮮やかに死者と歯を磨く音をひきよせて、死者への懐かしさと哀しさをこめた感情がみえる。そしてこちらとあちらをつなぐような今と昔(従兄弟達と遊んだ幼いころ)をゆききできるようなそんな場としての廊下であろう。(慧子)


         (レポート②)
  一人のいとこが死に、またもう一人いとこが死んだという、あるいは「またいとこ」の部分は「またいとこ/又従兄弟(又従姉妹)」かもしれない。通夜に集まったのか、病院でなくなったのか、親戚たちの歯を磨く音が廊下廊下に響いているという。静まりかえった廊下に、誰もが力尽きたように歯を磨く音だけが響いている。まだ生きているものの歯を磨く行為が、余計に寂しく感じられる。(真帆)


    (レポート③)(紙上参加意見)
 年齢の近い近親者が相次いで死んでしまい、不意を突かれたような驚きが、「真夜中の廊下廊下に歯をみがく音」という学校の怪談めいた表現によって、妙な生々しさで伝わってくる。実際に、作者はいとこたちと一緒に泊まって仲良く歯を磨いたことがあるのかもしれない。(菅原)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする