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かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞  1の21

2020-05-16 19:19:29 | 短歌の鑑賞
    改訂版渡辺松男研究3(13年3月)【地下に還せり】
      『寒気氾濫』(1997年)12~
      参加者:崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
   司会と記録:鹿取 未放


21 月光に眠れざるもの樹にありて風切りの羽つくろいていん

★「ふくろうのごとき月光ほおほおと潤いおびて樹海にそそぐ」という前の歌の続
 きだから主語はふくろうとかを想定すればいいのではないの。夜行性の動物は昼
 間寝て夜活動するので。たとえば眠れない〈われ〉がいて、今頃はふくろうも風
 切りの羽をつくろったりして目覚めているんだろうなあと想像している。(鹿取)
★夜眠らない鳥、と考えると歌が物足りなくなるような気がするけど。本来眠れる
 ものが眠れない方が深い。(崎尾)
★私はふくろうの続きの歌とは思わなくて、鳥でも眠れないものがいるのかなあ
 と思った。(慧子)
★そうか、ふくろうは夜行性だから「眠れざる」ではないわけね。木にいて風切
 り羽をつくろうのは明らかに禽類で、何の鳥と言わないで「眠れざるもの」と言
 っているところが松男さんなんだけど。まあ、比喩的に読めば眠れずに闘志を燃
 やして闘いの準備をしている人間ともとれないことはないけど、それでは私はつ
 まらないな。作者の姿からは遠いものになる。(鹿取)
★なんとなく雰囲気が優しい。絵をみているよう。(曽我)
★童話の挿絵みたいですよね。(鹿取)
★「ありて」がいいと思う。止まって、ではなくて。(慧子)



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渡辺松男の一首鑑賞 1の20

2020-05-15 19:15:25 | 短歌の鑑賞
    改訂版渡辺松男研究3(13年3月)【地下に還せり】
      『寒気氾濫』(1997年)12~
      参加者:崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
    司会と記録:鹿取 未放


20 ふくろうのごとき月光ほおほおと潤いおびて樹海にそそぐ

        (意見)
 ★ふくろうのごとき月光というのは普通では考えられない比喩。ふくろうって膨
  れた感じがするのでふっくらとした気分が出ている。(曽我)
 ★ふくろうって知恵者といわれている。また月も知恵の女神である。だからそん
  な感じで比喩にされたのかなと思う。(慧子) 

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渡辺松男の一首鑑賞 1の19

2020-05-14 17:17:22 | 短歌の鑑賞
    改訂版渡辺松男研究3(13年3月)【地下に還せり】
      『寒気氾濫』(1997年)12~
      参加者:崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      司会と記録:鹿取 未放


19 月天心嬬恋村に森ありてふところふかく家々を抱く

        (意見)
★誰が何を抱いているのかは分からない。しかし上の句に「抱く」とあって「嬬」
 が出てくるので、エロスですか、そういうものを感じて嬬恋村に仮託している
 のだと思う。また月天心、嬬恋村とタ行音を重ねた出だしが漢字表記なのにな
 めらか。(慧子)
★妻を思い出している気分がある。妻を森のように暖かく抱く気分。(曽我)
★家々には慧子さんが言うようなん妻を愛する場面もあるんだろうけれど、個々の
 家々を森が抱いて、その森を月が照らしている。そういう自然そのものがエロス
 をはらんでいるが、個々の性愛の場面はあるとしても月の光が浄化あるいは荘厳
 している感じ。与謝蕪村の「月天心貧しき町を通りけり」はいかにも画家らしい
 句で通り過ぎる自分を含めて俯瞰しているようなイメージだけど、松男さんの歌
 は自分はその画面の中にはいなくて、山の中腹かなんかで村々を俯瞰している感
 じ。蕪村の月はすさまじく冷たい光を放っているようだけど、松男さんの月はや
 さしくやわらかい印象を受ける。とても深々とした安堵感のある歌。(鹿取)

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清見糺の一首鑑賞 5

2020-05-13 17:39:45 | 短歌の鑑賞
  ブログ版清見糺鑑賞1        【さねさし相模】2004年4月
         かりん鎌倉支部(渡部慧子、鹿取未放)  

5 ファントムが比翼つらねて飛ぶところさねさし相模の大和しうるさし
         「かりん」1993年12月号

  大和は国のまほろばたたなづく青垣山ごもれる大和し美し  倭建命

 本歌は『古事記』の倭建命の死に臨む歌。東国遠征からの帰途、伊勢の国能褒野で力尽きて詠む故郷をしのぶ歌である。その哀切な結句「大和し美(うるは)(うるは)し」の一音「は(ワ)」を「さ」に替えることで、痛烈な皮肉、批評の歌に仕上げている。
 いうまでもなくこの歌の大和は古代の都ではなく、アメリカの基地が置かれている神奈川県大和市。最新鋭の戦闘機ファントムが轟音をたてて発着する大和は、あちこちで騒音訴訟が起きている。「大和し」の「し」は強意あるいは語調を整える副助詞だが、ここでは「大和市うるさし」の掛詞と考えても面白く読める。ファントムの飛ぶ様を「比翼つらねて」と形容することで古歌の雅びをみせ、「まほろば」であった美しい古代国家の景を一瞬見せながら、「うるさし」と吐いて棄てるところが小気味よい。さねさしの枕詞も雅び・皮肉どちらにもよく響いている。(鹿取)

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清見糺の一首鑑賞 3

2020-05-12 17:32:16 | 短歌の鑑賞
  ブログ版清見糺鑑賞1        【さねさし相模】2004年4月
           かりん鎌倉支部(渡部慧子、鹿取未放) 
 
3 一休の、良寛の恋おもうときわれは年端もゆかぬおとこぞ
      「かりん」1994年2月号

 いわゆる頓知で知られる一休宗純禅師(一三九四~一四八一)は、鎌倉時代の人で八十七歳で亡くなる晩年の十年ほど、盲目の旅芸人森(しん)(しん)と恋愛関係にあった。自作の漢詩集『狂雲集』にその濃艶な恋の歌を載せている。権威を否定し、悟りも否定し、女犯(にょぼん)(にょぼん)、飲酒、肉食をし、破戒僧とも生き仏とも呼ばれた。
 一方、無邪気に子供達と手まりをついて遊んだという伝説の良寛(一七五八~一八三一)は江戸時代の人。七十歳の時、三十歳の貞心尼と恋に落ち、七十四歳で亡くなるまで恋愛関係にあったと言われている。
 しかし、彼ら二人の僧の心の内はどうだったのだろうか。飄々とした悟りの果てのすずしい気分だったのか、修羅の地獄だったのか。
 それにしても二人の僧の見事な老いらくの恋を思うとき、〈われ〉はまだ「年端」もゆかないおとこだという。「年端もゆかぬ」とは普通「少年」とか「子供」とかに繋げて使う語で、この年五十八歳の男を「年端もゆかぬ」とは言えないだろう。そこをそう言い切ったところがこの歌の見所であろう。自分などは老いらくの恋をした二人の僧に比べればまだ人生経験の足りない若造で、二人の僧の足下にも及ばないけれど恋の面では一脈通じるところもありますよという気負いである。
 ちなみに、二年後、一休についてはこんな歌も詠んでいる。(鹿取)
  ぬばたまの剣林地獄におとされて一休禅師とまみえたきものを
                 「かりん」1996年6月号
  
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