かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の鑑賞 1の10~13

2020-05-05 18:34:39 | 短歌の鑑賞
 改訂版渡辺松男研究2(13年2月)
      【地下に還せり】『寒気氾濫』(1997年)9頁~
      参加者:崎尾廣子、鈴木良明、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放


10 筋肉の時代が消えたわけでなくジャッキを上げる弟の腕
11 トラックを多汗実行型と笑みなみなみと給油なしたる男
12 おみなには吃る弟がトラックの巨きさとなりきりて飛ばすよ
13 嬬恋のキャベツを運ぶトラックが光芒のなかを過ぎてゆきたり

        (レポート)
 作者は、あとがきに書いているように、自然との関わりを大事にする一方で、社会との関わり、特に社会を下支えして働いてくれている人々に対する思いを大事にしている。この4首は、家族の「弟」に関連づけて詠んでいるが、実在の弟を詠んでいるというよりは、肉体労働が精彩を放っていた時代に働く人の姿を「弟」に重ねて(あるいは「弟」の名で)詠んだものだろう。そのほうが、作者の実感をリアルなものとして歌に乗せやすいし、読者もその生の実感をリアルに受け止められるからである。筋肉の時代―遠い古代の時代だけでなく、日本においても戦後復興の象徴として、肉体がものを言い、ダンプカーなどの大型トラックが盛んに行き交う時代が確かにあったのである。「ジャッキを上げる弟の腕」「多汗実行型」「なみなみと給油」「トラックの巨きさとなりきりて飛ばす」「トラックが光芒のなかを過ぎて」などの言葉から当時の状況がリアルに浮かんでくる。しかし、作者は単にそのような出来事の回想を歌にしたいと思っているのではない。肉体とは何か(精神とはなにか)、この問いが根本にあるのである。そのために、これらの歌からは眩しいほどの肉体の輝きが感じられる。ニーチェは「わたしはまったく身体であって、それ以外のなにものでもない。身体はひとつの大いなる理性である。精神は小さな理性であり、身体の道具である。」(ツァラトゥストラ)と言っている。(鈴木)


         (当日意見)
★鈴木さんにこうして並べて論じていただくとかえって一首一首の歌が力強く感じられる。道元禅
 師は自己と他己という言葉を言っていらっしゃるらしい。身体というのは自分でどうすることも
 できない他己であると聞いた。(崎尾)
★私はあれこれ考えるより行動しろとよく親に言われた。確かにやってみると心が体に従うことが
 ある。この歌はそういう感じかなあと思う。(慧子)
★現実の家族と対応させて鑑賞する必要はないので、弟さんが実際こういう仕事をしている方かど
 うかは関係がない。肉体労働をしている弟が宇宙図を見せろと言ってやってくるとか、トラック 
 を降りた女性がフーコーを持っているとか知的な面を付与されているキャラクターを私はとても
 新鮮に感じた。また、ガソリンを消費する車を「多汗実行型」という面白さとか、トラックの巨
 きさになりきった万能感とかよく分かって興味深い。(鹿取)
★髭と同じように弟の輪郭がはっきり出ている。(鈴木)
★肉体労働を蔑するのではなく躍動感をもってとらえているところが好きだし、生活を大事にしよ
 うとする作者の感じ方に信頼が置ける。頭脳を使うのが偉くて筋肉を使うのは一段劣るというよ
 うな見方が世間にはあるが、それとは逆の見方。もちろんその考えを誇示するために歌っている
 のではなくて、自然な気分から出てきている。(鹿取)


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