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かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の歌の鑑賞 1の26、1の27

2020-05-21 19:44:00 | 短歌の鑑賞
    改訂版渡辺松男研究3【地下に還せり】
      『寒気氾濫』(1997年)12~
      参加者:崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
       司会と記録:鹿取 未放(再構成版)


26 冬の日のあたたかにして老木は吾に緘黙を宥してくれる

★冬の日の暖かさが老木をつつみ、その老木が私のだんまりを宥してくれる。冬
 の日の中になにもかもが宥されてるという感じ。(慧子)
★はい、大好きな歌です。(鹿取)


27 凍天へ鑿打つごとき杉の幹ひたぶるなるを嗤われて立つ

 ★杉の木が尖っているということですよね。まっすぐに上へ上へ向かうことを嗤
  われながら杉は立っている。(曽我)
 ★そうですね、杉の一生懸命さに寄り添っている歌ですよね。でも、その杉を嗤
  うのは何なんだろう。(鹿取)
 ★杉は労働者みたいな感じ。それを世の中の人が嗤う、って受け取ったのですが。
  だけど杉は気にしないで立っている。凍天に鑿を打つってむなしいことなんだ
  けれど。(慧子)
 ★私は杉の木を何が嗤うのか。人間ではないし、他の木々でもない気がする。天?
  分からないが作者は嗤われている杉のひたぶるさをよしとして見ているのだろ
  う。(鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞 1の25

2020-05-20 18:37:31 | 短歌の鑑賞
    改訂版渡辺松男研究3【地下に還せり】
      『寒気氾濫』(1997年)12~
      参加者:崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      司会と記録:鹿取 未放(再構成版)



25 樹の抱く闇黒はかりがたけれど栃の実に日はそそいでおりぬ

★いろいろあるんだろうけれど栃には実が成り、それに日が照っている。(慧子)
★樹の方は計り知れない暗黒を抱いている。そういう樹に日はさんさんと降り注
 いでいるんだなあと感動している。(鹿取)
★人間を樹に託して表現しているのではないか。いろいろあるけどいいこともある
 よと。(曽我)
★私は逆に好きな栃を歌うのがメインだと思う。結果として人間もそうだよねとい
 うことは言えても、人間のことを言いたくて栃の樹に投影しているのではないと
 思う。(鹿取)
★暗黒とはどんなものかなと分からないところがある。(曽我)
★具体的に説明しろと言われたらできないけど、作者は目の前の栃の樹は暗黒を抱
 えていてそれははかりがたいと感じている。だから私はそのままそうなのねと受
 け取っている。(鹿取)


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渡辺松男の一首鑑賞 1の24

2020-05-19 19:24:26 | 短歌の鑑賞
    改訂版渡辺松男研究3【地下に還せり】
      『寒気氾濫』(1997年)12~
      参加者:崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
       司会と記録:鹿取 未放(再構成版)


24 一本の樹が瞑想を開始して倒さるるまで立ちておりたり

★倒されるのが近いから樹は瞑想を開始したという崎尾さんの意見には反対です。
    (曽我)
★ではなぜ瞑想を開始したかは考えなくていいということ?(崎尾)
★私も倒されるのを察知して瞑想を開始したとは読まなかった。瞑想するような樹
 も倒されることがあり、それは知徳しているのだと思う。(慧子)
★倒されるのは人間にか、自然にか分からなかったが、風雪に倒されると解釈して
 みた。(崎尾)
★私は人間が倒すのだと読んだ。目がある樹なら瞑想しようと考える樹もあるだろ
 うし、人間のように悟りを開きたいと考える樹もあるかもしれない。あるいは悟
 りを得たいなどの損得勘定?も抜きにして、ただ瞑想したい樹だってあるだろう。
 樹が動かないということに作者は深い思い入れがあるようで、この樹は瞑想した
 くなったから瞑想していた、それだけ。たまたまその樹を人間が勝手に伐ってし
 まった。でも、だからひどいというのではないのだろう。(鹿取)


           (後日意見)(2020年5月)
 木の瞑想という共通項だけを取り出せば馬場あき子にも次のような歌がある。
木の深い瞑想の中にあつたのだが木蓮はだまつて雨の朝咲く
『世紀』(2001年刊)



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渡辺松男の一首鑑賞 1の23

2020-05-18 19:11:05 | 短歌の鑑賞
    改訂版渡辺松男研究3【地下に還せり】
      『寒気氾濫』(1997年)12~
      参加者:崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      司会と記録:鹿取 未放(再構成版)


23 同性愛三島発光したるのち川のぼりゆく無尽数の稚魚

★三島が同性愛だったこと、発光は切腹をあらわすこと。それを境にしてというわ
 けではないけど同性愛が途方もなく広がって行ったこと。それがこの歌の解釈で
 す。発光をどう捉えるかに苦慮しました。(崎尾)
★上の句と下の句は全く関係のないことがら。これを歌としてどう結びつけるのか、
 どう繋げて解釈をするのかをお聞きしたい。(鹿取)
★上の句は読者をびっくりさせる。あとは普通に読んだらいいのでは。発光は性的
 なエクスタシー、無尽数の稚魚は精子。それで解釈できるが、これだけではつま
 らないので頭に同性愛を入れたのではないか?(慧子)
★すると同性愛はこの一首で重要ではないわけ?(崎尾)
★いや、崎尾さんのように読むと広がりが出ていいかも。(慧子)
★同性愛の三島がそれを世間に発表したので、そういう気持ちを持っている若者達
 が稚魚のように多く続いたということかなあと思ったけど。(曽我)
★これを契機に他のこともどんどん解禁されていった。他人はどうでもいいとか夫
 婦別姓とか日本は悪い方向に行った。(崎尾)
★いや、歌を道徳的な意味合いに広げるのは反対です。話が出たので言いますけど
 三島の同性愛が契機になっていろんなことが解禁されたって、どこにそんな根拠
 があるんですか。それにどうして同性愛から「他人はどうでもいい」に繋がるん
 ですか。同性愛は悪、夫婦別姓も悪と決めつけているけど、同性愛は生まれつき
 の性向だから他人がどうこう言えることではないし、夫婦別姓に関しては様々な
 考え方がある。三島は確かに同性愛をカミングアウトしたかも知れないけど、そ
 れで同性愛が増えた訳ではない。人目につきやすくなったことはあると思うが。
 有史以来同性愛はあったし、僧坊にだって教会にだって武家社会にだっていくら
 でもあった。生まれつきの性向という面のほかに、男だけ女だけの社会という特
 殊な状況もある。私は慧子さんの説に同意します。そして放出された精子のイメ
 ージとして無尽数の稚魚が置かれている。それが生まれ故郷を求めて川を遡るの
 だが、この辺りはわりと爽やかなイメージがある。(鹿取)
★では発光が切腹のことだというのは間違いなのね?(崎尾)
★私は「発光=切腹」とは思わないですが、三島と言われたら誰でも切腹の情景は
 思い浮かべますよね。解釈については、作者に聞いた訳じゃないから何が正しい
 かなんって分からない。もしかしたら作者にだって分からないかもしれない。だ
 からいろんな解釈があっていいんじゃないの。(鹿取)
★では男性なら誰でもよいのに、なぜ三島をもってきたんだろう。(崎尾)
★男性なら誰でもいいわけじゃないでしょう。「同性愛○○」って誰も知らない名
 前持ってきても歌にならない。三島の切腹事件には作者も衝撃を受けたのでしょ
 う。文学者としても興味があるでしょう。(鹿取)




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渡辺松男の一首鑑賞 1の22

2020-05-17 19:06:14 | 短歌の鑑賞
    改訂版渡辺松男研究3(13年3月)【地下に還せり】
      『寒気氾濫』(1997年)12~
      参加者:崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
       司会と記録:鹿取 未放


22 恍惚と樹が目を閉じてゆく月夜樹に目があると誰に告げまし

 ★月の光が空にあがって西の空に落ちてゆくまで、そういう月の光の推移する時
  間を自分が樹になったような感じで歌われたのではないか。(慧子)
 ★自分が樹になって月の光の強弱を感じているというのは分かる。でもそれを感
  じるのは普通樹皮のようなものかもしれない。目で追いながら感じるものでは
  ないような気がするのに「樹に目がある」というのはどういうことなのか?誰
  にでも感覚できることではない。(鹿取)
 ★月の光の強弱を樹の肌で感じるというのは普通の人間の感覚。それを樹の目で
  感じているところが渡辺さん。下の句は誰か言う、とか馬場あき子の歌にもた
  くさんある。(慧子)
 ★馬場先生の歌は自分の内面のつぶやきのようなものを誰かが言ったよという形
  で表現したものがたくさんありますね。でもここは「まし」だから文法上の意
  味はいわゆる「ためらいの意思」ですね、だから馬場先生の歌とは違う。樹に
  目があると誰に告げようか、誰に告げてもきっと信じてはもらえないだろうな、
  でも自分は樹に目が有ることを知っているよという気分でしょう。でもそれは
  日常的感覚では誰にでも納得してもらえることではないので、そのあたりをレ
  ポーターの崎尾さんはどう考えるの?ということを聞きたかった。(鹿取)
 ★人間も深くものを感じたいとき目を閉じるが、樹にもそういうことがあると渡
  辺さんが感じていらっしゃるのかなあと思った。あまりにもほれぼれする月光
  だったので樹は目を閉じたのかなあと思う。(崎尾)
 ★やわらかい月の光のなかで目を閉じる樹というのは分かる気がする。(曽我)



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