かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 314

2024-09-09 10:33:28 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 渡辺松男研究38(2016年5月実施)
    【虚空のズボン】『寒気氾濫』(1997年)128頁~
     参加者:S・I、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、
        Y・N、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:S・I   司会と記録:鹿取 未放


314 股に物干し竿をさされて永遠やわれのズボンが虚空に踊る
 
    (当日意見)
★遙かなものと繋がっている。解放された感じ。(鈴木)
★これが実景だったら「虚空」などとせず、ただの「空」になるはず。(S・I)


    (後日意見)
 永遠、虚空の語選びを考えると、もちろんこの歌は日常べったりの歌ではないだろう。初句と二句は「股に物干し/竿をさされて」と切れるのだろうが、このぎくしゃくした感じから情景までがグロテスクな感じを受ける。レポートの、このズボンは〈われ〉だととることには賛成で「股に物干し竿をさされて」永遠に在り続ける〈われ〉が感じているのはやはり「苦」であろうか。
 313番歌「ワープロに太虚という字をたたきこみわれには捨つるものばかりなり」でレポーターは「太虚」の説明を【虚空(こくう)の意味であり、何もない空間、大空と訳されるが、仏教的には何も妨げるものがなく、すべてのものの存在する場所と訳される。(Wikipediaその他)】と書いている。そしてこの歌の解釈は、どうもこの定義に引っ張られすぎたように思われる。
 私はこの定義の「仏教的には」という点に疑問をもっていたが、Wikipediaには「仏教的には」の文言はなく、この定義自体は『大辞泉』からの引用と分かる。まだ『大辞泉』そのものに当たっていないが、小学館発行の中型国語辞典であるから仏教の専門書ではない。仮にこれが仏教的な定義だとして、「何も妨げるものがなく」という常識的な定義と「すべてのものの存在する」という定義には「色即是空、空即是色」と同様の質的な転換ないし飛躍があるわけで理解するのは非常に難しい。少なくとも「すべて」とか「もの」とか「存在」とかいう語を日常的な意味から切り離して、それこそ「仏教的に」極めないことには理解は不可能だろう。
 それは措いて、レポートの「捨てるべきものの具象がこのズボンである。…このズボンは作者の外に存在しているのではない、作者自身でもある」というのと「虚空に踊るズボンこそ、万物の真理を宿した真の実体である」は矛盾している。これを等式にすると「捨てるべきもの=ズボン=作者自身=万物の真理を宿した真の実体」となってしまう。この帰結は「虚空」とは「何も妨げるものがなく、すべてのものの存在する場所」という定義から導かれたのだろうが、捨てるべき煩悩であったものが「万物の真理を宿した真の実体」ではまずいだろう。(鹿取)


    (レポート)
 かって、CMで物干し竿のズボンが風に揺れている映像をみたことがある。この歌と光景は重なるが、様相は全く異なる。ズボンは前の歌にある虚空、すなわち太虚「何も妨げるものがなく、すべてのものの存在する場所」に存在している。「われには捨つるものばかりなり」の捨てるべきものの具象がこのズボンである。CM映像のズボンは永遠の存在に対して、仮象に過ぎない。虚空に踊るズボンこそ、万物の真理を宿した真の実体である。このズボンは作者の外に存在しているのではない、作者自身でもある。この歌に戸惑うのはズボンがCM映像のように現実の景物ではなく、作者の心眼が捉えた物象であることだ。氏の短歌に特徴的な存在、実存、空間といった哲学的命題、あるいはこの一連に見られるような宗教的観照といったテーマは、従来の愛や別れといった抒情的な短歌観や短歌用語で鑑賞するのは難しく、哲学的思索を深めたり、宗教体験といったことが読み手の側にも必要だと思わせる。(S・I)


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