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かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

清見糺の一首鑑賞 2

2020-05-11 17:52:47 | 短歌の鑑賞
  ブログ版清見糺鑑賞1        【さねさし相模】2004年4月
         かりん鎌倉支部(渡部慧子、鹿取未放)  


2 利休忌やさねさし相模の茜富士風に黙って削られている

 「利休忌」は季語。千利休の命日は二月二十八日。利休は織田信長、豊臣秀吉に仕え、茶道の改革を行ったが、故あって秀吉から死を賜り、切腹。(鹿取)

 従容として死についた利休を『風に黙って削られている』富士に、ひいては自分自身にも重ねている。また男とはこういうものであるという男性論かもしれない。黙っているしか術のないくやしさもあるのであろう。(渡部慧子)

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清見糺の一首鑑賞 1の1

2020-05-10 17:36:37 | 短歌の鑑賞
  ブログ版清見糺鑑賞1        【さねさし相模】2004年4月
           かりん鎌倉支部(渡部慧子、鹿取未放)  

1 きさらぎの鎌倉の海どこまでもどこまでも晴れ マンマ歌えば
       「かりん」1994年4月号
   
 この歌は読んでとても爽快な歌である。二月の晴れわたった鎌倉の海辺を歩きながら「マンマ」を唄っている。材木座海岸であろうか、どこまでも続く砂浜と晴れやかに唄う作者の高揚した姿が見えるようだ。
 「マンマ、歌って下さい、あの子守唄を」で始まるこのカンツォーネは、第二次世界大戦中、イタリア兵士の愛唱歌だったという。作者の母は五十代半ばという若さで亡くなっており、その母を愛してやまなかった作者は切なく懐かしく母を偲びつつ「マンマ」を唄っていたのだろう。
 聞くところによると、作者が中学時代、一家は江ノ島近くに家を借りて一夏を過ごしたことがあったそうだ。長く結核を病みやっと快復した父親は、この時作者たち兄弟に泳ぎを教えた。この一夏は人生でいちばん輝かしい思い出だったらしい。
 ちなみに、作者は中学時代オペラ歌手になるのが夢だったそうで、都々逸からオペラのアリアまで何でも唄えたし、何を唄っても上手だった。(鹿取)

 ※ 日本語では海の中に母がいる。フランス語では母(la mère)の中に海(la
   mer)がある。    三好 達治(フランス語表記は、鹿取加筆)

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渡辺松男の一首鑑賞 1の18

2020-05-09 18:56:45 | 短歌の鑑賞
 
   改訂版渡辺松男研究2(13年2月)【地下に還せり】
      『寒気氾濫』(1997年)9頁~
      参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放


18 重力をあざ笑いつつ大股でツァラトゥストラは深山に消えた

       (レポート)
 ツァラトゥストラ(ニーチェのこと)は「重力」に逆らって山頂をめざす。そして最高の山頂に立つ者は、すべての悲劇と悲劇的厳粛を嘲笑するのである。ツァラトゥストラは、山で孤独な生活を送りつつ悟ったことを、山を降りて民衆に説く。4部構成の『ツァラトゥストラ』は、このようにして、山と里とを往復しつつ思想を深めて民衆に説く構成になっている。作者は、子供の頃から山に入り、長じてからも山歩きをしている。ツァラトゥストラに自らの姿を重ね合わせて詠んでいるのだろう。(鈴木)


       (意見)
★「ツァラツストラ」は四部構成の作品。最後の第四部は八十八部だかしか印刷せ
 ず、ほんとうに 身内だけにしか配布していない。評判はよくなかったらしい。
   (鈴木)
★一部の終わりにも二部の終わりにも深山に消える場面がある、たとえばこんな部
 分。(鹿取)
  今やわたしはひとりで行く、弟子たちよ!きみたちも去って、ひとり行け!
   わたしはそれを欲する。/まことに、わたしはきみたちにすすめる。わたし
   から去って、ツァラツストラにさからえ!さらによりよくは、ツァラツスト
   ラを恥じよ!かれはきみたちをあざむいたかもしれぬ。『ツァラツストラ』
       第一部「与える徳について」
★深山に消えたのは具体でないので、どの部分かはっきりしない。(鈴木)
★空海も最澄も山に入ったが、ニーチェも山に入ったのですね。机上の空論ではな
 く、身体を使って山に行ったところに身体性を感じますね。(慧子)
★思索を深めるためには独りにならないといけないから、みんな山に入っています
 よね。お釈迦様だってそうだし、イエスはまあ荒野だけど独りになっているし。  
  (鹿取)
★夜とかに呑み込まれそうになった時に何かひらめくのかしらねえ。おへやの中だ
 とそういうことは起こらないからね。(慧子)
★でも、山と里を行ったり来たりして分かるんじゃないか。里に出てきて世間との
 ギャップからまた何か考える。(鈴木)
★ギリシャ哲学もそうですけど、ツァラツストラも対話していますよね、山から下
 りてきてはいろんな人と。そこで考えを修正し、また山に入って思索を深める。
   (鹿取)
★達磨の面壁とは違うんですね。(慧子)


        (後日意見)(15年4月)
 自己回帰を果たし、思想の頂上を極めようとしているツァラトゥストラに立ちはだかるのが「重力の霊」であり、これはツァラトゥストラの分身である、物理的には重力であるが、精神的には自己の同一性を脅かすものだ。歌は、深淵へ、奈落へと誘う重力に逆らって、ツァラトゥストラは精神の高みへと山道をよじ登り、深山へ消えた。 (石井彩子)

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渡辺松男の一首鑑賞 1の17

2020-05-08 19:17:49 | 短歌の鑑賞
    改訂版渡辺松男研究2(13年2月)【地下に還せり】
      『寒気氾濫』(1997年)9頁~
      参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放


17 十月のまぶしきなかへひとすじのああ気持ちよき犀の放尿

        (レポート)
 たぶん作者が自らの山歩きなどで体験した感覚を詠んだものだろう。野外でひとり、十月のまぶしき光に向かって誰にも気兼ねなく放尿する快感。男ならではのものかもしれないが、体の大きな「犀」の放尿とすることで、その爽快感が高まるばかりでなく、孤独の象徴としての「犀」の独り生くよろこびを、作者自身の実感に重ね合わせて詠んでいる。ちなみにニーチェは脱ヨーロッパの視点から、竜や象など東洋的な動物を比喩として用いているが、孤独の象徴としての犀もそのひとつ。(鈴木)


          (意見)
★ニーチェも東洋的なものに関心を持ち、仏教もかじっているようだ。(鈴木)
★渡辺さんが自分の評論(※)の中で、鯨のような大きなものが悩んでいたり孤独だったりすると
 ころが絵になるので、ダニが耐えていたら人は笑うだろう、というような意味のことを言ってい
 て、大笑いしたことがある。だからここも大きな犀が登場するのだろう。前歌も大きな象だし。
   (鹿取)
★ごまめの歯ぎしりというのもある。(鈴木)
★「独り生くよろこび」という鈴木さんの解釈がすばらしい。私などここに届かない。(崎尾)
★私は渡辺さんのように実感的になかなかうたえない。(鈴木)
★自然ですよね。哲学やってるけど、何か頭でこねくりまわしているのとは全く違って。(鹿取)
★渡辺さんの感覚が哲学的なんでしょうね。(鈴木)
★自分の持っているアクが全くない。(崎尾)
 
※正確には「鯨のようにスケールの大きいものが、言葉なくその存在に耐えながら泳ぐからその淋 しさもいいのであって、――中略――もっと小さければどうだろう。そもそも感情移入などしき れない。ダニが耐えていたら人は笑うだろう。」(「かりん」1997年2月号「日常宇宙」)
  上記は丁田隆「ざっぷりとプランクトンを食みながら淋しさを言うことばを持たず」について のコメント。渡辺さん自身「大洋にはてなきこともアンニュイで抹香鯨射精せよ」(『寒気氾濫』) と鯨を歌っている。(鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞 1の16

2020-05-07 18:42:23 | 短歌の鑑賞
    改訂版渡辺松男研究2(13年2月)【地下に還せり】
      『寒気氾濫』(1997年)9頁~
      参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放


16 そうだそのように怒りて上げてみよ見てみたかった象の足裏

          (レポート)
 象の大きな体を見ていると、その過剰な重力の重さに日々耐えながら一生を終えるように思えてくる。飛ぶことのできない人間も同じように重力に拘束されており、人間に対するメッセージでもある。重力に耐えているのではなく、内からの生の力にしたがい、あらがって足を上げてみよ、というのである。ニーチェは「高等な人間について」のなかで、「そなたたちの心を高めよ、わたしの兄弟たちよ、高く!もっと高く! そして願わくは足のことも忘れるな! そなたたちの足をも上げよ、そなたら良い舞踏者たちよ」と呼びかけている。しかし、象に対しては「幸福のなかにあっても鈍重な動物たちがいるものだ、生まれながらにして足の不格好な動物たちがいるものだ、逆立ちしようと骨折するゾウのように」とにべもない。これに対して、作者は、「見てみたかった象の足裏」と、象に対してもエールをおくる。ニーチェを肯いながらも、決してニーチェのように上から目線にならないところが、作者らしいのである。(鈴木)


          (意見)
★渡辺さんの歌には一首一首にいい意味での驚きがある。(崎尾)
★伊藤一彦さんにこんな歌があります。(鹿取)
  動物園に行くたび思い深まれる鶴は怒りているにあらずや
            『月語抄』(一九七七年)


         (後日意見)(15年4月)
 この歌は無理にニーチェを出さなくてもいいと思うが、「高等な人間について」はツァラツストラが自らが産み出した大いなる思想を自ら受け入れる直前の章で、「自分の目的に近づいた人は踊るものなのだ。」と言う。そしてレポーターの引用している『ツァラツストラ』の象の骨折の部分(翻訳者が違うので私のは骨折るとなっている)にはもう少し続きがある。「……逆立ちしようと骨折る象さながらに、かれらは奇妙に大骨を折る。」この文脈からすると当然、象は比喩である。かれらとは「崇高な人間」ではあるが重力の霊に支配されて未だ鈍重な人間を指しているようだ。しかし『ツァラツストラ』の最終章では「崇高な人間」は言うまでもないが、友と呼びかけていた「高等な人間」たちさえも真の道連れではないことが判明し、ツァラツストラは独り行くことになるのである。(鹿取)

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