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かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 85

2025-09-09 10:44:28 | 短歌の鑑賞

2025年度版 渡辺松男研究2の12(2018年6月実施)
  【ミトコンドリア・イブ】『泡宇宙の蛙』(1999年)P60~
  参加者:泉真帆、K・O(紙上参加)、T・S、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:泉真帆     司会と記録:鹿取未放  

 

※この「ミトコンドリア・イブ」の一連は話題になった問題歌で、この回では川野里子氏の評論【文中ではAと略記】、鶴岡善久氏の評論【文中ではBと略記】、坂井修一氏の評論【文中ではDと略記】を参考にさせていただき、それぞれから多大なご教示をいただいた。なお、川野氏の評論はご本人の承認を得てHP「川野里子の短歌とエッセイ」(http://kawano-satoko.com/ja/173/)から引用させていただいた。また、「かりん」掲載の鹿取の評論【文中ではCと略記】を引用。さらに、会員のK・Oさんの紙上参加の文章【文中ではEと略記】も掲載した。
  ただしAは「ミトコンドリア・イブ」一連に焦点を当てた論、Bは『泡宇宙の蛙』の歌集評で「ミトコンドリア・イブ」の占める位置は小さく、Dは「汎生命と人間」という観点から「ミトコンドリア・イブ」の一首に触れており、Cは「渡辺松男の死の歌」がテーマで、死の観点から「ミトコンドリア・イブ」一連にも触れている。このようにそれぞれの書き手によってスタンスの違いがあるのでお断りしておく。

 A 川野里子 〈おばあちゃん〉を連れて——渡辺松男と現代
             (「かりん」1999年11月号)
 B 鶴岡善久 森、または透視と脱臼——
        渡辺松男歌集『泡宇宙の蛙』を読む
        —— (「かりん」2000年2月号)
 C 鹿取未放 渡辺松男の〈死〉の歌   批評用語からこぼれるもの
                 (「かりん」25周年評論特集2003年5月号)
 D 坂井修一 汎生命と人間
        (「かりん」渡辺松男の軌跡特集2010年11月号)            E K・O    紙上参加

※A、C、Eのうち、ミトコンドリア・イブ一連全体にわたって触れているものを個々の歌の鑑賞に先立ってここに挙げておく。

○(A)渡辺の「ミトコンドリア・イブ」一連は近年の短歌を見慣れた者にとって強いインパクトを持つ一連だ。モチーフにおばあちゃんを選ぶということがまず驚きであるし、そのおばあちゃんの視線に自らの視線を合わせようとする試みもまず見当たらないものだ。しかしこれは安易な弱者への思いやりやヒューマニズムなどから発想されてはいない。むしろ〈おばあちゃん〉の呼びかけにこもる微かな毒が読み取られるべきだろう。(略)
 この一連の〈おばあちゃん〉という呼びかけはあくまでも優しいが、なにか落ち着かない気分にさせる過剰なものを含んでいる。浅薄なヒューマニティが感じさせるのとは全く異質な居心地の悪さである。〈おばあちゃん〉と語りかけることで閉じ込めてきた時間に触れ、過去というパンドラの箱をあえて開くようなザラつき、〈おばあちゃん〉が繰り返されるたびに、〈おばあちゃん〉から生まれた私たちのなかに消せない時間と過去とが頭をもたげるのだ。〈おばあちゃん〉は呼びかけられるたびに無用者として田んぼの畦に居ながら私たちに痛みを呼び覚ますことになる。〈おばあちゃん〉は忘れられてきたゆえに奇妙に木霊し、乱反射しながら私達の背後を問い、忘れられた共同体を浮かび上がらせる呼びかけなのだ。(川野)

○(C)(……)ミトコンドリア・イブの一連は読み手の心をざらつかせる。たぶんわれわれが避けて通りたい、あまり正面から見たくないものを見せられるからだろう。ミトコンドリア・イブ一連から受けるざらつき感は、人間の実存という今では古びきってしまった感のあるテーマに深く根ざしているせいのように思われる。また、時代や戦争の影が色濃く滲んでいることにもよろう。その上、仕掛けとしての「おばあちゃん」という呼びかけの、知から遠いぞんざいさが読み手のこころを妙にいらだたせるのだ。(鹿取)

○(E)「ミトコンドリア・イブ」のエピソードからインスパイアされた、物語。どこか子供の目が入った、話言葉から浮かびあがる思考。おばあちゃんの姿、おばあちゃんと僕の姿、時間の長さ、景色の映像が見えてくるような一連です。
  渡辺松男さんにしか出せない独特のリズムは、おばあちゃんの個人史を通り越して、もっと源である、命の起源につながるところ、原初の土地の感触すら彷彿させる、独特のリズムで、物語が浮かびあがってきます。人類史の中で繰返し起こる 戦争、はここで外せないでしょう。(K・O)

     (追記)(2018年8月)
 「かりん」渡辺松男の軌跡特集2010年11月号において、渡辺松男自身がこの歌について発言しているので、紹介しておく。「松男さんに聞く「初期作品の頃」、聞き手は大井学氏。
Q 『泡宇宙の蛙』においては、数々の名歌があります。ことに「ミトコンドリア・イブ」の一連は、生命科学の知見と相俟って、今も大きな問題を孕んだ歌として意味を持っていると思います。「ミトコンドリア・イブ」の一連は、どのような思いで詠われたのでしょうか?
A 人生のほぼ一〇〇%が過去となったとき、夢とは何であろうと思ったのです。制度的なものは何の救いにもなりません。〈在る〉ということの理解不可能生の中に投げ込まれ、そこに独りぽつんと坐っている「おばあちゃん」に自分を重ねてみたのです。


85 おばあちゃんタバコをふかすおばあちゃん紅梅よりずっと遠くを見ている

○(E)このおばあちゃんが見ている遠く、日が暮れて現れる火星に重なるところも暗示的です。(K・O)(紙上参加)

      (レポート)
 渡辺松男歌集でこれまで母や妣の歌をいくつか鑑賞してきたが、ここで「おばあちゃん」が登場。詩人の鶴岡善久がこんなことを書いていた。
【「渡辺松男の「おばあちゃん」の取り上げ方は、母や妣に比較していささかユーモラスでのどかである。紅梅よりさらに遠方を見ているという下の句の表現に「おばあちゃん」の長寿を喜ぶ気持の広がりが感じられて快い。」(鶴岡善久「森、または透視と脱臼—渡辺松男歌集『泡宇宙の蛙』を読むー」より引用 「かりん」2000年2月号)】

 母や妣の歌には血の濃いつながりや葛藤を感じたが、「おばあちゃん」は血を濾過したようにほがらかだ。タバコを吸う(・・)のでなく「ふかす」のが、何とものどかな風景をイメージさせる。大陸の大きさを感じる。(真帆)
                                       
          (当日意見)
★川野里子さんも現代短歌に絡ませて文体や現代性という視点から鋭い意見を言っておられるので、その評論も全文をコピーしましたので皆さんにお配りします。また、今レポーターの真帆さんが読まれたのと同じ鶴岡さんの評論の全文を印刷して来ましたのでこちらもお配りします。鶴岡さんの評論は『泡宇宙の蛙』評で、とてもユニークな優れた評論ですが、この85番歌に関しては私は鶴岡さんと意見が違って、「長寿を喜ぶ気持ち」とは思えません。後に満州が出てくるので、やはり戦争とかおばあちゃんの個人史に関係している歌だろうと思います。(鹿取)
★私は鶴岡さんが言っているからではなくて、のどかな気がしたのです。母なんかよりあまり人生にかかわりあっていない、葛藤がないからでしょうか。「紅梅」もだからそんなに深い意味は無いのじゃないかと。まあ、松男さんが何でもないのに「紅梅」を出してくるわけもないのですけど。紅梅は色彩かなあ。タバコの赤と関連する。でも、「もっと遠く」を見ているんだから、紅梅はやはり何かの象徴だと思うんだけど、分かりません。(真帆)
★私はこのおばあちゃんは作者の血縁ではなく、老いた女性という造型だと思います。川野さんの「〈おばあちゃん〉の呼びかけにこもる微かな毒が読み取られるべきだろう」という意見にいたく賛成です。私の評論にもこの呼びかけについては似たようなことを書いています。それから、うろ覚えでものを言ってはいけないのですが、俵万智の『サラダ記念日』の確か「オクサンと吾を呼ぶ屋台のおばちゃんを前にしばらくオクサンとなる」の歌の「おばちゃん」という呼びかけに対して、松男さんがどこかで苦言を書いていたんですね。調べきれないのですが、時評だったかなあ、本人は親しみを込めて書いている積もりだろうが、実は「上から目線」の呼びかけだと。(松男さんは「上から目線」という言葉は使っていませんでしたが)分かりやすくいえばそういう批判だったと。だから、松男さんはこの歌の〈おばあちゃん〉をとても意図的に使っているはずなんです。もちろん、「上から目線」の語ではありません。(鹿取)
★松男さんはおばあちゃんと永遠をドッキングさせようとしたのかな。おばあちゃんが永遠性を体 現している。(慧子)                           
★後に満州って出てくるから、「もっと遠く」はかつての満州だったり、このおばあちゃんの過去だったりするんでしょうけど。このおばあちゃん自身が、人類の起源などを見ている、という設定では無いと思います。(鹿取)
★若い人は近くを見ている。おばあちゃんは常に遠くを見ているんです。おばあちゃんには現 在よりも過去の方が近いものだからです。(慧子)             


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