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かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 211

2022-12-16 12:40:17 | 短歌の鑑賞
   2022年度用 渡辺松男研究2の28(2019年10月実施)
     Ⅳ〈水〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P138~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、鹿取未放
     レポーター:岡東和子    司会と記録:鹿取未放


211 単眼児無脳児くもりぞらにありくもりぞらそのなかは雨ふる

      (レポート)
 単眼児無脳児が曇り空にあつて、曇り空の中では雨がふつている。単眼児は眼球が顔面の中央に一個しか形成されない児で、無脳児は頭蓋及び脳が欠如する児(広辞苑)でいずれも先天性の奇形児である。ほとんどが死産もしくは出生直後に死亡することから「くもりぞらにあり」と表現されているのであろう。下句の句またがりは、くもりと雨のつながりを暗示するように思う。(岡東)


       (紙上参加意見)
 曇り空にある単眼児、無脳児。はじめ、作者は雲の形を見て連想したのかと考えたが、むしろそれよりも、ホルマリン漬けの標本をみたのかもしれないと思う。少し濁った感じのホルマリン漬けの胎児は酷く見るのが辛い。障害児の悲しみをうたったのか。そうであっても、残念ながら共感できない。なぜなら、このことを歌にする必然が作者にあるように、この歌から、私には感じられないからだ。(菅原)


          (当日発言)
★ウキペディアで調べたら写真が出ていましたが、写真は見ていられなくて、コピーし
 たけど写真は切り捨てました。(岡東)
★松男さん、仕事上、こういう標本を見る機会があったんだろうと思います。私はこの
 歌読んで菅原さんが拒絶するようには受けとらないです。そういう子たちを見世物に
 するとか、蔑(なみ)しているとは思わないです。(鹿取)
★「そのなかは雨ふる」とあるから哀れみの心みたいなものだろうかと思いました。泣
 いてるんだという気持ちかなあ。(真帆)
★そういう人情ではなくて、もう少し厳粛な思いかなあと。それを平たく言えば哀れか
 もしれないけど。曇り空を涙とかに繋げてしまうと通俗になって詩から遠ざかると思
 います。(鹿取)
★初句で「単眼児無脳児」と続けるのはものすごく強烈です。写真なんか見られないで
 す。仰天しますよ。この歌は全然共感しないです。なぜこの歌の必然が作者にあった
 のかなと。12首連作のうち、この一首除いたら駄目になるかといったらそうではな
 い。読者はどう受け止めていいか分からない。差別しちゃいけないとかそんな問題じ
 ゃない。何か言いたいなら、なぜ二つ並べたのか、それが私には分からない。
    (A・K)
★この二つを並べたのは、私の想像ですけど作者は仕事柄、ホルマリン漬けの標本を見
 たことがあるんだろうと思います。作者自身がショックで、見ちゃった以上表現しな
 いではいられなかったのかもしれない。「くもりぞらそのなかは雨ふる」で鎮魂と
 か、祈りの気分を出したかったんじゃないでしょうか。(鹿取)


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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 210

2022-12-15 09:17:14 | 短歌の鑑賞
   2022年度用 渡辺松男研究2の28(2019年10月実施)
     Ⅳ〈水〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P138~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、鹿取未放
     レポーター:岡東和子    司会と記録:鹿取未放


210 ぽちゃぽちゃとわたしは歩く水ぶくろ歩きつかれて月下水のむ

       (レポート)
 作者は歩いている。歩き疲れて夜になり、月が出ているその下で、水をのむという。人間は身体の半分以上が水だから、「歩く水ぶくろ」である。ぽちやぽちやという擬音語が「水ぶくろ」につながつて、ユ―モアさえ感じさせられる。水に苦しむ作者が「水のむ」というのは、ブラツクユ―モアだろう。(岡東)


        (紙上参加意見)
 人体はほぼ水でできていて確かに水袋という表現がぴったりだ、ぽちゃぽちゃという音はかわいい。水袋だけどなんだか愛しい感じ。その水袋が歩き、疲れて、水をのんだ。水袋が水を補給するのはなんだか滑稽でもある。けれど「月下水のむ」という美しい表現に作者の存在への肯定感が感じられる。いい歌。(菅原)


         (当日発言)
★表記ですが、「囊」という字で「ふくろ」と読ませるのが合っているような気がす
 る。この歌は「ふくろ」とひらかなですが「囊」という字を意識しているんじゃな
 いかなあ。前の2首に比べてわかりやすい。おとぎ話っぽいけど分かる気がする。
    (A・K)
★自分は水のふくろで歩くにも体中の水がぽちゃぽちゃと揺れて苦しい。そして歩き疲
 れて月の煌々と照る(とは書いてないけど)下で水を飲む。月下だから、この部分は
 苦しいイメージではない気がする。(鹿取)
★菅原さんが書いている「「月下水のむ」という美しい表現に作者の存在への肯定感が
 感じられる。」は違うんじゃないかなあ。そこまでは言ってないんじゃないですか。
 もっと切ないというか、そうせざるをえない、存在としての切なさ。(A・K)
★もっと肉体的な感じですか?(鹿取)
★そう、そう。(A・K)
★水吐くではなく水飲むだから。ぽちゃぽちゃというオノマトペがものすごくリアルで
 実感として伝わってきて。喉は渇いていないのに歩き疲れて水を飲むのは生きる哀し
 さのよう。菅原さんは上の句の方に重点を置いて、それでも水を飲むことに生きるこ
 とを受け入れたというような肯定感かなあと思います。でも、あまり積極的な肯定感
 ではないような。(真帆)
★理屈とか哲学とかではなしに、肉体として水を飲む。プラスもマイナスもなくて、善
 悪でもなくて、精神ではなくて、人間の肉体をもっている私は水を飲みますという。
 そこで「月下」というのが効いている。木の元とか川のほとりでは駄目で。
   (A・K)
★「月下水のむ」って漢詩みたいで調べが張ってますよね。上の句はへにゃへにゃし
 てるけど。(鹿取)
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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 209

2022-12-14 10:58:46 | 短歌の鑑賞
   2022年度用 渡辺松男研究2の28(2019年10月実施)
     Ⅳ〈水〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P138~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、鹿取未放
     レポーター:岡東和子    司会と記録:鹿取未放


209 雲をたべ水っぽきわがこころなり歩道橋のぼり歩道橋おりる

     (レポート)
 雲を食べて、作者のこころは水つぽくなつた。その心で歩道橋をのぼり、歩道橋をおりたという。雲は空気中の水分が凝結したものだが、それを食べて「こころ」が水つぽくなつたという表現が面白い。比喩を効かせた上句に対して、現実的な下句の表現が巧みな一首である。(岡東)


     (紙上参加意見)
 雲をたべて水っぽくなる心、体ではなく心。とりあえず、心に鬱積していたものが薄まったということか。そんな心のまま歩道橋を上る。それは地面から、俗界から少し浮き上がって、少し心を開放される感じなのか。そして、また降りてくる。この動きのある下句が日常にいながら日常から別のところへ連れて行ってくれるような不思議な感覚がある。(菅原)


         (当日発言)
★感覚的には分かる気がする。歩道橋を登ったり降りたりするのも何かぼあーんとした
 雲が上り下りしているようで、くぐもった感じも伝わってくる。(真帆)
★水っぽいというのはいい意味か悪い意味か。あまりいい意味ではないような気がす
 る。苦しみが薄らいだというのなら分かるけど、水っぽい心って何か違うような気が
 する。「歩道橋のぼり歩道橋おりる」ってものすごくリアルな動きを持ってきている
 けど、作者がそうしたようでもあり全然違うようでもある。(A・K)
★松男さん、パンになったりいろいろなものになるけど水を素材にして採り上げたのは
 初めてと思います。また、雲を食べると言われるとちょっと…味わったり飲み下した
 りする訳だから。(真帆)
★下の句と上の句には関連があるのですか?雲を食べた後、水っぽい心なりって断定し
 てます。ここで切れます。そして歩道橋を登ったり降りたりするんですよ。坂ではな
 く歩道橋でないといけないのか。段々、階段が想像されますよね。(A・K)
★前回は蟬を食べましたよね。これは無理すれば食べられないことはない。でも、雲は
 まあ理屈で言えば食べられませんよね、そんなこというと「あなたはリアリズムのめ
 がねを掛けているだけ」って松男さんに笑われますけど。歩道橋のところはエッシャ
 ーのだまし絵を連想しました。あの中の人物は階段を登っているようで実は降りてい
 て、降りているようで実は登っていて不思議な絵ですよね。リアルな行動のようで何
 か朦朧とした夢の中で登ったり降りたりしているような感じ。(鹿取)
★倒置法ではないですか?歩道橋のぼり歩道橋おりる、と上の句が倒置になっている。
 つまり、なぜ上の句のような気持をもったのかというと、それは、歩道橋にのぼって
 少し空に近づき、空へ手をのべ雲をとって食べたから。実際には心で雲を食べ、水っ
 ぽい心になった、そのあと歩道橋をおりた、というように思いましたがどうでしょ
 う。(真帆)
★いや、それは倒置法ではないですね。例えば「銀杏散るなり夕日の丘に」のようなの
 が倒置法ですね。倒置法は語法の問題、文法上の問題です。菅原さんは「日常から別
 のところへ連れて行ってくれるような不思議な感覚」と書いていて、この歩道橋を超
 自然のものという捉え方ですね。この説をとると雲を食べるイメージと結びつきやす
 いですね。まあ、あまり理屈で言うとつまらないので、岡東さんのレポートでいいの
 かな。(鹿取)

        (後日意見)
 「吹けばかまきりの子は飛びちり あなたはりありずむのめがねをかけているだけ」という歌が渡辺松男の第五歌集『〈空き部屋〉』にある。上記、鹿取発言はそれを踏まえる。(鹿取)

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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 298

2022-12-13 10:00:27 | 短歌の鑑賞
  2022年度用 渡辺松男研究2の28(2019年10月実施)
    Ⅳ〈水〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P138~
    参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、鹿取未放
    レポーター:岡東和子    司会と記録:鹿取未放


208 われ水にくるしむわれのなかの水雲ひろがりてくるときにおう

       (レポート)
 作者は水に苦しんでいるという。作者の中の水は、雲がひろがつてくるとき、におうというのだ。人間の身体の六十%は水分でできていると考えられている。水分は、数日とらないと命にかかわるとさえ言われている。それだけ大切な水が、雲がひろがつてくる時においを発して苦しめる。汲み置きの水が梅雨時など匂うことはあるが、ここではそうした現実を詠つているわけではない。「われのなかの」としたところに苦しみの深さを感じた。〈水〉十二首の冒頭にこの歌がある事を念頭に、以下十一首を読み進めたい。(岡東)


     (紙上参加意見)
 作者は水に苦しんでいて雲が広がり雨が近づいてくると自分の中の水がにおうという。この水とは何なのか、くるしめ、におうのだから、匂うではなく、臭うだろう。とどまり腐り出したような水で、作者を飲み込む無力感倦怠感閉塞感などか。確かに、雨が近づいてくると、湿ったにおいがすることがある。そんな時に、作者は自分という存在のにごりを感じ、苦しんでいるのだろう。(菅原)


         (当日発言)
★レポーターの岡東さんが書いているように、くみ置きの水が臭うことはあるが、ここ
 では自分の中の水が臭うから苦しいのだというところ、なるほどと思いました。あと
 一つは自分の存在の濁りを感じているだろうと菅原さんが書いていて、存在の濁りに
 引きつけられました。歌の中で松男さんは樹木になったりしますよね、以前、木の中
 を水が流れていると詠まれた歌もありました。作者が自然界と自分が同調していてあ
 まり境がないように感じているのは分かるのですが、「われ水に苦しむ」というのが
 すごく強くて、存在に苦しむのでしょうけど、そこが漠然としか受け取れなかったで
 す。(真帆)
★今回、全く分かりませんでした。水に苦しむとありますが、人間の肉体にある生理学
 的な水なのか、別のことなのか分からない。初句がまず分からない。次にも水を繰り
 返て念を押している。雲が広がってくるとき臭うというのは湿った感じの時の体感と
 して自分の中の水が共鳴するというのは分かる気がするけど。存在って純粋なものだ
 と渡辺さんは思ってないと思うので、今さら存在の濁りをいうかなあ、それを自分の
 中の水が臭うって結びつけるかなあ。(A・K)
★A・Kさんとほとんど同じです。「われ水にくるしむ」の水と「われのなかの水」は
 同じものなのか、違うのか。違うとしたら初句は外界にある現実的な水で二句目は私
 の中の抽象化された水?といっても、体と精神は切り離せないから体の中の水分は心
 の反映でもあって、それが雲と感応し合う、そこは感覚的に分かる気がする。最初に
 バーンと「われ水にくるしむ」ってテーゼを出す、そしてその後、自分の中の水と雲
 が感応することを言う、感応すると水が臭う、それが苦しい。何か整理しきれないで
 す。(鹿取)
★汗など外に出てきたものが臭うのは分かるけど、われの中の水だから分かりにくいで
 す。(岡東)
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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 207

2022-12-12 10:51:06 | 短歌の鑑賞
  2022年度版 渡辺松男研究2の27(2019年9月実施)
     Ⅳ〈蟬とてのひら〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P133~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆、渡部慧子    司会と記録:鹿取未放


207 湯のそこにいつまでも沈みたくなりぬ吾はひとつぶの錫のつめたさ

      (レポート①)
 作者自身を一粒の錫とたとえ、そのつめたさを言い、いつまでも沈みたくなりぬと詠う。錫という響き、そのイメージが美しく、何か自己愛のようなものを感じる。錫は「いつまでも」湯につかっていても変質するものではないらしい。それどころか錫と湯のそれぞれの旁が似ていて安らかさを求める錫の気分が字面からみえるようだ。ひとつぶ、錫、つめたさ、湯に沈みたく、これらからやはり甘やかな気分が広がって何かお話に発展しそうである。(慧子)


          (レポート②)
 前の歌(わがこころはつかに乱れたる恋をひとしらぬなり赤唐辛子)を受けての一首だろうか。「錫」のひんやりとした質感と、美しい照りがよく効いている。「湯のそこ」とは、温泉に入っていてるのだろうか。湯の中にいるのに自分だけが冷たく固まって小さな粒となっている。「錫/すず」の軽やかな音感から、若草のような抒情も漂う。(真帆)


      (レポート③)(紙上参加意見)
作者は優しい、良い人と思われているのだろう。また、本当に優しい人なのだと思う。けれど、自分にとても冷たい、みにくい部分があることを知っている。その自分を、無理だろうけれど溶かしたい。溶かして、メッキをはがしてしまいたい。でも無理だから、ずっと湯の中に沈んでいたいのだろう。私は人間の持つこういう願いに救いを見出す。もっといいものになりたいという切ない祈りのような願い。(菅原) 


      (当日意見)
★錫の冷たさ、だから私は菅原さんの意見に賛成です。(鹿取)
★錫って曲げやすいですよね。ぐるぐるとぐろみたいに巻いたので花を飾る花器があ
 る。今まで持っていた錫のイメージとこの歌は違って混乱しています。(岡東)
★下の句をいいと思いました。温泉に入っても湯に溶けないんですね、この人。普通
 は溶けちゃうんだけど自分は冷たいままで湯の中にいたい。体感的なものかなと。
 理屈なしで共感します。暖かい環境なんだけど、このままいたい。ひとつぶが効いて
 いると思います。(A・K)
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