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かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 378、374

2025-01-20 10:31:11 | 短歌の鑑賞

  2025年度版 渡辺松男研究45(2017年1月実施)
      『寒気氾濫』(1997年) 【冬桜】P151~
       参加者:泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、
             渡部慧子、鹿取未放
          レポーター:泉真帆     司会と記録:鹿取未放          
       

    ※反則ですが、今回は歌の監修の順番を替えてあります。


378 バスの来るまでを笑みいしあなたなりき最後の声を思い出せない

            (当日発言)
★「最後の声を思い出せない」は、一生懸命思い出そうとしているんだと思います。    (M・S)
★そうですね、最後になんと言ったか、もちろん言葉としては覚えているんでしょうけど、声が思い出せないと。声って肉体が伴うようなリアルなものですから、もどかしいですね。(鹿取)
★記憶って、視覚の方が残っていて聴覚の方は残っていないのかな。(鈴木)


374 永遠に会いえざること 冬の日はなかば寂しくなかば浄たり

            (当日発言)
★「永遠に会いえざること」とは、死後の自分とか生まれる前の自分とかに会えないと言っているのかなと思います。だからレポーターが「真の自分、真の他者」と鑑賞文に書かれていることはいいと思います。(慧子)
★真の自己に会えないと取ると哲学的ですが、「真の自分、真の他者」に永遠に会えないことはもどかしいのではないでしょうか?「なかば寂しくなかば浄たり」と冬の日を捉える下句と繋がらないように思えます。単純に別れてしまった恋人にもう永遠に会えないととると方が自然だし、下句が活きると思います。(鹿取)


       (レポート)
 「永遠に会いえざること」これは何だろう。私はこういう意味かと考えてみた。自己とはあるいは他者とは何か、それらはほんとうは幻なのではないか、真の自分、真の他者にいくら相見えようとしたところで土台かなわぬこと、このことは寂しくもあり、それがゆえに清らかでもある。(真帆)

 


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